桜 〜新たな旅立ち〜

 

学校に着いたのは式の開始より二時間近く早かった。大挙して押し寄せてくるだろうマスコミ連中も、さすがにまだ姿を見せていない。狙い通りだ。

まだ閉まったままの裏門を乗りこえて、そのまま裏庭を目指す。こんな時間にやってきたのはマスコミ除けももちろんだが、誰にも邪魔されない時間が欲しかったからだ。明訓高校の生徒としての最後の一日。

校舎の角を曲がったところで、眼前の情景にしばし息を呑んだ。校舎の陰に一本だけひっそり立っている桜の木は今を盛りと咲き誇っていた。うららかな陽射しを受けて鮮やかな桃色に輝いている。

その桜の木の下に人影があった。先客がいたのか。しかもその後ろ姿は見間違いようもない。

声をかけようかと一歩踏み出したとき、気配に気づいたのか小柄な影が先に振り向いた。

 

「三太郎」

 

「ずいぶん早いんだな。おれ以外にこんな時間から来てるやつがいるとは思わなかったよ」

「智のほうこそ。千葉からじゃ遠いだろうに」

「2時間はかからないよ。時間通りに来ると校門まわりが騒がしいからな」

苦笑をこぼす里中に三太郎も同意の頷きを返した。もともとチームの中でも人気(とくに女性の)では群を抜いていた里中だが、プロに入って早々CMに起用されたりしたせいで追っかけファンがものすごい事になっているらしい。さらに山田、岩鬼、殿馬に自分。この5人が一堂に会する卒業式がどんなパニックに見舞われるか、きっと学校側も頭を痛めているに違いない。

「それにしても久しぶりだな。1月の登校日以来じゃないか?」

「そうだな。・・・おたがいキャンプがあったからな」

里中の声が幾分沈む。無理もない、と三太郎は思った。当初から体力不足を懸念されていた里中は、はたしてプロの練習についてゆけず、キャンプ中に二軍行きを宣告されたことはニュースで知っていた。そのショックや無念、不安感を三太郎は我が事のように理解できた。開幕一軍が叶わなかったのは三太郎もまた同じだったから。

――高卒ルーキーが二軍スタートなんて別に普通の事なんだけどな。

しかしチームメイトだった山田は、岩鬼は殿馬は一軍に残っているのだ。殿馬などドラフトで指名されるまで音楽の道に進むつもりでいたというのに。天才と凡人の違い――そう言ってしまえばそれまでだが、同い年だけに、三年間を共に戦ってきた球友だけにすんなりと割り切れるものではない。すでに一度“ものの違い”をはっきり突きつけられたことのある自分より、彼らと対等にエースを張ってきた自負のある里中はなお辛いだろう。

「・・・しかしおまえもこの場所を知ってるとは思わなかったよ。今までここで誰かとかち合ったことなかったからな」

三太郎はあえて明るい口調でそれとなく話題を変えた。

「意外にみんな知らないみたいだよな。おれも去年の2月頃偶然見つけてさ――こんな時期に桜が咲くのかって驚いた」

「おれもだよ。図鑑で調べたら寒桜って種類らしい」

去年の2月といえば、里中は右腕の故障が長引いて鬱々としていた頃だ。時ならぬ満開の桜を見つめながら彼は何を思っていたのだろう。

三太郎自身がこの木を見つけたのは転校初日だった。初めて明訓高校の門をくぐった時は、自分はこれから二年間、エース“ドカベン”とバッテリーを組むのだと、そう信じていた――。

 


 

三太郎は小学校三年から中学三年までをアメリカで過ごした。父の仕事に伴い一家で移住した当初こそ日本を恋しく思ったものの、順応性に富む三太郎はまもなく言葉や環境に馴染んでしまった。地元の野球チームに入ってからは日々練習に明け暮れ、故郷を思い出すこともすっかり間遠になっていった。

中学卒業も近づいたある日、父親の旧友だという人が日本から訪ねてきた。ずいぶん大きくなったねえ、と笑顔で話しかけられたが、顔も名前も思い出せずとりあえずにこにこ笑っておく。地顔が笑顔というのはこんな時には重宝するものだ。

数年ぶりの再会らしく、彼と父親が昔話に花を咲かせているのを、三太郎は庭で素振りをしながら窓越しに聞くともなしに聞いていた。

「――ところで三太郎くんはそろそろ中学卒業だろう?このままこっちの高校に進ませるのか?」

「・・・それなんだよな。将来的に日本に帰ることを考えたら、高校は日本の方がいいかとも思うんだ。あいつはバイタリティだけはあるから、一人でも何とかやっていけるだろうし」

「待ってくれよ、おれは日本に帰るつもりなんてさらさらないぜ。おれは高校に行っても野球を続けるんだから」

大人の会話に割って入るなど無作法だとは思ったが、自分の進路に関わる会話とあっては聞き捨てにできない。

「野球なら日本でだってできるじゃないか」

「冗談じゃない。日本の野球なんてレベルが低すぎて。とてもやってらんないよ」

数年前に日本のプロ野球中継をこちらのテレビで流したことがあったが、あまりの程度の低さにあきれて途中でチャンネルを変えてしまった。全体にプレーがちまちましていて、とりわけピッチャーの投球スピードが何とものろい。プロであれなのだから高校野球など推して知るべしだ。

「――そう決めつけたものでもないよ。僕は神奈川県に住んでるんだが、近所の高校にとんでもない投手がいるんだ。まだ一年なのに優に180センチを超える大男で、すさまじい剛速球を投げる。たまたま通りすがりに練習してるところを見たんだが度肝を抜かれたよ。単に速いってだけじゃない、あまりの球の威力で捕手がふっとばされたり送球を受けた内野手がツキ指したりするんだから」

身長が180センチ強というのはデカい奴を見慣れてる三太郎にすれば驚くに足らないが、捕手がふっとばされる、野手がツキ指するような球というのには興味を引かれた。大げさに話してるのでなければ、確かにとんでもない投手には違いない。

「味方殺しの球だと言ってチームメイトもすっかりビビッちまってね。それでも懸命に取ろうとはしてるんだが身体が追いつかないんだ。君は日本の野球はレベルが低いといったけど、捕手については当たってるかもしれないな。みんなドカベンの球を取ることさえできないんだから。神奈川の高校で名のある捕手といえば明訓高校の土井垣くらいで、その土井垣だって捕手としてよりスラッガーとして有名なんだしな」

「・・・ドカベン?」

「そいつのあだ名だ。本名は土門剛介だが、みんな“ドカベン”って呼んでる」

ドカベン、と三太郎は心の中で復唱した。

「三太郎くん、君、ポジジョンはどこだい?」

「・・・捕手、ですけど」

「そりゃあいい。こっちのピッチャーは体が大きいからな、君なら150キロ台の剛球だって取り慣れてるだろう。ドカベンの球だって君ならきっと止められる。神奈川に捕手・微笑三太郎ありと全国に名を轟かすのも夢じゃない」

やたらに調子のいい事を言う客人だ。その「近所の高校」から捕手捜しを頼まれてでもいるんじゃないかと勘ぐりたくなったが、こう褒められれば満更悪い気はしない。実際それだけの実力は自分には十分あると三太郎は自負していた。

「実はドカベンは去年の夏に交通事故に遭ってな。長らくリハビリ中だったんだがそろそろ復帰のメドも立つらしい。もし君が秋から日本に来れば、ちょうど復活したドカベンとバッテリーを組めるだろうな」

復帰に一年近くかかったとあれば相当の大怪我だったのだろう。そこから懸命のリハビリで立ち直ったなら不屈の意志と鉄の肉体の持ち主に違いない。それも三太郎の心をくすぐった。

ぜひ夕飯を一緒にと両親が勧めるのを用事があるからと固辞して客人が帰ったあと、三太郎はしばらくぼんやりしていた。練習にも今ひとつ身が入らない。母が夕食が出来たと呼びにきても夕食を口に運びながらも別の事に心を奪われていた。

とにかく降ってわいたような話なのだ。日本の高校に進むなどと今日の朝までは全く選択肢にも入れてなかったのだから。しかし捕手を吹っ飛ばすような剛球を投げるピッチャーがいると聞いて俄かに心が騒いだ。むしろ自分の技量に恃むところのある捕手なら気を惹かれないほうがおかしい。

「・・・ドカベン、か」

三太郎は口の中で小さく呟いた。

 

いざ日本に帰ると決めたものの、高校に入るための手続きはなかなかややこしかった。アメリカと日本では学制が違うから、三太郎が中学を卒業する頃日本ではすでに一学期が終了している。父親が高校側とあれこれ交渉した結果、二学期からの編入という形に落ち着いた。

この“交渉”を開始する段になって三太郎ははたと気付いた。肝心の高校の名前はなんだったろうか。あわてて父がどこからか入手してきた日本の高校紹介のページを繰った。神奈川県というのは覚えていたから、神奈川の項で聞き覚えのある名前を探す。明訓高校、という名が目に留まった。そうだ。確かあの人は「明訓」と言っていたはずだ。“野球が盛んでレギュラーは一年の多くを合宿所で暮らす”、ここに間違いない。

そんなこんなで無事中学を卒業した三太郎がもろもろの準備を済ませてようやく日本へ降り立ったのは9月も半ば近かった。すでに二学期が始まってしまってるはずだが、まあ大した問題でもないだろうと物事にこだわらぬ三太郎は特に気にもしなかった。神奈川に着いてから肝心の学校名をまた忘れたのに気がついたが、幸い道行く人に“ドカベンの学校はどこか”と訪ねると「ドカベンといったら明訓だろうが。この夏甲子園で優勝した明訓を知らないのかい!?」と地元びいきまる出しに丁寧に道順を教えてくれた。

甲子園で優勝したのか。日本の高校野球のレベルなど知れてるとはいえ、その最高峰に立つピッチャーということだ。その男と組める。想像すると三太郎の胸は躍った。

 


「よぉし、5分間の休憩!」

監督の声が合図のように部員たちはいっせいにグラウンドにへたりこんだ。それは三太郎とて例外ではなかった。元気そうにしてるのは岩鬼と山田くらいのものだ。大物なんだか鈍いんだか、ともかく大した連中だよと三太郎は心中に呟いた。

転入から三日、早くも三太郎はすっかり明訓野球部になじんでいた。練習はハードでも酔いどれ監督を筆頭に妙に大らかで適当な部の体質は、自由人な三太郎にとって居心地がよかった。自分プラス怪我で練習に参加できないキャプテンの里中を数えても部員が9人に満たないのに、誰も危機感を持ってるようでもない。とても甲子園優勝校とは思えないいい加減さだ。あるいは優勝校というのも“ドカベンはピッチャー”同様、伝聞の誤りなのだろうか。

――3日前、合宿所で真っ先に出会った岩鬼から“ドカベンはピッチャーではなくキャッチャーだ”と聞かされたときはさすがに呆然とした。それじゃあドカベンとバッテリーを組むために遠路アメリカからやってきた自分はバカみたいじゃないか。今まで聞かされてた話はいったいなんだったのか。

しかし岩鬼のピッチング練習に付き合わされるにおよんで、すべてどうでもよくなった。巨体から繰り出されるとんでもない剛速球。これだ。名前がドカベンかどうかなど関係ない。今目の前に立つ剛球王、こいつこそが自分のパートナーとなるべき男だ――。

「なぁにへたりこんどるんや三太郎!今のうちにピッチング練習や!」

元気すぎる岩鬼の声に三太郎は現実に引き戻された。今日はまだ守備の練習ばかりで投球練習に割く時間がなかったから、それが岩鬼には不満なのだろう。剛球王の指名とあらば全力で応えたいところだが、さすがに今すぐは体が動きそうにない。

「よせ岩鬼、休憩も練習のうちなんだ。休む時はちゃんと休まないと体に無理がくる」

里中が練習ノートを片手に岩鬼をたしなめに入ってくる。

「おんどれのような虚弱体質と一緒にすなや!だいたいおんどれの作った練習メニューはなんや。ランニングと守備練習ばっかりやないか。もっとバッティングも増やさんかい!ピッチングの時間も少なすぎや。・・・・・・よもやわいに投球練習させたないんやないやろな」

「――そんなわけないだろう。うちは部員が極端に少ない。交代要員がいない以上、全員が9回をフル出場できるだけの体力が必要になる。新入部員のうち3人は野球経験がない。体力を上げ足腰を鍛えるには走りこみと捕球練習が一番大事なんだ。それに本式な投球練習に入るにはまだ早い。プロ野球のキャンプでも投手が本格的にピッチングをするのは後半に入ってからだ。秋季大会の時に肩の状態をベストに持っていけるよう調整しながら投球メニューは増やしていく。・・・現状、投げられるのはおまえしかいないからな」

「こまこましとるのー。おのれと違ってわいのような天才児にはそんな調整いらんちゅうに」

文句を言いながらも岩鬼は気をよくしたらしく、そのままぶらぶらと向こうへ行ってしまった。なかなかちゃんと考えてるんだな、と三太郎は素直に感心した。さすがに一年生でキャプテンに選ばれるだけのことはある。3日前里中がキャプテンに指名されたとき当然初対面の自分は何の感慨も持ちようがなかったのだが、頭を越されたはずの二年生も諸手をあげて歓迎していたのが印象的だった。それだけ人望も厚いということなのだろう。

そういやこのキャプテンくんのポジションはどこなんだろうな、と三太郎はぼんやり考えた。

 


 

――あの時はまさかこいつが明訓の真のエースだとは思ってもみなかったよなあ。

剛球王・岩鬼はその一面とてつもないノーコンだった。練習のときにはちゃんとストライクが入るのに、バッターボックスに打者が立つとたちまちボールが明後日の方へ行く。緊張で手元が狂うような繊細さには無縁の男だけに何とも不思議なのだが。

対して体格的には岩鬼より二回りも小さい里中は、剛球というには程遠いもののコントロール抜群の球を投げた。変化球も多彩で、力押しができない分をテクニックで巧くカバーしていた。これまで周囲には体の大きさに物を言わせてがんがん速球勝負を挑む岩鬼タイプの投手しかいなかったから、里中の投球スタイルに三太郎は正直戸惑った。手が痺れるような剛球を受け止める、多少の暴投も止めてみせるキャッチングには自信があるが、球種とコースを細かく指示して“打たせて取る”なんて緻密なリードは不得手、というより経験がなかった。

おれが捕手として山田に及ばなかったのはそこだな、と三太郎は冷静に振り返った。打者の癖を読み凡打に打ち取る的確なリードは山田の独壇場で、山田のリードがあってこそ里中の技術も十二分に活きた。そんな山田に、里中は盲信に近いような絶対的信頼を寄せていた。

だからだろう、転入後最初の秋季大会で正捕手は山田と指名されて以来、三太郎はすっかりレフトに定着することになってしまった。もし当初思い込んだ通りに岩鬼が明訓のエースだったなら、バッテリーを組む相手が里中でなかったら、自分が正捕手になれたかもしれなかったのに。剛球王の球を受けるためはるばるアメリカからやってきて転入先を間違え、それでも岩鬼とバッテリーを組めると信じてわざわざ迎えにきた土門を振ってしまったあげくがレフト定着とは何とも締まらない話じゃないか。

といっても三太郎は里中を恨んだり嫌ったりしてるわけではなかった。むしろその逆だ。山田に岩鬼に殿馬。タイプは違えど天才としか言いようのない連中―岩鬼は紙一重の方という気もするが―が同学年に揃い踏みしている中にあって、里中は“凡人”だった。もちろん才能はあるに違いない。5期連続で甲子園に行き4回の優勝投手になったのは伊達じゃない。それでも。それでもやはり山田たちのような掛け値なしの天才とは根本的に違う。

そして。自分も里中と同じく“凡人”枠だと今の三太郎は素直に認めていた。アメリカにいた頃はいずれは大リーガーも夢ではないと思い上がっていた自分が、レベルが低いと見下していたはずの日本野球、それもアマチュアの高校野球の世界で“才能の違い”というものを思い知らされた。同期の三人だけじゃない。この神奈川だけでも白新の不知火、東海の雲竜、そして横浜学院の土門剛介ら超一流のピッチャーがひしめいていた。“ドカベン”土門の球は聞きしに勝る剛球だったが、不知火や雲竜も土門に引けを取らぬ大投手であり強打者だった。雲竜は紆余曲折のすえ相撲に最転向したが、不知火と土門はともにプロ入りし開幕から一軍、不知火など一年目にして開幕投手を任されるのではないかとまで噂されている。

――どいつもこいつも、まともじゃないよなあ。

そんな怪物だらけの環境の中で里中は自分同様に“まとも”だった。実力において天才たちに及ばない部分を懸命の努力と根性で補っていた。その姿には素直に好感がもてたし、天才だけにどこかとっぱずれた所のある連中―山田はまだしもまともな方だがやはり時々感覚が常識を超えている―と違い同じ目線でバカ話もできた。三太郎にとって里中は一番気安い口をきける存在で、マウンドでふらふらになりながら投げてる印象が強いだけに何となく背中を支えてやりたくなるような相手でもあった――。

 


 

「――でも満開に間に合ってよかった。もう散ってるんじゃないかと心配してたんだ」

里中の声が三太郎を現実に引き戻した。去年の今頃はすでに桜はあらかた散ってしまっていた。一昨年の夏はえらく暑かったからその分盛りが早かったのかもしれない。その点去年は4月に雪が降ったり気候が安定しなかったから、それだけ花が咲くのも遅れたのだろう。そうはいっても普通の桜よりは遥かにピークが早いのだが。

三太郎は転校初日にこの桜を見つけた。もちろん九月に花など咲いてるはずもなく、最初は何の木なのかわからなかった。それでもただ一本孤高に聳え立つ姿が妙に三太郎の気にいった。数年ぶりに帰ってきた、もはや異国のように感じられる日本の高校に一人乗り込もうとする自分に重なる部分があったのかもしれない。

重たげに花の房を実らせた梢が、春風に揺れて花びらをはらはらと落とす。里中は満開と言ったがさすがにピークは少し過ぎている。木の根元にはすでに淡桃色の絨毯が薄く敷き詰められていた。

隣りに立つ里中はじっと桜に見入っていた。所詮は高校野球止まり――先日目にしたスポーツ雑誌の記事の一節が三太郎の脳裏に浮かんだ。まだしも期待をかけられてるのか単にそもそもの注目度が違うだけか幸いにして自分は今のところマスコミに否定的に取り上げられてはいないが、思うように結果を出せない苦しさは三太郎にとっても他人事ではなかった。

高校時代に華々しい戦績を築きながら、プロでは奮わず万年二軍のまま消えていく――そんな選手は数え切れないほどいる。早くに花開き――開き切ってしまった者たち。・・・里中は人より小さな体で三年間甲子園常連校のエースの座を守ってきた。無理に無理を重ねてマウンドに立ち続ける彼を、三太郎はずっとハラハラしながら見つめてきた。一つの勝利に選手生命すら注ぎ込むような、その性急すぎる生き方が痛々しくてならなかった。

ふいに里中が動いた。桜の木に真っ直ぐ歩み寄ると、幹に取り付いてあるかなしかの窪みを足でさぐる。

「お、おい智、何する気だ」

「木登り」

あっさり答えると、窪みに右足を掛け手近な大枝に左手を掛けて一息に攀じ登った。

「やめとけよ。落ちてケガしたらどうするんだ」

「大丈夫だって。なかなかいい眺めだぜ。風も気持ちいいし」

里中が無邪気な顔で笑う。こいつのこんな顔を見るのは久しぶりだな、と思った。ドラフトの頃、いや夏の甲子園が終わった頃から里中はどこか沈みがちになっていた。受験勉強とまだ入院中だった母親の世話で疲れていたせいだけじゃない。山田や岩鬼が当然のごとくプロを志望したのを他所に里中は大学進学を表明した。自分がノンプロに行くつもりでいた――それが分相応だと考えたように、里中も今の自分の力では即プロ入りは無理だと思ったのだろう。スポーツ紙の取材にもそう答えていた。大学で四年間しっかり体を作ってから先々の事を考えたいと。

・・・でもそれは本心じゃなかったのかもしれない。「まだ」力が足りないんじゃなく、高校で自分のピークは過ぎてしまったと、本当はそう思っていたんじゃないのか。けれどプロ野球を諦められずに大学野球をクッションに置く選択をし、いざドラフトで指名されたら結局は入団を選択してしまった。でも本当は高校野球に自分の全てを注ぎ込んだと、注ぎ尽くしてしまったと思ってたんじゃ――。

里中は大枝の上に立ち上がって上の枝を見上げている。もう一段登る気でいるらしい。まあ高校生最後の日にこういう子供らしいバカをやるのもいいかもしれない。何よりずっと悶々としてた、今もしてるんだろうあいつがあんなに楽しげにしてるんだからここは好きにさせてやろう。落ちて右腕を骨折でもすれば事だが身軽な里中はさすがにそんなドジは踏むまい。

里中が斜め上の枝に向かって右手を伸ばした。しかし数センチ届かない。それでも諦める気はないようで、爪先で立ち左手を幹について体を支えながらさらに右手を伸ばす。それでもわずかに届かず指先が繰り返し宙を掻いた。

さすがにこれは危ないんじゃないか。三太郎が思わず一歩前に出たとき不意に突風が吹いた。枝が大きく揺れ、不安定な体勢だった里中が足を踏みはずす。桜吹雪がごうっと舞って、一瞬その姿を三太郎の視界から隠した。

「智!!」

三太郎は慌てて駆け寄った。風はその一瞬だけで収まり、里中は何事もなかったかのように無傷で地面に着地していた。

「あー驚いた。花びら食っちまったよ」

里中は舌をべーと出すと張り付いた花びらを指先で剥がした。その表情が悪童そのもので三太郎はついつい噴き出してしまった。

「なに人の不幸を笑ってんだよ。よぉし、もう一回チャレンジだ」

「なんだ、まだ懲りないのかよ」

「あとちょっとで手が届いたんだ。さっきは靴のまま登ろうとしたのが敗因だった。やっぱり木登りは素足でなくっちゃな」

さっくり宣言すると靴と丸めた靴下を脱ぎ捨ててさっそく幹に腕を回し足を掛ける。たちまち足の裏が薄黒くなっていく。まるっきり子供だ。三太郎は何だかひどく可笑しくなってきた。

「よし、おれも登る。どっちがより上まで行けるか競争だ」 三太郎も靴と靴下を勢いよく脱ぎ捨てる。

「ええ!?後にしろよ。一度に二人登ったら枝が折れるだろ」

里中の文句を聞き流して三太郎は大枝に両手を掛け懸垂の要領で一気に体を持ち上げた。

「足掛かりなしで一発かよ。リーチがあると思ってえらそうに」

口を尖らせながらも里中はすでに次の枝に到達している。宣言通り、裸足になったらさっき届かなかった枝をあっさり攻略したようだ。

――そうだな、おれたちはまだまだガキなんだ。終わっちまうには全然早い。高くへ、もっと高くへずっと登っていけるはずだ。

間近で見上げる桜の大枝は、一面の桃色の隙間に小さな若葉をのぞかせていた。

 


構想時はもう少し幻想的な、やや艶めいた雰囲気の話を目指してたはずがなぜかこういうことに・・・。時期的には『プロ野球編』の範疇ですが、あえて「高校時代」カテゴリーに入れました。

(2012年9月9日up)

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