『タッチ』『H2』『クロスゲーム』『ナイン』感想

 

「試験をうけてみようと思ってさ。これ以上ないきびしい試験だよ。なにしろ相手は今一番輝いてもっとも魅力的な、日本中のあこがれの女の子なんだから。」(上杉達也、『タッチ』第26巻) 

「全国四千校が狙ってる甲子園とデートしようってんだからなァ。こいつは大恋愛だ。」(国見比呂、『H2』第10巻)

 

日本野球マンガの通史では60年代は『巨人の星』、70年代は『ドカベン』『キャプテン』、そして80年代は『タッチ』が時代を代表する野球マンガとされているようです。たしかに私が小学生のころアニメも放映されていた『タッチ』は周囲でも男女問わず人気があり、岩崎良美さんが歌う主題歌も周囲で口ずさまれていた記憶があります。

バブル前期の明るく軽薄な時代の中でかつてのようなスポ根マンガは廃れていき、81年に『週刊少年ジャンプ』で連載が開始され一世を風靡したサッカーマンガ『キャプテン翼』にしても「魔球」系のブッとんだ必殺技は出てくるものの絵柄は爽やかで汗臭さは感じられない。『タッチ』もまた、少女マンガ誌でも連載していたあだち充先生の親しみやすく可愛い感じの絵柄とすっきりした画面構成、幼なじみ三人の(ドロドロしたところのない)三角関係といった要素から、本来野球やスポーツマンガに興味なさそうな女の子たちにも広く受け入れられたようです。

それだけに「あれはラブコメマンガであって野球マンガではない」と野球マンガ、スポーツマンガファンからは言われることもしばしば。また最終話でライバルに「またどこかのグラウンドで会うこともあるだろう」と言われた主人公が「もういいよ。疲れるから」と答えるシーンは、スポ根マンガの時代に完全に終止符を打ったと表現されてるのを見たこともあります。私も当時は野球部分に特に注目することなく読んでいたので、実際のところ野球の描写はどうだったんだろう?と思って、久々にあだち野球マンガ数作を読み返してみました(『H2』は初読。以下『タッチ』『H2』『クロスゲーム』『ナイン』のネタバレあり)。

 

さて感想はというと――まず『タッチ』について書くと、確かに野球マンガ度合いは低いかもしれない。主人公・上杉達也が野球を始める前の数巻はもちろん、地区予選決勝直前に事故死した双子の弟・和也の志を引き継いだ達也が明青学園野球部のエースとなってからも。達也が野球をする動機は和也の夢を叶えることにあり、その和也の夢とは幼なじみの少女・南を甲子園に連れていくことだった。いわば彼らは女のために野球をやっていたわけで、実際ついに甲子園出場を果たした達也がすでに目的を達してしまったために全国大会を前にモチベーションが上がらず悩む話が終盤に出てきます。
結局全国大会そのものは描かれずに最終回のラスト一コマで明青学園が優勝したことが示されて物語は幕となる。新たなライバル候補?たちがわざわざ名乗りをあげる場面があるので、もともとは甲子園大会も描く予定だったのが達也同様甲子園出場を果たしたら以降のストーリーを動かす原動力がなくなってしまった(作品の大テーマ「南を甲子園に連れていく」に決着がついてしまったため)結果、あのラストになったのかもしれません。単純に“野球が好き”というのが戦う動機になりえないあたり、確かに野球マンガというよりはまず恋愛マンガというべきでしょう。

 しかし『ナイン』など過去にも野球マンガを複数手がけてきたあだち先生だけに野球シーンの描写はさすがでした。『ドカベン』で試合中の選手の描写―動きのリアリティにすっかり魅せられて以来、野球マンガを読むとき意識的に選手の動き、特にピッチングやバッティングのフォームに注目するようにしてるのですが、下半身の力の入り方が不自然で上体だけで投げてるなとか、剛速球を表現するのに集中線と投球時の手をブレさせる手法に頼ってるなとか感じる作品が少なくないです。しかし『タッチ』の場合は投球も打撃も野手の動きも体の使い方にちゃんと説得力がありました。『ドカベン』のパワーのある筆致とはまた違い、もっと軽やかでよりすっきりした印象を与える描き方です。野球シーンに限らず、あだち先生の描く人物はなだらかな曲線を多用した柔らかい体のラインを持っていて、ゆえにたびたび登場する南のレオタード姿の局所的アップなども決していやらしくならない。あだちマンガが女性読者にも抵抗なく支持される秘訣はこのあたりにあるのでしょう。

基本的には捕手のリードは描かれず(達也はストレートの速球一本槍だし)、監督の采配も(理由はあるものの)ほぼ描かれない。そしてほとんどが三振によるアウトなので野手の活躍どころはそんなにない。それでも三年夏の地区予選は明青の守備力が描かれる場面も多少はあり、“タイミングはアウトだったのに捕球時に内野手の足がベースからわずかに離れたためにセーフ”のような細かいプレーも登場する。こう見てくるとあだち先生は野球の好きな方なんだろうなと思います。本当は作者的にはもっと野球要素を強く出したかったけど、読者の興味が野球そのものより恋愛と兄弟愛に向かっていたためにそうもいかなかったのかなあ、などと想像したりしています。
(余談ですが、「基本は高校野球マンガだが中学時代から物語がスタート」「主人公がなかなか野球をはじめない」「野球の実力を見せる前から周囲の人間が彼の才能を見抜いて野球部にスカウト」というところで鷹丘中学編の山田を思い出しました。『タッチ』が『ドカベン』を真似したということではなく、あまり自分から動こうとしない主人公のすごさを示すのに有効な描き方なんでしょうね)

 

そのぶんも、数年後の『H2』では満を持して高校野球に正面から取り組んだ感があります。こちらは完全に野球マンガ。やはり恋愛(四角関係)は重要なテーマとして登場してきますが、女のために野球をやるわけではない。『タッチ』や後述の『クロスゲーム』『ナイン』でも主人公が野球を始める、甲子園を目指す動機が好きな女の子にあったのに対し、『H2』の主人公・国見比呂は野球が好きだから野球をやっている。このページのトップに達也と比呂の台詞を掲げてみましたが、このうち達也の台詞は甲子園大会開幕を目前にしてのもの。高校球児みなの憧れである甲子園を前に彼の頭を占めているのは女のこと。野球をやるうえでの二人のモチベーションの拠り所―好きな女の子か野球そのものか―がこれらの台詞に顕著に表れてると思います。

そして野球でも恋でもライバルで親友の強打者・橘英雄との甲子園での対決が物語のクライマックスとなる。比呂と英雄は近所に住んでいる(頻繁に会える設定でないと四角関係の展開が難しい)のに通う高校がそれぞれぎりぎり北東京・南東京に分類される設定にすることで、作品の目玉となる二人の対決の場を地区予選でなく甲子園大会に持っていけた=今度こそ最高のテンションで甲子園大会を描くことができた。また二人の対決をラストまで引っ張る(三年夏まで対戦できない)理由づけも秀逸。『タッチ』では目についた整合性の粗さ(未消化の伏線や予定してたエピソードをいきなり変更した跡が目立つ。控え投手だった吉田の扱いとか)がなく、ストーリーがしっかり練り上げられています。『H2』でも『タッチ』同様甲子園大会での新ライバルたちが一堂に会し名乗りを上げる場面があり、ものものしく紹介(しかも二度にわたって)だけされて、主人公チームである千川高校がまさかの二回戦負けを喫したため結局対決せずに終わるものの、こちらは当然これら新ライバルと対決するんだろうと読者に思わせて二回戦負けの意外性をなお際立たせるための意図的演出という感じで、『タッチ』のときのような消化不良感はない。彼らの登場場面の演出もよかったし。あえて『タッチ』を思わせるエピソードを入れたのは、当時消化不良になってしまった部分の仕切り直し(結局対決しないものの消化不良にはならないよう演出する)という意味があったのかもしれません。

試合の描写についても『タッチ』の時点よりさらに表現力が増した。その表現力を十二分に発揮させているのが比呂が「打たせてとる」タイプの投手であること。その気になれば打者にかすらせないだけの速球を持ちながらも、「三振よりもバックの力を借りて取るアウトの方がうれしいんだって。」「打たせて捕ってノーヒット。それが、国見くんの一番理想のゲームなのよ。」(マネージャー・古賀春華の台詞)との思いから、比呂は三振を取りにいこうとはしない。結果、野手の活躍する場面が増えることになる。比呂の属する千川高校野球部にはフィールディングに長けた選手が複数いて、彼らの好守備も見どころの一つとなっている。『ドカベン』のような俯瞰図(ヒットを打って走る打者、打球を追う内野手、空いた塁をカバーに入る他の内野手までが一コマに収められてるような画面構成)は出てこないものの、塁上での走者と守備側の攻防がきちんと説得力をもって描かれている。捕手の野田のリードも(山田ほどではないものの)時折登場するし、単なる投手と打者の対決ではない、ゲームの駆け引きの面白さがそこにはありました。千川ベストナインの半分以上に印象的なエピソードがありしっかりキャラ立ちしていることも含め、間違いなくあだち野球マンガの最高峰じゃないかと思います。

 

対して2010年に完結した『クロスゲーム』は、意識的に『タッチ』を踏襲した作品のように思えます。物語の比較的早い段階で重要キャラクターが亡くなり、それが主人公が甲子園を目指す動機となるところ(ゆえに『クロスゲーム』でも甲子園大会そのものは描かれない)、ヒロインが近所の喫茶店の娘であること、ヒロインの母親は故人であること(死亡ないし病気による「ヒロインの母の不在」はこのページで紹介する4作品全てにあてはまる。学生生活の傍ら家事もきりもりする健気で家庭的な少女という属性をヒロインに付すためかと思われます。もっとも『クロスゲーム』の場合、長姉の一葉が母親代わりをしてることもあってヒロイン=家庭的少女属性は薄いんですが。ちなみにヒロインの恋のライバルは対照的に何不自由なく育ったお嬢様というパターンが多い)、主人公・樹多村光(コウ)がストレートの速球でガンガン三振を取るタイプの投手であることなど。

この作品で出色なのは何といってもヒロインの一人・月島青葉の人物像。男にモテモテの美少女ながら男まさりのがさつな性格も主人公を(表面的には)嫌いまくってる点も、ここで取り上げた作品に限らずあだち漫画全般においても珍しい。とりわけ彼女が中学・高校と野球部に所属し、女であるために公式戦には出られないものの、ピッチャーとして野球選手として主人公に次ぐほどの実力を有している点。野球マンガのヒロインはマネージャーポジションにあることが定石(『タッチ』や『H2』もそう)なのに、自らもプレーヤーとしてグラウンドで汗を流す青葉は、チームメイトの誰より懸命に練習に励み、その姿が回りのナインを鼓舞する(能力があるのに公式戦に出場できない彼女のためにもみっともない試合はできないと奮起させる)効果をあげている。
主人公のコウに至っては、ろくにキャッチボールもしたことのなかった彼が野球を始めピッチャーを目指したのは小学校の頃に一つ年下の青葉のピッチングフォームの美しさ・投手としての才能を目の当たりにしたことにある。女がきっかけで野球を始めたには違いないですが、恋心のせいではなくプレーヤーとしての彼女に憧れたがゆえ。青葉の練習メニューやフォームに学び、剛速球投手として注目を集めるようになってからも、日常生活では口喧嘩してばかりの青葉を野球の師匠として敬意を払い、フォームの修正その他のアドバイスを求める場面が多々あります。甲子園を目指す動機も、小学生の時に亡くなった初恋の少女・若葉(青葉の一つ違いの姉)が最後に見た夢を現実にすることが第一ではあるものの、「おまえがおれの体を借りて投げてると思えばいいじゃん。」という台詞に象徴されるように“青葉の代わりに大舞台で投げる”ことも大きな目的となっています。普段は喧嘩ばかり、しかしピッチャーとしての才能を高く評価し時には教えを乞う、というコウのスタンスは同性のライバルに対するものに近く、ヒロインを守るべき対象ではなく一緒に戦う同志と見なしているのが爽快です。

高校生になってもなお死んだ若葉への想いを抱きつづけているコウがこのまま若葉だけを愛し続けるのか、プレーヤーとしてではない一人の少女としての月島青葉を愛するようになるのか。青葉に想いを寄せる男は多いものの、恋愛部分での焦点はコウ−若葉−青葉の密かな三角関係にある。そして若葉そっくりの(彼女が生きていたらこう成長しただろうという)美少女・滝川あかねの登場によってこの三角関係が問い直され――地区予選決勝を前にしてのコウの“宣言”へと結実する。そして幼い頃からずっとコウに反発してきた―大好きな姉の若葉を取られた気がしたから―青葉が、コウと自分はよく似ていること、同じように若葉を失った悲しみに耐えてきたこと(その意味でも二人は同志だ)をはっきり自覚したうえで、「世界で一番 嫌なヤツだ」と(コウと手を繋ぎながら)心の内で呟くツンデレなラストシーンに至る。
野球そのものの描写の緻密さ(プレー中の動作の描き方は相変わらずのクオリティ)では『H2』に一歩を譲りますが、野球を間に置いた主人公とヒロインの関係性が革新的な佳作だと思います。

 

そして初期の傑作野球マンガである『ナイン』。これはもう、主人公・新見克也が中学男子陸上の短距離記録を持ちながら一目ボレした女の子(中尾百合)のために野球部に入る決意をするのが第一話という段階ですでに恋愛要素が前面に来ることを予測させます。
この作品の画期的な点は主人公がピッチャーでないこと。これはあだち作品に限らず野球マンガ全般を通して珍しい。あれだけ野球マンガを多く著している水島新司先生にしてさえ、主人公がピッチャーでない作品は『ドカベン』『あぶさん』『ダントツ』『おはようKジロー』くらいなんではないか。最初は主人公が外野手をやっていた『ストッパー』『極道くん』もやがて投手に転向することになりますし。ちばあきお先生の『キャプテン』も歴代主人公−四人のキャプテンのうち投手経験がないのは二番目の丸井(セカンド)くらいのもの。こう見てくると『ナイン』の克也が一貫してセンター(紅白試合で一回ピッチャーをやるだけ)というのは相当珍しいといえる。
試合をしている場面の数(作品全体に対する試合の割合)でいくとこのページで取り上げた4作品で一番少ないんじゃないかと思いますが、あだち先生のキャリアの比較的初期にあたるこの作品ですでに選手のフォームや体さばきなどの描き方を確立しているのに驚きました。連載開始当初はまだ絵柄がやや劇画調というか、シリアスな場面とコミカルな場面での絵の切り替えに若干違和感がありましたがそれも終盤にはすっかりこなれていて、十分に説得力のあるプレーを見せてくれました。
またあだちマンガは主人公ないしヒロインによる愛の告白かそれに匹敵する意思表明は最終回かその手前というパターンがほとんどですが(野球マンガに限らず『ラフ』『みゆき』『スローステップ』『虹色とうがらし』など)、『ナイン』では全5巻の4巻目ですでにはっきりした告白が行われ、5巻では完全に克也と百合はカップルとして描かれていて、これも特色といえるでしょう。途中で主要キャラが亡くなるような悲劇が起きないぶん、本当に青春恋愛+野球マンガと言う趣きです。克也の俊足と、柔道から転向した唐沢の怪力の生かし方もうまかった。

ちなみにこの5巻目に甲子園でのライバルとして「強肩、強打の四番オカベン」こと優勝候補・賢条学園のキャッチャー岡部なる人物が登場します。克也が岡部について説明する場面にナレーションの形で「二番せんじ・・・・・・・・・」と入っているのでドカベン山田太郎を意識したキャラなのは間違いない。太めで鈍足なのも一緒です(笑)。

 

つらつら書き連ねてきましたが総合すると――『H2』をのぞけば“野球マンガである以前にラブコメ”という評価は当たってると思いますが、“そこらの野球マンガが追いつかないほど野球描写のクオリティの高いラブコメ”である。それがあだち野球マンガなんじゃないでしょうか。


(2011年10月15日up)

 

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