vsBT戦 

 

夏の甲子園四日目第三試合、「常勝」明訓高校と初出場のBT学園の試合は意外な展開を見せていた。試合前、いや試合が始まってからもしばらくは、誰もが明訓の圧勝を疑っていなかったのだが、周囲が暗くなりはじめた六回裏、ボールがよく見えないために明訓守備陣が連続エラー、夜目の効くBTが得意の足と徹底したバント戦術でいつのまにか一点をリードするに至ったのである。

二死満塁のピンチの中、この回十人目の打者・金星がまたもやバント、三塁ランナー桜が勢いよくスタートを切った。小フライになった打球に岩鬼が飛びつく。ぎりぎりキャッチしたかに見えた球はしかしグローブの上でバウンド、あわや落球というところへ里中が滑りこんでこぼれ球を受け止めた。が、勢いのついた体は倒れこんだままの岩鬼に真っ直ぐ突っ込んだ。ゴツッと鈍い音が響いた。

『あ〜〜岩鬼のこぼれダマをダッシュしていた里中が飛びついてとったとった。里中の見事な大ファインプレーです。・・・しかし二人とも起き上がってきません。どうやらはずみで頭同士がぶつかったようですが――。明訓ナインが二人に駆け寄ります。場所が頭だけに心配です。大丈夫でしょうか?』

 

「里中!大丈夫か?」

「しっかりしろ里中!」

山田と土井垣を先頭にナインは里中を囲んで口々に声をかける。その間岩鬼は完全に放置状態だった。正直誰も岩鬼の心配はしていなかった。頑丈さでは類を見ない岩鬼より、どう考えてもその岩鬼の石頭に衝突したガラスの巨人@「中のダメージの方が大きいのは間違いない。

やがて里中がうっすらと目を開いた。

「里中、気がついたか。頭は痛まないか?」

山田が顔を覗き込むようにして声をかけると、里中は戸惑うように長い睫毛をしばたたき大きく目を見張った。

「な、なんや、やぁ〜まだ、何をそない顔を近づけとるねん、き、きしょくわるい」

「・・・里中?」 

予想外の反応に山田が眉を寄せたとき後ろで小さくうめく声がした。振り返ると岩鬼が上体を起こしゆっくり頭を振っている。

「岩鬼、大丈夫か?」

「山田。ボールは、ボールはどうなった?」

「・・・里中がダイレクトで拾ったよ。アウトだ。」

「そうか。よかった――」

言いかけて岩鬼はグローブを、グローブをはめた左腕を見た。その目が大きく見開かれる。

「なんだこれ、このやたら太い腕――」

困惑しきったようなその口調も表情も、山田がよく知る岩鬼のものではない。むしろこれは――

「岩鬼、おまえ・・・」

「な、なんやねんこの細っこい腕は!貧弱な体は!」

後ろで聞き慣れた声が、聞き慣れない――別の声で聞き慣れた関西弁をわめいている。彼≠ヘ岩鬼の方に目を向けると、

「ぬな!?な、なんでわいがもう一人おるんや。お、おまえわいに化けよって何の目的や!?」

血相を変えて怒鳴り散らす。

「・・・すまないが二人とも、自分の名前を言ってみてくれないか?」

しぼりだすような山田の声に、

「何いうとるねん、わいが本物の男・岩鬼に決まっとるやないか!」 里中≠ェ薄い胸を反らして自信満々に、

「――里中だ。」 状況を察しつつあるらしい岩鬼≠ェ悄然と、こたえたのだった。

 

『予想外に荒れ狂った六回裏が終了。現在BT学園が一点リードです。とたんにキビキビ元気よく守りにつくBT学園。明訓は7番仲根からの打順ですが、いまだベンチから出てきません。土井垣監督、深刻な面持ちですが作戦を苦慮しているのでしょうか。それとも先ほど頭をぶつけた里中と岩鬼の容態が良くないのでしょうか。』

 

「・・・・・・つまりだ、どうやら互いの頭を強くぶつけたのが原因で、二人の人格が入れ替わったというわけか。」

土井垣は苦虫をかみつぶしたような顔で眉間を揉んだ。なんだっておれが監督になってからこうも次々に事件が起こるのだ。就任早々に優勝旗が盗難に遭い、山田の記憶喪失、里中と北の故障、殿馬のハイジャック事件、南海権左のオカルトときて――今度はついに、SFか・・・!。

ひとまずの対応策を考えようとしたが、こんな常識外れの状況にどう対応したらいいものやらさっぱり見当がつかない。考えあぐねた土井垣は、傍らの小さな男に顔を向けた。

「・・・殿馬、おまえ、何とかならんか。また手に「なまず」と書いて振ってみるとか。」

「監督よお、大分疲れてるづらな。「なまず」でSFはどうにもならんづら。守備範囲外づらぜ」

「ああ・・・そうか、そうだな・・・・・・。」

オカルトは守備範囲なのかと突っこむ気力もなく、土井垣は深くため息をついた。

「監督、いつまでも試合を止めておくわけにもいきませんし、とりあえずいつもの打順で打たせるしかないでしょう。」

進言する山田はさすがに冷静というか、異常事態の当事者二人がかたや呆然とし、かたやわいの肉体美がどうのと一人騒いでいるにもかかわらず、彼らを試合に引っ張り出すことを全くためらっていないようだ。日頃は温厚で大人しいようだが、いざ試合となると鬼になれるヤツだなこいつは。もっともかつて自分も記憶喪失の山田を代打に出しライトを守らせたのだから人のことはいえないが。

「・・・そうだな。仲根出ろ。それから今川、岩鬼の順だ。」

「な、なんや、わいが9番を打つんかいな。下位中の下位やないけ!」

「試合中に打順の変更ができん以上仕方ないだろう。おまえは今里中なんだから。」

しぶしぶ岩鬼が立ち上がったとき、ぱっと周囲が明るくなった。

 

『ようやく仲根がベンチから出てきました。ここで照明が入ります。一気に甲子園球場が真昼のような明るさに包まれます。』

「よっしゃ〜、照明がつきゃこっちのものよ!」

景気よく仲根がバットを一振りして打席に入る。ナイターと薄暮の中間のこの時間は打球を見きわめにくい。つまりは攻撃側に有利。

この回いける。そう思った土井垣だったが、仲根はあっさり見逃しの三振に終わった。ピッチャー隼の球は単なる山なりのスローカーブだったというのに。目をこすりながらベンチに戻ってきた仲根は信じがたいことを口にした。突然ボールが消えたのだと。

半信半疑の顔で打席に立った今川も同じく見逃しの三振。隼のスローカーブは球道が山なりのために右中間の照明の光の中に入ってしまうのだ。

それを計算したうえでの投法か。なんというチームだ・・・!土井垣は驚愕を隠せなかった。

「なんやおのれらだらしないのう。はやぶさ投法かなんか知らんが、わいには通用せんで!」

バッターボックスに入った里中が、いや岩鬼が威勢よくバットの先を隼に向ける。山田はふと去年の夏のことを思い出した。

隼が第一球を投げる。白球が照明の中に溶け込み一瞬姿を消す。

「――わいには絶好球じゃい!!」

そうだ、去年の決勝戦もそうだった。真夏の太陽に一瞬視力を奪われた岩鬼は、見えないボールをバックスクリーンに叩き込んだのだ。いわば、究極の悪球。

岩鬼のバットが一閃し――球はキャッチャー水穂のミットにおさまった。大空振りした岩鬼はバランスを崩して前方につんのめる。ああ〜という脱力したうめきが明訓ベンチから上がった。

「どチビの体やから、ちっと調子が狂ったわい。さあ来いや!」

再びバットを構えた岩鬼だが、再び大空振り。勢いのままバッターボックスに倒れこんでしまう。

「ううむ、さすがに悪球打ちの岩鬼でも無理か。目は里中の目だしな。」

土井垣が唸るのを、山田は「ちがう」と心の中で否定した。

岩鬼と里中では体格がまるで違う。ウェイトもリーチも。自分の体のつもりで振ればバットは球に届かない。それにホームランバッター岩鬼の猛スイングを支えるには里中の体は軽すぎる。自分のものではない身体の特性に合わせてプレイする器用さは、里中にはあっても岩鬼にはない。

岩鬼は三球目も豪快に三振した。その体がべちゃっと地面に倒れる。

「見ちゃいられん・・・」

ネクストバッターズサークルの里中が目を覆った。

 

『七回表、意外にも照明が災いして明訓の攻撃は0点に終わりました。明訓、なかなか守備につきません。ベンチの中で土井垣監督が作戦を授けている様子です。』

――問題はピッチャーをどうするかだ。里中の体の岩鬼か、岩鬼の体の里中か。とりあえずこちらの混乱の正体を知られてそこに付け込まれることは避けたい。・・・まあこんな異常な状況を察せられる人間がいるとは思えないが。

「・・・岩鬼、おまえ投げられるか?」

「ど、どえがき、誰に向かって言うとるねん。体は虚弱のどチビでも中身は剛球王・岩鬼やで!」

「じゃあこのままおまえはピッチャー、里中おまえは岩鬼に代わってサードに入れ。」

「監督・・・」

里中が土井垣を何か言いたげに見つめる。小柄なゆえか、里中は時々上目遣いで人を見上げる癖がある。そんな仕草も里中の顔だと違和感がない、むしろ可愛らしくさえあるのだが、岩鬼の顔でやられてもただ気持ち悪いだけである。土井垣はさりげなく視線をそらしながら、

「仕方ないだろう。おまえは今岩鬼なんだから。今日のところはサードを守れ、わかったな」

今日のところといったものの、明日には治る保証があるのだろうか。うなだれつつグラウンドへ向かう里中の背中を見つめながら、頭に浮かんだ嫌な考えに土井垣は再び眉間を指で押さえた。

 

『ようやく明訓の守備陣が散っていきます。注目の7回裏、8番ショート富士くん。』

「いっくでえ〜、やぁ〜まだ!」

岩鬼は大きく振りかぶると勢いよくボールを放った。が、球はまるであさっての方向へ飛び、バックネットにがしゃんとぶつかる。

『里中くん、なんとオーバースローからの投球、しかし大ボールです。やはり衝突のダメージがあるのでしょうか。』

「落ち着いていけ、岩鬼」 山田は声をかけながらボールを投げ返す。

「わーっとるわい。手がちっこいもんやからちっと狙いが外れただけや。いっくでえ〜!」

気合一声、投げた第二球は再びコースを大きく逸れ、ビーンボールになりかかったそれを富士はあやうく体をひねって避けた。

「しっかりしろ岩鬼!肩から力を抜け!」

三塁から激を飛ばす里中に岩鬼も怒鳴り返す。

「じゃかあしゃい!おまえが貧相な体しとるから力加減が狂うんじゃい。このどチビが!」

体は里中でも中身は岩鬼――さっき岩鬼が言った言葉が土井垣の脳裏に蘇った。・・・体が変わってもノーコンは健在か。逆にいえば里中のコントロールは岩鬼の体でも保たれているということだ。岩鬼の言う通り体格の違いによる力加減の問題はあるだろうが、里中の方がまだましだろう。

『里中くん、ストレートのフォアボールです。ストライクが入りません。あ、土井垣監督が立ち上がりました。選手交代です。ピッチャー、里中くんに代わって岩鬼くん。サードには入れ替わりに里中くんが入ります。』

「な、なんやて。まだ一打席しか投げてへんで。」

「怒るなよ岩鬼。監督はおまえが実力を発揮するには里中の体じゃ器が小さいと判断したんだよ」

「なーんや監督ちゃんわかっとるやんけ。まあこのスーパースターの体借りとるんやから、虚弱児でもそこそこやれるわな。」

山田にあっさり言いくるめられて、岩鬼は軽やかに三塁へ向かう。代わってマウンドに立った里中は、体の癖を呑み込もうとするように足元の土を数回蹴った。それから山田の方へ向き直る。いつもよりミットの位置がずいぶん下に感じられるが、それは仕方がないことだ。

里中は岩鬼のフォームを極力真似ながら――といっても岩鬼自身がそのつど違うプロ投手のフォームを真似て投げてるので独自の型と言えるものがないのだが――練習の球を放った。ズバァンと大きな音を立ててボールがミットに納まる。

「ストライク!その調子だ、さ・・・岩鬼=B」

山田が投げ返した球を里中は半ば呆然としながら受け取った。

――すごい。

150キロ近く出ているんじゃないだろうか。さほど力をこめて投げたわけでもないのに。さらに数球を山田のサイン通りのコースに投げ込んで手ごたえを掴む。これならいける。里中はぎゅっとボールを握りしめた。

 

『岩鬼くん、七回裏を見事三者三振に抑えました。とてもコントロールに難のある岩鬼くんとは思えません。まるで里中くんが乗り移ったかのようなピッチングです。』

岩鬼≠フ剛速球にバッターは完全に手玉に取られている。その投球に正直土井垣は舌を巻いた。

岩鬼は球の重さとスピードは投手として申し分ない。ただ致命的にノーコンであるだけで。そこに里中のコントロールが加われば、最高クラスの投手が出来上がる。しかも里中は岩鬼らしく見せるためにまだ変化球を一切投げていない。ストレート一本で抑えられる剛球があり、さらに抜群のコントロールと多彩な変化球ももっている――まさに理想の投手だ。

――とんだ「怪我の功名」だな。

押され気味の試合展開だっただけに、岩鬼と里中に悪いとは思いつつ、土井垣はつい口元が笑ってしまうのを押さえきれなかった。

一方投げている当人の里中も、この「事故」をある意味楽しんでいた。バッターは面白いように空振りし、得意のバント戦術も剛球の威力にバットを押し返されるかキャッチャーフライに終わるかだ。それに投げても投げてもまるで体に疲れがこない。

底なしのスタミナ。ストレート一本で勝負できる剛速球。それらは里中がどれだけ望んでもその体格ゆえに手に入れられなかったものだ。それを特に努力するわけでもなく生まれながらに備えている岩鬼に、里中は半ば本気で嫉妬を覚えた。

 

続く8回表、1番里中にはじまる上位打線は4番山田まで回りながらも足を生かしたBTの鉄壁の守りを前に得点は成らなかった。そして8回裏。里中の剛速球と徹底したバント封じの前進シフトに対してBTはバットを短く持っての強振に戦法を変えてきた。多くは空振りかファールになるものの、何球かに一球は当たることもある。そこで守備の意外な穴が明らかになったのである。

『四番桜くん打った!しかし平凡なサードフライだ。里中くんゆっくりキャッチ・・・あっと落とした落とした。桜くん俊足を飛ばして一塁へ。里中ボールを拾って一塁へ送球、あーっ届かない!桜くん一塁を蹴った。仲根急いで拾って二塁へ。しかし間に合わない。セーフです。里中くんの信じられないミスの連発です。』

「何やってんだよ!」

里中と仲根が同時に怒鳴ったが、山田は岩鬼を責める気にはなれなかった。さっきの打席と同じだ。里中のリーチと腕力を岩鬼は計算に入れていない。というより自分と違いすぎてそのあたりの加減が全くつかめないのだ。三塁に打球を集められたら一大事だが、BT打線は狙い打ちどころか球に当てるのがやっとの状態だからその点は大丈夫だろう。

五番の出雲が打席に立つ。バントの構え。しかし手堅く送ろうにもどこにバントしてもこの守備陣を抜けられるものではない。・・・いや、

――三塁方向があるか。

ヒッティングなら打つ方向までは選べない。しかしバントなら左に転がしさえすればいい。バントならBTはお手のものだ。

山田が里中の目を見ると、里中も目だけで小さく頷いた。それを確認して山田はミットを構え直した。

里中がセットポジションから球を放った。うなりが聞こえてくるような剛速球。バントを許さないような全力の球を投げろ。それでも万一バントされるようなら即座に三塁方向をカバーしろ。それが山田の作戦だった。

球が手を離れた直後、里中は軽く左足に体重をかけて、三塁側に跳ぶ準備をする。出雲がバントを決行するもファウルチップになる。まずはワンストライク。が、すでに二塁の桜が三塁に向かってスタートを切っている。山田は三塁へスピード送球し――しまったと思った。

里中も同じことを考えたのだろう、三塁へダッシュする。岩鬼が山田の送球をはじく。里中の飛びついた手もすり抜けてボールはライト方向へ転がった。追った里中がボールを拾い上げたとき、すでに桜は三塁を回りホームめがけて疾走していた。バックホーム。しかしボールが山田のミットに届くより一瞬早く桜の右手がホームベースに触れていた。

『桜くん頭からスライディング。ボールよりわずかに手が早い。セーフです!BT学園、一点追加!』

土井垣の、明訓ナインの顔が衝撃に引きつる。

――いつもの岩鬼なら確実に取っていたはずだ。里中もとっさにリーチの違いを忘れて手を伸ばしすぎた。

いつもの彼らのままであれば。山田は悔しさにぎゅっと手を握り締めた。

さすがに味方の応援席からも「なにやってんだ里中ー!」と罵声が飛ぶ。数秒間があってから、自分のことだと気づいた岩鬼が憤然と応援席の下に走り寄る。

「じゃかあっしゃい!このチビの体が貧弱やさかいあかんのや!おのれら味方をヤジっとらんと、もっとしっかり応援せんかい!」

唾を飛ばしてわめく岩鬼に里中が駆けよって羽交い絞めにする。

「は、放さんかい!」

「おちつけ岩鬼!打席の途中だぞ!それにおれの体で騒ぎを起こすな!」

まったくこのわいがどチビに力負けするなんて・・・とぶつぶつ言いながら三塁に戻っていく岩鬼の姿を見送った里中はそのままベンチの土井垣を振り返った。

「監督・・・あいつ、交代させてください!」

人目にさらさないでくださいっ・・・とハッパを震わせながら叫ぶように言う里中を見て、無理はないなと土井垣も腕を組む。岩鬼のパワーと自身のコントロールを兼ね備えた里中が最強なら、里中の小柄で非力な体にノーコンを兼ね備えた岩鬼はまさに取り得なしの状態である。打球にグローブが届かないのも送球が届かないのも、本来の自分と違いすぎる里中のリーチに馴染めないせいだ。

――使えない岩鬼を出していても、里中の神経を乱すだけ、か。

里中が出雲を三振に取ったところで、土井垣は交代を告げるために立ち上がった。

 

憮然とした顔でベンチに下がった岩鬼に代わって高代がサードに入る。つづく瀬戸を三振にとってようやくチェンジとなった。九回表、ここで二点を返せなければ、負ける。

あの常勝明訓が初出場のBT学園に敗れる。一種異様な興奮が球場内の観客を包んでいた。いや、それは観客ばかりではなく――。

――おれたちが、あの明訓に勝つ。あの明訓に。

明訓高校との対戦が決まった時点で監督もナインも一回戦敗退を覚悟した。いや、納得した。敵はあまりに強大すぎる。戦えるだけでも光栄だと感激すらした。とにかくやれる限りやってみよう。明訓を相手に一点でも二点でも取れたら儲け物だと、そう思えばこそ気負うことなく伸び伸びとプレイをしてきたのに。

BTナイン、とりわけ投手の隼はいまやプレッシャーでガチガチになっていた。精神的な動揺はすぐ投球に表れる。幸運に味方されて、5番の微笑、6番の石毛は何とか打ち取ったものの、続く仲根にヒットを打たれ、今川を四球で歩かせてしまった。ツーアウト一、二塁。明訓、BT双方のベンチに緊迫感が満ちる中、9番の高代は打席に立った。

高代にとっては甲子園で初の打席である。それもこのギリギリの展開で。隼にも勝るプレッシャーが高代にのしかかっていた。足が、構えたバットが震えるのを止められない。

そんな高代の様子に、一方の隼はいくぶん落ち着きを取り戻しつつあった。途中から調子を乱した里中に代わって突如起用された一年生。可哀想なくらいあがってしまっている。この状況なら無理もないが。

そう、追いつめられてるのは、向こうの方なんだ。

隼は呼吸を整えて、第一球を投げた。空振り。スイングが完全に腰くだけだ。

「ど、どえがき、わいをピンチヒッターで出さんかい。タカの奴にはとうてい無理や。」

もちろんそんなことが出来るわけはない。土井垣は臍を噛んだ。岩鬼を代えたのは早計だったかもしれない。この場面は高代には荷が重すぎる。

第一球が綺麗に決まったことで気持ちがなお楽になって、隼は軽やかに第二球を投げた。

――おれのせいで負けられない。絶対、何とかして塁に出るんだ。

必死の思いで振ったバットの先がボールに触れた。ちょこんと飛んだボールがピッチャーの手前数メートルに落ちる。急いで拾いに走る隼を横目に、高代は全力で一塁目がけて走った。

――当たった。信じられない。当たった。

目が涙で曇るのを感じながら、高代は懸命に走り続けた。三塁に投げるか一塁に投げるか、隼が一瞬逡巡したのが勝負を分けた。高代はギリギリセーフ。その間に仲根、今川も塁を進めている。

『一年生の高代くん、この土壇場でよく頑張りました。明訓高校ツーアウト満塁の大チャンス。バッターは一番岩鬼くんです。』

途端に大歓声が球場を揺るがす。ここで逆転満塁ホームランが出れば一気に逆転だ。岩鬼には優に場外弾を放つ力がある。ただし悪球がくればだが。

バッターボックスで構える強打者岩鬼≠前に、隼は再び激しい緊張を覚えていた。予想外にあんな一年生に打たれた。そのショックも尾を引いていた。

――落ち着け。こいつは悪球しか打てない男だ。ストライクゾーンに入ってさえいれば大丈夫だ。他の打者より安全なんだ。

三塁の仲根が大きくリードをとる。通常ならスクイズを警戒すべきところだが、岩鬼にかぎってその心配はない。明訓のベンチをちらりと見てみたが、案の定土井垣がサインを出している様子はなかった。

隼は大きく振りかぶった。盗塁を考えなくていい分いっそ投げやすい。ど真ん中のストレートを岩鬼≠ヘ大きく空振りした。

 

その時土井垣はまさにスクイズの指示を出すかどうかで悩んでいた。いつもの岩鬼であるなら、スクイズと見せてウエストさせる―悪球を投げさせる手が使える。普段の里中になら迷わずスクイズのサインを送っていただろう。しかし、

――岩鬼の体の里中はやはり悪球打ちになっているのだろうか?

球のコントロールは確かに里中のものだった。しかし打つときの選球眼はどうなのだろう。くそボールがストライクに見えるというのは眼球ないし脳神経の問題ではないのか。肉体に由来するものなら、現在の里中はど真ん中は打てないということにならないか。実際さっき里中の体の岩鬼は消える球を打つことができなかったのだ。

土井垣の疑問を裏付けるように里中は絶好球を空振りした。やはり今の里中にストライクゾーンは打てない。ならばスクイズ擬装の手しかないが、隼は岩鬼がストライクを打てないと知っている。ど真ん中の絶好球を放ってきたのがその証拠だ。はたしてウエスト誘いの手に引っかかってくれるかどうか――。

「監督、スクイズの指示は出さないでください。」

横から声をかけられてはっと物思いから醒める。山田が静かな顔をこちらに向けていた。

「やはり擬装には引っかからないと思うか?ほかに何か悪球を誘うアイデアがあるのか。」

「里中は悪球打ちじゃありません。里中の選球眼はあいつ本来のままです。さっきのは単にタイミングをはかってただけでしょう。」

あまりに確信ありげな山田の口調に土井垣は逆に不安を覚えた。何を根拠にそう言い切れるのだろう。バッテリーの片割れとしての勘か?

「しかし・・・」

「隼はど真ん中なら安全だと思っている。狙い目ですよ。里中は必ず打ちます。」

 

岩鬼の体の里中は悪球打ちなのか。土井垣の疑問を当の里中本人も考えていた。

8回表の打席の時はまだ空が暮れ残っていてライトを利用した「魔球」が有効だった。岩鬼本人ならあの球でも打てたのか、さすがに消える球には手が出なかったか――あの球が打てなかったことが自分が悪球打ちになっていない証明になるのか、里中の体の岩鬼がやはり打てなかっただけに判断がつかなかった。

それを測るのにまさに最適の球を隼は投げてきた。ど真ん中のストレート。岩鬼ならまず打てない―くそボール、いや絶好球だ。

里中は狙い打とうとして、大きく空振りした。その勢いで体がよろけそうになるのを何とか踏みとどまる。

――あぶないあぶない。これじゃ岩鬼のことを言えないな。

里中は第二球に備えてバットを構えなおした。ボールの軌跡が自分にはちゃんと見えていた。前の打席では見逃しの三振だったからまだスイングの勢いを把握していなくて、早く振り切りすぎてしまった。

今度はもう少しゆっくり。もう少し力を抜いて。

何もホームランを狙う必要はない。長打が出れば二人、上手くすれば三人帰れる。同点にこぎつければ次の打席は殿馬だ。なんとかなる。

ど真ん中に飛んできた球を里中は芯で捕らえた。打球はぐんぐんと伸びてゆき――そのままスタンドに入った。

『入ったーー!!岩鬼の逆転満塁ホームラン!明訓一気に逆転です。しかしあの岩鬼くんがど真ん中を打つとは。コントロールのみならず選球眼もまともになったのでしょーか!?』

「驚いたな。おまえの言った通りだ。選球眼は里中、パワーは岩鬼か。」

ベンチでほっと笑顔になる土井垣に、

「岩鬼の悪球打ちは普通打てないようなボールほど燃えるという、闘争心の表れなんです。視力じゃなくて性格の問題ですね。」

山田も穏やかな笑顔で答えた。

 

驚いているのは里中も同じだった。力を抜いて振ったはずなのに。それでもホームランになってしまった。

――何だかんだ言っても、たいした奴だよ、おまえは。

里中は苦笑をこぼすと、一塁へ向かってゆっくりと走り出した。

 

そして九回裏、里中は球威衰えぬ投球で、三者三振に退けた。

「ストラ〜イク!バッターアウト。試合終了!」

最後のバッターが倒れた瞬間、審判が高らかに試合終了を宣言した。

『試合終了!明訓高校二回戦進出です。BT学園の予想外の大健闘に一時はあわや敗退かと思われましたが、最後は二点差で明訓の勝利に終わりました。』

里中は会心の笑みを浮かべると、山田に駆け寄った。

「山田〜〜!!」

「わっ・・・里中、ちょっと待て――。」

いつもの勢いで飛びついてきた巨体を、山田はとっさに受け切れなかった。里中が山田にボディアタックを食わせた格好で、二人はそのまま後ろに倒れた。ゴチンと鈍い音が周囲に響き渡った。

勝利の喜びに走り寄ってきたナインが思わず足を止め遠巻きに見守るなか、少しして里中が体を起こし、ついで山田が頭を押さえながら起き上がる。

「すまん山田、ついいつもの癖で――」

「いや、おれの方こそ・・・」

言いかけて二人は目をぱちぱちと瞬き、互いの顔をしばし凝視した。

「山田・・・?」 山田の顔をした男は目の前の岩鬼≠フ顔を見つめた。

「里中・・・?」 岩鬼の顔をした男は目の前の自分の顔を見つめた。

そして、

「――――何てことだ。」

二人はそろって肩を落としたのだった。

 


原作では大会1日目の試合が4日目に変えてあるのは、ひとえに続編のための都合です(苦笑)。

 

(2009年12月22日up)

 

 

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