両手

 

年の暮れも差し迫ったころ、すっかり恒例になっている殿馬のチャリティーコンサートが開かれた。

前月に新球団「東京スーパースターズ」の設立と殿馬をはじめとする明訓高校のOBがこぞって新球団へ移籍すると発表されたこともあって、コンサートはいつも以上の活況を呈していた。会場の玄関口に人が溢れるなか、山田と里中はこっそり関係者入口から会場に入れてもらった。正面からまともに入ろうとすれば野球界屈指の人気選手である彼らがファンにもみくちゃにされるのは明らかなので、殿馬のコンサートのたびこうして裏から入れてもらうのが当人たちにも会場側にとってもすでに当たり前になっていた。開演5分前を待って指定の席に座るとさすがに回りの客がざわめいたが、場所柄を考えてかサインをねだってきたりはしない。

「毎度ながらすごい人気だな。岩鬼や三太郎も来られたらよかったのに」

「岩鬼は来たってどうせ寝るからなー。猫に小判もいいところだぜ」

岩鬼と三太郎は取材の仕事が入ってしまい欠席のため、「明訓五人衆」は今日はこの二人だけだ。もっとも岩鬼は「とんまのピアノなんてかったるいもん聞いてられへんわい」と用事の有無にかかわらずあまりコンサートには顔を出さないが。

プログラムを開いて、山田は細い目をさらに細めた。世間では明訓OBを核とする「スーパースターズ」を「明訓黄金時代の再来」と見なしていたし自分にもそういう気分があったのだが、それは殿馬も同じだったらしい。この日のプログラムには「秘打 白鳥の湖」を皮切りに、高校時代に殿馬が披露した数々の秘打にちなんだ曲がずらりと並んでいたのだ。

「ぷっ。『黒田節』や『夏の扉』なんてのまであるぜ。どうやって弾くつもりなんだろ」

隣で里中が楽しげに笑っている。山田もつられて笑いをこぼしながら曲目をずっと目でたどっていって、最後で「おや?」と目を瞬いた。一つだけ秘打に関係ない曲が混ざっている。クラシックはあまり詳しくない山田でも知っているごく有名な曲だ。確かに殿馬はショパンを好んで弾いていたし、華やかな曲調からコンサートでよく演奏される曲目ではあるが、秘打づくしのラインナップの中でこの曲だけが妙に浮いて見えた。首をかしげているところへ開演を知らせるベルが響き渡った。

 

相変わらずの完璧なテクニックで、殿馬はバリエーションに富んだ各曲を見事に弾きこなしていった。普通のピアノ曲はもちろん、遊び心たっぷりの「黒田節」や「夏の扉」のピアノアレンジも大いに客席にウケた。

それらの曲を聴きながら山田は自然と明訓時代の数々の名勝負を思い返していた。初めて「秘打 白鳥の湖」を聴いたときのように、殿馬のピアノは時に激しく時に叙情的に時にコミカルに、あの興奮と熱狂に満ちた日々をありありと脳裏に甦らせた。今も自分たちはそろって野球を続けているが、当時はまた今とは興奮の質が違っていた。一度負けたら後がないからこその必死さ、10代という若さゆえの青臭いひたむきさが、たった二年半の月日を鮮やかに染め上げていた。

そっと隣に首を振り向けると、里中もピアノに耳を傾けながらどこか遠い目をしている。おそらく彼も見ているのだろう。超満員のスタンドや太陽を反射して輝く銀サン、あの夏と春の甲子園球場を。

あっという間に時間は過ぎてゆき、早くも最後の曲となった。山田の首をかしげさせた例の曲だ。

力強い和音から半音階で駆け上がり、うねるような音から再び和音へ、そのモチーフを繰り返しながら盛り上げていったところで華やかなメインテーマが現れる。右手が奏でるメロディーは、ときに短調の痛ましげな響きを持ちながらもそれさえバネにするかのように雄雄しく疾走する。全身に痛みを突き立てながら、それでも走り続け栄光を掴むためにどこまでも駆け上る――そう、まるで里中のようだ。

頭に送球やピッチャー返しを受けても、利き腕や軸足を負傷しても、あくまでも続投を主張して決して譲らなかった里中。「この試合が最後になっても悔いはない」、本当ならそう言う彼を説得し止めるのもキャッチャーの役割なのだろう。そうできなかったのは、一つの試合に自分の全てを賭けるような無謀さに、その情熱の眩しさに魅せられていたからだ。

そして里中はボロボロに傷つきながらもチームに勝利をもたらし、その代償を引き受けて一人苦しみ、それでも必ず再び立ち上がってきた。彼のそんな激しい強さとそれゆえの弱さを守るのが自分の役目だと、いつからかそう思うようになっていた。

だからプロに入った当初、里中がなかなか一軍に上がれず苦しんでいた時、あいつを支えられる場所に自分がいないのが歯痒くてならなかった。やがてチームのエースへと成長した里中の活躍を嬉しく思いながらも、勝利の喜びを、敗戦の悔しさを、分かち合えないのが悔しかった。オールスターではバッテリーを組めても、自主トレでは一緒に練習できても、一番肝心なときにはずっと側にいられなかった。

――でもこれからは違う。また里中と同じチームで戦える。一番近くであいつを支えていてやれるんだ。

 

曲は不協和音を多用した短い第二主題を挟んで再び輝かしいメインテーマへと戻り、そこから中間部へ入った。左手をオクターブの状態に保ったまま、一定のリズムで曲の骨格となる裏モチーフを奏でなければならない。非常に難易度の高い箇所だが、さすがに殿馬は危なげなく力強い音を均一に鳴らしている。

時計のように正確にリズムを刻む緻密な動き、それでいて曲の背骨を支える重厚な安定感。まるで山田みたいだ、と里中は思った。

打者のわずかな動きから狙い球を見抜く観察眼とそれに基づく細やかで、そのくせ大胆なリード。低く安定した構えと巧みなキャッチング。魔物が棲むと言われる甲子園のマウンドで、自分が緊張に呑まれることなく投げ続けることができたのは山田がいたからだ。山田への絶対的な信頼がいつも自分を支えてきた。土壇場で自分を救ってきた。「山田が受けてくれるかぎり、おれは負けない」、本気でそう思うことができたのだ。

プロに入ってからも瓢箪さんや袖ヶ浦のような優れたキャッチャーに恵まれた。とくに瓢箪さんとの間には二軍から一緒に這い上がってきたという連帯感と揺るぎない信頼関係があったと思う。それでも新球団が出来てまた山田と同じチームで戦える、山田とバッテリーが組めると知ったとき、古巣のロッテへの愛着も夢だったメジャー行きもすべてがかすんでしまった。それだけ山田の存在は別格≠セった。あいつがいてくれれば、おれはどこまででも駆けてゆける。きっとどんな無茶な夢だって現実にしてみせる。山田を追いかけて追いかけて明訓でバッテリーを組んで、甲子園で4回の優勝を成し遂げたように。

里中は隣の山田を見た。山田もまた里中を見ていた。二人の目が合い、どちらからともなく微笑みを交わした。言葉に出さなくても目を見れば相手が何を言いたいかはだいたい分かる。あの頃と同じように。

――また、おまえと一緒に戦えるんだな。

 

さらにアンコール曲を2つほど演奏してコンサートは喝采のうちに幕を閉じた。興奮も冷めやらぬままに、山田と里中は楽屋を訪れた。

「殿馬!すごくよかったよ。特に最後の曲、あれは・・・」

「あれはおめえらの曲づらよ」

あっさりと言う殿馬に二人は顔を見合わせた。

「情熱的な右手、ときには右手を抑えときには一緒に走る左手、両方揃って初めて曲が成り立つづら。黄金バッテリーがあっての明訓であり、スーパースターズづらぜ」

「殿馬・・・」

今日の曲目はかつての明訓黄金時代に捧げたもの、そして最後の一曲はこれからの、新しい自分たちのチームを寿ぐもの。

殿馬が山田と里中に向かって両手を差し出した。

「これからもよろしく、づら」

「こっちこそ、よろしく」

二人は殿馬の左手と右手をそれぞれ握りしめた。

 


当初、問題の曲は普通にタイトルを出していたのですが、里中と山田のテーマ曲みたいに書いてしまったのがなんか気恥ずかしかったので後から削ってしまいました。たまたまテレビでこの曲の(納得いかない)演奏を耳にして、「殿馬だったらどう弾くだろーなー」と思ったのがきっかけで作った話です。

(2012年9月6日up)

 

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