「先輩」

 

「よっしゃ〜〜、今日の練習はこれまでや。皆そこへ一列に並べ!」

岩鬼の胴間声が明訓高校のグラウンドにこだました。グラウンドのそこここに散っていた選手たちは小走りに岩鬼の前に集合する。

「知ってのとおり、わいら三年は今日で引退する。おまえらだけ残していくのは何とも頼りないが、やむをえんこっちゃ。まあおまえらも不安やろから、ドラフトの日まではたま〜には顔出して指導してやるさけの」

「――あんなこと言ってらあ。絶対寂しいのは岩鬼さんの方だよな」

「あの調子じゃ毎日だって顔出すんじゃないか。結局今までと代わり映えしないよなあ」

豪快に笑いながら得々と語る岩鬼の言葉を、下級生たちは半ば聞き流しつつひそひそと苦笑まじりの声を交わしあう。その中で、渚は一人真剣な眼差しを岩鬼の隣りに立つ里中に注いでいた。皆の推測どおり岩鬼はしょっちゅう顔を見せるだろう。やはりプロに行く山田もノンプロ志望の微笑も。しかし里中は。

大学進学を表明している里中には受験勉強と一ヶ月休学した分の補習が待ち受けているはずだ。いまだ入院中の母親の世話だってある。当然そうそう野球部に顔を出すわけにはいかなくなるだろう――里中と一緒に練習できるのは今日が最後だ。

「よ〜し、ではひとまず解散や!10分後に部室へ集合せい!ミーチングやるさけの」

岩鬼の大声を合図に一礼した部員たちがめいめいに歩き出す中、渚は山田と並んで立ち去ろうとする背中に「里中さん」と声をかけた。

「どうした、渚?」

「すみません、一つお願いがあるんです」

「おれに?」

心なし首を傾げている里中を見つめて、渚は覚悟を決めると、

「すみません、一度だけ、バッティングピッチャーやってください!」

一息に言い切った。里中がきょとんとした顔になる。チームのエース、しかも上級生にバッティングピッチャーをやれとは失礼もいいところだ。里中にそんな要求を出せるのは岩鬼くらいのもので。しかし、

「一度打者として向かいあってみたかったんです。全国の強打者たちを翻弄した里中さんの球と。だから・・・お願いします!」

力強く言って頭を下げると、里中がふっと笑った。

「いいぜ。お安い御用だ。次期エースの練習台ならいくらでもなってやるさ」

「そうだな。投手の技量はバッターボックスに入ったときが一番わかるからな」

隣りの山田が相槌を打った。

「よし山田、おまえが受けてくれ。渚、どうせなら真剣勝負だ」

「えっ!?」

「それがいい。その方が里中の力のほどもわかるだろうし。一打席、三球勝負だ」

渚が何を言う間もなく、山田はプロテクターとレガースを身に付けはじめる。確かに二人の言う通りなのだが、言い出しっぺの自分を置いてどんどん話を決めていくこのバッテリーに渚はいささか圧倒されていた。

――まったく、かなわないよなあ。

渚はふっと苦笑まじりの溜息をついた。

 

いつものように足でマウンドをならしてから、里中は投球練習をはじめた。一球目は緩めの球、二球目はキレのいいストレート。どうやら規定通り8球投げるつもりらしい。真剣勝負の言葉にたがわず里中も山田も大真面目だ。さも強豪校の四番打者を相手にするかのような二人の態度に、渚は緊張と感動を同時におぼえていた。この人たちは自分の頼みに本気で向かいあってくれている。

しばしば「華麗」と形容される馴染みのフォームから放たれるボールは決して剛速球とは呼べない。スピードだけなら渚の方が里中より速い。去年の夏、右ヒジの怪我から復帰直後の里中と並んで投球練習をしたとき、そのスピードのなさに里中はまだ本調子じゃないのかと疑い、翌日の白新高校戦は自分が先発で行く覚悟をしたほどだ。

しかしそんな渚の心配をよそに、里中は白新の打線を完全に抑えきりノーヒットノーランまでやってのけた。それも四番打者不知火の最後の打席は、速球、スローボール、超スローボールの三球で打ち取ったのだ。ピッチャーに一番大事なのは速さじゃない、コースやスピードの緩急を自在にコントロールできる技術なのだと渚はこの試合で思い知らされた。

「よーし、こっちは準備OKだ。早くバット持って打席に入れよ」

里中の軽快な声が飛ぶ。渚はぎゅっとバットのグリップを握ると右打席に立った。この夏は九番打者として甲子園の打席に立ち、青田の中西球道のような超高校級の投手にも対してきたが、あの時とはまた別種の緊張が背筋を走った。

里中がゆっくりと左膝を上げる。この位置からだとこんな風に見えるのか。感慨とともに放たれた球の軌跡を追う。インコースのストレートがバシンと音を立てて山田のミットに収まる。

最初から一球目は振らずに見るつもりだった。せっかく三球勝負なのに最初から打ちにいって凡フライやピッチャーゴロになるのではつまらない。そんな渚の思惑を見抜いたかのように、打ち頃の球を一球目にもってきた。山田らしい配球だ。しかし、

――里中さんの球はあんなに速かったか!?

さっきの練習球よりずっと速く感じられる。練習だから力を抜いて投げていたわけではない。試合中にベンチから見る球のスピードもあんなものだ。おそらくは130キロ台なのだろうが、ボールが浮き上がるアンダースロー独特の球の軌道と手元でぐっと伸びるために、実際のスピードよりもずっと体感速度が速いのだ。打ち頃の誘い球のつもりだったのだろうが、あれは並みの高校生ではそうそう打てない。仮にも甲子園に出てくるような高校の打線がなぜ里中の球をろくに飛ばせないのか、渚は身をもって知った。

――それでこそ、「勝負」を頼んだ意味があるってもんだ。

渚は気合いを入れ直してバットを構えた。真剣勝負といっても里中と山田にはあくまでこれは後輩の指導という意識があるはずだ。だからなるべく多彩な球を投げてよこすに違いない。もうストレートはこない。次は変化球だ。

とはいえ里中の変化球はバリエーションが多い。カーブかシュートか、スライダーかシンカーか。一番得意のシンカーは最後に取っておくだろうから・・・ここはカーブに山を張ろう。

里中が第二球を投げる。カーブにしてはスピードの乗った・・・まさかまたストレートか?渚はバットを短く持ち替えて当てにいった。強打と見せかけてのバントは予定通りだ。里中の球を、ましてスピードの乗ったストレートをまともに打てるものじゃない。

ボールはしかしベースの手前で外側へわずかに曲がった。スライダーか!渚はとっさにバットを外側へ伸ばしたがボールはその先をかすめ、キャッチャーへの小フライになる。まずい、と思ったが、意外にも山田はボールを取り落とした。ゆっくりした動作でボールを拾いに走る。ツーストライク。

わざとだ。山田はわざと取り損うことでもう一度勝負のチャンスを与えてくれた。正面を見ると里中が不敵な笑顔でこちらを見つめている。今度こそまともに前に飛ばしてみろ。里中の目がそう語っている。渚はバットをしっかり構え直すことで、無言の檄に応えた。

里中が大きく振りかぶる。ここは絶対シンカーが来る。読まれているのを承知で必ず投げてくる。ダイナミックかつ優雅なフォームから白球が放たれた。渚は頭の中で里中とともに投球練習するときの様子を思い浮かべた。里中のシンカーはどのタイミングで落ちる?ある意味自分は他校のどんな打者より里中の球筋をよく知っているはずだ。

ボールがホームベース手前に差し掛かる。ここだ。渚は現在見える球の軌道よりわずかに下の位置にあわせてバットを大きくスイングした。捉えた。そのまま一気に力をこめて引っ張る。白球が里中の頭上はるかを抜ける――と思ったとき、高くジャンプした里中が宙でそのボールをキャッチした。

「ああ!」

思わず無念と驚きの声が渚の口から漏れた。あれを取るか!しかし考えてみれば、この夏の巨人学園戦の時も真田のホームラン性の当たりをジャンピングキャッチした里中だ。頭上を抜ける球には滅法強い。ピッチャー返しも臆せず体で止めにいく。明訓と対した打者はまず里中の守りを突破しなくてはならない。渚は改めて「里中が投げる明訓」の強さを思った。

落胆する渚を気遣うように、マウンドを下りてきた里中が、

「まいったな。あの球をあれだけ飛ばされるとは思わなかったよ」と明るく言ってくれる。

「いえ・・・もしホームランバッターでもあれは外野への凡フライになっていたと思います」

準決勝の青田戦で13回裏、中西に投げた渾身のシンカー。相手が中西だけに思いがけずスタンドに運ばれてしまったが、普通なら完全にライトフライで済んだはずだ。今自分に投げたのもおそらく同じ球だ。里中最高のシンカー。自分は中西ほど力がないから里中が届く程度に打球のコースが低くなってしまったが。

「・・・参りました。やっぱり里中さんはすごいや」

「――おまえにそんなに誉められたのは初めてだな」

里中が照れくさそうな笑顔を浮かべる。ああ、そうだったかもしれない、と渚は思う。里中のリリーフで救われた去年夏の東海戦以来自分は里中の実力はよくよく認めている。それでもやはり里中はチーム内随一のライバルであり、里中がいるためにこの一年自分はほとんどマウンドに立つことは叶わなかった。その鬱屈から春の大会初戦を前に里中と言い合いになったこともある。山田に対するほど里中には素直な気持ちになれなかった。――それでも。

「渚、もう一度バットを構えてみろ」

里中の指図にしたがって右打席でヒッティングの構えをすると、「もう少し脇をしめた方がいいな。あとシンカーをすくい上げるときには右足を大きく引いて腰をもう少し落とすんだ。そうすればもっと飛距離が出る。おまえリーチはあるんだから」などと細々注意をしてくれる。それから心なし眩しげな笑顔を浮かべて、

「・・・羨ましいな。おれがおまえくらい身長があったら、今もオーバーで投げてただろうな」と呟くように言った。

「――え?里中さん、もともとオーバースローだったんですか!?」

初心者のうちからアンダーで投げる人間などまずいないから当たり前のことなのだが、里中と言えばアンダースローというイメージがあるだけに意外だった。

「ああ。中学の初めまではな。おれは中学は東郷学園だったんだ。知っての通り同学年には小林真司がいて・・・内野手に転向しろと言われて逆らったおれはずっと補欠で、ついに一度もマウンドに上がることはなかった」

思いがけぬ里中の過去を渚は目を見張って聞いていた。山田・岩鬼・殿馬が同じ中学の出身で、当時小林と試合をしたことがあるとは耳に挟んでいたが、里中と小林の間にもそんな因縁があったのか。

「オーバースローで速球勝負のままじゃ正直問題にならない。だからおれは小柄な体格を生かせるアンダースローの、変化球投手を目指すことにした。小林に対抗するために」

「・・・・・」

「おまえ、もともとはアンダーだったんだよな。それが高校に入ったら投げ方を変えろって言われて――ショックだっただろ?これまで自分の積み上げてきたスタイルを変えろって言われるんだから。でもおまえの体格ならアンダーよりオーバーの方が向いてるんだよ。アンダーはどうしても足腰やヒジに負担がかかりやすいし、オーバーの方がスピードが乗るようになったはずだ」

野球部に入って早々、チームに二人アンダースローは必要ないと言われた。自分は常に里中の影に置かれていると、あの時以来ずっと感じ続けていた。しかしずっと日の当たる場所にいるように見えていた里中もまた長い不遇の時期を経験していたのだ。そしてそこから這い上がり常勝明訓のエースとしての地位を築き上げた。自身の強烈な意志と努力によって。

「・・・やっぱり、かなわないな」

自分が入部したとき里中は故障のためずっと部活を休んでいた。去年も今年も春から夏の予選の途中まで里中は野球部に顔を出していない。里中と過ごした時間は他の三年生よりもずっと短い。それでも。

――それでも、おれが一番多くを学んだのは里中さんからだった・・・。

何があろうとマウンドを守りぬく執念、強烈なピッチャー返しにもひるまず立ち向かう度胸、怪我にも疲労にも挫けず投げ続ける根性。投球の技術以上にピッチャーとしての「心」を自分は里中から教わった。言葉によってではなく、マウンドに立つ彼の姿そのものによって。

「何弱気なこと言ってるんだよ。らしくないぜ。身長があって手足が長いぶん、おまえはおれよりずっと投手として有利なんだから。山田だって言ってたぜ。『渚には非凡なセンスがある』って。なあ?」

これまで黙って横で会話を聞いていた山田が穏やかな笑顔で頷いた。

「山田さん・・・」

「今日からはおまえがこの明訓のマウンドを守っていくんだ。おれにはおまえがいたけど、おまえには当面リリーフがいないからな。荷が重いぞ」

「・・・プレッシャーかけるようなこと言わないでくださいよ」

わざとらしく肩をすくめて見せてから、

「任せといてください。来年はおれの右腕で明訓を甲子園に連れていきますから!」

笑顔で歯切れよく言い切った。

「その調子だ。期待してるぜ」

ポンと里中が渚の肩を叩く。

「おのれら何をぐずぐずしとるんや。ミーチングが始められんやないけ!」

岩鬼が合宿所の入り口からハッパを覗かせて怒鳴っている。

「すみませーん、キャプテン!」

里中がのどかな声を張り上げて返事をした。三人は互いに顔を見合わせ軽く笑いをこぼしながら、急ぎ足に部室へと向かった。


里中のことを(ごくたまにですが)「先輩」と呼ぶのは渚だけ。渚が「先輩」と呼びかける相手も里中だけ。この二人の組み合わせは結構好きです。

(2011年8月26日up)

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