vs弁慶戦 

  

波瀾に満ちた一回戦を制し芦田旅館へ帰ってきた明訓ナインの顔は、勝利の直後とは思えないほどに沈んでいた。出迎えた旅館の番頭さんが面食らったほどだ。しばらくして同宿のBT学園のメンバーがこれから東京に帰るからと挨拶にやってきた時も、

「まあ所詮わいとは役者が違うちゅうことやな、いつでもまた――」

里中がガハハと笑ってなお何か言いかけるのへ、山田が飛びついて口を塞ぐとそのままどこかへずるずる引きずってゆき、代わりに岩鬼が「こちらこそいい勉強をさせてもらいました」といたって真っ当な挨拶を述べるという奇怪な一幕が展開されたのである。

――とりあえず、一晩経てば元に戻っていたりしないだろうかと、その日は練習もそこそこに一同早目に就寝したが、翌朝には何ら事態は好転していないという現実に直面することになった。さらに二回戦の抽選に出かけた山岡が2日後の七日目第4試合のクジを引き、剛打武蔵坊を擁する弁慶高校と早々に対戦することが確定するにいたって、土井垣の頭痛は増すばかりである。

土井垣に劣らず落ち込んでいたのは里中で、

「すまない山田、おれのせいでおまえまでこんな・・・」

「気にするな里中、起こってしまったことは仕方がない。とりあえず今出来ることをしよう。な?」

恋女房まで「事故」に巻き込んでしまった里中の沈みきった声に、励ます山田の方ももうひとつ声に力がない。ちなみに岩鬼は「山田の記憶喪失と一緒で、また同じ衝撃を加えれば元に戻るんじゃないか」という仲根の仮説を真に受けて、「せやったらまずわいからや!いくでえやぁ〜まだ!」と自分の体に渾身の頭突きをかましたあげく脳震盪を起こして伸びてる最中である。

「さしあたり明後日の先発ピーをどうするかづらな。」

バッテリーのテンションの低さを気にしたふうもなく、いつも通りの飄々とした調子で殿馬が言った。殿馬のごく現実的な、ドライな物事の割り切り方はときに山田以上だ。そのくせ表には出さないものの情が深く、山田や里中が不調の時も、鉄壁の守備と秘打で彼らの穴を埋めるため踏ん張ってくれた。彼の冷静さと無言の頑張りに助けられたことは一度や二度ではない。この非常時にも殿馬が平静な態度を崩さないことに土井垣は幾分救われる思いがした。

とにかく寝ても頭をぶつけても治らないのだから仕方がない。病院で治療を受けさせるにも人格転位の治療法など聞いたこともない。無駄に出場を止められるだけだ。チームの主力に三人も抜けられるのは痛すぎる。とにかく昨日の試合で悪球打ちもノーコンも体質ではなく性格の問題なのが判明している。岩鬼の体でど真ん中をホームランした里中は山田の体でもホームランを打てるだろうし、岩鬼の体の山田もホームランバッターであることに変わりはない。彼らは充分戦力になる。このまま試合に出すことを迷う余地はない。問題は殿馬の言うように投手をどちらにやらせるかだ。

「山田、里中。グローブを持って庭に出ろ。」

 昨日と同様に「剛球投手・里中」が投げられれば一番良かったが、それがかなわない以上、やはりほとんど投手経験のない山田より、里中が投げた方がいいだろう。山田(の体)も肩の強さでは岩鬼をしのぐほどなのだし。もちろん里中の体の岩鬼が投げるのは論外だ。

そう結論した土井垣は投手里中(体は山田)・捕手山田(体は岩鬼)のバッテリーで投球練習をさせてみたのだが、

「か、体が、重い・・・・・・」

里中の動きがあきらかにぎくしゃくしている。まず足が上がらない。腕の振りも鈍い。とにかく投球モーションの全てが、遅い。

――どうしてだ?岩鬼の方が体重があるはずなのに。

190センチを超える長身で筋肉の塊のような岩鬼は体重も相応にある。10センチ以上背の低い山田より岩鬼の方が何キロか重かったはずだ。しかし筋肉も多いが贅肉も多い肥満体型の山田の体の方が、感覚としてはずっと重苦しく感じられる。

自分は山田の体と相性が悪い。里中にはショックな事実だった。

「仕方がない。今度は山田が投げてみろ。里中がキャッチャーだ。」

岩鬼の体の山田が振りかぶり、オーバースローからボールを投じる。140キロ以上ありそうな速球が里中のグローブにおさまる。昨日の里中に比べると多少動きが固いが、充分及第点だろう。

「よし。明後日はピッチャー山田、キャッチャー里中でいくぞ。夕飯後のミーティングで詳しい打ち合わせをする。」

 

一夜明けて、弁慶との試合の前日。明訓高校の練習を取材にやってきた記者たちは、土井垣自らがバッティングピッチャーを務めての打撃練習に目を見張った。しかしそれ以上に見ものだったのはピッチャー岩鬼・キャッチャー山田による投球練習だった。二日前の試合同様、剛速球をストライクゾーンにピタリと決める思いがけぬ岩鬼に記者たちの間から溜息が漏れる。

一方でなぜか里中は練習場に姿を見せていない。里中はどうしたのかという質問を、土井垣は「あいつはちょっと体調を崩してるので」と軽くかわした。里中≠ェ寝込んでいたのは昨日の話だが、今日も別の理由で腑抜け状態になっているからまんざら嘘ではない。

――おいおい、エース不在で武蔵坊と対決じゃあ明訓に勝ち目はないんじゃないか。

――いや、あの岩鬼の剛速球なら里中以上だぜ。いくら武蔵坊でも打てまいよ。

記者たちのひそめきに内心苦笑しながら、土井垣は頭の中で明日の作戦を思いめぐらせていた。

 

練習を終えた一同が旅館の部屋に戻ると、相変わらず岩鬼が抜け殻のようになっていた。昨日の晩、岩鬼の実家から、心臓発作で倒れた母親が予定より一週間早く退院したことを知らせる電話があったのだ。見かけによらずいたって親思いの岩鬼はただならぬ喜びようだった――しかし彼は自分でその電話に出ることはできなかった。今の彼の声はどう装っても岩鬼本来の声とはまるで掛け離れてしまっていたから。

「・・・やぁまだ。代わりに話してくれ。」

顔を背けるようにして受話器を差し出した岩鬼の声は聞いたこともないほど弱々しくて、その場にいた全員が押し黙ってしまったほどだった。なるべく岩鬼の声の調子を真似て山田が話してる間、岩鬼は電話のそばの柱にもたれるように座り込んでいた。

それ以来岩鬼はほとんど口をきいていない。夕飯もろくろく食べようとせずさっさと部屋に引き上げてしまった。せっかく無事回復した母親と話もできない。この姿のままでは会うこともできない。そんな彼の苦衷を思うと誰も岩鬼にかける言葉がなかった。土井垣にしても練習に参加しろとはとても言えなかったのだ。

「岩鬼さん、全然立ち直ってないな。」

「なまじ里中さんの顔だけに痛々しさが増してるよなあ。」

渚と高代がひそひそと言葉を交わす。土井垣は岩鬼の様子を横目にそっとうかがった。岩鬼は朝自分たちが出かけた時から全く浮上していない様子だ。この調子ではやはり明日の試合は無理か。ならば三塁には昨日同様高代を起用するか渚を入れるかになるが・・・。

「岩鬼くんにお電話が入っとります」と番頭さんの呼ぶ声がした。また実家からだろうか。部屋に緊張した空気が流れる。「夏川夏子さんいうお人からです」。

誰もがしばし言葉を失った。ある意味これは実家より最悪だ。やがて岩鬼≠フ山田が代わって電話に出るためそろそろと立ち上がろうとするのに「待て」と声がかかった。

「待て山田。わいが出る。」 それまで部屋の隅で座り込んでた岩鬼がゆらりと立ち上がると静かに部屋を出て行った。いったい岩鬼はどうするつもりなのか。皆気になって足音をひそめて後をつけ、少し離れたところから電話の声に耳をすます。

「あー、夏子はんでっか!? わざわざ電話くれはってう、うれしいです。・・・いや、ちょっと夏風邪引いたようで・・・ヘンな声なっててすんまへん。でも体の調子はバリバリいいでっせ。な、夏子はんの声を聞いたら、もうすっかり元気が出ましたで!」

まるっきりいつもと変わらぬ岩鬼のデレデレ声に一同は唖然とした。

「こないだの試合見てくれはりましたか!・・・大丈夫でっせ。あんな虚弱のどチビおらんでも、わいがおりますさかい。心配は無用でっせ〜!!」

「――とことん単純なやつづらぜ。よだれがすげえづらよ。」

「・・・・・・金輪際、あいつの心配なんてしてやるもんかっ!」

誰が虚弱のどチビだ、と太い眉を怒らせながらドスドスと里中は廊下を引き返してゆく。他の面々もすっかり拍子抜けした顔でぱらぱらと引き上げていった。自分も歩きだそうとして殿馬はちらりと岩鬼を振り返った。

「・・・風邪やったらほんま大したことないんや。すぐに治ります。絶対に治しますで!」

この時だけ岩鬼の目に一瞬真剣な光が宿ったように見えた。

「ま、しっかりやるづらぜ」

一言つぶやくと、殿馬はずらずらとその場を立ち去った。

 

一方ナインに混じって岩鬼を窺っていた土井垣は、岩鬼の予想外に明るい調子にほっと胸をなでおろした。まだ少し様子を見守りたい気持ちもあって、隣のロビーのソファに腰かけテレビのスイッチを入れた。「弁慶高校」という単語が出てきて思わず画面を注視する。どうやら甲子園関連番組らしく、弁慶高校のトレーニング風景を流したあと画面は弁慶のエース義経へのインタビューシーンに切り替わった。

「まあ、こういっては失礼ですが、明訓は大したチームじゃありませんよ。明日のぼくの第一球を予告しておきましょう。ストレートど真ん中に投げます。」

「えっ」

あまりに堂々と宣言したのにインタビュアーが驚きの声をあげた。義経の奴なんと大胆な。投球予告、それも一球目ということは、明らかに一番打者の岩鬼がど真ん中を打てないと知っての挑発だ。まったくふざけた野郎だ。

「はいはい。プレーボールホームラン打って夏子はんにささげますよってに。」

ちょうど岩鬼の脳天気な声が聞こえてきて土井垣は苦笑した。あいつめ、里中の体のまま一番を打つつもりか。ふざけてるのはこっちも一緒だな。

そう思いかけて、土井垣ははっとした。義経は岩鬼にど真ん中が打てないのを知っている。しかし今の岩鬼≠フ中身は岩鬼ではないのだ。

――フフフ、そうか。ならばその挑戦うけてたつぞ。

 

『一番ピッチャー、岩鬼くん。』

わあっと不安と期待をこめたどよめきが客席に広がった。

『二番セカンド殿馬くん、三番センター山岡くん、四番キャッチャー山田くん――』

明訓の今日のオーダーを、弁慶高校のベンチで義経は意外の思いで聞いていた。 

「どうやら土井垣はおまえの挑発には乗らなかったようだな、義経」

「まさか・・・。土井垣の性格なら絶対山田を一番に持ってきて初球ホームランを狙うと思ったのに。」

武蔵坊の言葉に義経は悔しそうに整った顔を顰めた。

『先日見事なピッチングを披露した岩鬼くんが今日は先発です。途中降板した里中くんは今日はベンチにも入っていません。頭を打ったダメージがまだ抜けていないのでしょうか。』

 

「人の体で夕飯をバカ食いするからだ!普段の三倍は食べやがって!」

一回戦以来妙に元気のない明訓チーム、とりわけいつもはうるさすぎるほどの岩鬼が異様に大人しいのを気遣って、大事な二回戦の前だからと芦屋旅館の人たちが岩鬼の好物のサンマをおかずに用意してくれたのだ。ちょうど夏子テレフォン≠フ効果ですっかり元気を取り戻していた岩鬼は「サンマなんぞ貧乏人の食うもんやが、せっかくの心づくしやさけの」と口では文句を言いながら大喜びでサンマをどしどし平らげ、「里中くん、きみ夏風邪はもういいのかい?」と事情≠知らない旅館の人たちの目を白黒させたのだった。

みんなも「この機会に魚食いだめしとけ」とか煽るからっ、と細い目を吊り上げて怒っている里中から、身に覚えのある面々は微妙に視線をそらした。

「・・・まあ、岩鬼がいない方がおまえも気が散らなくていいんじゃないか?」

宥めるように言った土井垣を、「それはそうですけど・・・」と里中が見上げる。

里中は時々上目遣いで人を見上げる癖がある。しかし山田の顔でやられても上目だか下目だかよくわからない。

「・・・岩鬼のことはいいから、おまえは自分の打席のことだけ考えていろ。この回、おまえまで回るはずだからな」

里中に注意を与えながら、土井垣は合宿所でのミーティングを思い出していた。自画自賛の塊のような岩鬼が武蔵坊のことは過剰なまでに褒め称えていた。岩鬼は母の命を救ってくれた武蔵坊を恩人と崇めている。単純な男だけに思いこんだら一途だ。それを考えたら本当にこの試合、岩鬼はいない方がいいのかもしれない。

「土井垣」

低い声に振り向くと、バックネット裏に土佐丸高校の犬飼小次郎が立っている。

「おまえなぜ里中を出さない。いくら昨日調子が良かったとしても岩鬼のノーコンは極めつけだ。崩れ出したら止まらんぞ。雑魚ならともかく相手は弁慶だ。エース里中の投げない明訓に勝機はない。それに貴様、テレビを見なかったのか?義経の投球予告は無視か。舐められっぱなしでいいのか。」

「里中を買ってくれるのはありがたいがな、あいつなら腹痛を起こして旅館で寝ている。」

「何だと!?」

「投球予告に対してもちゃんと対策は立ててあるさ。フフフ、『ザ・ベースボール』今こそみせてやるぜ」

余裕しゃくしゃくの表情で笑う土井垣を小次郎は面食らった顔で見つめる。プレーボールを告げるサイレンが鳴り響いた。

 

『明訓高校、トップバッターはおなじみの岩鬼くん。対する義経くんは昨日テレビ番組で初球ストレートの投球予告を行っています。二人の初対決はどちらに軍配があがるか・・・あっ!』

途端にわあっとどよめきが観客席から湧き起こった。なんと岩鬼≠ェ左打席に立ったのだ。

――岩鬼が左打席だと?そんな小細工でど真ん中が打てるようになるとでも思っているのか?

義経はギリッと奥歯を噛み締めるとバッターボックスの男を睨みつけた。いつもやかましい男が今日は妙に泰然自若と構えているのも気にいらない。

打てるものなら、打ってみろ。

義経はわざわざボールの握りを見せ付けたうえで、140キロのストレートをど真ん中に叩き込んだ。瞬間、バットが一閃し、グワラキーンと快音が響いた。はっと振り向く義経の目に白球が遥かスタンドに吸い込まれてゆくのが見えた。

「ばかな、どうして・・・」

マウンドに呆然と立ち尽くす義経の姿に土井垣は内心ほくそ笑んだ。

義経、いや弁慶高校は、あの投球予告で自分を挑発し1番山田のオーダーを組ませたかったのだろう。だからいつも通り岩鬼が1番だったことで挑発は無視されたと思い込んだ。

――まあ岩鬼の中身が山田だとは、想像もつかないだろうからな。

ゆうゆうとグラウンドを一周しホームを踏んだ山田をナインが拍手で出迎える。

「打球音は半分岩鬼づらな。」

殿馬はつぶやきながらバッターボックスに向かおうとして、ふとライトに目をやった。武蔵坊が食い入るような視線で山田を睨みつけていた。闘争心というよりも何かをいぶかしむような目で。

――まさか、づらぜ。

 

『悪球打ちの岩鬼くんが義経くんのど真ん中をまさかのホームラン。試合開始そうそうに1点を先取した明訓高校、2番殿馬くん、3番山岡くんが倒れ、ツーアウトでこの人を迎えます。4番キャッチャー山田くん。』

とたんに岩鬼≠フ打席をも凌駕するような大歓声がスタンドを揺るがす。投げるときならともかく打つときにここまで歓声を浴びたことはない。いささか緊張をおぼえながらバッターボックスに向かった里中は、一瞬ためらってから左打席に入った。

里中本人は右打ちだが、昨日の土井垣を相手のバッティング練習ではずっと左で通した。どうせ山田とは体格も筋力も全然違うのだ。自分本来のバッティングなどできるはずがない。ならば体が馴染んでいる打ち方に自分の感覚の方を馴らすべきだ。バットの構え方も投手の立ち位置もいつもと異なるだけに最初は戸惑ったが、練習も後半の頃には大分打てるようになってきた。

里中は腰を落としバットを構えた。山田の体は足は思うように上がらなくても体全体は柔らかく腰がよく回る。

せっかくのホームランバッターの体だ。どうすればホームランが打てるか、それはこの体が知っている。

――何せ記憶喪失でさえホームランを打った男だからな。

義経の速球を里中は十分に引き付けて振り切った。快音とともに白球がレフトスタンドに突き刺さった。

『打った〜〜!さすがは山田です。岩鬼に続く大ホームラン。明訓早くも2点を先取しました!』

里中は重い体を揺すってゆっくりとベースを回った。里中自身も3割を打つ好打者だが、小柄で非力なゆえにホームランは春の大会で1本打ったきりだ。

――おれもこの機会にホームランの打ちだめ、かな。

ついつい口元をほころばせながら、里中はホームを踏んだ。

 

微笑が三振して明訓2点リードで一回裏がはじまった。里中はプロテクターとマスクをつけて定位置に腰を落とす。改めて妙な感じだなと思う。ナイン全員が自分の方を向いている。いつもは正面にいる打者がすぐ斜め前に立っている。BT戦では体は岩鬼と入れ替わっていても自分がピッチャーであることには違いなかったのだ。そしてマスクは山田がかぶっていた。

――まさか自分が捕手をやる日がくるとはな。しかも不世出の名捕手を相手に。

思わずくすりと笑いをこぼす里中を1番打者の富樫が怪訝そうに見た。

山田が右手をサッサッと動かしてサインを送るのへ、里中は深く頷いた。

 

「サインは岩鬼が出しているのか。まああいつじゃストレートしか球種はないし、他人のサインに従うやつでもないからな。」

自分を納得させるように小次郎が言うのを土井垣は内心苦笑しながら聞いていた。体とポジションは入れ替わっていてもリードは山田が受け持つ。単にそれだけのことだ。

「それに一回戦に比べるとコントロールが甘い。スピードはあってもいずれ捕まるぞ。」

嫌なことを言う奴だ。土井垣は「いいから黙って見ていろ。気が散る」といささか乱暴に話を打ち切った。

 

富樫は三振に打ち取ったものの、2番の牛若がわざと袖にかすらせてデッドボールを貰って出塁―激昂しかけた山田≠岩鬼≠ェなだめるという世にも珍しい光景を見ることができた―、3番の義経が手堅く送って、早くも武蔵坊の打席を迎えることになった。大歓声を受けて左打席に入る武蔵坊を凝視しながら土井垣は頭をめぐらせる。

――前に自分が仮想武蔵坊として里中と対決した時、球質の軽い里中の球を自分は何なく場外まで運んだ。しかし今のピッチャーは剛速球の岩鬼≠セ。武蔵坊相手でも通用するはずだ。

土井垣は敬遠はせず勝負に行かせることにした。山田渾身のストレートを武蔵坊は力強く振った。ゴンと鈍い音がして打球が三塁方向へ飛ぶ。平凡なフライだ。先日に引きつづき岩鬼に代わって三塁に入っていた高代がこれをしっかりキャッチした。よし、と土井垣は小さくガッツポーズをした。

『主砲武蔵坊と明訓バッテリーの最初の対決は明訓側に軍配があがりました。依然2点リードのまま、明訓2回目の攻撃を迎えます。』

2回は双方とも三者凡退に終わり3回表、9番の高代が三振に倒れ、再び1番山田の打席が回ってきた。

『先ほどプレーボールホームランを打った岩鬼くんの打席です。再びストライクゾーンを打ってくれるのでしょうか。』

山田が再び左打席に入ると今度は大歓声があがった。岩鬼≠ヘ左打ちに変えることでど真ん中が打てるようになったのかもしれない。そんな期待が篭った声だった。そのとき、

「タイム!」 ライトの武蔵坊が手を上げると、マウンドの義経に歩み寄り何事かを囁いた。義経が驚いたように目を見張ったがそれも一瞬で、苦笑しながらうなずく。武蔵坊も小さく頷き返して外野へ戻ってゆく。

――なんだ?武蔵坊の奴、義経になにを指示したんだ?

土井垣がふと焦りを覚える中、試合再開の声が掛かった。

『義経第一球投げた、あーっとビーンボールだ!岩鬼体をのけぞらせて危うくよけました。岩鬼くん激怒して食ってかかり・・・ません。軽く頭を下げる義経くんに静かに頷きかえしています。これは珍しい。それ以前にビーンボールを打たなかったのも珍しいですが。』

――武蔵坊の指示はこれだったのか。にわかにど真ん中を打てるようになった岩鬼が今まで通り悪球も打てるのか。究極の悪球を投げることによって確認しろと・・・。

まさか岩鬼と山田の中身が入れ替わってるとまでは気づいてないだろうが。そう思いつつも土井垣は戦慄を覚えた。

義経が第二球を投げる。ど真ん中のストレート。まさか。ど真ん中は打てると思い知ったはずなのに。山田が真正面から球を捕らえる。義経の頭上を越えて打球を大きく伸びる、はずだった。

『あっと、義経ジャンプ、取った、取りました。ここで取らなければ間違いなくホームランになっていたでしょう。素晴らしい義経の大ファインプレーです。』

――なんて跳躍力だ。これも岩手から甲子園まで歩く脚力の賜物か。

奇妙な力を使う武蔵坊といい、弁慶の連中はどうも人間離れしている。土井垣は背筋を汗が伝うのを感じた。

 

続く殿馬がセーフティバントで塁に出るも山岡がピッチャーフライに終わり三回表も無得点に終わった。三回裏弁慶は8、9、1と打ち取られ、四回表は里中の打席から始まった。山田≠ノ期待の歓声が上がる中、里中は初球から叩いた。

打球はレフト方向に向かってぐんぐんと伸びてゆく。入る。里中の口元に笑みが浮かぶが、わずかに届かず球はフェンスに当たって跳ね返る。里中は急いで一塁に向かってスタートを切った。が、

――お、遅い・・・・・・。

体が思うように前に進まない。山田が鈍足なのは元より知っているし、さっきホームランを打って走ったときにも改めて実感もしていたのだが――。部内でも一、二を争う自分の足ならとっくに二塁を回っている。なのにまだ一塁にたどり着かないのはどういうことだ。

『レフト白河くん、いま球を拾って一塁へ送球。山田何とかセーフです。いやしかし遅い。普通ならツーベースは固い当たりです。』

おれならスリーベースにしてる、と里中は内心でつぶやいた。これまで他はすべて完璧なのだからと山田の鈍足を特に気にしたことはなかったが、今日ばかりは恨めしく思えた。

 

『微笑打った!センター前ヒットです。今一塁を回り―たいところですが、前に山田がいます。俊足の微笑、鈍足の山田がつかえているため走れません、一塁止まりです。』

『石毛ピッチャーゴロ、義経一塁に投げてワンアウト――あっと千本桜、三塁でなく二塁へ送球です、微笑二塁手前でタッチアウト、その間に山田は三塁へ・・・到達していません。ボールは二塁から三塁へ、山田タッチアウト、なんとトリプルプレイです!』

土井垣は小さくうめいた。山田は確かに鈍足だが、いつもの山田ならもう少しは速い。鈍足なりに、その重い体で可能な限り早く走るコツを山田は自然と習得しているはずだ。元より軽量で俊足の里中にはそのコツがわからない。山田として打つ方の練習はずいぶんしたが、走る練習は通常のランニングをやっただけだから無理もないが。

とにかく里中にはホームランを狙わせることだ。それしかない。

 

四回裏、2番牛若、3番義経をどうにか打ち取り、再び4番武蔵坊を迎えた。バッテリーの間に他の打者に対するのとは違う緊張感が流れる。里中と違って変化球があるわけではないからストレート一本でコースを投げ分ける以外にない。

山田は渾身のストレートをインコースに投げた。武蔵坊はバットを振ろうともせずそのまま見送る。しばらくマウンドの山田にじっと強い視線を注いでいたが、その目が急に里中を向いた。

「おい、岩鬼はどこへ行った」

突然の問いかけに里中は背筋が冷えるのを感じた。

「何を言ってるんだ。目の前にいるじゃないか。」

「あの男は岩鬼ではない。」

あっさり言い切る口調に里中は絶句した。

「あの男と岩鬼では持っている気≠フ色が違う。岩鬼が燃えさかる赤い火なら、あの男の気は静かに燃える青白い炎だ。」

得体の知れない力で岩鬼の母を治し、中の肩を治した武蔵坊。彼には常人に見えないものも見えているのかもしれない。彼の言葉がハッタリでないことは、里中自身がよくわかっていた。

「・・・おまえも山田らしくないな。おまえの気は、むしろ――」

「打席の最中だ。私語は慎みたまえ!」

審判の静止に、武蔵坊は軽く会釈し、バットを構え直す。里中もそっと息を吐いてミットを構え直した。

 

剛球岩鬼≠ニ武蔵坊の対決を6万の観衆は固唾を呑んで見守っていた。インコースへアウトコースへたくみに攻めわける岩鬼≠フ球を武蔵坊はことごとくファールした。これで十二球目だ。

山田の額から汗が流れる。ストライクゾーンにきっちり投げられるだけのコントロールはあっても、里中のようにコースぎりぎりをつく技術があるわけではない。特に相手が武蔵坊とあっては打たせて取ることさえ難しい。

スローボールでタイミングを外すか?いや、少しでも力を抜けばスタンドに持っていかれる。確かな予感があって結局コースで揺さぶりをかけるしかなかったのだが、だんだん芯で捕らえられている。

――投げる球がない。どうする・・・?

懸命に頭を回転させていた山田は、里中が少しためらうようにサインを出しているのに気づいた。里中からサイン?その指の形を見て、まさか、と山田は息を呑んだ。

いやなら首を振ってもいいんだぞ、とマスク越しに細い目が問うている。それが山田にはまるで自分自身から挑戦を受けているように感じられた。

――よし、やってみようじゃないか。

山田はしばし気を落ち着けてから、運命の一球を投じた。

ボールのスピードはこれまでより少し遅い。さすがに疲れたのかチェンジアップのつもりなのか。いずれにせよ、もらった、と武蔵坊はバットを振る。その時ボールがぐっと外側へ軌跡を変えた。

――カーブ、だと!?

去年の秋、いきなり一打席のみピッチャーに起用された時に牽制球を利用してにわか練習をした、山田が唯一投げられる変化球。里中の球の切れには及ぶべくもないが、岩鬼≠ノはストレートしかないと思い込んでいた武蔵坊の意表をつくには充分だった。バットの先がボールにかろうじて届きピッチャーフライになったのを山田がしっかりキャッチする。

『明訓バッテリー、ついに武蔵坊を打ち取りました。驚きました、まさか岩鬼にカーブが投げられるとは。』

ほっと胸を撫で下ろした山田はマスクをあげた里中の顔を見つめた。あの試合を怪我で欠場していた里中はベンチで見ていた。本当なら自分が出て行って投げたいのに投げられない。その苛立ちは今もきっと、同じだろう。

しかし今は自分が、岩鬼の体の山田太郎が投げるしかない。武蔵坊の打席は最低でもあと一回は回ってくる。武蔵坊を相手に今の手は二度とは使えまい。

五回表、明訓攻撃の回を前に、山田はすでに武蔵坊の次の打席のことに思いを馳せていた。

 

五回はともに三者凡退に終わり、六回表、期待の山田もライトフライに倒れ、六回裏、七回表とともに無得点のまま試合は進んだ。そして七回裏、2番の牛若を三振に取ったものの、続く義経が三塁線ギリギリに留まるゴロで一塁に出たところで、三たび武蔵坊の打席を迎えることとなった。

一打同点の危機にあって土井垣はバッテリーを呼び寄せた。土井垣の指示に里中はいくぶん顔をこわばらせたが、山田は素直に頷いた。

マウンドに戻った山田はセットポジションから第一球を投げる。大ボール――敬遠だ。ブーイングの声が客席から沸き起こるが山田は気にとめなかった。もはや投げる球がないのはさっきの打席でわかっている。一打同点の危機とあれば敬遠は当然の戦術だ。里中と違って自分なら投手のプライドが傷つくということもない。里中に辛い役回りをさせずにすんだことに、山田は少しほっとしていた。

三球目、にわかに武蔵坊の体が大きく伸び上がった。まさかと息を呑む里中の眼前で武蔵坊のバットが大きく一閃した。ゴンと例の鈍く力強い音とともに打球は一直線にレフトスタンドへ消えていった。

『な、なんと武蔵坊、敬遠のボールをう、打った〜〜!それもバットの先っぽです。武蔵坊の同点ツーラン、信じられない武蔵坊の怪力!!』

この結果を誰より信じられなかったのは打たれた山田、そして里中だった。敬遠球すらもホームランにしてしまう怪物。まだ同点とはいうものの、この巨大すぎる男を前に二人は呆然と立ち尽くしていた。

 

「まったく虚弱児めが、あの程度の飯で腹痛なんて、なんちゅうヤワな体しとるんじゃい」

何度目になるかわからないトイレ通いから戻った岩鬼は毒づきながら布団に倒れこんだ。

壁の時計は17時15分を差している。もう試合は半ばを過ぎているだろう。しばらく天井の木目をながめていた岩鬼は、右手を眼前にかざしてみた。

「あのチビ、こない小さな手で投げとるんやな・・・」

岩鬼はむっくりと起き上がった。大分腹の具合も落ち着いてきた。そうなると一人で寝ているのがたちまち退屈になってくる。

「あいつらだけじゃ頼りないからの。このスーパースター岩鬼様がついててやらんと。」

うんうんと自分の言葉に頷きながら、岩鬼は壁にかけてあるユニフォームに手を伸ばした。

 

バッテリーは気を取り直して5番の安宅と6番の平泉を仕留めて7回裏を終えたものの、8回表明訓も得点ならず同点のまま8回裏を迎えた。

『白河打った!ワンバウンドで高代が取り一塁へ、しかし足の方が速い、セーフです。その間に鞍馬くんは二塁へ。さすがに厳しい山岳修行で鍛えられた弁慶ナイン、足は強いです。』

しだいに山田が打たれ出している。いかに剛速球とはいえ基本的にストレート一本で押しているのだから、義経と武蔵坊以外もいいかげん目が慣れて当然だった。

スピードはあってもいずれ捕まる。小次郎の言葉を土井垣は思い出し、さすがに同じピッチャーだけあるなとその予見性に少し感心した。

『9番ファースト千本桜くん。ノーアウト1、2塁、ここは手堅く送るところか、いや、ヒッティングです。鋭い打球が二遊間を抜ける・・・いや殿馬くん飛びついた。バッターアウト、鞍馬と白河、あわてて塁へ戻ります。明訓ようやくワンアウトを取りました。』

土井垣はほっと息をついた。これまでの回にもあわや外野に抜けるかという打球が何度かあったのだが、殿馬のファインプレーがそれを阻止してきた。しかしこれで9回裏武蔵坊に打順が回るのが確定してしまった。せめてこの回で点を取られることだけは避けなければ・・・。

「なんやなんや同点かいな。まあわいがおらんかったのに負けとらんだけ上出来ちゅうもんやな。」

耳に馴染んだ関西弁が後ろから聞こえてきて土井垣ははっと振り向いた。ここにいないはずの人間がいつのまにかすぐ後ろに立っている。

「岩鬼!?おまえなんでこんなところにいる?腹痛はどうした?」

「んなもん朝からずーーっと寝とったら治ったわい。わいは不死身の男・岩鬼やで!」

体は虚弱児やけどな、と大口を開けて笑う岩鬼の姿に土井垣は妙にほっとするのを感じた。この男の大言壮語と天衣無縫な振る舞いがいつのまにかチームの明るく強気なムードの源になっていたのかもしれない。

「――岩鬼、おまえ試合に出てみるか?」

「な、何分かりきったこと言うとるねん!ここまで来て試合に出んでどないするんや!」

この破天荒な男の存在が試合の流れを変えるかもしれない。土井垣はメンバー交代を告げるために立ち上がった。

 

『選手の交代をお知らせします。サード高代くんに代わって、里中くん。』

客席からわあっと歓声があがった。期待と――先日の試合での体たらくを思い出しての不安と、その両方の入り混じった声を浴びて岩鬼は悠々と守りについた。1番の富樫がバッターボックスに入る。

山田はサッサッと指を動かしてサインを出した。いつもなら打者の立ち位置、バットの握り方のみならず、重心のかけ方、目の表情まで含めてどんな球をどう打つ気でいるのかを読む≠フだが、マウンド上からではそれもままならない。にわか捕手の里中にそれをやれと言うのも無理な話だ。とにかく三塁には打たせちゃいけない。

幸いに体力の塊のような岩鬼の体は8回になってもまだ疲れがこない。山田は力の篭ったストレートを内角低めに投げた。富樫はさっと左足を開くと強引に左に流し打った。

――しまった。向こうも三塁狙いで来たか。

強烈なライナーが三遊間に飛ぶ。当然抜けると思われたその打球に岩鬼が横っ飛びに飛びついた。バシッと鋭い音とともにボールはグローブにしっかり収まった。

『富樫くんアウト!里中くんの見事なダイビングキャッチです。ツーアウト、ランナー走れず1、2塁のままです。』

「よく止めたな、岩鬼」 ほっと笑顔になる山田に、

「よく言うやろ。美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる≠ト。どチビの体も三日あれば慣れるわな。」

笑って言いながらボールを投げてよこし、けど夏子はんの顔は何年見ても見飽きへん〜、と甘ったるい声を出すのへ「誰も聞いてねえづらぜ」と殿馬が茶々を入れた。

岩鬼の守備が当てにできるならずいぶんと心強い。打席はさすがに悪球打ちのうえ非力な今の岩鬼には期待できないが、幸いに9番の岩鬼まで回ることはまずないだろう。

「やぁ〜まだ、三塁に打たせ〜〜!」

岩鬼の脳天気な声に山田は笑って頷き、セットポジションに構えた。

 

2番の牛若をサードゴロに打ちとって8回裏は無事無失点に終わった。そして9回表。延長にならないかぎり明訓にとっては最後の攻撃となる。

『注目の9回表、明訓は一番からの好打順です。1番ピッチャー岩鬼くん。』

よくぞ山田が1番にいてくれた、と土井垣は思った。いつも通り山田が4番を打っていたら―山田の体は4番のまんまだが―この大事な局面に彼まで打順が回らなかったかもしれない。9回裏に武蔵坊の打順が回ってくるとわかっているだけに、何がなんでもここでもう一点を入れておきたかった。

打席に入った山田はぎゅっとグリップを握りしめた。この前の打席ではてっきりホームランと思った球がいつのまにか武蔵坊のグローブの中に入っていた。まるで打球が押し戻されたように――一回戦の土佐丸戦で犬飼武蔵の逆転ツーランがライトフライに終わったときと同じだ。

武蔵坊には神がかった力がある。その力に打ち勝たなくては、試合には勝てない。山田は精神を研ぎ澄まして義経の投球を待った。

どんな球が来ようと、必ず打つ。

140キロ級のストレートが義経の手から放たれる。山田は十分に引き付け、力強くバットを振った。グワラキーンと小気味良い音を立てて打球は一直線にライトスタンド最上段へと吸い込まれていった。

『やったー!岩鬼会心の大ホームランです!武蔵坊一歩も動かず。明訓ついに一点をリードしました。』

やはり山田は大した男だ。先頭打者で前にランナーがいなかったのがもったいなかったな、と土井垣はいささか欲張りなことを考えた。

 

殿馬と山岡がそれぞれ三振とファーストフライに終わり、4番の里中がセンターゴロで一塁に出たものの続く微笑が三振して9回表は幕を閉じた。そして、

『さあついに9回裏です。ここで点が入らなければ明訓の勝利が決定しますが、この回は先頭バッターが3番義経、さらには4番武蔵坊が控えています。明訓逃げ切るか、弁慶逆転勝利なるか?』

――まずは義経を塁に出さないことだ。

山田は全力のストレートを放った。低めの球で内野ゴロに打ち取る。それが山田の作戦だったが、狙いよりわずかに球のコースが高くなった。義経は見逃さず果敢に叩いてきた。打球は勢いよく殿馬の頭上を越える。

右中間へのライナーになる、そう誰もが思ったとき、殿馬がジャンプして打球に飛びついた。ボールはいったん殿馬のグローブにおさまったが打球の勢いを完全には止められずにグローブをはじかれる。バランスを崩したまま地面に落ちた殿馬は、倒れながらも素手を伸ばして球を取りにいくがわずかに届かない。ボールが地面に着き、一度はアウトを覚悟して一塁を回ったところで足を止めていた義経はそのまま二塁へ走りこんだ。

何て足だ。殿馬が止めてくれなかったら三塁打になっていたかもしれない。山田はそっと額の汗を拭った。

戦慄を覚えていたのはネクストサークルの武蔵坊も同じだった。またしても殿馬。この試合、普通なら外野に抜けるはずの球、いやホームランになっただろう球さえことごとく殿馬に遮られてきた。空中で受け止めたボールを着地せずに体勢を崩したまま味方にバックトスで送る技量はまるで軽業だ。

しかし捕球とバックトスは完璧と言ってよい殿馬が、普通に右手でのスローイングになると一瞬動きに間ができるのに武蔵坊は気づいていた。武蔵坊以外なら見逃してしまうような本当にごくわずかな時間の停滞。おそらくは予選大会の頃巻き込まれたハイジャック事件で負った傷のせいだ。その機転と勇気でハイジャック犯逮捕に貢献した殿馬は、犯人の撃った銃弾で右肩を負傷するはめになった。まだその傷が完全には癒えてないのだろうに、殿馬は辛そうな素振りも見せずに試合に出場し、さすがに秘打はなりを潜めているものの守備の要として活躍している。

――底知れぬ大きな器の男だ。この試合の鍵を握るのはこの男かもしれん。

 

『さしもの殿馬の執念も及ばずヒット、義経二塁へ。しかし殿馬よく止めました。すごいジャンプでした。二塁に義経を置いてついに4回目の武蔵坊の打席です。』

これまでに倍するほどの大歓声が銀傘を振るわせた。武蔵坊がホームランを打てば逆転、ヒットでも義経の足ならホームを踏んで同点だ。興奮に満ちた聴衆の声がうねりになって足元までも揺るがしているように山田には感じられた。

もはやなけなしのカーブを投げるような奇策は通用しない。敬遠の球さえも打たれる。武蔵坊に投げられる球は何ひとつない。どうする?山田は懸命に自身に問い掛けた。

ベンチの土井垣もまた同じ苦悩を抱えていた。いかにスピードと重さはあってももはやストレート一本では通用すまい。スタンドまで持っていかれて――サヨナラだ。

もし変化球が投げられたなら――そう思ったとき胸の奥からある考えが浮かび上がってきた。それこそ無茶な話だ。成功する可能性はごく少ない。しかし――。

土井垣は試合前に小次郎が言った言葉を思い出していた。エース里中の投げない明訓に勝機はない=B

一か八かだ。土井垣はベンチから立ち上がった。

 

『選手の交代をお知らせします。ピッチャー岩鬼くんに代わって山田くん。岩鬼くんは山田くんに代わってマスクをかぶります。』

どよめきが球場を満たした。なぜここで岩鬼を代える?山田に投手ができるのか?そんな声がスタンドを飛び交っている。

観客以上に驚いたのは当人たちだ。小走りにベンチに戻った里中は即座に抗議の声をあげた。

「無理です、監督。投げられるものなら最初からぼくが投げています。監督だって見てたじゃありませんか!?」

里中の言う通り、弁慶との対戦が決まった日に二人に投球練習をさせたうえで土井垣は岩鬼の体の山田の方を投手に起用したのだ。山田の体の里中は足がまともに上がらず、腕もろくに振れていなかった。しかしそれでも、

「おまえなら、変化球が投げられる。」

あまりにシンプルな土井垣の言葉に里中は絶句した。

「おまえ本来のピッチングからは掛け離れているだろう。満足の行く投球なんてできるはずもない。それでも山田≠ェ変化球を投げてきたというだけでも武蔵坊の虚をつくことができる。頼む、里中。」

土井垣がわずかに頭を下げるのを見て、里中は反論の言葉を失った。

「監督の言う通りだ。ここはおまえが投げろ、里中。」

「山田、おまえまで・・・」

「正直もうおれには投げられる球がない。完全に手詰まりだ。でもおまえの球ならまだ武蔵坊に見切られていない。」

「・・・・・・」

「明訓のエースはおまえだ。おまえが投げてダメなら諦めもつく。おまえはピッチャーとして武蔵坊と対決したいとは思わないのか。」

「・・・・・・わかったよ・・・やります。」

後半は土井垣に向かって告げて、里中はプロテクターやレガースを外しはじめた。

 

『ようやく明訓バッテリーが出てきました。岩鬼くんがキャッチャー、山田くんがピッチャーと立場を入れ替えての登場です。山田の鉄砲肩は有名ですが、投手としての力量はどんなものでしょうか。』

里中は数球投球練習を行ってみる。やはりどうにも体が重い。これでは全身を使うアンダースローはまず無理だ。そして自分が変化球を覚えたのは投げ方をアンダーに変えたのと同時進行だった。だからオーバーで変化球を投げた経験などないのだ――ただ一種類の球をのぞいて。

土井垣さんも山田もどうかしている。これだけハンデを背負っているのに、変化球が投げられるという意外性だけで武蔵坊に勝てるものか。

なのに結局自分は頷いてしまった。すでに交代が告げられたあとで今さら引っ込みがつかなかったのは確かだが、それとは別に山田の言う通り、自分の中に武蔵坊と勝負したいという気持ちがあったからだ。慣れない体で慣れないピッチングに奮闘する山田を見ながら、本当なら自分が投げたいのに投げられない、そんな苛立ちをずっと感じていた。

――この化け物じみたバッターと真っ向から戦ってみたい。たとえ自分の体ではなくても。ベストのピッチングには程遠くても。

「おれが投げてダメなら諦めもつく、か。」

ホームベースの向こうにはプロテクターを着けた山田がいる。姿は岩鬼だが山田があの位置にいてくれるだけで不思議と安心できた。山田がサインを送ってくる。それは里中が考えていた通りの球で思わず苦笑しそうになる。山田もわかっているんだ。これしかないってことを。

この一打席におれの全力を注ぐ。里中はセットポジションに構えた。

――おれは小さな巨人≠セ・・・!。

里中はオーバースローから一球を投じた。

武蔵坊もバットを構える手に力をこめる。さすがは山田の肩だけにスピードは岩鬼とさほど変わらないが何の変哲もないストレート。最初は一球様子を見るつもりだったが、真っ向から挑まれた勝負を受けて立とうという気になった。

武蔵坊は思い切りバットを振ろうとして――はっとひらめくものがあった。違う。ストレートじゃない。落ちるボールだ。

バットが触れる直前でがくんと落ちた球を前方に倒れこみながら武蔵坊はバットに当てた。ボールは三塁上空に高々と上がる。

勝った。ほっと笑顔になりかけた山田は、三塁の岩鬼の様子がおかしいのに気がついた。

 

三塁上空にフライが上がるのを見て、岩鬼は前に数歩進み出た。楽々取れるはずの球だった。

余裕で頭上にグローブを伸ばしたとき、岩鬼の脳裏をあの日の光景がかすめた。病院のベッドに横たわる母の上に逞しい左腕をかざした武蔵坊の姿。

――あかん、あの方はおふくろさまの命の恩人や。

この球を取れば武蔵坊はアウトになる。自分は受けた恩を仇で返すことになる。自分の想像に動揺してよろめきかける岩鬼に、

「情に溺れるな、岩鬼!」

鋭い怒声が飛んだ。その声の主は、

――武蔵坊さま。

「どうやらおまえを買いかぶっていたようだ。恩があるからと手加減するような、そんな情けない真似をおまえの母親は喜ぶのか?そんな母親じゃその母にしてこの子ありだな。」

「う、おおおおお〜!!」

岩鬼は雄叫びをあげ、打球をしっかりとキャッチした。

「それでいい。それでこそ、男・岩鬼だ。」

「武蔵坊・・・」

かすかに笑ってくるりと背を向けた武蔵坊を岩鬼はうるんだ目で見送った。それから乱暴に涙をぬぐうと、

「打たせていけえー!がっちり守ったるでえ〜!」

ことさらに大きな声を張り上げて見せた。

武蔵坊を打ち取った。安堵の息をつきながらも山田は別の点で驚愕せざるを得なかった。

――武蔵坊は気づいている。自分たちの中身が入れ替わっていると。

この神がかった洞察力を持つ男はベンチにいてさえ油断できない。山田は軽く深呼吸して気を引き締めた。

 

『山田、なんとフォークボールで武蔵坊を打ち取りました。そのまま山田くんは再びキャッチャーに、岩鬼くんはピッチャーに戻ります。見事なワンポイントリリーフでした。ワンアウト二塁、バッターは5番安宅くんです。』

最大の危機は脱した。しかしまだ二塁に義経がいる。きっと足でかき回してくるだろう。山田は二塁の義経を一瞬振り返ってから素早いモーションで第一球を投げた。

このときバッテリーの神経は二塁ランナー義経の盗塁警戒に集中していた。その分わずかながら打者を甘く見る気持ちが出たのかもしれない。安宅が打ったピッチャー返しに一瞬山田の反応が遅れた。

『安宅打った〜。ボールは岩鬼の左を抜けて右中間へ。いや殿馬が飛びついた。止めた、ダイレクトで取りました。一塁アウト。義経タッチアップ、速い速い、一塁に頭を向ける形で倒れた殿馬、素早く起き上がりましたがすでに義経は三塁を回っています。』

殿馬は振り向きざまホームへ送球した。瞬間その顔がわずかにこわばる。ホームまで届かず数メートル手前で失速した球を、里中と山田の両方が取りに走り、里中がキャッチした。

そのまま三塁から走りこんでくる義経にタッチに行く。しかし手が届く寸前で義経は里中の頭上を大きく越えて跳躍した。常人では考えられない跳躍力。里中は3回表に山田のホームラン性の打球をキャッチした大ジャンプを思い出した。

『義経とんだ〜〜!八艘とびだ〜〜!!』

振り返ってタッチに行くか、いや間に合わない。必死に思考をめぐらせる里中の視界に猛スピードで走ってくる岩鬼が見えた。

「里〜〜、わいに投げえ!やぁまだ台になれえ!」

考えている暇はない。里中は岩鬼に送球した。スピード送球を岩鬼は走りながらキャッチし、あわてて四つんばいに伏せた山田を踏み台に前方へ跳んだ。今まさにホームベースに着地しようとしていた義経の体に弾丸の勢いで体当たりする。

「なっ!?」

思いがけず後ろから加わった力に押されて義経はベースの向こう側に落ちた。その上に絡み合うように倒れこんだ岩鬼は、腕を高々と上げて審判にグローブを示す。その中にはしっかりとボールが握られていた。

「アウトーー!!試合終了!」

「やったあああ!」

審判の声に明訓ナインが歓喜の声を上げながらホームに向かって走る。

「フフフ土井垣よ、おれたちのプロでの対決はもうしばらく持ち越しになりそうだな。」

「まだ一年は先だろうよ。――あいつらがいるかぎり、負ける気がせん。」

バックネット裏の小次郎に応じる声に隠しきれない喜びを滲ませ、土井垣もまたナインの後を追ってベンチを飛び出した。

 

『やりました明訓高校。三位一体の超ファインプレーで義経くんのホームインを阻止。まさに劇的な結末です。時に午後六時十五分!!

「チビもたまには役に立つのう。ゴムマリみたいにようはずむわ。」

「岩鬼・・・」

かかかと大口を開けて笑う岩鬼を、里中は細い目をなお細めて見つめた。そこへナインが駆け寄ってきて山田も含め三人をもみくちゃにする。

「岩鬼、山田、里中」

背後から聞こえた低い声に彼らははっと動きを止めた。武蔵坊がすぐ後ろに立っていた。

「いい試合だった。三回戦進出おめでとう」

差し出された右手に山田と里中は視線を見交わす。この手は三人の誰に差し出されたものなのだろう?二人の戸惑いをよそに岩鬼だけはためらいなくその手を握り返した。

「おまえたちもだ。上から右手を重ねろ」

穏やかな声で促されて、山田が、里中が順に手を重ねる。上にかざした武蔵坊の左腕が膨れ上がり金色に光を放ちはじめる。瞬間三人は体の中を電流が駆け抜けていくような感覚を味わった。

「さあ、もういいぞ」

いつのまにか閉じていた目を開け右手を引っ込めようとして気がつく。これは、自分の手だ。

「戻った!元の体に戻ってる!」

「やったでえー!わいの体や。お、おなつかしい」

里中はガッツポーズで跳ね回り、岩鬼は自分の腕にキスを浴びせている。山田はいつものゆったりした微笑みを浮かべて、

「武蔵坊くん・・・ありがとう」

丁重に頭を下げたのへ、武蔵坊は鷹揚に頷いた。

「今度戦うときは本当のおまえたちと勝負がしたい。ピッチャー里中、キャッチャー山田、1番打者岩鬼でな。」

それから斜め後ろを振り返ると、

「殿馬、おまえもな。本調子じゃなくても、おまえが最大の強敵だった。」

その右肩をポンと叩いて、そのまま歩き去ってゆく。ちょっとの間きょとんとしていた殿馬ははっとした表情で右肩をぐるぐると回してみる。

「・・・あいつに借りができたづらな。」

堂々たる背中がゆっくりと遠ざかっていくのを殿馬はいつものポーカーフェイスで見送った。

 


何となくストーリーを思い巡らせていって、気がついたら明訓が勝っていたという(笑)、かなりな行き当たりばったりで出来た話です。ちなみに岩鬼と山田の気≠フ色がどうのという話が出てきますが、里中の気≠ヘ「白」だろうと思います。白熱灯のような、目がくらむような眩しい白。殿馬はいぶし銀とかかな。

(2009年12月22日up)

     

 2009年12月24日、アウトの数とランナーの名前に誤りを発見したので訂正。ストーリーへの影響はほぼありません。なお訂正にあたって新たに試合の経過メモを起こしたので(執筆時に作ったものはうっかり消してしまってたため)、参考資料として載せてみました。

 

  明訓:1番山田(岩鬼)、2番殿馬、3番山岡、4番里中(山田)、5番微笑、6番石毛、7番仲根、8番今川、9番高代→岩鬼(里中)
  弁慶:1番富樫、2番牛若、3番義経、4番武蔵坊、5番安宅、6番平泉、7番鞍馬、8番レフト白河、9番ファースト千本桜

  1回表:山田プレイボールホームラン、殿馬、山岡凡退、里中ホームラン、微笑三振(2−0)。
  1回裏:1番富樫三振、2番牛若、服にかすらせてデッドボール(1死1塁)、3番義経送りバント(2死2塁)4番武蔵坊サードフライ。
  2回表:石毛、仲根、今川凡退。
  2回裏:5、6、7凡退。
  3回表:高代三振、山田ホームラン性のあたりを義経に止められる、殿馬セーフティバント(2死1塁)、山岡ピッチャーフライ。
  3回裏:8、9、1凡退。
  4回表:里中レフト前ヒットだが鈍足のため一塁止まり。微笑センター前ヒット、里中が前につかえているため走れず一塁止まり(無死1、2塁)、
石毛ピッチャーゴロ、一塁アウト、二塁微笑アウト。里中三塁前でアウト、トリプルプレイ。
  4回裏:2、3凡退。4番武蔵坊ファールで粘るが、山田カーブでピッチャーフライに打ち取る。
  5回表:7、8、9凡退。
  5回裏:5、6、7凡退。
  6回表:山田、武蔵坊の念力でライトフライ、殿馬、山岡凡退。
  6回裏:8、9、1凡退。
  7回表:里中、微笑、石毛凡退。
  7回裏:2番牛若三振、義経サードゴロで出塁(1死1塁)、武蔵坊、敬遠球を同点ツーラン。(2−2、1死)、5番安宅、6番平泉凡退。
  8回表:仲根、今川、高代凡退。
  8回裏:鞍馬ヒットで出塁、白河ヒット(無死1、2塁)、9番千本桜、センター前ヒットのところを殿馬にはばまれる(1死1、2塁)、岩鬼登場、高代とサード交替。1番富樫三遊間を抜けるライナーのはずが岩鬼のダイビングキャッチにはばまれる(2死1、2塁)、2番牛若サードゴロ、アウト。
  9回表:山田ホームラン(3−2)、殿馬三振、山岡ファーストフライ、里中センターゴロで出塁(2死1塁)、微笑三振。
  9回裏:義経センターライナーのところを殿馬が止めたため二塁打止まり(無死2塁)、武蔵坊に対して里中ワンポイントリリーフ(捕手山田)、初球フォークボールでサードフライに打ち取る。(1死2塁)、5番安宅ピッチャー返し、右中間へ抜けるところを殿馬ダイレクトキャッチ(2死)、義経タッチアップ、三塁を回る。殿馬バックホームするが送球がそれ、里中がキャッチ。義経八艘とび、岩鬼、山田、里中の三位一体プレーで義経ホームインを阻止。試合終了(3−2)。

 

 

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