「照れ」の美学

 

マンガ家&マンガ評論家の夏目房之介さんに『消えた魔球 −熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか−』(新潮文庫、1994年)という著作があります。『ドカベン』についても2ページほど記述がある(ほとんど岩鬼のこと)のですが、ここで引きたいのは『タッチ』についての評。

「シリアスになりそうなところでふいっとはずす間のはずし方がじつにうまい。三角関係と野球との、ともすると重く、くさくなりそうなテーマを軽くはずすことができている。」

そこで例としてコマを引用していたのが明青対須見工の地区予選決勝。主人公・上杉達也がライバルの強打者新田明男を見事に打ち取り勝利を決める、ラスト手前の“告白”シーンと並ぶ物語のクライマックスというべき場面なのですが、なんとこの最後の打席の途中、どこかのプールで泳ぐ水着姿の女性たちがクローズアップされる。プールサイドに置かれたラジカセから野球中継の実況が聞こえてくるという形で試合とリンクさせてはいるものの、彼女たちが、もしくはこのプールが直接ストーリーに関係するかというとまったくしない。息詰まる攻防の箸休めといった趣きです。
しかしその数ページ後、達也が新田を三振に取った直後に実況が明青優勝を告げるシーンが上述のラジカセからの音声という形で描かれたのには驚きました。その後勝利を喜びあう明青ナインの姿などもちゃんと描写されるのですが、もっとも肝心な優勝決定の瞬間の絵面が主人公たちとは何らゆかりもないプールと水着の女の子たちだとは。『ドカベン』でいえば一年夏東海戦の、里中が捨て身のバックタッチで代打の島野を刺した場面と山田に抱えあげられた里中が初めてかすかに涙を見せる(「あっぱれ里中くん 小さな巨人!!」)場面の間に水着姿が挟まるようなもの。『ドカベン』では、それ以前のスポ根野球マンガではもっと、考えられないような演出です。

従来なら感動の名場面を選手たちに、球場に密着した視点で描くところをあえて視点を遠景に引かせるどころか球場の外に移動させてしまう――こうした演出のあり方が夏目氏がいうような「ともすると重く、くさくなりそうなテーマを軽くはずす」効果をあげている。それも熱闘甲子園と対照的な涼しい場所、華やかな水着姿に視点を持っていくことで、物語の熱をクールダウンさせ、ごくスタイリッシュな印象に仕上げています(といってもストーリーから全く乖離するのでなく、達也が最後の一球を放った次のページに飛び込み台からプールへと飛び込む女性の姿というダイナミックな「動」の画を入れることで、“はずし”ながらもテンションの高さはしっかりキープしています)。そこには感動の場面をストレートに感動の場面として描くことによって生じる「くささ」を回避しようという意志、一種の「照れ」のようなものが感じられます。それはあだち先生個人のものというより、熱血や優等生が流行らなくなった80年代という時代自体がもっていた気分であり、その気分に見事にマッチしたからこそ『タッチ』は80年代野球マンガの代表作と言われるほどの大ヒットになったんじゃないでしょうか。

 

一方70年代野球マンガの代表格たる『ドカベン』ですが、こちらも『タッチ』とは質が違うものの、やはり独特の「はずし」をしばしば挟んでいます。とりわけ印象的なのが高二春、自分をかばって南海権左にボコボコにされた山田を里中が背負って夕暮れの街を歩くシーン(擦れ違った学生が驚いたように振りかえってますが、華奢な少年が自分より二回りから大きい男を負ぶって泣きながら歩く光景に驚いたのか、それが明訓のバッテリーだと気づいたから驚いたのか)。
この時里中の背後に、向かって右のたい焼き屋で岩鬼が「サインしてやるさけただにせえや」と交渉している姿が描かれています。初めて読んだ時は正直「なんだこりゃ」と思いました(笑)。里中がどんなに苦しくても再起してみせると決心するいい場面のはずなのに、岩鬼も里中もお互いに気づけよ!と突っこまずにいられないシュールな構図のため微妙にギャグになってしまっている。岩鬼の台詞がまたアレだし、そもそもここに岩鬼が出てくる必然性などないのに。実際アニメ版では学生も岩鬼も出てこず、無人の町中を歩き去る里中(と山田)の姿をのみ映しています。まあ普通はこういう表現になるでしょう。なのになぜこんな演出にしたのか。
思うにシリアスないいシーンに「あえて」茶々を入れたのは、自分の思いに浸っている里中が傍から見れば「何あいつ泣きながら歩いてんの?」であり、すぐ側にいる岩鬼の存在にも気づかないほど回りが見えていない(岩鬼の側も自分のことに忙しく里中は目に入ってない)事を示して、前ページから続く里中のモノローグに感情移入している読者を客観的俯瞰的視点に連れ出すためだったのでは。実写で例えればメインキャラの顔のアップを捉えていたカメラが一気にぐっと引いたような感覚。感情移入によって一キャラの視点に固着している読者の意識に、そのキャラの思いなど傍目には滑稽だったりどうでもいいものなのだと示して冷水を浴びせるような――。そこには『タッチ』とはまた別の『ドカベン』特有の「はずし」があるように思えます。

『ドカベン』が『巨人の星』に代表される熱血スポ根野球マンガと大きく異なる、地に足のついた印象を与えるのは、いわゆる“魔球”が出ない、現実的なセオリーに則った試合が描かれているからだと巷間言われていますが、この「はずし」による部分も大きいんじゃないか。白熱した勝負の現場、当事者たちの行動・心情に絶えず密着する(そうすることで暑苦しいまでの緊迫感が生まれる)のではなく、主人公たちに寄り添いすぎない、緊迫した場面であえて彼らから気持ちを離す醒めた視線を常に持ち続けている(『タッチ』と違い、最大の山場ではキャラに視点を寄せてシリアスに決めてくれますが)。それが非スポ根的なスマートさを生んでいるように思います。その手法も本筋に全く関係ない軽いお色気ショットを挿入してカメラ―読者の視点を現場の外へ連れ出す『タッチ』に対し、『ドカベン』はカメラを引くことで読者の視点を瞬時に俯瞰的なものへ切り替えさせる形をとっています。
なお個人的な感触ですが、あだち先生の「はずし」が意識的なテクニックとして行われているのに対し、水島先生の場合は先生本人の性格的なものが半ば無意識に滲み出てしまってるように思えます。『ドカベン』とほぼ同時期に連載され、ともに70年代を代表するリアルな野球漫画と言われる『キャプテン』『プレイボール』は、基本「はずし」を用いることなく、感動の場面を真正面から描いている。おそらくこの頃はまだ80年代に比べるとストレートな感動表現に対する読者の(作者も)抵抗=くささ・暑苦しさへの冷笑的反応が少なかったんでしょう。その時代にあっても「くさい」場面につい茶々を入れずにいられない――それは水島先生個人の「照れ」の感覚に拠っているように感じるのです。

そしてこの「はずし」をもっぱら担当しているのが岩鬼。上掲の場面では自覚なしに緊迫したシーンをぶち壊していますが、試合中にメンバー中に悲壮感が漂ってくると、何かと毒舌を吐いては空気を一変させる。里中がケガでふらついていると「同情ひこおもてからに」とあまりな言葉を浴びせ、高一夏土佐丸戦で負傷の里中と山田の「里中がんばれよ あとひとりだ」「こ ここまできたんだ負けるかい!死力をつ 尽す!!」というやりとりの際にもコマの端に顔出して「またや」とつぶやき、悲壮な場面ではないものの高三夏の青田戦再試合九回裏でも「今ほどおまえとバッテリーを組めて誇りに思ったことはない」「おれもだ」と語り合う二人の姿に「また始まった 歯の浮くような青春の友情物語が」と内心でツッこむ。後の二つは心の声なので、当人たちへのツっこみという以上に読者の感情移入に水を差すことが狙いなのでしょう。
こうした岩鬼の言動が幽鬼鉄山&牙師弟の物語のような陰鬱なドラマにおいては救いとなり、ここで例にあげたような感動的シーンにあっては読者の共感・陶酔を阻む方向に働く。この手の岩鬼のツっこみを受けるのはもっぱら里中・山田バッテリーもしくは里中単体。里中に集中しているのは、彼が高二春土佐丸戦のモノローグなどに顕著なように最も悲劇的ナルシシズムに陥りがちなキャラクターだからでしょう(ちなみに高二春土佐丸戦では意外なほど岩鬼のツッコミや笑いを取る言動が発揮されず(悪球を作り出すためグリグリメガネをかけるシーンくらい)、それがあの試合、とくに前半の『ドカベン』らしからぬ徹底した暗さ・八方塞がりの閉塞感を生んでいるように思います)。
この悲劇的ナルシシズムはスポ根マンガとは実に相性がいい。『巨人の星』とくに後半の飛雄馬のモノローグや行動がまさにその証左です。思えば里中は外見以外はたぶんにスポ根的なキャラクターではある。ケガの苦痛に耐えながら選手生命をかけて力投する姿はスポ根ヒーローそのもの。里中に視点を合わせっぱなしにすれば『ドカベン』はもっと暑苦しい熱血ドラマになっていたことでしょう。しかし岩鬼がそうはさせてくれない。「照れ」に基づいた熱血の否定、というか客観性の導入が『ドカベン』という作品の根幹を形づくっているんじゃないでしょうか。


(2011年10月22日up)

 

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO