アンフォゲッタブル

 

「みんな、今日はよく頑張った。しかし3日後は白新戦だ。事実上の決勝戦と思って、気を抜くなよ」

ミーティングを締める土井垣監督の言葉に、部員一同は「はい!」と力強く返事をした。

「よし。今日はこれで解散!」

山田は傍らに立つ里中の横顔をちらりと窺った。さっきから妙に静かなのが気になっていた。

「どうした、里中?」

「え?・・・別にどうも」

こちらへ振り向けた顔が心なし赤く、目も少し潤んで見える。久しぶりの実戦に疲れが出たのかもしれない。こんなとき里中が決して自分から辛いと言い出さないのは経験上よくわかっていたから、なんと言って早く休ませようかと山田が思案をする最中、突然里中の体が崩れ落ちた。

「里中!」

床に体を打ちつける寸前で、山田があやうく腕を伸ばして受け止めた。そのまま手を里中の額に当てる。ひどい熱だ。やはり相当我慢していたのだ。こんなになるまで気づかなかった自分の迂闊さを山田は悔やんだ。

 

意識のない里中の体を部屋へ運び、電話で町医者に往診を頼んだ。明訓高校野球部といえば地元ではスターも同然、そのエースの急病とあって医者も自転車を飛ばしてさっそくに駆けつけてくれた。しばらく瞼を裏返したり喉の様子を見たりしていたが、

「まあ、疲れが出ただけだろう。このところ急に暑くなったしの。熱冷ましの注射を打っておいたから、じき熱は下がるはずだ」 

数日分の薬を置いて帰ってゆく医者を見送って、どうやら3日後の試合には間に合いそうだと一同は胸を撫で下ろした。

 

山田は急いで食事を済ませると、まかないのおばさんに作ってもらったおかゆをお盆に載せて部屋へ戻った。基本的に部屋での飲食は禁止だが、さすがに今日は土井垣も何も言わなかった。

お盆を畳の上に置いて山田は里中の枕もとに座って額に手を当てた。熱は引いたようだ。顔色も戻っているし呼吸も落ち着いている。これならじきに目を覚ますだろう。

小さく里中が身じろぎしてうっすらと目を開いた。その眼差しはまだぼんやりと夢見心地のようだ。

「里中、目が覚めたか」

「・・・・・・」

「おまえミーティング中に倒れたんだよ。気分はどうだ?食べられそうか?」

「・・・・・・だれ?」

え?と山田は里中の顔を見つめた。その視線におびえたように里中は布団の中で後ずさろうとする。

「今なんていった?里中?」

「里中って?・・・ここはどこです?あなたは誰なんです?」

山田は冷水を浴びせられたような気がした。寝ぼけているのか、薬の影響で意識が朦朧としているのか。そんな簡単なことではない、と山田は直感した。山田自身かつてこれと同じ状態を体験している。

「・・・自分の名前を思い出せるか?今日これまで何をしていたかは?」

「名前?・・・・・・わからない。思い出せない、何も思い出せない!」

「里中!」

頭を抱え込む里中の肩を山田はぎゅっと抱き寄せると、「監督!山岡キャプテン!ちょっと来てください!」とドアに向かって大声で叫んだ。

 

珍しく動揺もあらわな山田の声に呼び立てられて、あわてて駆けつけてきた野球部員たちは状況を聞いて唖然とした。あの山田が騒ぐのだから里中の容態が急に悪くなったのかと危惧はしたが、こんなのは予想外だ。

「自分の名前もどうしてここにいるのかも、全部思い出せないと言うんだな」 

車座になった部員たちの中央に座る土井垣に問いただされ里中はこくりと頷いた。布団の上にちょこんと正座して自信なさげにうつむいている。

自分が誰かもわからず知らない男たちにこうして取り囲まれている。里中がおびえるのも無理のないことだ。そうは思っても山田は密かな苛立ちを覚えずにいられなかった。こんな態度はまるで里中らしくない。強気で勝気で、甲子園のマウンドの上でも気後れすることがない、それが里中だったはずだ。

「おれたちは明訓高校の野球部だ。一年の多くはこの合宿所で寝泊りしている。おれは監督の土井垣。おまえの名前は里中智。明訓のエースピッチャーだ」

「ピッチャー・・・」

小さく里中がつぶやく。その表情を山田は細心にうかがったが、何か記憶に引っ掛かるものを見出している様子は全く感じられなかった。

「山田に続いて里中まで記憶喪失なんて、なあ」

「まったく、そんなところまで似んでもええちゅうんじゃい。こ、このいちゃつきバッテリーめが」

岩鬼がハッパを振るわせてうめく。

「でもどうしたもんだろうな。頭を打ったのが原因の山田のときと違って、もう一度頭を強く打てば治るってもんでもないだろうしな」

今川の言葉に里中がびくっと肩を震わせた。

「おびえなくても大丈夫づら。無理やり殴ったりはしねえづらぜ」 なだめるように殿馬が笑いかける。

「とにかく今日はゆっくり休め。もともと疲労から発熱したのが原因なんだから、体が本調子に戻ればそれで治る、かもしれん」

それだけ言うと土井垣は立ち上がって部屋を出て行った。その強ばった表情には彼が自分自身の言葉を信じていないのがありありとうかがえた。

「そうだな。まずは一晩様子を見て、それ以降のことは明日考えよう。里中、いろいろ不安だろうけど今は監督の言う通り体を休めることだ。じゃあ山田、後を頼んだぞ」

「おやすみ、山田、里中」

「おやすみづらぜ」

山岡を筆頭に、皆が口々に二人におやすみの挨拶をして去っていくと、山田と里中だけになった部屋は急にしんと静まりかえった。

「・・・さて、おれも今日はもう寝るか。おまえももう横になれ」

山田が押し入れから布団を出して隣に敷くのを、里中は布団の上に座ったまま見つめていたが、

「山田、くん」

「――『山田』でいい。おまえはいつもそう呼んでいるんだから」

「・・・山田。おれの家族はどんな人たちなんだ?」

思いがけぬ質問に山田は手を止めた。確かに記憶のない状態で他人の中にいるのは不安だろう。顔も思い出せなくても血の繋がった家族の側にいたいと思うのは当然だ。

「お母さんがいるよ。・・・家に帰りたいか?」

女手一つで里中を育ててきた母親は毎日遅くまで忙しく働いているらしいが、さすがにこの時間なら家に帰っているだろう。そもそもこんな異常事態は保護者に連絡を取るのが本当なのだ。土井垣に許可を取って、電話して迎えに来てもらうか里中を家まで送っていくかすべきだろうかと山田は思ったが、

「・・・いや、いいよ。どのみち会ってもわからないだろうし、変に心配かけたくないから」

ぼそりと言って、またうつむいてしまう。勝気な態度こそすっかりなりを潜めているが、こうした気遣い――すべて自分で背負いこもうとするところは記憶を失ってもまるで変わってないなと、山田は少し気持ちが明るくなった。

「里中、右手を出してみろ」

山田の言葉に、里中は戸惑い顔で右手を差し出す。山田はその小さな手をとって手の平を上に向ける。

「ここのところにマメが出来てるだろう。それとここが固くなってるのはバットダコ。指の、ボールを投げるときに擦れる部分も皮膚が固くなってる。この手がおまえが投手だという、野球をしていたという証拠だ」

「おれが、野球を・・・」

「さあ、今日はもう何も考えずに寝ろ。それで思い出せなければまたやりようがあるから。心配するな」

心配するなという方が無理な話だが、里中は「わかった」と素直に頷くと、布団に体を横たえた。

「おやすみ、里中」

山田が部屋の電気を消すと、「おやすみ、山田」といつもと変わらぬ声が小さく告げた。

 

翌朝、浅い眠りから目覚めた山田は密かに隣へ視線を向けた。里中はすでに起きて布団の上にきちんと正座している。どこか不安げなその様子だけで、山田は彼の病状≠ェなんら改善されてないのを知ることができた。

「おはよう、里中」

「あ、ああ。おはよう山田」

里中は何時から起きていたのだろう。いや、それよりちゃんと眠ったのだろうか。明らかに寝不足の赤い目をしている。

――眠れなくて当然、か。

「・・・まだ調子が良くないみたいだな。今日は横になって体を休めていろ」

「・・・・・・」

「昨日高熱を出したばかりなんだ。無理はするな。おれは朝練に出てくるから」

「・・・うん」

力なく里中は頷いた。山田は手早く着替えると顔を洗うために外に出た。

しばらく一人にしてやった方がいいのかもしれない。その方が落ち着いてゆっくり休めるだろう。今の里中にとって自分は見知らぬ“他人”なのだから――。山田の胸の奥がずきりと痛んだ。

 

山田がグラウンドに出て行くと、何事か話し合っていたらしい土井垣と山岡が早足に近づいてきた。

「監督、キャプテン、おはようございます。」

「どうだ山田、里中の具合は?」

開口一番尋ねてきた彼らの声に抑え切れない焦りが滲んでいる。

「あまり眠れなかったみたいです。具合が悪そうなので部屋で休んでるように言いました。・・・記憶のほうは、まだ」

「そうか・・・」 二人は揃って肩を落とした。

部員たちが集まってきて練習が始まっても、どこかみんなピリッとしていない。エースの不在―それもこんな形で―が皆の心に重く圧し掛かっているのが山田にはひしひしと感じられた。

朝練を終えていったん合宿所に戻ったさいに覗いてみると、里中は布団の中ですやすやと寝息を立てていた。やはり部屋に他人の気配がないのがよかったのかもしれない。学校が夏休みで幸いだった。今日はこのまま一日寝かせてやろう。

里中は山田が入ってきたのにも気づかず深く眠り続けている。山田は足音を忍ばせて近づくと、夏用の薄い毛布をそっと掛けなおしてやった。7月だから風邪を引く心配はないだろうが、試合前に投手の右肩を冷やさないに越したことはない。

――試合前?試合に出られるかもわからないのに?

白新との試合は明後日に迫っている。それまでに里中の記憶は戻るのか?

山田はそっと首を振って立ち上がった。それは考えても仕方がないことだ。自分にはどうにもしようがない。

今おれに出来るのは、あいつの分の朝食を残しておいてもらうことくらいだな。山田は自嘲するような笑みを浮かべて、静かに部屋を出た。

 

目を覚ました時、もうすでに外は薄暗くなっていた。時計を見ると6時近い。何と10時間以上も眠っていたらしい。しかしおかげで頭はずいぶんすっきりしている。

体を起こすとお腹がぐぅと鳴った。こんな時でもちゃんと腹は減るんだな。里中は少し可笑しくなった。

立ち上がろうとして布団の側にメモが置いてあるのに気づいた。食堂のおばさんに朝食を取り置いてもらっているから、食欲があったら食べに行くように。そう几帳面な文字で記されている。里中は同室者の顔を思い浮かべた。自分と同い年だと言っていたけれど四角い顔もどっしりした体格もずっと大人びて見える。外見だけじゃない、内から醸し出す雰囲気が妙に落ち着いていて――不思議とこちらも心が落ち着いてくるような・・・。

山田はまだ練習をしてるんだろうか。里中は自分の右手を見下ろした。自分も野球をしていたのだと。この手がその証拠だと山田は言った。野球というスポーツの存在は思い出せる。しかし自分と野球がどうしても頭の中で上手く繋がらなかった。

部屋を見回してみて、あるものが目に留まった。二つ並んだ学習机の片方に置かれた、黒いボールのようなもの。立っていって手に取ると、どうやらゴムマリらしい。

「里中。入るぞ」

ノックの音に続いて部屋の扉が開き山田が入ってきた。里中の右手を見て驚いたような顔をする。

「あ・・・ごめん、これ山田のか?・・・勝手に触っちゃって」

「いや。それはおまえのものだ。握力を鍛えるトレーニングに、使ってた」

「握力を?」

力をこめるとぐにゃりと歪んでまたすぐに元に戻る。弾性に富んだ感触が妙に懐かしい。

「ほんとだ。案外力がいるな。それに・・・何か肌に馴染む感じがする」

右手でゴムマリをもてあそぶ里中を山田はしばらく見つめていたが、再び里中の腹が鳴ったのに軽くふき出した。

「何だ、まだ食べてなかったのか。だったらもうじき夕飯だし少し我慢して先に風呂に入らないか。みんなも入ってるはずだから」

「・・・そう、だな。少し寝汗をかいたみたいだし」

一瞬里中は迷ったものの頷いた。くよくよ悩んでもそれで記憶が戻るわけではない。長くこの合宿所で一緒に暮らしている仲間たちと触れ合うことが一番の早道のような気がしたのだ。

 

「全員揃ったな。よし、まずはランニングからだ」

いつも通りに部員に指示を飛ばしながら、土井垣は山田の隣りに立つ里中をちらりと見た。練習用のユニフォームを着た里中はさすがに不安そうな様子を隠せない。

明日の練習、里中も参加させたらどうかと思うんです。昨夜、夕飯後のミーティングの席で山田が切り出したとき、最初は皆が目を丸くした。しかし「実際にボールに触れれば、体を動かせばきっといい刺激になる」という山田の意見はもっともだったし、土井垣も同じことを考えていただけに全員一致で里中の参加が決まった。自分が野球をやってたことも覚えてない里中には酷なようだが、それが結局里中のためにもなる。

上手くいけばこれで記憶が戻るかもしれないし、戻らないにせよ少なくともマイナスにはならないはずだ。そして出来ることなら――記憶の有無に関わらず明日の試合に出場させたい。関東大会の時の山田のように。山田の後について走り出した里中を、土井垣はじっと見守った。

 

10時を回る頃になるとグラウンドの回りに馴染みのスポーツ記者たちが顔を連ねはじめる。地区予選も三回戦、相手が不知火の白新高校とあって、いつも以上に人数が多い。

「どうも里中はあまり調子良くないみたいだな」

「あまりというか、絶不調だろ。バッティングはろくに球に当たらないし、ノックだって全然取れないし」

記者たちのさざめきが土井垣の耳についた。里中はもともと運動神経に優れているし、日々積み重ねた練習は伊達じゃない。ノックでもバッティングでも体が自動的にボールに反応している。しかしストレートのボールのタイミングは測れても変化球は曲がり方を推測することができない。ノックにしても球の跳ねる方向や角度をまるで読めない。頭を使う、知識と経験に基づいた判断力を要する部分がまったくダメなのだ。こうして数時間練習していても記憶を取り戻す気配もない。

「山岡」

ノックの手を止めて呼ぶと山岡が小走りにやってきた。

「やはり里中は無理そうだな。明日は渚に先発させるしかないだろう」

「それしかないでしょうね・・・」

土井垣の言葉に山岡は表情を曇らせる。一年生ピッチャーの渚もスピードだけなら里中より速いが安定感は比べるべくもない。不知火を相手にどこまで投げ合えるものか・・・。

「待ってください監督。結論は投球を見てからにしてください」

突然横から山田の声が割り込んできた。

「脇から口出ししてすみません。でも里中は投手です。守備や打撃がダメでも投げる方さえまともなら先発を任せられるはずです」

確かに山田の言う通りだ。守備より打撃より、里中の体には投球フォームこそがしっかり染み付いているはずだ。里中がいつも通りの球を投げられるなら、不知火以外の白新打線は十分抑えられる。失点が重ならなければ、打線は山田たちが支えてくれる。

「よし。山田は里中と投球練習だ。・・・頼んだぞ」

里中のことは恋女房たる山田が一番よくわかる。明訓のエース里中を蘇らせることができるのは山田しかいない。いくぶん悲壮感の滲む面持ちの土井垣に、山田は重々しく頷いた。

 

100本ノックは半分ももたなかった。バッティングも変化球は全く打てない。里中は荒い息を吐いた。まだ動悸がおさまらない。一昨日までの自分はこんな練習を普通にこなしていたというのか・・・?

「里中」

貧血気味の頭を上げるとすぐそばに山田が立っていた。

「休んでる暇はない。次は投球練習だ。おれのミットに向かって投げろ」

容赦なく言い置いて数メートル離れると、腰を落としてバシッとミットを叩いてみせる。

里中は困惑した。ボールを投げる?こういう事だろうか?キャッチボールをするようにオーバースローで球を放る。

「そうじゃない。いつもの投げ方でやってみろ」 山田がボールを返してよこす。

「いつもの」だって?その「いつも」が思い出せるなら苦労はない。いくぶん苛立ちながら里中は二球目を放った。

「ちがう。もう一度」

山田が鋭い球を胸めがけて投げ返してくる。里中はそれを何とか受け止め再び投げる。何度投げても山田はOKを出さない。「もう一度」と繰り返すばかりだ。

「無茶なこと言うなよ!わかるわけないじゃないか!」

ついに里中は声を荒げたが、「ちがう」のは自分でも感じていた。投げていても何だかしっくりこない。自分がこうやって投げてきたのだという実感がまるで湧いてこないのだ。

「――山田よぉ、提案なんづらが」

後ろから足を引きずるような動作で小柄な男―同期の殿馬―が近付いてきた。

「どうせならマウンドに立たせてバッターボックスにも誰か入れたらどうづらか。里中は本番に強え奴づらから」

「そうだな。いい考えだ」

殿馬の言葉に山田は納得しているようだったが、里中には何のことだかさっぱりわからない。当惑するままにマウンドに連れてこられる。さっきまでと違い今度はグラウンドの中央近くだ。皆の注視を集めてしまう位置が何だか居心地悪い。

落ち着かないまま無意識に足元の土を足で馴らして・・・はっとした。この感覚を自分は知っている。こうやってマウンドを馴らす仕草を自分は日常的にやってきた気がする。

山田の指示で下級生の渚がバッターボックスに入った。タイミングを合わせるように殿馬が、ナインが、ぞろぞろと移動をはじめグラウンドのそこここに散っていく。彼らの立った位置、その全体の構図に里中は既視感を覚えた。

「里中〜〜、打たせていけーー!!」 明るい声を張り上げているもじゃもじゃ頭は――上級生の仲根さん。

「まったく何でこんな芝居にわいが付き合わにゃならんのじゃい。ホンマ手のかかるやっちゃ」 こいつの顔はすぐに覚えた。なぜかいつもハッパをくわえている――岩鬼。

「づら」 そして殿馬。さらに外野の面々。自分の後ろに立つ、後ろを守ってくれる仲間たち。

正面に向き直ると、バッターボックスに立つ打者がいて、その後ろには山田がいる。そして彼らの中心に自分が立っている。その緊張感と安心感を里中は確かに知っていた。

山田の手がミットの下で動き、何かの記号を形づくった。意味するところはわからない。しかしそれがゴーサインであることを里中は瞬時に察した。

何かに操られるように里中の両腕が上がった。左膝を高く胸まで引き上げ、そこから体を折って右腕を大きく後ろに振る。ぴんと伸ばした腕を一気に前方に振りぬき同時にポールをリリースする。鋭い球が真っ直ぐに山田のミットに突き刺さった。

「よしそれだ!この調子でもう一度投げてみろ」

山田が投げ返した球を里中は再び同じように投げた。狙いあやまたずボールは山田のミットに吸い込まれる。後ろを守る選手たちからどよめきの声があがる。

「いいぞ、その調子」 山田の声に煽られるように里中はテンポよく次々投げた。考えるより早く体がひとりでに動いてボールを投げているような感覚だった。そのまま数球ストレートを投げたところで、山田がマウンドに走ってきた。

「里中、次はカーブを投げてみろ。握りは、こうだ」

山田は里中の手を取ってボールを握らせた。変な持ち方をするんだなと思いつつも、不思議としっくり馴染む感覚がある。

元の位置に戻った山田が「さあ来い!」とミットを叩く。その動作に釣り込まれるように、里中はワインドアップからゆったりしたモーションでボールを投げた。球は山田の手前でぐっと曲がってミットにおさまる。

「ナイスボール!よしもういっちょう!」

里中は頷いて再び投球モーションに入った。記憶はなくても体が覚えている。この腕が、足が、体全体が。

――おれは本当に野球を、投手をしていたんだ。

カーブ、シュート、シンカーと、そのつど山田に握りを教えてもらいながら持ち球を一通り投げたところで、山田が「よし、少し休憩だ」と声をかけた。

「里中、疲れてないか。よく頑張ったな」

「――山田。おれ、明日の試合で投げたい。投げてもいいか?・・・土井垣監督、試合に出させてください。お願いします」

「・・・里中」

山田がわずかに横に首を向けて土井垣の方を見た。土井垣が笑顔で頷くのを確認して、

「当たり前だろう。うちのエースはおまえなんだから。投げてくれなくちゃ困る」

目を細めて笑いかけた山田に里中もこぼれるような笑顔を向けた。

記憶をなくして、右も左もわからない状態でいきなりボールを投げることを強要されたのに、不思議なことに全く反感も恐怖感もわいてこなかった。

――きっとおれはこの男を、心の底から信頼していたんだな。

土井垣は笑顔で見つめあうバッテリーの姿を見ながら、

――これならいける。里中が投げられさえすれば。山田のリードを信じ抜くことができさえすれば。

強い確信を胸に刻んでいた。

 

三回戦の朝、里中はさすがに落ち着かない様子だった。バスに乗ってる間はチームメイトと普通に会話していたのに、いざ球場入りしたら一気に緊張が増したらしい。今の里中にとっては「初めての試合」なのだから無理もないが。試合前に上手くリラックスさせてやらないと。山田が思いを巡らせていると、通路の反対側から白新ナインが歩いてきた。先頭中央のひときわ背の高い男はエースの不知火守だ。

山田が軽く会釈すると、不知火も「よお」と短く挨拶した。

「元気そうだな山田。この夏こそは我が白新が甲子園行きはもらったぜ」

例によって不敵な笑いを浮かべながら大言を吐いた不知火は、隣の里中に視線を移した。

「ウフフフ里中よ落ち着かないな。ガラにもなくビビってるのかい。この不知火と戦おうってのに腑抜けられてちゃ困るぜ」

「・・・あ、はい。頑張ります不知火さん」

ぺこんと頭を下げた里中を前に不知火はしばし絶句した。それからありえないものを見たとでも言いたげに顔を歪め、無言のままその場を立ち去った。

「・・・里中。不知火は同学年だよ」

「えっ、そうなのか?ガラも態度も大きいからてっきり年上なのかと思った。だったら丁寧な口きいて損したぜ」

「不知火も大分驚いてたみたいだったぞ」

「でも相手との関係がわからないのにあまり思ったまんま口に出すわけにもいかないだろ。『よけいなお世話だ。この唐変木』とか」

「いや、いいんじゃないか。その方がおまえらしくて」

他人を唐変木呼ばわりするのが「らしい」というのもいかがなものかとナイン数名が顔を見合わせたが、「そうなのか、わかった」と里中はあっさり納得した。

「なんや里中、フチカの奴に何なめられとるねん。しゃきっとせんかい!」

目の前に顔をぬっと出してドラ声でまくし立てる岩鬼に、里中はむっと顔をしかめたが、ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべると手を伸ばして岩鬼のハッパをつまみ、ぐいと引っ張って手を放した。バチンと音を立ててハッパが岩鬼の顔面を打つ。岩鬼は面食らったようにしばし目をパチパチさせていたが、

「サト〜〜!何しくさるねんこのドチビが!」

むきになって怒鳴り出すのを、里中は馬耳東風と聞き流して笑っている。

「――本当にいつもと変わんないんだよなあ。あれで記憶がないとは信じられんぜ」

「山田が記憶喪失のときは野球やってたこともまるで思い出せなくて、おれたちにも全然馴染まなかったのにな」

「それだけ山田を信じてるってことづらよ。山田への信頼も野球への情熱も、全部無意識に覚えてるんづら」

殿馬の言葉に山田は相好を崩した。自分から今日の試合で投げたいと言い出して以来、里中との間に流れる空気はいつもとまるで変わらないものになっていた。投げることによって、投げられるという自信によって、記憶は戻らずとも里中は自分自身を取り戻したのだ。

とはいえ今の里中は経験値を決定的に欠いている。昨日の練習後里中にルールのレクチャーを行ったが、混乱を避けるために守備や打撃については最低限のルール確認しかしなかった。

里中の知識の穴をいかにフォローするか。それがこの試合の鍵になる。山田は自身に強く言い聞かせた。

 

『注目の県大会三回戦、1回は白新、明訓とも三者凡退に終わりました。2回表、白新の攻撃は4番不知火くんからです』

バッターボックスに入った不知火を山田はマスクの間から見上げた。

――里中の調子はいい。里中をまともに打てる打者はこの不知火だけだろう。

だから不知火は必ず長打を狙ってくるはずだ。不知火はホームベースから離れた位置に構えている。これじゃアウトコースにバットは届かない――と見せてアウトコースに投げさせようという罠・・・いや不知火なら、自分がそう読んでインコースに投げさせることまで折り込み済みにちがいない。これはインコースへの誘いだ。つまりインコースの球ならためらいなく打ってくるということ――。

山田は里中にサインを送った。インコースへのシュート。里中は頷くと第一球を放った。今の里中は不知火がどの程度の打者なのか知らない。それだけに余計な気負いがない。絶妙のシュートを不知火は叩いたがファールゾーンへ切れる。

――よし、まずはワンストライク。次はあえてアウトコースへつり球を投げる。見送ればツーストライク、もし打ってくれればもうけものだ。

里中が第二球を投げる。アウトコースへのカーブを不知火は何とか当ててきた。しかし力の入らない打球は平凡なピッチャーゴロになる。山田ははっとした。平凡なゴロ――しかしそれも今の里中では処理しきれない。

「里中動くな、おれが取る」

声をかけると同時に山田は飛び出し、ピッチャー前数メートルの位置でボールをキャッチして一塁へ送球した。

『一塁アウト!ピッチャーゴロを素早くさばいた山田くんのナイスプレー、ですがなぜ里中くんにまかせなかったんでしょうか?』

一塁手前で引き返してくる不知火が怪訝そうな顔を向けてくる。不知火のことだ、里中が普通の状態じゃないのをすでに察したかもしれない。バッターボックスへ向かう5番の川又に不知火が何か耳打ちするのを山田は厳しい顔で見つめた。

山田の危惧したとおり、インハイの球を川又は正面めがけて叩きつけてきた。ピッチャー返しでは自分が捕りに行くこともできない。鋭い打球を、それでも里中はしっかり受け止めた。真正面なのが幸いした。球のバウンドする方向は読めなくても、自分に向かってくる球を止めることなら本能的にできる。

しかしほっとした次の瞬間、里中はボールを一塁へと投げた。驚いた面持ちの仲根がキャッチする。

『川又くんアウト!これでツーアウトですが、里中くんの今の送球は何でしょうか。明訓高校の不可解なプレーが続いています』

急ぎ足に山田はマウンドへと走り寄った。

「里中、ノーバウンドで取ったときは即アウトになるんだ。一塁に投げる必要はないんだぞ」

「あ・・・そう、なのか」

里中が困惑した表情になる。昨日守備練習はノックを取るだけしかやっていない。送球についての知識は、さっき山田が一塁に投げたあのプレーだけなのだ。そのまま真似ようとしたのも無理はない。

「次もきっとまたおまえの前に打ってくるだろう。おれが捕れそうなら捕るが、間に合わないときはおまえが止めるしかない。ノーバウンドで捕れば送球なし。ボールが一回でも地面についたなら捕ったあとすぐ仲根さんに投げるんだ」

「・・・わかった」

緊張した顔で頷いた里中に山田も頷き返した。こうなったらとにかく里中の力を信じるしかない。

 

白新ベンチで不知火もまた当惑していた。今日の里中はどうもおかしい。球は走ってるしピッチャー返しにも即座に反応した。体の調子が悪いわけではなさそうだが、ノーバウンドで捕球した球を一塁に投げるなんてど素人のような真似は、たとえ岩鬼だってやらないだろう。試合前のバカ丁寧な挨拶といい、どうも気にかかる。

不知火はさっと立ち上がった。訝しげに彼の方を振り向くナインの顔を見回す。

「いいかおまえたち、里中に打球を集めろ。バントでもピッチャー返しでもいい。里中の前に打つんだ」

 

6番木次は初球からバントしてきた。明らかな里中狙いだ。山田は再び飛び出して捕ろうとしたが、里中の方が早かった。危なげない手付きで捕球した里中は一塁へ送球し、2回表を無事無失点に抑えた。

『さあ2回裏、明訓は4番山田の登場です。待ちに待った注目の対決、軍配はどちらに上がるのでしょうか』

観客席が怒涛のような歓声に満たされる。二連続で完全試合を達成し今日も明訓勢をここまで全て三振に取っている不知火を打てるのは、7割5分という脅威の打率を誇る山田しかありえない。そんな期待が球場中に渦巻いていた。

周囲の騒ぎに心乱される風もなく、山田は泰然とバッターボックスに立った。不知火は不敵な笑いを口元に刻むと、大きく左足を蹴り上げるダイナミックなフォームから力強い一球を放った。リリースの瞬間を狙って山田も打撃のモーションに入る。高校生離れした不知火の速球にタイミングを合わせるにはこれくらい早く打ちに行かないととても間に合わない。

勢いよくバットを振りに行って、山田は愕然とした。球が来ない!ボールは確かに不知火の手を離れている。ただそのスピードがとんでもなく遅い。今さらバットを止めることもできず完全に振り切ったところへようやくボールが到達してキャッチャーのグローブに収まった。

客席はしんと静まり返った。いつものように速球でストライクを取ったのなら歓声が沸き起こったろう。それだけ白新ナインを除く球場中の誰もにとって不知火の一球は意外すぎた。これまで研ぎ澄まされた速球で三振の山を築いてきた不知火に、彼のイメージを根底から覆すようなこんなスローボールが投げられるとは!

――落ち着け、速球とスローボールではフォームに多少の違いがあるはずだ。それを見つけられれば、打てる。

山田は第二球のモーションに入った不知火の全身に目を凝らした。あいかわらずの力強いフォームから再び緩やかなボールが放たれる。チェンジアップなんてものじゃない。なぜ完全に失速せずホームベースまで届くのか不思議になるほどの超スロー。山田はあえてバットを振らずに球筋をじっくりと見極めた。が、山田の人一倍鋭い目をもってしても速球とのフォームの違いをどこにも探し出せなかった。

『超スローボールだ!まさしくハエの止まる超スロ〜〜!!』

速球とフォームがまるで変わらない。つまりはリリースの瞬間、手首の先だけで投げ分けているのだ。どれだけの修練を積めばそんなことが可能になるのか。山田は改めて不知火という投手の弛まぬ努力と底知れぬ素質を感じた。

そして不知火のほうは自分のフォームを見切っている。速球狙いのフォームなのかスローボール狙いなのか。遅速が決まるのはリリースの瞬間だから、不知火が投球モーションに入ってから急いで構えを変えても即座に対応されてしまう。

三球目、三たび投げてきた超遅球を山田はまたも空振りした。ああ〜という溜息まじりの声が観客席から漏れる。観客の誰もが期待していたろう山田の打棒は全く発揮されないまま、最初の対決は終わったのだった。

 

続く微笑、石毛が三振に倒れチェンジとなった。里中は相変わらずのバント攻勢を山田の巧みなリードでしのぎ、不知火も仲根、今川、里中と三者三振にとる。もはや不知火にとって山田以外のバッターは連続三振記録の材料でしかないかのようだった。

4回表、先頭打者兵吾のセーフティバントが決まった。仲根と殿馬が急いで打球を追う。

「里中、一塁カバーだ!」

山田の指示を受けて里中は無人になった一塁へと走った。一塁に到達したところへボールを捕った仲根が送球したが、あわてて手元が狂ったのかボールは大きくそれてホームとマウンドの中間に転がる。

「里中動くな!ベースを踏んで待つんだ」

声を飛ばしながら山田は走り、ボールを拾うと素早く里中にトスする。里中のグローブにボールが入った一瞬後にランナーが一塁へ駆け込む。

『アウト!ぎりぎりアウトです。仲根くんの悪送球を山田くんが見事にカバーしました』

ベンチの不知火は守備位置に戻る山田と里中をじっと見ていた。確かに今のは山田のファインプレーだろう。しかしあの場合里中がボールを追ってそのままタッチに行くのが定石のはずだ。

今日の山田はまるで里中の守備を信頼してないかのようだ。里中が捕るべき球を自分が捕りに行き「一塁カバーだ」などと言うまでもない指示を出し・・・。

――しかし里中が何かおかしいのも確かなのだ。山田が信用を置けないだけの理由が里中にはある。投球はまともにこなしているから、ケガをしてるとも思えないが。

不知火は改めて試合前に会ったときの里中の様子を思い返した。こともあろうに自分に「さん」付けしてきた時の別人のような殊勝な態度。まるで知らない人間を見るかのようだったあの表情。

関東大会の時に山田が記憶喪失になったという事件がふと不知火の脳裏をよぎった。そんなまさかと自分の想像に苦笑する。一年に二人も記憶喪失者を出す野球部がどこにあるというのだ。

ただし一つ言えることは、記憶喪失レベルの重篤な障害を抱えた人間をでも試合に引っ張りだすのが明訓であり、土井垣であるということだ。とにかく今の里中は普通の状態ではない。

――ウフフフ土井垣よ、この不知火を相手に病人を先発に使ってきた甘さを悔やませてやるぜ。

 

『恐るべき大熱戦となってきました。4回まで両校とも無得点、それもただのゼロとはわけがちがいます。白新、明訓ともここまでランナーゼロの完全試合、しかも不知火は一球たりとも打たれていないのです。5回表はその不知火の打席からです。果たしてゼロ行進の均衡が破れるのでしょうか!?』

打席に立つ不知火の姿に、マウンド上の里中がさすがに緊張の面持ちを見せる。他の打者が里中を攻めきれない以上、不知火の狙いは一発強打に決まっている。ならば何とか詰まらせて外野フライに打ち取ることだ。

前の打席同様不知火はベースから離れて立っている。再びインコース狙いと見せてアウトコースを投げさせる作戦だろう。まさか二度同じ手を使うまいとこちらが思うことまで想定した上での。

思い巡らしつつ山田はサインを出した。インコースへのシュート。里中が素直に頷く。普段の里中なら、ここでインコースなど不知火の思うツボだと首を振ったかもしれない。なまじ知識がないだけに里中は山田のサインに一切疑問を差しはさまない。それはやりやすくもあるが寂しくもあるな、と山田は感じた。

里中が第一球を投げた。サイン通りの完璧なシュートが来る。不知火は足をぐっと引いて体を大きく開くとボールを強振した。白球がレフト上空へと高く飛んでゆく。

『不知火くん打ったーー!スタンドに入るか、いやわずかに切れる、ファール、ファールです!』

山田はホッと息を吐いた。危なかった。念のためシュートをかけてなかったら完全にスタンドにもっていかれていた。それにしてもこちらの配球を読んだかのような打ち方だったが――。

不知火が肩越しに山田を振り返ってニヤリと笑った。瞬間山田は察した。体を開いて打ちにきたあのとき、不知火は自分のミットの位置を視界に入れてインコースと見破り、球の軌道に合わせてスイングしたのだ。投球モーションの最後の最後、手首一つでボールを投げ分けられる不知火の反射神経が、とっさの打撃フォーム変更を可能にしている。

ならば球の届くぎりぎりまで待ってミットの位置を変えればいい。山田はわざとミットをインコースに構えたまま、里中にサインを送った。アウトコースのシンカー。しかし里中は頷かなかった。軽く首をかしげ困惑したようにこちらを見ている。

いったいどうしたんだ?と考えて気づいた。昨日の練習時には「ここへ投げろ」とあらかじめミットを動かしその位置に投げさせてきた。サインの指示とミットの位置が違うことが里中を混乱させている。

――やむを得ないな。

そんな練習まではしなかったのだから仕方がない。山田がそっとミットをアウトコースに構えなおすと、里中は明らかにほっとした表情になって小さく頷いた。これで不知火に気づかれねばよいが。自分をはじめ誰も不知火の球を打てない現状では、1点入ればそれが決勝点となる可能性が高い。その1点を叩き出せるバッターはまず不知火しかいない。ここが抑えどころだ。

大きく振りかぶって里中が第二球を投げた。予想通り不知火は完璧に球の軌道を読んで強打してきた。

『不知火くん再び打ったー!今度はセンター方向、これは大きい、ホームラン、文句なしのホームランです!』

打球の行方を仰ぎ見ていた里中が青ざめた。不知火はバットを放り捨てると意気揚揚と一塁へ走ろうとする。

「待ってください!」

そこへ山田の鋭い声が飛んだ。山田がバッターボックスを指差すのを主審が覗き込む。

『今のホームランに関して山田くんが何か主張しているようです。あっ、主審が不知火くんを呼び止めています。・・・どうやらミートしたときに不知火くんの右足が打席から出ていたようです。ホームラン無効、白新惜しい!1点先取の機会を逃しました』

ち、と不知火が小さく舌打ちしてベンチへ引き上げてゆく。山田はほっと息をついた。シンカーをすくいあげようとして大きく足を踏み込んでくれたのが幸いした。不知火の次の打席がめぐってくるまでに何とか点を入れておきたいものだが。山田はサインを出しながらもこの裏の攻撃に思いをはせていた。

 

かろうじて不知火を抑えた里中は勢いに乗って5、6番を三振にとった。5回裏の攻撃は山田からだ。一点先取の期待が集まる場面だったが、

『山田またも空振り三振!不知火の超遅球に翻弄されっぱなしです。山田が打てなければ誰が不知火を打てるのか?』

実況の言葉どおり微笑、石毛が連続三振した。一方の白新側も三者連続凡退と、期待の1点は白新明訓ともに入る気配もなかった。

『6回裏、ツーアウトで里中くんが二度目の打席に入ります。力投さえてここまでパーフェクトを続けている里中、自ら打って楽になりたいところですが、』

里中は打席からじっとマウンドの不知火を眺めた。野球のことはよくわからないが、すごいピッチャーだ、と思う。速球もすごいが、あの超遅球はそれ以上にとんでもない。自分もチェンジアップというのを教わったが、とてもあんな遅さにはならない。

しかし今のところ、不知火は山田以外には超遅球を投げていない。山田だけがライバルで他の打者はストレートの速球一本で打ち取れると思っているのだろう。

なめやがって、と里中の胸にふつふつと怒りが沸いてくる。里中はバットをぎゅっと握り直した。ストレートしかないとわかっているのだ。タイミングさえ合えば打てるはずだ。

とにかくダメモトでバットを振り回してみることだ。不知火の第一球を、何も考えず里中は強振した。カキーンと小気味良い音とともに鋭い打球が正面に飛ぶ。

『里中くん打った〜!不知火くんの股間を抜け、二遊間も抜けた〜。明訓初ヒット!不知火くんの完全試合、いやノーヒットノーランもこの瞬間つぶれました!』

打ったはいいが里中の頭は混乱状態だった。打ったら一塁に走ればいいんだったよな?昨日の山田の簡単なレクチャーと、自分の球を打った白新ナインの行動を思い返して、ワンテンポ遅れて一塁へ走り出す。

『センター、ボールを追って走ります。里中二塁へ走・・・らない。なぜか一塁で止まってしまいました。一塁コーチは手を回しているんですが・・・?』

「里中、二塁へ走れ!」

山田の声に一塁の里中はえ?とベンチへ目をやる。コーチャーズボックスの高代もしきりに二塁方向を指差している。

『センター、今ボールに追いつきました。里中くん今さら二塁へ向かって走り出しますが、一塁コーチが止めました。センター一塁へ送球、里中急いで一塁へ戻ります。一塁セーフ、ですが、せっかく二塁打になるところを、不可解な里中の走塁です』

山田は土井垣と顔を見合わせた。里中にはこのさい投球に専念してもらうつもりで打撃や守備については最低限のルールしか説明していなかった。それになまじ里中、不知火ともに完全試合を続けてきただけに、ランナーが一塁へ向かう場面は目撃していても、一塁より先を走る状況は経験がない。一塁到達後どうすべきなのか判断のしようがなかったのだ。

山田は立ち上がって審判にタイムを願い出た。終わったことは仕方がないが、岩鬼や殿馬が打ったときに備えて走塁の方法だけは教えておかなければ。山田は小走りに一塁ベースへ向かった。

 

「休火山男・岩鬼、ただいま参上〜〜!」

例によって大言壮語をわめきながらバッターボックスに入る岩鬼を里中は一塁から眺めた。とにかく岩鬼が打ったら二塁へ走る。ただノーバウンドで捕球されたら走らない。二塁周辺に球が飛んでも走らない。細かい状況判断は一塁コーチの高代の指示に従え。里中は山田に教えられたことを懸命に反芻した。

「こらぁ里中!もっとリードを取らんかい!わいが打てんとでも思うとるのか、失礼やないけ!」

岩鬼のドラ声で怒鳴られて里中はポカンとした。思わず高代の顔を見ると、「岩鬼さんが打ったときちょっとでも早く二塁にたどりつけるように、少しベースから離れて二塁寄りに立っておけって意味です」と小声で説明してくれる。

「でもあんまり離れると牽制される、あ、ええっと牽制っていうのは・・・」

「いいよ。何となくわかった。少しだけ離れて立てばいいんだな」

「そうです。もし危なそうなら声をかけますから、そしたらすぐ一塁に戻ってください」

高代の言葉に里中は頷いて、二歩ばかりベースから歩いた。ふいに後ろから肩を叩かれる。ファーストの村雨がニヤリと笑ってグローブを示した。中にボールが入っている。

『アウト!なんと隠し球です。山田がタイムをかけている間に不知火にボールを手渡したと見せて、村雨くんがボールを持っていました。明訓高校、初のランナーを出しながら無得点のまま終わりました』

里中は呆然と立ち尽くしていた。今のはなんだ?ボールを持った野手にタッチされたらアウトなのは理解した。しかしなぜ不知火ではなく村雨がボールを持っている!?

「里中さん、チェンジです。とにかくいったんベンチに戻りましょう」

心配そうに高代が見上げてくる。わけが分からないまま里中はひとまず頷いた。

 

7回表、マウンドに立った里中は、まだ先のショックを引きずっているらしい。どことなく仕草に落ち着きがない。

ベンチの不知火はほくそ笑んだ。二塁打になるはずが理由もなく一塁に踏みとどまった。わざわざ山田がタイムをかけて注意しに行ったところを見ると、あれは山田にとっても予想外の行為だったのだ。

あらためて「記憶喪失」という言葉が脳裏に浮かんだ。まさかと思いながらもボールを手渡しにきた村雨にそのままボールを持っているよう指示をした。もし里中が本当に基本的なルールも忘れているのなら、隠し球で容易に刺せる。

不知火の目論見は当たり、まんまと里中をアウトにとった。あの時の里中の反応は意表をつかれたとか憤慨したとかいうより・・・何が起こったのかわからず混乱してるように見えた。ベンチに引き上げたあと村雨の囁いた話がそれを裏付けた。なんと里中がリードをとるさいに一塁コーチの高代が「牽制とは何か」を里中にレクチャーしていたという――。

野球は投手が投げなければ始まらない。その投手がルールをろくに覚えていない。まぎれもなく明訓には致命傷だ。そんな状態でここまで投げてきただけでも見上げたものだ。

不知火はナインに指示を出した。改めて里中を集中攻撃するように。里中こそが、明訓のアキレス腱だ。

 

白新は最初の打席からバント擬装を繰り返してきた。もともとバントはなるべく自分が処理するから目の前に来た球以外は取るなと里中には言ってある。それでも身についた習性で、白新の打者がバントの構えをするたび里中の体はつい前に出ようとする。それ以上に打つのか打たないのかはっきりしないプレーの繰り返しに、経験値の少ない里中の神経が参ってゆくのが山田にはありありと感じとれた。

『ボール!カウントツースリー。バント擬装に疲れたのでしょうか、里中くんのコントロールが乱れてきています』

その証拠にだんだんボール球が増えている。1番兵吾にワンボール。2番中村にツーボール。そして3番、前の回隠し球で里中をアウトにしたファースト村雨。苦手意識もあるのか、すでにボールスリーに追いつめられた。ここは何とか落ち着かせてストライクを投げさせることだ。

山田はど真ん中ストレートのサインを出した。これが一番球威がある。困ったときはど真ん中だ。

頷いた里中がワインドアップから投げた一球はしかし、村雨のヒジに当たった。里中があわてて帽子を取って頭を下げる。

「デッドボール!」

「えっ」

主審のコールと山田が声を上げたのはほぼ同時だった。

「なにが『えっ』なんだね?ええ?」 じろりと睨み上げる主審に、

「あっ、いえ――今の球はストライクじゃないかと思ったものですから」 山田は躊躇いながらもあえて口にした。

「何をいうか。私の判定に不服があるのかね。実際里中くんはちゃんと謝っているだろう」

村雨は明らかにデッドボール狙いでストライクゾーンにかぶさってきた。そこに指示よりもインコース寄りに入ったストレートが当たったのだ。コースはぎりぎりストライクだった。しかしさっきからボールが続いているという先入観、そして審判の言う通り里中が素直に詫びてしまったことがデッドボールの印象を決定づける結果になったのだ。

マウンド上で里中が困惑した表情をこちらに向けている。無知につけこまれる形になった里中のためにせめてもの申し開きをしてやりたかったが、これ以上は審判の心証を悪くし里中をも困らせるだけだ。山田は「そうですね。すみませんでした」と一礼して引き下がった。

 

『村雨くんがデッドボールで一塁へ、里中くんの完全試合がこれで破れました。待望の初ランナーを出した白新、ここで主砲の不知火くんを迎えます』

わあっと歓声が観客席を包む。前の打席でも不知火は二度里中の球を飛ばしている。それもホームラン性の当たりばかり。この回コントロールを乱している里中が不知火を抑えきれるものなのか。敬遠、という二文字が山田の頭に浮かんだ。ベンチの土井垣監督に目をやると、土井垣も腕を組んでじっと考え込んでいる様子だった。根っから攻撃型の土井垣は普段ならそうそう敬遠を命じたりはしない。しかし今回、里中は普通の状態じゃないのだ。

その時里中が突然すたすたと歩き出した。打席の不知火に気を留めるふうもなく真っ直ぐホームへ向かってくる。山田はあわててタイムをかけると、自分から里中のもとへ走り寄った。

「どうした、里中」

「山田、おれの頭を殴れ。地面に叩きつけてくれてもいい」

「里中!?」

「そうしたら記憶が戻るかもしれない・・・いつものおれならちゃんと出来るんだろう?本当のおれなら」

「里中。おまえは今ここにいるおまえただ一人だけだ。おまえにできる精一杯のことをすればいい」

「――嫌なんだ。自分で試合に出るって言っておきながら、みんなの足を引っ張るばかりで・・・っ」

うつむいて声を震わせる里中の両肩をポンポンと叩きながら、

「そうやって悔しがるところも、チームの皆を思いやるところも、いつものおまえと何も変わらない。おまえが『本当の里中』なんだ。言っただろう。うちのエースはおまえしかいないって」

「山田――」

「おれのリードを信じて投げてくれ。あとは試合の中で少しずつ覚えていけばいいから」

「・・・わかった」

里中は肩に乗せられた山田の手をぎゅっと握ると、ようやくわずかに笑顔を見せてマウンドに戻っていった。

 

山田はほっと息を吐き出した。自分のリードを信じると言ってくれた、その里中に敬遠球は投げさせたくなかった。

ならば勝負するしかない。いかに不知火を打ち取れるか、それは自分のリードにかかっている。山田は慎重にサインを出した。アウトコースにぎりぎりストライクになるシュート。

ゆっくりしたモーションから里中が投げた球を、初球から不知火は叩いたが狙い通り切れてファールになる。ワンストライク。

山田は不知火の立ち位置や構えをじっと検分してから二球目のサインを出した。里中が目を見張り、それから深く頷いた。

里中が第二球を放つ。十分に引きつけて不知火は打ちにいった。ベース手前でぐっと落ちたボールを狙いすましたように強打する。高く外野に抜けるかに思えた球は意外にもセカンド上で失速し、それを殿馬がジャンピングキャッチした。

『アウト!明訓バッテリー、最大の強敵不知火をセカンドライナーに打ち取りました。里中、未だノーヒットノーラン継続中です!』

上手くいった。不知火はミットの位置から単なるシンカーと思って打ったはずだ。しかしその特殊な握りゆえ球にシュート回転がかかっていたため意外に飛距離が出ずにセカンドライナー止まりになった。親指を使わないシンカー――さとるボール。

春のセンバツ準決勝で里中がツキ指したことから生まれた、まさしくケガの功名というべき変化球。これまでに投げたのは三試合だけ、不知火がテレビ観戦してたとしてもテレビ越しではあの球の軌道まで測れるものじゃない。不知火にとっては未知の球といっていい変化球を使うことで何とかうち取ることができた。これで延長にならない限り不知火に打席は回らないだろう。

そう、延長にしてはならない。里中が普通じゃないのを見越して白新は里中狙いに集中している。そう長くは持ちこたえられないだろう。9回で決着をつけるためにはとにかく1点を入れなければ。そしてそれは、自分の役目だ。

 

『あわや白新が2点先取かと思われた7回表が終わり、7回裏、8回表と両校とも三者凡退、ここで明訓は山田の登場です。今日はまるで打撃のふるわない山田ですが、ここで一発が出るでしょうか』

とにかく里中のために点を取ってやらなくてはならない。山田はぎゅっとバットのグリップを握りしめた。しかしその意気込みをあざ笑うかのように、不知火は超遅球と速球を巧みに投げわけてくる。

『山田くん空振り!完全にタイミングを外されています。三球目、再びハエ止まりだ、山田タイミング合わず空振り、・・・あっ!』

実況が思わず叫ぶ。超スローのボールをなぜかキャッチャーの川又が後逸したのだ。

『川又くん後逸!あわててボールを追います。山田くん懸命に一塁へ走る、川又一塁へ送球、山田の足が一瞬早い、セーフ、セーフです!しかし超速球や変化球ならともかく、スローボールを後逸とは。』

済まなそうに小さく頭を下げる川又に不知火は首を振って見せた。おまえのせいじゃない。

あの時ミットに入る手前で、ボールの軌道が急に変わった。山田の猛スイングの風圧のせいだ。超遅球はスピードがないだけに風圧の影響をもろに受けた。

山田はそれを承知であのスイングをしたのだ。当てられなくとも風圧による後逸を誘うために。打てなければ打てないなりの工夫をする。全く大した男だ、と不知火は口元に微笑をのぼせた。

 

『山田くん三打席目にしてついに出塁、しかし後が続きません。微笑、石毛、仲根と三者三振です。明訓高校、この回も無得点に終わりました。』

土井垣は奥歯を噛み締めた。山田が打てなかったら誰が不知火を打てるというのか。6回裏に一度里中がヒットを打ったがあれはまぐれのようなものだ。それにヒット一つではホームに帰れない。続けて不知火を打てる可能性が無に等しい以上山田の一発長打に期待するしかない状況だが、頼みの綱の山田が後逸でしか出塁できない体たらくだ。

しかし幸い打撃の不振がリードまで狂わせてはいない。9回表、里中はふんばって三者凡退に抑えた。しかしこの調子では延長戦は免れないな、と土井垣はそっと溜息をついた。

 

今川が三振し、里中が打席に入った。――次の岩鬼はど真ん中を投げるかぎり99%打てない。実質里中が9回最後の打者となる。里中に打たれなければ延長戦だ。

不知火はわずかに眉根を寄せた。記憶に障害があるのは明らかなのに今日唯一のヒットはこいつが打った。知識がないぶん何も考えず果敢に振ってくるのがかえって幸いした格好だった。

勝負にはツキ男というのがいるものだ。今日は里中がそうなのかもしれない。ならばここは慎重にいくべきだ。この日速球と超遅球、二種のストレートのみで押してきた不知火は初めてカーブを放ってみた。里中はバットを振ってきたがタイミングがまるで合わず大きく空振りする。

『里中くん空振り!不知火次もカーブだ、これも空振りです。ツーストライク、あと一球で延長が決まります』

不知火は大きな目に闘志をみなぎらせている里中を見つめた。ひどいもんだ。ストレート狙いといえば聞こえはいいが、カーブにまるで対応できていない。自分でも変化球を投げているくせに、打者としては変化球の曲がり方を全く予測できないらしい。

こんな病人に変化球を投げるのは卑怯というより恥のように不知火には思えた。よかろう。ストレートしか打てないというなら、あえてそのストレートで勝負してやる。

不知火はキャッチャーにサインを送ると、ワインドアップから渾身のストレートを放った。里中は例によって力任せにバットを振り――そのバットがボールを捉えた。打球は高く上がり、三塁上に落下する。平凡なサードフライ。

しかし里中は全力で一塁目指して走った。落球の可能性に賭けたわけではない。打ったら走る、その単純な図式にただ従っただけだ。サードの木次が頭上にグローブを構え、打球を危なげなくキャッチしようとした瞬間、

「あーー!!あれは何やー!?」

突然ネクストバッターズサークルの岩鬼が大声を上げた。鼓膜も破れよという大音響に木次の体が一瞬縮こまり、ボールがグローブに当たって地面に落ちた。

『木次くん落球!岩鬼の大声に驚いたかサード木次落球です。この間に里中余裕で一塁セーフです。』

「きたねえぜ、岩鬼!」

不知火が声を荒げて怒鳴ったが、

「わいは単に凡フライなのに里中が本気で走ってるのに驚いただけや。こんなことで落球するなんぞ、修業が足らんのお」

カッカッカと笑って打席に向かう岩鬼は泰然とハッパを風になびかせている。

いやな男だ。そしていやな展開だ。再び里中が一塁にいる。岩鬼はいいとしてその次は殿馬の打席だ。今日はまだ例の「秘打」を披露していないが、試合も大詰め、そろそろ出てもおかしくない。山田を抜きにするなら明訓で一番警戒すべきは、殿馬だ。

「タイム願います」

ベンチの山田が審判に声をかけると、一塁の里中のところに走っていき何か耳打ちしている。いったい何をさせるつもりだ?土井垣の伝令か、山田自身の発案か?岩鬼の打撃には期待できないから里中を走らせるつもりか?

山田がベンチに戻って試合が再開される。不知火はひとまず一塁に牽制球を投げてみたが、さっきの隠し球に懲りたか里中はベースをしっかり踏んだままだ。一見走るとは思えない体勢だがそれも擬装かもしれない。山田のことだ、どんな作戦も考えられる。

不知火は正面に向き直った。とにかくこいつを打ち取ることだ。一塁への警戒も怠らずにいれば、盗塁経験のない―覚えていない―里中にそうそう盗塁など決められるものではない。

セットポジションから第一球を投げようとした不知火の視界にネクストサークルの殿馬が映った。両手指を不自然に動かし、その顔は一塁方向に向いている。里中にサインを送っている・・・?

殿馬に気を取られたことが不知火のコントロールを狂わせた。速球が鋭く岩鬼の胸にぶつかった。

「あー、あかん!絶好球やったに!!」

岩鬼が空を仰いで大げさに嘆く。確かに悪球打ちの岩鬼は普通ならデッドボールになる球をガンガンホームランにする男だ。今回打ってこなかったのは・・・それだけ自分の投球に威力があったということか。

まさか山田のタイムも殿馬のサインもどきも、おれの集中力を乱して悪球を投げさせるのが目的だったのか?やりかねない。山田も殿馬も。

 

『岩鬼くんデッドボールで一塁へ。里中くんが二塁へ進みます。この試合二塁にランナーが出るのはこれが初めてです。今まで6回裏の里中くんと後逸で出た山田くん以外は一人のランナーも出さなかった不知火くん、最終回に至ってこれは崩れの徴候でしょうか?緊迫の場面、迎えるバッターは2番殿馬くん。あっ、殿馬くん膝を落とした奇妙な構えです、ついに、ついに秘打が出るのでしょーか!?』

不知火は頬を引きつらせた。一死一、二塁。バントで送ってくるだろうか?里中は相変わらずベースをしっかり踏んでリードを取る気配もない。走らないと見せかけるための罠か。しかしこの状態では送りバントしても三塁に間に合わないだろう。ならば本当に秘打―長打を狙っているのか。

とにかくバットにかすらせなければいいのだ。小細工の多い男には正面から速球勝負が一番だ。不知火はセットポジションから低めのストレートを放った。殿馬は腰をぐっと引いてから横に寝かせたバットを水平に突き出した。バントだ。

前に出てボールを拾った不知火は右側を振り返った。案の定リードを取っていなかった里中はまだ三塁に到達していない。これなら三塁で刺せる。不知火は素早く三塁へ送球した。しかし急いだはずみかわずかにコースが逸れ、ボールはちょうど三塁へ走りこもうとした里中の左肩にぶつかって力なく転がる。

不知火が愕然とする間に里中は三塁を踏み、殿馬も悠々一塁を陥れていた。

『不知火くん、自らのフィルダースチョイスで一死満塁のピンチを作ってしまいました。続くバッターは3番の山岡くん。土井垣監督が山岡くんに何か話していますが、ここはやはりスクイズでしょうか。』

不知火は横目に三塁を窺い、はっと目を見開いた。里中がリードを取っている。ベンチからサインが出たのか、さっき山田が三塁に到達したときの対応まで囁いておいたのか?

どちらにせよこれまでリードを取ろうとしなかった里中がリードを取る、それをどう解釈するかだ。スクイズかそう見せかけただけなのか。しばし考えてから不知火はワインドアップに構え、得意の速球を投げた。山岡はバントすると見せてぎりぎりでバットを引いた。里中も走っていない。第二球。再び不知火は全力のストレートを投げる。ここでもバントしない。山岡にスクイズさせるより満塁で山田に回すつもりか。しかし今日の山田は全く自分を打っていない。それでも山田に希望を託すのだろうか。

不知火は明訓ベンチの土井垣をちらりと見てから、三球目を投げた。山岡は今度こそバントしてきたが、不知火の速球に力負けしたかボールはキャッチャーへの小フライになる。里中は走っていない。スクイズではなくバントの成功を待って走る予定だったのだろう。ともかくこれで二死満塁になった。そしてここで迎えるのは、山田。

 

『白新対明訓の攻防、9回まで両校とも0、そして二死満塁という正念場で、明訓は主砲山田の打席を迎えます。打率七割以上を誇る山田も、今日は不知火の前に全く打棒を封じられています。果たしてここで期待の一発が出るでしょうか!?』

観客席にどよめきが起こった。なんと山田までバントの構えをしたのだ。

『山田くんバントの構え!観客席は騒然としています。それはそうです、いくら今日は不調といえ山田太郎にバントをさせるとは。しかもすでにツーアウトだというのに』

確かに確実性を考えるならここはバント、それもセーフティだ。1点入ればその場で明訓の勝ちが決まるのだから。山田はホームランバッターだがミートも上手い打者だ。山岡とは違う。狙い通りの位置に転がすことが可能だろう。しかし。

不知火は振りかぶった。9回に至ってもまるで崩れぬダイナミックなフォームから白球が放たれる。瞬間、山田はバントからヒッティングへと構えを切り替え、一気にバットを振ってきた。しかし球がまだ来ない。超遅球ではない、130キロ代とおぼしき緩めの球。

『山田くん空振り!バントからヒッティングに素早く切り替えたものの、予想外の遅い球にタイミングが合いません』

不知火はほくそ笑んだ。バントと見せれば、球威がなく簡単に転がせる超遅球は投げられない、そう踏んだ山田はバントを擬装して速球を誘ったが、こちらが一枚上手だったということだ。

山田が再びバントの構えをする。当然今度も打ちにくる。おそらく前回同様スローボールが来ると思っているはずだ。ならばここはその裏をかく。

 

里中は慎重にリードを取りながら山田の打席を見つめていた。里中は山田がヒットを打つところを見たことはなかったが、客席のどよめきや皆の態度から普段は恐ろしいほどの強打者であることは十分察していた。その山田が打てない。そしてチャンスはあと二球のみだ。

山田が打ったらすぐさまホームを目指す。それが自分の仕事だ。山田はきっと打つ。里中はいつでも走り出せるよう右足に体重を移動した。

『不知火くんワインドアップから第二球、今度は超速球だ、スローボールを予期していたか山田くんまたも空振り、・・・あっ!』

バットを思い切り振った勢いか、山田の体が傾き後ろに倒れかかった。瞬間、里中は三塁方向に向けた山田の眼に訴えるような強い光を見た。

山田の体を避けようと川又がわずかに体をひねるのとほぼ同時に、里中が本塁めがけてスタートを切った。川又ははっとして体勢を立て直すが、ベースに半分かぶさるように倒れた山田の体が邪魔になる。里中が頭からベースの空いた部分に滑りこむところへ、山田の体を乗り越えるように川又が手を伸ばしてタッチした。

「――セーフ!試合終了、勝者明訓高校!」

「やったあー!」

歓声を上げて明訓ベンチからナインが飛び出してくる。

――バランスを失ったふりをして、守備妨害にならないよう絶妙の角度で倒れた。打てなければ打てないなりに工夫して点を取り、里中を支える、か。大した恋女房だぜ。

不知火はすがすがしい笑顔を浮かべて、ベース上で肩を落としている川又に歩み寄った。

 

『やりました明訓高校。山田が倒れこんだ隙に里中がホームイン。ノーヒットノーランのおまけつきで明訓高校三回戦突破です!』

「山田あっ!」

ようやく体を起こし立ち上がった山田に里中は勢いよく飛びついた。

「山田、おまえは最高だ!最高のキャッチャーで最高のバッターで、それから・・・」

「ピッチャーは相方のキャッチャーのことを恋女房言うづらぜ」

抱き合うバッテリーの周囲を囲む輪の中から殿馬が目を細めて声をかける。

「――最高の、恋女房だ!」

力強く叫んだ瞬間視界が揺らいだ。甲子園のスタンドも山田の顔も急にすべてが遠のいてゆく。薄れゆく面影を掴もうと手を伸ばしかけたところで里中は意識を失った。

 

「里中、里中、」

繰り返し名前を呼ぶ声に里中はゆっくり瞼を上げた。見慣れた顔がすぐ目の前にある。

「・・・山田?もう朝か?」

「里中。おまえ試合が終わったところで倒れたんだよ。思い出せるか?」

「試合って東海とのか?」

里中は目をぱちくりさせた。東海戦は自分がリリーフして勝ったはずだ。そして合宿所に戻って、それから。

「いや、白新とだ。・・・おまえ、思い出したのか!?」

「白新だって?何言ってんだよ、試合は3日後だろ?」

驚いて体を起こし、自分が寝ていたのが球場のベンチだと気づく。布団にしては妙に固いと思っていたのだ。そして自分はユニフォームを着ている。

「?? ――山田。いったい何がどうなってるんだ?」

「・・・そうだな。ちょっと込み入ってるんで帰ってから話すよ」

山田がにっこり笑って話を打ち切ったのを待っていたように、ナインがわっと里中を取り囲んだ。

「よかった里中。記憶が戻ったんだな」

「ホッとしたぜ。これで次の試合もいただきだな」

大喜びするナインの反応を山田は一歩引いて見つめた。里中は戸惑ったような笑顔で皆の歓迎を受けている。記憶があってもなくても里中は里中だが、やはりこっちの方がいいな、と山田は思った。中三で出会ったときから二年分の輝かしい思い出。それを今の里中となら語りあえるのだから。


里中という人はとても「上手い」プレーヤーというイメージを持っています。技術的な部分はもちろん、野球に関する知識も豊富で、「王シフト」の解説をする場面ほかルールや変わったプレーの前例、試合展開の読みを(読者に)説明する役回りになる事も多い。その知識が綺麗に抜け落ちてしまったらどうなるのか、という思いつきから書いた話です。
土井垣監督時代で相手は不知火で、と考えていったら自動的に高二夏白新戦が舞台になってしまったのですが、殿馬のハイジャック事件も右肩の負傷も出てこない(このうえ殿馬まで故障してたら収拾つかないのでスルーしました)ので、パラレルものととらえて頂ければ。

 

白新先攻:1番セカンド兵吾、2番レフト中村、3番ファースト村雨、4番ピッチャー不知火、5番キャッチャー川又、6番サード木次、7番ライト桑原、8番ショート菊地、9番センター島岡。
明訓後攻:1番サード岩鬼、2番セカンド殿馬、3番センター山岡、4番キャッチャー山田、5番レフト微笑、6番ショート石毛、7番ファースト仲根、8番ライト今川、9番ピッチャー里中。

1回表:1、2番三振。3番レフトフライ。
1回裏:1、2、3番凡退。
2回表:不知火ピッチャーゴロ、山田が飛び出してキャッチ。5番ピッチャーライナー。里中ダイレクトキャッチにもかかわらず一塁へ送球。6番ピッチャー前にバント、里中とって無駄に送球。スリーアウト。
2回裏:山田、超遅球に三振。5、6番三振。
3回表:7番スリーバント失敗。8、9番三振。
3回裏:7、8、9三振。
4回表:1番1、2塁間へのセーフティバント。仲根殿馬ボールを追う。山田里中に一塁カバーに入るよう指示。仲根送球がそれる。山田里中にベースを踏んで待つよう指示し自分が飛び出して取ってスピード送球。ぎりぎりアウト。2番ピッチャーフライ。3番ピッチャーライナー。里中グローブで弾くもショート石毛ノーバウンドキャッチ。
4回裏:1、2、3番三振。
5回表:不知火強振するがホームラン性の当たりがわずかに切れてファールになる。ミットの位置でコースを読まれたと気づいた山田、ミットと違う位置にサインを出すが里中が混乱。やむなくミットを本来の位置へ。コースを読んだ不知火ホームラン。しかし打席から足が出ていたために無効、反則打球でアウト。5、6番凡退。
5回裏:山田またも三振。5,6三振。
6回表:7、8、9凡退。
6回裏:7、8凡退。里中なまじ先入観がないぶん不知火の速球をがむしゃらに振って不知火の股間を抜けるヒット。二塁までいけるものを一塁に留まる。リードを取らない里中に岩鬼が失礼だと怒る。里中戸惑いつつリードした途端に隠し球で刺される。意味がわからず混乱。
7回表:1、2番バントすると見せて里中を疲れさせる作戦。3番わざとデッドボールになる。(ストライクゾーンだったが里中が帽子をとって謝ってしまったため審判もデッドボール判定)、不知火の打席。山田は敬遠を考えるが、里中が自分からマウンドを降りて山田のところへ来る。山田里中をなだめた流れで勝負することに。不知火には未知の「さとるボール」を投げさせて何とかセカンドライナーに打ち取る。
7回裏:1、2、3番三振。
8回表:5、6、7凡退。
8回裏:山田何とか里中のために点を取ろうとするが打てず。3球目の遅球を風圧で軌道変えさせ捕手後逸、山田一塁へ。5、6、7三振。
9回表:8、9、1凡退。
9回裏:8番三振。一度打たれた里中には一応警戒してカーブを投げてみる。空振り。もう一度カーブ、空振り。あえて次はストレート。無心に振ってサードフライ。しかしあきらめず走り、ネクストサークルの岩鬼の大声に驚いたサードが落球。一塁セーフ。岩鬼打席へ。山田タイムかけて一塁の里中に何か耳打ち。疑心暗鬼になった不知火一塁に牽制球投げるが走らず。さらにネクストサークルの殿馬が里中にサインらしきものを送ってみせる。気の散った不知火デッドボール。殿馬秘打と見せてバント。里中スタートが遅れ、不知火殿馬をほっといて三塁へ送球。が急いで送球したためわずかにコースがそれ里中に当たる。三塁セーフ。一死満塁。土井垣、山岡にスクイズの指示。里中リードを取る。不知火速球で三振に取る(二死満塁)。山田バントの構え。不知火強打と見切ってあえて130キロ代のスピードの球。山田空振り。あえて超速球。空振り。キャッチャー捕った直後山田の体が傾いてきて避けるのにわずかに体をひねった隙に里中タッチの差でホームイン。試合終了(0−1)。

(2010年1月16日up)

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