ニアの想いの変遷をたどる

 

 以前「ニア」の項で、「『ミラーリング』でのほとんど母と息子のような関係から夫婦に至るまでのニアの感情の変遷は、いずれ項を改めてやる予定。」と書いた。実に10年以上を経ましたが、項を改めさせて頂きます。

 『光の剣』の中盤、海竜によって拉致されるまでのニアは徹底してランを子供扱いにしている。「子供」という表現は使わず「半人前」と言っているものの、意味するところは同じであろう。最初に『光の剣』を読んだときは、ニアがここまでランを子供扱いにするのが正直不思議だった。この頃のランが性格的に子供っぽいのは確かだが、年齢(『新世界戦隊』当時14歳だから年表に従えばその2年後の『光の剣』では16歳)に比してひどく幼いというわけではない。年相応のちょっと子供っぽいタチの男の子、程度のものだ。それをずっと年上ならともかく同年代、『新世界戦隊』での外見の幼さ(背の小ささ)からすれば下手すると1、2歳年下かもしれない(OVA『新世界戦隊』の設定では同じ年の)ニアがああも子供扱いにしているのがいささか「?」だったのだ。

 これは数年後に『新世界戦隊』を読んだ時点である程度納得がいった。『新世界戦隊』ラストのランは明らかに幼児退行を起こしているようだし、ランの行為=コンピューターのためにエスパーを〈消去〉しようとしたことに怒りを顕わにしていたニアが彼との同居を受け入れたのも、ラン自身もエスパーだと知ったこと以上に〈こんな子供に腹を立てても仕方がない〉という心理が働いたんだろうと思えたからだ。そしてニアは当時の感情をそのまま、ランが年齢相応の自我を築いてからも、継続させてしまったのだろうと。その印象は後に『ミラーリング』が描かれ、ランの幼児退行期間が想像より長かったのがわかったことで強化された。

 しかし、そうした事とは別に、ニアはことさらにランを、実際以上に子供だと思いたがっているように見える。発言のはしばしに、不自然なまでにランの能力を低く見積もるような態度が見え隠れしているのだ。特に印象深かったのが、オレリアルオールのカルバ・ハンの館にニア一行が落ち着いた後に、ランが庭でヴェルト・ニムに超能力の指導を受けている場面。小さな双葉(?)を花が咲くまでに急速に成長させる=代謝速度の操作を練習しているのをロックとニアが陰から眺めているのだが、ロックが「さすがだね」「ランだよ 日に日に超能力が強くなってる」と話しかけたのに対し(ニアと対照的に、ロックは早い段階からランのエスパーとしての才能を高く評価してる)、ニアは「ヴェルト・ニム以上の先生はいないわ どこにも」と返している。さらっとしたやりとりなので最初読んだときは気に留めてなかったが、これって要は「別にランがすごいわけじゃないわよ、先生がいいだけよ」と言っているに等しいんでは。確かにヴェルト・ニムはいたって優秀な導師なのだろうが、そのヴェルト・ニム自身初対面でランを「(超能力の)筋はよさそう」と評している(後にヴェルト・ニムがオレリアルオールの太守カルバ・ハンを「できの悪い弟子じゃった」と評する場面があるが、この時〈できの良い弟子〉ランの存在が頭にあったことだろう)。ニアはこの評価を耳にしたわけではないが、ニア自身も物語の冒頭では「たいしたものね (テレキネシスで椅子を)持ち上げられるようになったの! すごい進歩じゃない」とランを褒めている(まあ褒めたそばから「あなたはまだ半人前だから」呼ばわりしてはいるが)。このへんラフノールに来てからニアのラン評価が(ますます)下がった感がある。

 実際にはランの「進歩」具合はラフノールに来てから一気に早まっている。上掲の場面では椅子を持ち上げられる程度だったのがラフノールに来てしばらく経つ頃には、自分の身体の何倍もある泥竜を頭上はるか高くまで持ち上げている。これは何といっても命の危険に常時さらされている環境あってのことだろう。さらにこの〈泥竜持ち上げ〉時点では敵の気配を察知することについては「彼らには探知できない 不安にさせるだけだから」(ロック談)レベルだったのが、ドラクサ山中では(気配を隠してはなかったんだろうが)ヴェルト・ニムが近づいてくるのにロックより早く気づいて彼を迎え撃っている。ここでも長足の進歩を見せているのだ。

 (余談ながら上掲の「彼らには探知できない 不安にさせるだけだから」のシーンは、「彼ら」=ランとエスラは何しにきたんだよ!と思ったものだった。友達枠のランはまだしもロドス王の衛士長だったというエスラがこのざまなのは情けない。しかもこれからは敵を探知できる能力を持つロックとニアが交代で見張りをしようなんて話になっている・・・。本来守られるポジションのニア(お姫さま)が自ら見張りに立つのだから、彼女を守りにきたはずの二人の立場って・・・・・。もっともエスラはテレポート能力は有していたから、別に弱いわけじゃなく得意不得意があるというだけのようだが。

 ランについてはラフノール到着早々に雷竜に襲われたさいも電撃をくらって一時ニアに肩を貸してもらってたり、崖に追いつめられたさいロックがランの方を抱きかかえて崖からダイブしたりで、この時点では足手まといになっているのは否めない。ロックがランを連れて飛んだのはランが超能力を使いかけたのを止めるためという要素が強いが、ニアは自分で何とかできるだろうという確信もあったはずで、実際ニアは自分で自分の身を守っていた。その点確かに「ほんとに手間ばかりかける子」呼ばわりされてもしょうがない感じはある)

 さらに短期間ながらヴェルト・ニムに学んだ(直接戦闘に役立つたぐいの能力ではないが、超能力の使い方、根幹の部分を教わったという感じ)のち、祖先の島での戦闘では雑魚敵複数をがんがん倒しグルン・ベルクとの一騎打ちに至っている。そしてグルン・ベルクと戦う中でいきなり「光の剣」を会得して以降、『アウター・プラネット』では「これほどの超能力者は 連邦にもそうはおらん」「なんてやつだ!以前より超能力が強くなってる!」と言われるまでに成長する。これは「先生がいいから」で済むレベルではなく、第一に本人のポテンシャルの高さがあってこそだ。

 もっともそのポテンシャルを認めればこそ「半人前」―〈あなたの本当の力はまだまだこんなものじゃない〉と言ってるとも解せる。ランは上掲の椅子をテレキネシスで持ち上げてみせるシーンで「まだテレポートなんか無理だけどね」と語っているが、人口の40%がエスパーだというラフノールでさえ「テレポーターはそんなに多くない」のだし、あのロックでさえ『コズミック・ゲーム』でエリカからラーニングするまでテレポート能力を持ってはいなかった。つまりは一生涯テレポート能力に目覚めないエスパーは珍しくない、というよりむしろその方が普通なんではないか。なのにランは〈いずれはテレポートできるようになる〉のを前提に話をしている。これは単にランの楽観的思い込みではなくて、実際この会話から何ヶ月も経ずにランがテレポートをマスターしたことからすると、ある程度根拠はあったんではないか。ロックが『ミラーリング』の中で当時はまだ超能力がほとんど使えなかった(ように見える)ランのことを「(いずれ)すばらしい能力を使いこなせるようになるだろう」と評価する場面があるが、これがランの潜在能力を見抜いた上での台詞なら、ラン本人にも彼のポテンシャルについて伝えていておかしくない(〈他人の超能力の種類を判別する〉能力の持ち主だった『新世界戦隊』のエノがランに出会っていたら彼の能力を見切れただろうか)。ロックについては、ドラクサ山でランが突っかかってきたさいにそれを利用して彼に超能力の心得を教えたことからも、ランを高く買えばこそ「半人前」扱いにしていると見ていいだろう。しかしニアの方は上掲の「ヴェルト・ニム以上の先生は〜」発言からしても、ラン自身気づいている通り彼女にとってランは「いつまでたっても半人前」なのじゃないか。彼の実態がどうかにかかわらず、たとえランがテレポートをマスターしたとしてさえ。

 結論をいうと、ニアがランを実際以上に子供扱いするのは彼に子供のままでいてほしいから、子供が成長して自分から離れてゆくのを嫌がる母親の心境なんじゃないのか。つまりはランにずっとそばにいてほしいという感情の発露である。ランが出会った頃のような精神的子供のままじゃない、年相応の少年に成長しつつあると内心気づきながらその事実から目を背けてるんじゃないだろうか。弟か息子のように接してきた相手が自分を一人の女として見ているのを認めることへの少女らしい抵抗感も当然あったろう。

 そういえば序盤に、ランが「ぼくもはやくなにか仕事を見つけなくちゃ コンピューター関係なら一応なんでもできるんだけど」と話すのを「この星のコンピューター関係? だめよ問題にならないわ それ エスパーだってことがばれて それで終わりよ」と軽く斬り捨てるシーンがある。オプタのコンピューター関係の仕事はよほどエスパーに対するセキュリティが厳しいのかもしれないが、なんといってもランは連邦の中枢部でコンピューター技師をやっていたのである。その間彼がエスパーだとバレることはなかった。ラン本人さえ自分がエスパーとは気づいてなかったようだが(さすがにそれを知ってて「皇帝計画」はやれないだろう)、だからこそエスパーなのを隠すための措置も努力もしてなかったはずだ。たまたまESP探知システムにでもぶつかっていたら一巻の終わりだったはずだが、それもなかった。年表によるとESPジャマーが開発されたのはこの時期らしく、連邦の技師だった二、三年前と比べて対エスパーのセキュリティはより厳しくなってそうだが、ランほどのコンピューターに関する能力があればプログラムやデータの改竄はお手のもののはずだ。オプタでコンピューター関係の職業についても、問題なくやれていたに違いない。ニアが反対したのはつまるところ、子供の独立を妨げようとする心理の働きのように思えるのである。

 最終的に、「ニア」の項で書いたように「死人ごけ」に取りつかれたのを契機に彼女はランを決して失いたくないと思っている自分を見出し、ランの求愛を受け入れることになる。〈母と息子〉から男女の関係に切り替わることへの戸惑いもあったろうが、あれだけ格好よく救出・告白されたらもう子供扱いも半人前扱いもしようがない。ランの告白を受けての第一声が「なんて・・・ばかなことをするの!」という(一応は)叱責口調だったのは、母親ぶりたい気持ちの最後の抵抗だったのかもしれない。あとはもう・・・なんつーか、メロメロである。『アウター・プラネット』を見るかぎりもはやニアの方がベタ惚れで、恋は盲目ともいうべき状態になっている(『アウター・プラネット』ではフランシス大尉もロック相手にすっかり盲目的恋に陥っている)。擬似母子関係を卒業しても彼との距離は離れるどころかさらにずっと近くなった。結局ニアがランを男として受け入れたことで、みんな幸せになったわけである。もっと早くそうしときゃよかったのに――それじゃお話にならないか。

 

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