里中 智

 

明訓高校の美少年ピッチャー。私が『ドカベン』にはまり込むきっかけになったキャラクターでもあります。

水島先生いわく、「いい男が明訓にはいない。(←土井垣は?)そうだ投手を男前にしよう・・・とこんな軽い気持ちから生まれたのが里中智君である」(チャンピオンコミックス22巻表紙見返し著者コメントより)だそうですが、男前と評するにはどう見ても女顔。しかし作中では高一夏の地区予選優勝後に女子から「かわいーい」と声援を浴びていた以外は「男前」「ハンサム」などと表現されることがもっぱら(特に『大甲子園』。対青田戦のときに実況中継が「二枚目里中くんが 怪力山田くんもいます」とか、野球の実力に何の関係もない形容詞を里中に付していたのには笑った)。

相手方にさんざん野次られた高二春の土佐丸戦のときも「チビ」呼ばわりばかりで「女みたいな顔」「オカマ野郎」といったヤジは一切なかったので、水島先生としては普通に男らしいタイプの二枚目として里中を描いてるつもりだったんでしょうか。明らかに『あぶさん』のサチ子や『野球狂の詩』の水原勇気と同タイプ(水原はもう少し大人っぽいかな)の水島(眉なし)美人顔なんですけどねえ。『プロ野球編』の初期に「その愛くるしい顔立ちはロッテの企業イメージにぴったり」というナレーションが出てきたときには「ようやく水島先生も里中の魅力の拠って立つところを正しく理解したかー」(←何様だ)とかしみじみ思ったものです。
『スーパースターズ編』でもマドンナの打席の時に「美形対決」とか言われてましたし、狂った審美眼は女に対してのみ発揮していた(男の場合は実際よりいくらか悪く見える程度。『大甲子園』で里中を「な〜〜んの特徴もあらへんありきたりの顔」、殿馬を「人間の顔と違う」「わいがとんまの顔つけとったらまあ三日と生きてへんなァ」(←ひでぇ)と評していた)岩鬼が、プロ編で里中を「ドブス」と言ったりしてるので、プロ編以降に里中=女性的な顔立ちの美男子という位置付けになったみたいです。

前置きが長くなりましたが、ともかく『ドカベン』初の美形キャラの登場で一気に女性ファンが増えたそうで、里中宛てにバレンタインチョコが500個届いたとか、里中がケガで苦しんでいた時期には水島先生のところにファンの女の子が千羽鶴を持って訪ねてきた(80年代前半くらいまでは漫画家の住所は掲載誌やコミックス見返しなどで普通に公表されていた。水島先生の住所も当時の連載誌=週刊少年チャンピオンの柱に書いてありました)とか、魚嫌いで骨が弱いと書いたら「食べやすい魚だから」と干物が贈られてきたとか数々の逸話が残っています。

ところで漫画家・エッセイストのさくらももこさんがエッセイ集『たいのおかしら』所収の「怠け者の日々」の中で、中学時代『ドカベン』にはまって「結婚するなら里中君以外には考えられないとまで思い詰めた」という話を書いてらっしゃいますが、正直このエッセイを読んだとき少々意外に感じました。とにかく野球がすべてで女の子には基本的に冷淡、包容力などまるで期待できそうもない彼を、ただ好きというだけでなく結婚相手として想定できるとは。ケガでふらつきながらも懸命に投げる姿を応援したいと思う気持ちはすごく理解できるんですけど――個人的には「恋愛してる里中」の姿をどうにもイメージできなかったし、だから彼にそういう夢を抱けるのが不思議だったのです。

そもそも里中は顔はともかく中身は到底年若い少女たちに好まれるタイプに思えない。きわめて自己中心的だししばしば情緒不安定だし。そういう弱さ、人間臭さが彼の抜きがたい魅力であり母性本能をくすぐる部分なんですが、それを理解できるのは少女よりむしろ大人の女性なんじゃないか(作中でも里中とかかわりの深い女性は甲子園救護室の看護婦さんや小泉先生など大人の女性たちですね。もちろん恋愛要素は皆無ですが)。私自身も中学高校の頃に『ドカベン』を読んだなら果たして里中ファンになっていたかどうか。
まあ実際にはさくらさんのように若い女の子のファンも多かったようなので(上掲22巻著者コメントでも「この小さな大投手は女の子に、それはものすごく親しまれている」とありますし)、それだけ読者の女性の精神年齢が高かったということでしょうか。

里中は中学三年での登場当時と高一夏(土佐丸戦あたり)以降、高三時の『大甲子園』と、時間経過にしたがってビジュアルも性格も結構変化が激しかったキャラクターですが、上で掲げた自己中心性は見事に一貫していた。山田の迷惑おかまいなしで家や学校にたびたび押しかけたり、先輩にケンカを売ったうえその勝負に山田を強引に引きずりこんだりの初期の言動は実に印象鮮烈でした。とにかくこう=山田とバッテリーを組むと決めたらそのためには手段を選ばない。だから山田とのバッテリーが確立してからは大分角が取れた感がありますが、その後も発言の端々に見事な自己中ぶりを発揮してます。

高一夏の準決勝で自ら降板した場面に見られるようにチーム全体を思いやる気持ちはちゃんと持ってるんですけど、高二春決勝、続投を願い出るシーンでの「ガラスの巨人といわれるよりも小さな巨人で終わった方が満足です」という発言など、チームの勝利がどうよりまず自分自身の意地の問題が先に来ている。
土井垣さんが「ガラスであろうが小さな巨人であろうがそんなことはどうでもいいんだ」
と怒鳴ってますが全く彼の言う通りで、それは里中本人以外には本当どうでもいいこだわりなんですよね。それを内心思うだけでなく監督に続投希望の理由として直接口にしてしまうあたりが、自己客観性に欠けてるなあと感じるのです。
右肩に異常を抱えた状態で迎えた高二の関東大会決勝の日も、太平監督のセリフのいちいちを自分のために、自分に向かって言っているように感じてしまうし(本当にそうだった可能性はあるけれど)、無理に投げればチームに迷惑がかかる、とチーム全体の利害に配慮しつつも「投げられないと思ったら 投げられないといえる度胸のほうが男という時もある」と結局は自身の男としてのプライドの問題に収斂してしまう。
ケガのたびに「この苦しみが他人にわかるか」的な発言をしていたり(言いたくなるのは無理もないが、やはり何かとケガの多い山田はこの手の発言を一切しない。自分の痛みは口にせず他人―多くは里中―を気遣うのが山田や殿馬、土井垣たちだ)。
里中はだいたいケガのたびに情緒不安定に陥っていますが、とりわけ高二春決勝戦の前半は、いかにケガの痛みに苦しめられていたとはいえあれだけ惚れ込んだ山田をさえ信じられなくなる体たらく。素直に山田のリードに従ってハーフスピードのストレート主体で投げ続けていれば、ヒジまで壊さずに済んでいたかもしれないのに。

しかしまさにこうした欠点、人間的な弱さこそが彼の魅力であり、何ともいえない不可思議な色香の源泉となってるように感じるのです。自己中も情緒不安定も彼が精神的に余裕がないからで、それは「小さな体で過酷な野球、それも投手に青春をかけた」ために無理に無理を重ねているがゆえ。
野球から距離を置いているとき―たとえば高一秋の右腕負傷時に掃除当番を積極的に買って出る場面や『大甲子園』冒頭のゴルフ場のキャディ時代―の里中が周囲のことをちゃんと気遣えるさわやかな少年然としているのも、「あえて」野球をすることが彼の心身に与えている負担の大きさを裏づけているように思えます。

そしてきっと彼はそんな無理がいつまでも続かないこともわかっている。里中は山田とバッテリーを組み投手として躍進するために悪辣なまでに策を巡らしましたが、それはおそらく小柄、スタミナ不足、そして貧乏(これは明らかな後付けですが)と多くのハンデを背負った自分が投手として活躍しうるのは高校までが限界だと知っていたからじゃないでしょうか。
故障が癒えぬまま迎えた高三春の甲子園の開幕5日前、「できれば将来プロでやれたらとそんな夢も持ってはいたが 明訓で野球を終わる覚悟ならこの右肩がどうなろうと投げられるぜ」という里中のモノローグがありますが、プロに進むことは彼にとってはあくまでも「夢」、中学時代には絶対山田と高校でバッテリーを組むのだと山田を追い回したほどに高校野球には具体的ビジョンを強固に思い定めていた彼が、プロに進んだ自分の姿は漠然としか思い描けないでいるのがうかがえます。
高校三年間で完全燃焼する覚悟があるからこそ、彼は故障を押しても投げようとするし「将来などいりません」とためらいなく口にする。野球人としての将来など自分にはない、自分には今しかないのだとそう思っているから彼はああも生き急ぐし、回りを気遣う余裕など持ってはいられない。

そうした里中の性格を浮き彫りにした名台詞が高二春の甲子園決勝で救護室の看護婦さんに言い放った「おれのかけた青春をあなたはじゃまする資格はない」じゃないかと思います。自分の将来を案じるがゆえに治療をためらっている相手、それも初対面かつ年上の人に対するにはずいぶんとキツいセリフです。
普通なら「どうしても投げたいんです。治療してください」とお願いするだろうところを(「おれのかけた〜」の前にそういう内容の台詞も口にしてはいますが)、お願いどころか「じゃま」「資格はない」と言い切る。失礼には違いないんですが、この台詞が看護婦さんの心を動かした。相手の心情など気遣ってられないなりふり構わぬ必死さ――そうまでさせる野球への情熱が伝わった結果です。個人的に里中の発言のなかで一番好きな台詞です(ついでに言うと若い男性が女性―とくに年上の―に対して「あなた」と呼びかけるパターンに弱いので、それもこの台詞を好きな一因だったりする)。

だからその彼が他の何か=病気の母親を野球に優先させたとき彼は野球を離れることになったのだと思います。母親の言う通り高校を中退までしなくても何とかなったのでしょうが(家庭の経済事情と華麗な戦歴からとっくに学費免除になってたと思われますし)、無理を押して投手であることにしがみついてきた彼に、野球と他の何かを両立させることはできない。あの負けず嫌いの里中が「ここが限度」「全力でここまでやって力尽きたんだ」と笑顔で口にしたとき、彼は自ら青春の日々に終止符を打ったのでしょう。

(まあ水島先生いわく、「里中の中退?あれ、そうだった?(コミックスの最終巻を見て)ああ、中退してますなあ。うーん、忘れてた(笑)。」(別冊ダ・ヴィンチ編集部編『いよいよ最終回!』中のインタビュー)だそうなので、深く考えたうえであのラストにしたわけでもないらしい(笑)。「たぶん、最終回を盛り上げるエピソードとして、それがいいと思ったんでしょう。」とコメントがつづくのもまるで他人事のようです)

実際にはその後『大甲子園』で彼は復学し『プロ野球編』でプロ選手になるという夢をかなえるわけですが、正直プロ編以降の里中が次第に精彩を欠いていったことは否めません。高校時代に全て燃焼しつくす覚悟で走り続けてきた里中が、選手生命を使い果たすことなく生き残ってしまった。その性急に過ぎる生き方ゆえに一種悲愴美を帯びていた里中は、最初こそ苦戦したものの結局プロ選手としてチームのエースとして文句なしの成功者になってしまったことで、必然的にその悲愴美の魅力を失うことになった(先発に転じ、「これでオールスターを楽しめる」発言が出た97年あたりが一つのターニングポイントでしょうか)。

『プロ野球編』序盤で大学進学を表明していたにもかかわらずロッテに指名された里中は指名を受けるかどうかで一人延々と煩悶しています。高校時代も里中は悩み多いキャラではありましたが、自分が何をすべきか「迷う」シーンはほとんど出てこない(高二の関東大会決勝を前に、投げられないと自ら告白すべきか悩んでたときくらいか?)。選手生命がかかっているような状況でも投げ抜くことをためらわない。
その彼が自分の将来設計(大学で力がつけばプロへ進み、つかなければ母校の教師になるとか)を考え、それゆえに迷う姿に、「将来などいりません」と言い切り、ただ目の前の敵のことだけ考えていればよかった夢の時間=青春の日々は終わってしまったんだな、と無印最終回とは別の(無印のラストは青春の日々が自身の選択とはいえ突然断ち切られる悲痛さと乾いた明るさの混在した哀しい魅力があった)寂しさを覚えました。
山田、岩鬼、殿馬と、外見・精神とも年齢不詳な明訓四天王の中にあって、唯一「少年」を体現していたような里中が「大人」になった姿はあまり見たくなかったような気もするのでした。何とか言ってもプロ編初期の話は結構好きなんですけどね。

 

(2010年3月13日up)

 

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