『闇の王』

主なキャラクター:ロック、アルフレッド・トラビス、フレック、クーガー、スーミ、ジュール、ロスコー事務長、ノバ大佐、艦長

 

 SOEを母体とする新銀河連邦の黎明期、いまだ治安は安定せず海賊による被害が後をたたなかった。辺境を荒らしている海賊「闇の王」が超人ロックと何らかの関係があることをつかんだロスコー事務長は、かつてロックとともに「書を守る者」と戦ったクーガー・マクバード大尉に「闇の王」の調査任務を与える。

 クーガーは軍のパトロール艦に同乗して「闇の王」の本拠に乗り込むが、抗ESP能力を持つ「闇の王」にほぽ一方的な戦いの末に殺害される。そんな冷酷非情の「闇の王」には平凡なサラリーマン兼マイホームパパ、アルフレッド・トラビスとしてのもう一つの顔があった・・・。


 このエピソードのテーマは「アイデンティティーとは何なのか」ではないかと思う。人間をその人間たらしめる決定的要素は肉体なのか人格なのか記憶なのか。おそらく多くの人は人格と答えるんじゃないだろうか。

 さて、この『闇の王』の場合、トラビス本人の肉体も人格もすでに消滅(死去)しており、回想シーン以外の本編に登場するアルフレッド・トラビスは〈トラビスの外見と記憶をもつフレック〉である。トラビスのすべての記憶を飲み込んだこと、「調整」を受けていたためフレック本来の人格が不安定だった(らしい)ことから、トラビスの記憶に基づいてトラビスそっくりの人格までがフレックの中に生み出されてしまった。

 しかしこれを「アルフレッド・トラビス」と呼べるのか。実際私も今こうして書きながら〈彼〉を何と呼んでいいのか戸惑ってしまう。「アルフレッド・トラビス」はフレックに自らのマトリクスを与えた直後に殉職した使命感の強い科学者の名であり、「闇の王」は〈彼〉の一面にすぎない。「フレック」と呼ぶとトラビスのマトリクスを得る前の状態を指してるみたいだし・・・。とりあえずはオリジナルと区別するため、以後〈トラビス〉と表記します。

 〈トラビス〉は「アルフレッド・トラビス」と同じ人格を有しているが、だからイコール「トラビス」と言えるのか。良き夫・父のときの〈トラビス〉はオリジナルの「トラビス」と人格的には等しくてもオリジナル本来の(科学者としての)記憶は持っていない。一見すればいわゆる記憶喪失と同じ状態だが、〈トラビス〉の肉体は本来フレックのもの。「トラビス」の記憶も肉体もなく、彼の「トラビス」的要素はその人格と表面的外見のみ。後にはロックと出会ったことで科学者「トラビス」としての記憶を〈取り戻す〉が、ロックの言う通りに人格調整を受けることになればその記憶も人格も失い、残るのは「トラビス」のマトリクスを貼り付けたフレックの体のみとなる。

 ロックはオリジナルの「トラビス」への好意と彼を死なせた罪悪感から、狂暴な「闇の王」の人格を封じて〈トラビス〉を救おうとしているようだが、「トラビス」の記憶も人格も失われ、肉体さえも外見ばかりは「トラビス」でも実質はフレックの体となれば、人格調整後の彼はもはや全く「トラビス」ではなくなってしまう。それ以前に、いかに「トラビス」の記憶と人格を有していようとそれはあくまでコピーであって「トラビス」本人ではない。いったい自分は何者なのか、「トラビス」の記憶と人格を有する本人の意識としては「トラビス」だが、肉体に準ずるなら「フレック」が正解となる。「トラビス」はもう死んでいるのだから、ここにいる自分=〈トラビス〉は幽霊のような幻のような存在なのではないか。〈トラビス〉がその疑問を口にしたとき、ロックはいつにない厳しい態度でその疑問を封じるが、これは深く考えるほどに〈トラビス〉にとっては救いのない結論しか出てこないのをわかっていたからだろう。おそらくはロック自身も〈トラビス〉を救ったところで全く「トラビス」への贖罪にはならない、その虚しさに気付きつつあえて考えないようにしてるんじゃないだろうか。

 そしてラスト、〈トラビス〉の妻子の元へ帰ったのは「トラビス」の姿を持つフレックのクローンであり、もはや残っているのは「トラビス」の外見ばかり、記憶においても人格においても肉体においても、「トラビス」でも〈トラビス〉でも「フレック」でさえない。だからこそロックも〈トラビス〉の死に際し「エスパーなら・・・」「(クローン化が)可能なはず・・・」と言ったあとに「だが・・・」と迷いを感じている。かつてオリジナルの「トラビス博士」を救えなかったロックは、〈トラビス〉が「トラビス」なのか「フレック」なのかといったことを抜きにしてとにかく目の前にいる男を助けようと努力した。しかしそれも結局はかなわなかった。クローンを作ったところで、それは「トラビス」〈トラビス〉「フレック」三人の誰の救いになるわけでもない。それでもクローンをつくることに決めたのは〈トラビス〉の家族であるスーミとジュールのため、そしてラストのナレーションにもあるように、オリジナルの「トラビス」の望んだ幸福をこの世界に残すためだったのだろう。しかしその幸福を享受するのは「トラビス」本人ではないわけで――どこまでも切なく、ゆえに何とも余韻の残る物語である。

 余談ながら、だいぶ前に永井均氏の『〈子ども〉のための哲学』という本を読んだとき、「魂の存在証明」のくだりでこの『闇の王』を思い出した。Bという人物が記憶を奪われ、さらに他人の記憶を植え付けられ、その記憶がAという現存の人物のものだと知らされ、Aは本来の記憶を失いBの記憶を注入され、最後にAとBの肉体まで入れ替わる、というプロセスを経たさい、Bにとって自分と認識されるのはそれでもBであろうというような話なのだが、中学生くらいを想定読者として書かれた本だけになるべく平易な表現を選んであるものの、まず現実に起こりえる事態ではないだけにどうにも具体的にイメージがしづらい。しかし『闇の王』のケースを念頭にこのプロセスを読むとややこしい話が実にすんなりと理解できる。

 永井氏は『マンガは哲学する』のあとがきでも「私の根本的問題は「私とは何か」ということである。それはすなわち「何から何まで私と同じ人がいたら、そいつは私か」ということでもある。(中略)こうした問題設定の真意は、経験上、抽象的な哲学論文という形で書いてもほとんど理解してもらえない(それどころか自分自身にもよく理解できなくなる)。このマンガ(管理人注・あとがき中にコマが引用されている佐々木淳子『赤い壁』)が描き出す状況設定と、描かれた絵そのものに寄りかかることによって、私が問題にしたいことの真意が、ひょっとするとわかってもらえるかもしれないのだ!」と書いているが、『闇の王』も同様に、「私とは何か」を考えるうえで大いに役立つに違いない。

 哲学的問いを考えるさいには上の二例のように、現実世界では起こりえない仮定条件を積み重ねていくケースが多々ある。それだけにわかりにくくなりがちな話を理解するのに、SF作品は優れた寓話となりうる。優れたSF作品はしばしば哲学的な問いを寓話の形でわかりやすく紐解いてくれる。『闇の王』はその意味で、『超人ロック』シリーズでもっともSFらしい作品といってよいと思うのである。

 

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