Run,Run,Run

 

関東大会開幕から数日、山田は自室に引き上げようとしたところを太平監督に呼び止められた。

「山田、ちょっといいかの?明日のオーダー表のことで相談があるんだが」

「岩鬼じゃなくてぼくにですか?」

山田は意外の感を抱きながら太平のノートをのぞきこんだ。そこには三年生の引退後、太平が監督になって以来多少の変動はあったがこのところ固定しつつある打順が書き込まれていた。

「里中に関することはきみに相談するのが一番だからの。打順のここをこうして、こうしたいんだや」

山田は軽く眉根を寄せながら、太平が鉛筆を滑らせるのをじっと見つめていた。

 

『一番サード岩鬼くん、二番セカンド殿馬くん、三番レフト微笑くん、四番キャッチャー山田くん、五番ファースト上下くん――』

アナウンスの声に球場がざわつく。里中はどうした?三年の山岡の引退以来、主としてクリーンナップを打っていたのに。

『六番ライト蛸田くん、七番ショート高代くん、八番センター香車くん、九番ピッチャー里中くん』

さらにざわめきが広がっていく。確かに里中はピッチャーだが明訓でも屈指の好打者だ。山岡が抜けた現状で里中を9番に回すのはいかにももったいない。太平監督は何を考えているのか?

「何も驚くことはない。土井垣時代には里中は9番を打っていた。要するにその頃の打順に戻しただけのことだ。おれたちの作戦にはありがたいオーダーだぜ」

キャッチャー二岡の言葉にナインはにやりと笑顔を交わしあった。

 

『さあ一回表は明訓の攻撃からです。1番サード岩鬼くん』

悠々たる態度で打席に入った岩鬼は順当にど真ん中を三振した。殿馬もまだリズムを測ってる段階なのか見逃しの三振。しかし里中に代わって3番に入った微笑がセンター前ヒットを放ち二死二塁でさっそく山田の打席を迎えることとなった。

ピッチャーの一ノ瀬は打席の山田を見、二岡のサインを見て不敵な笑顔を浮かべると、第一球を投げた。

――ど真ん中だって?

130キロ台の、何の捻りもない素直な球が真っ直ぐに向かってくる。一球目は様子を見るつもりだったが、ここぞと山田は強振した。

『山田くん打ったー!打球は大きくスタンドへ向かって飛んでゆく。入るか?いや、わずかに届かない。フェンスに当たって跳ね返りました』

走ってきたライトがワンバウンドした球を捕球する。てっきりホームランと思った分だけスタートの遅れた微笑は懸命に三塁を目指して走る。ライトの送球よりわずかに早く三塁ベースを踏んだ。

『俊足の微笑くん、ギリギリ3塁セーフです。打った山田くんも1塁へ、ツーアウト1、3塁のチャンスです』

しかしバッテリーの顔に焦りの色はなかった。狙い通りだ。これまで山田に対してきたピッチャーは、プライドにかけて彼を打ち取ろうとしてきた。あるいは土壇場にあって心ならずも敬遠球を投げた。真っ向勝負か敬遠か。それよりもっと確実な山田攻略法がある。

『上下くん三振!明訓惜しくもこの回はチャンスを得点に結びつけられませんでした』

――絶好球と見せてその実わずかに力を抜いた球を投げた。釣られて強振しても力を抜いた分だけスタンドには届かなかった。ホームラン以外なら足の遅い山田では長打が長打にならない。出塁してもそうそうホームまで帰れない。この戦法を自分たちは明訓唯一の敗戦である弁慶高校戦に学んだ。

山田には打たれても良いのだ。ホームランにさえならなければ。むしろホームラン以外を打たせれば後ろの打者が走る妨げになる。山田を返せるだけの長打力のある打者が下位にはいない。いつも通り微笑が5番を打っていればまだ長打の可能性もあったが、里中に代わって山田の前に入った結果、もう誰も山田を返せる者はいなくなった。

――3番微笑、このオーダーが明訓の命取りになるぜ。

二岡はそっと忍び笑いを浮かべた。

 

1回裏、2回表はともに三者凡退に終わり、2回裏に4番がヒットを打ち5番が送るも、6番7番とあっさり凡打に打ち取られた。

「さすがに里中の球はそうそう打てんな。コントロールは抜群だし手元でぐっと伸びる」

「まして今日は9番だからな。ピッチングに専念しろってことなんだろうよ」

里中をまともに打つのは難しい。しかし里中がクリーンナップから抜けた分、明訓の得点力は落ちている。付け目はそこだ。ナインは頷きあってそれぞれの守備位置へ散っていった。

 

『3回表、明訓の攻撃は9番里中くんからです』

歓声を浴びながら里中が打席に入った。ピッチングに専念するための9番ならここは打たないだろう。いや里中の性格ならそれでも振ってくるか?思い巡らしながら一ノ瀬は第一球を投げた。ストライク。構えはヒッティングだがバットを振りもしない。やはり打つつもりはないのか。二岡のサインを見て慎重に第二球を投げる。

『あーっと、里中くんセーフティバント。一塁方向へ上手く転がしました。ファースト三池くんボールを追う、里中くん余裕でセーフです』

ち、と一ノ瀬は舌打ちした。ピッチングに専念するどころか塁に出る気満々じゃないか。幸い次の岩鬼はストライクを投げるかぎりはアンパイだ。警戒すべきはその次の殿馬。さらにそこから微笑、山田と続く。誰かに長打が、いや小ヒットが二つでも里中の足なら帰還できる。

「よっしゃあ〜!里中、わいがホームランで返したるで!」

大声でわめきながら岩鬼が打席に入ってバットを構える。コントロールに気を付けながら、一ノ瀬は第一球を投じた。予想にたがわず岩鬼は大空振りした。よし、と一ノ瀬はほくそえんで第二球を投げようとした。瞬間わあっと大歓声が沸き起こった。

『里中くん走った!岩鬼くん空振り、二岡くん急いで二塁へ送球、しかし足が早い、里中くんセーフです!一ノ瀬くん完全に意表を突かれました。それはそうでしょう。ピッチャーの里中くんがここで盗塁するとは誰も思わないでしょうから』

二岡は一ノ瀬と当惑の顔を見合わせていた。里中が盗塁だって?俊足の里中が一見無茶な走塁を足でセーフにする場面はこれまでにもしばしば見受けられた。しかしそれはツーベース級の当たりをスリーベースにするようなケースであって、ピッチャーという立場上か盗塁はほとんど行ったことがない。まだ3回、0対0で、ぜひにも一点が欲しいような場面でもないのに、なぜ貪欲に塁を稼ごうとする?セーフティバントでの出塁、そして盗塁。まるで1番打者のやることだ。

二岡ははっとした。明訓の1番打者岩鬼は当たれば大きいが、その当たりが滅多に出ないおよそ1番らしくない男だ。だから土井垣時代、実質的な1番は9番の里中だった。里中が突破口を開き、岩鬼は凡退しても殿馬が、山岡が山田に繋げた。さすがにあまり走ればピッチングに差し障るから盗塁まではしていなかったが、

――里中に全面的に1番打者の役割をさせる、そのための9番里中なのか・・・!

こんな調子ではピッチングに影響が出る。それで9回までもつのか?いや、

――もたせるつもりは、ないのか・・・?

二岡は明訓のベンチを見つめた。太平監督の隣で試合を見ている控えの一年生ピッチャー・渚の姿を。


岩鬼は三球三振に倒れ、一死二塁で殿馬が打席に入るのを見つめながら、山田は太平の作戦を思い返していた。

――里中は足が早いだろ。うちは足で掻き回されることはあっても掻き回したことはほぼないだや。足の早さじゃ香車が一番だが、あいつは塁に出るのがむつかしい。里中に足で掻き回す野球≠やらせてみたいんだや。1番に持っていってもええんだが、それじゃ狙いが見え見えだし、何でも1番が好きな岩鬼も納得せんだろうからな。

――それじゃ里中が9回までもちませんよ。

――もたんでもええだや。そしたら渚をリリーフで出す。次の夏にはきみらは引退だ。次期エースとして渚にもそろそろ大舞台の経験をさせておきたいしの。

足で掻き回す作戦で前半にまとめて点を取っておけば、渚がピッチャーでも十分しのげるはずだ。そう言った太平の判断は理論的には正しい。数学的理性というべきだろうか。しかし引退という言葉に山田は自分でも意外なほどのショックを受けていた。そしてその後に太平が続けた言葉にはそれ以上に――。

まいったな、と山田は苦笑した。おれはあいつとは違うと思っていたのに。目の前の試合しか見えない、その試合に全てを、投手生命さえ賭けて悔いるところのないあいつとは。

山田は二塁上で大きくリードを取っている里中を見つめた。里中が「今」しか見ようとしない分、自分が大局的に状況を判断し、彼にとっていい形になるように考えてやらなきゃならないのに、思ったより自分は冷静な性格ではなかったらしい。引退後のこと、来年のことなど今は考えられないし考えたくもない。今は一つ一つの試合に、高校野球に気持ちの全てを向けていたい。

バントに備えて、ナインは前進守備を敷いている。カウントは現在ワンストライク。

――打てよ殿馬。自分たちで里中をホームに返すんだ。

キィンと軽快な打球音が響いた。

 


一ノ瀬は大きくリードを取る里中を二度三度振り返った。まさかに連続盗塁はないだろうと思いながらも、予想外の盗塁を許したあとだけに、ついつい二塁に気がいってしまう。バンという力強い音が響いたのにびくっとする。二岡がミットを叩いたのだ。そして正面に目を戻した一ノ瀬に深く頷いてみせる。里中が走るようならおれが刺す。疑心暗鬼にならずに投げろ。そう言ってるように思えた。

そうだ、すっかり向こうのペースに乗せられていた。岩鬼はど真ん中ならまず空振りだ。警戒さえしていれば里中が走っても取ってすぐ刺せるはずだ。一ノ瀬は呼吸を整えて、素早いモーションからボールを投げた。

『岩鬼くん三振です。里中くんは二塁のまま。バッターに2番殿馬くんを迎えます』

これも嫌な打者だ。ある意味山田以上の癖者かもしれない。体が小さいだけに長打は少ないがミートの上手さは折り紙つきの殿馬は確実に里中を送ろうとするはずだ。ここはバントだ。二岡は立ち上がるとタイムをかけ、ナインを集め指示を出した。

『おっとこれはバントを警戒したか。内野を前進させました。外野もやや前に出て守っています。殿馬くん、この守備をくぐって打てるでしょうか』

里中が再び大きくリードを取る。これは振りだけだろうと二岡は読んだ。里中は殿馬の打撃を信頼している。盗塁するまでもなく殿馬が送ってくれると信じているはずだ。こちらも牽制は形だけで殿馬に打たせないことに集中するべきだ。二岡はアウトコース・ストレートのサインを出した。一ノ瀬が頷いてセットポジションから一球目を投げる。ストライク。殿馬はバットを振りもしない。第一打席と同じくリズムを見ているのだろう。今度はきっと打ってくる。構えはヒッティングだが、ぎりぎりでバントに切り替えるか長打を狙うかあるいは――秘打か。

緊張のうちに二球目を投じる。殿馬が素早くバントの構えに切り替える。来る。内野陣が爪先だった瞬間、殿馬は伸びあがるようにして力強く球を打った。

『殿馬くんプッシュバント!ピッチャーの頭上を越える、ピッチャー一ノ瀬くん体をのけぞらせて取るか、いや届かない。里中くん二塁をスタート、一ノ瀬くん起き上がってボールを拾い三塁へ、しかし足が早い、里中くんセーフ。その間に殿馬くんも一塁セーフです!明訓高校、一死1、3塁のチャンスで3番の微笑くんを迎えます』

してやられた、と一ノ瀬は臍を噛んだ。里中を3塁に進めてしまった。しかもまだワンアウト。長打もある微笑だが、ここはやはりスクイズで確実な一点を狙うところだろう。

微笑が打席でバットを構える。当然スクイズを読まれてるくらいは考えているはずだ。明訓ベンチの太平監督を見る。いつものように飄々と座っているばかりで特に何かサインを出している様子はない。

「三太郎〜!いっちょ打ったれや〜!!」

岩鬼がベンチで立ち上がり激を飛ばす。全くこの男は常に騒がしい。

いつも笑っているような微笑の顔に、それでもさすがに緊張がみなぎる。一ノ瀬は三塁をちらりと見てから投球に入る、ところへ里中がスタートを切った。

――初球スクイズか!?

あわててウエストに切りかえるが微笑は振らない。里中も素早く三塁に戻っている。

『一ノ瀬くんとっさにウエストに切り替えました。しかし里中くん走らない。ここはバッテリーが引っ掛けられました』

二岡は舌打ちをした。まんまとボールカウントを一つくれてやってしまった。次こそは走るか、それともそう見せかけてこちらの神経の消耗を狙うか――。

二岡はある可能性に気づいて息を呑んだ。走ると見せかけて最後まで走らず四球での出塁を狙ってるとしたら。だとすれば満塁で山田を迎えることになる。ホームランを打たれれば一気に4点だ。ホームランは抑えられたとしても凡打に打ち取らない限り確実に一点はもっていかれる。

スクイズはない。スクイズと見せかけての四球狙いだ。ならばここは真っ向勝負するしかない。微笑を凡打に抑えてダブルプレーにもっていければこの回山田に回らずに済む。

「なんや三太郎だらしないのう。絶好球やないけー!」

岩鬼がハッパをしごきながらでかい声で怒鳴っている。そりゃ悪球打ちのおまえにはそうだろうよ、と内心毒づいたところで、はっとした。ハッパをしごく仕草。あれがスクイズのサインだ。直感的にそう確信した。

二岡はサインを変更した。次こそはスクイズだ。ウエストしろ。一ノ瀬は緊張の面持ちで頷き、素早くモーションに入る。再び里中がスタートを切った。今度こそは来る。二岡が立ち上がり一ノ瀬が大きくウエストした。半分近くまで走っていた里中が一瞬動きを止める。かかった。そう思ったとき微笑がバットを伸ばしてボールに飛びついた。わずかにバットの先がかすったもののボールはバッターボックスのすぐ横に落ちる。しかし倒れこんだ微笑の体が邪魔になって二岡は一瞬ボールを見失った。

『二岡くん微笑くんの体を飛び越えてボールを探す、その隙に里中くんホームインです。倒れたままの微笑くんはタッチアウト。かろうじてスクイズ成功、体を張った微笑くんのファインプレーです』

二岡は悔しさに歯を噛みしめていた。あれだけ警戒して読み勝ってさえいたのに、それでも一点を入れられてしまった。明訓と言えば山田と岩鬼二人のホームランバッターに代表される猛打線のイメージが強いが、今日の明訓はホームランで一挙に点を入れるのではない、足と小技で稼ぐ野球を仕掛けてきている。

そういえば前年の関東大会の準決勝、山田が記憶喪失のために途中から出場した試合があった。山田不在の間攻守の両面で明訓は後手後手に回り、山田あっての明訓≠ナあることを印象づけた。

――山田に頼らずに点を取れる体制づくり。太平監督はそれを試しているのか?

ならば自分たちはその実験台ということになる。なめやがって。ふつふつと心中に怒りが湧き上がってくる。いいだろう。自分たちは山田の長打を封じる作戦を取っているが、それは向こうも折り込み済み、それだけでは勝てないというなら、また他にやりようはある。二岡は闘争心を胸にネクストサークルの山田を見据えた。

 

山田をライトゴロに抑え、上下をピッチャーフライに取って3回表は終了した。そして3回裏。打順は8番からだ。

『四谷くんバント、里中くんダッシュ、いやバットを引きました。ワンストライク。第二球、あっと今度こそバント、いやまたバットを引いた。ツーストライク』

よし、と二岡は内心に頷いた。里中の足を潰すために、そして投球を乱れさせて点を取るために、バントすると見せて里中を疲れさせる。それが彼らの作戦だった。この回は捨ててもひたすらバント攻勢をかける。疲労が蓄積してくれば自然球威は衰える。点を取るのはそれからのことだ。

『五島くんもバントだ、里中これを取って一塁へ。これでツーアウトです。8番9番と、ふり≠煌ワめたバント攻勢で里中くんに揺さぶりをかけています』

ネクストサークルで立ち上がった1番に監督がサインを送り、1番が頷いた。

『里中くん第一球投げた、1番七尾くんバント、あっ、今度はバントのふりではなく初球から本当に当ててきました。里中くんわずかに出遅れた、七尾くん一塁セーフです。』

狙い通りだ。本気でバントしてくる可能性を考慮しなかったではないだろうが、「偽バント」に馴らされた体が一瞬油断した。・・・これで次からはまた、バントに備えて一球目から本気でダッシュせざるを得なくなった。里中はあと何回ともつまい。

そちらが里中の途中交代を踏まえた作戦を打ち出してくるというなら、その交代の時期をうんと早めてやるだけだ。二岡は挑むように明訓ベンチの太平監督を見つめた。

 

2番打者はバントのふりを二球続けて三球目で当ててきたがこれはファールになりスリーバント失敗でアウト、チェンジとなった。出した打者は一人だけ、4人で終わったにもかかわらず、ダッシュを繰り返した里中は肩で息をしている。攻撃の間なるべく長く休みたいところだろうが、下位打線ではそれもむずかしい。蛸田が凡退、高代はヒットで一塁に出るも香車は三振、二死一塁で早くも里中に打席が回ってきた。

ゆっくりした動きでバッターボックスに入る里中の姿に、二岡は彼の疲労を見た。呼吸もまだ心なし荒いように思える。

打って出塁すれば走らざるを得ない。打たずに体力を温存しようとすればスリーアウトですぐ攻守交代、さっそく投げねばならなくなる。どちらに転んでも今の里中にはきついはずだ。

気楽に投げろ、と二岡はストレートど真ん中のサインを出した。一ノ瀬が笑顔で頷く。その表情には前の回にはなかった余裕がある。そうだ、上位打線に備えて今はあまり気を張りつめずにいけ。

初球から里中は叩いてきた。鋭い打球が1、2塁間を抜ける。高代は二塁へ、里中は一塁へ進む。

少しでも体を休めるために最低でも初球は見送ると思ったがその裏をかかれた。しかも高代が前にいなければ一気に二塁を目指したかもしれないほどのダッシュ。とことん攻撃的な男だ。どうせ次の岩鬼でチェンジになるというのに。バッテリーは予定通り岩鬼を三振にとってこの回を終えた。

 


『3番六田くんまたもファール。すでに6球連続でファールにしています。六田くんねばります。対する里中くんも疲労の色が顕わながらも失投なく頑張っています。』

バントの次は徹底したファール作戦か。山田は小さくうめいた。3番打者ともなれば里中の球をそうそう打つことは出来ずともカットまでならできるということか。里中はロージンを手にしながら荒い息をついている。このままじゃ限界は近いだろう。本当なら遊び球は投げさせたくないところだが――山田はしばし考え、サインを出した。

『おっと里中くん大きく球が外れました。山田くん飛びついて止めた。さすがに疲れてコントロールが狂ったか。8球目、またも大ボールです。』

打ち気をそらすために二回大ボールを続けた。それからストライクゾーンをぎりぎりそれた外角へのカーブ。大ボールに慣れた後の目がストライクと誤認して振ってくれれば儲けものだ。

『9球目、六田くん大きく振りにいく、いや途中でバットを止めました。ボールです。これでツースリー。お互い後がありません。根競べの軍配はどちらに上がるか!?』

――たいした選球眼だ。これで次はストライクを投げざるを得なくなった――と六田は思っているはずだ。

山田のサインに里中は見開いたが、すぐにこくんと頷いた。そのままワインドアップから白球を投じる。ぎりぎりボールになるストレートが来る・・・はずだった。

『ボール!フォアボールです!里中くん疲れで手がすべったか。息詰まる攻防は六田くんの勝利に終わりました。』

里中が悔しそうに地面を蹴る。ボール球を振らせて凡打に取ろうというのが山田の作戦だった。疲れきっていてもそうそう乱れることはない里中のコントロールを信じての一球だったが、予想より5cmほども外れてしまった。これまでに蓄積された疲労は想像以上だったということだろう。次は4番の九谷だ。4番打者ともなれば一発がありうる。気持ちを切り替えていかないと一気に逆転される恐れがある。山田はマウンドへと駆け寄った。


監督のサインを横目で見ながら九谷は打席に入った。正面に立つ里中は先の打席でねばられたせいで目に見えて疲労している。山田がフォローしていたものの、フォアボールを出してしまった精神的ショックも残っているだろう。力のない球が来たら、一気に勝負に出る。九谷はグリップをしっかりと握り直した。

セットポジションから里中が第一球を投げる。スピードの乗った、しかしストレートほどには早くない――里中得意のシンカーだ。とっさにそう読んだ九谷はボールがベース手前で落ちかけたところにバットを出した。力のない球が来ればフルスイング、しかし力のある球を投げてきたならバントで確実に六田を送れ。それが監督の指示だった。それが里中をなお精神的に追いつめることにもなる。

まさか4番打者がバントしてくるとは思わなかったのだろう。前の打席の疲労も手伝ったのか、あわてて前に出ようとした里中が足をもつれさせて前に倒れる。これなら自分も一塁に間に合うかもしれない。すでに六田が余裕で二塁へ進んでいるのを目の端に捉えながら九谷は全力で一塁を目指した。が、その時倒れながらも体を伸ばしてボールを取った里中が、右手をついて体を支えながら一塁へ向けてグラブトスした。力の入らない送球は一塁まで届かなかったが、上下がせいいっぱい体を伸ばしてこれを捕球した。

『アウト!わずかにボールが早かった。里中くん上下くん双方のファインプレーです!』

九谷は軽く舌打ちして、マウンドの里中を見やった。まだ地面に膝をついたまま肩で息をしている。これだけ疲れていながら大した奴だ。まあもともと自分はアウト覚悟だったのだ。里中の疲労を上乗せしただけ良しとしよう。九谷はせいせいした気持ちでベンチへと歩いていった。

実際、この二打席での疲労は如実に投球に表れた。5番三池が打ったライナーは普通なら三遊間を抜けるところを岩鬼のファインプレーにはばまれたが、続く6番の二岡がライトゴロを打ち、二岡は二塁で差されたものの六田はホームイン、この回一点を返し同点に追いついたのだった。

 

5回表は殿馬の打席から始まった。殿馬がヒットで出塁、続く微笑は凡フライに打ち取り、一死一塁で山田を迎えた。例によってとにかくホームランを打たせないだけを狙って、わずかにスピードを抜いた球を投げた。山田は勢いよくこれを振った。一瞬ヒヤッとするような当たりだったがファールラインを大きく切ったのにホッとする。しかし二球目もファール、三球目も、と続くとさすがに一ノ瀬は顔がこわばってきた。

あの山田なら、ホームランはともかくとっくに打っているはずだ。認めるのは悔しいが、自分の球には山田を完全に抑えられるような、そこまでの力はない。山田はわざとことごとくファールにしているのだ。まるで里中がされたことをそのままやり返すかのように。

おれを疲れさせての失投を狙ってるのか?それとも攻撃を長引かせて少しでも里中を休ませようと時間稼ぎしてるのか?おそらくその両方だろう。さすがにこのまま粘られたのではもたない。いっそフォアボールで出塁させるか?後は下位打線だ。一死1、2塁になっても山田を返せるバッターはいない・・・。

迷いながら投じた一球を、にわかに山田が正面に打った。鋭い打球がワンバウンドでピッチャーの股間を抜け、そのまま外野まで飛んだ。センターが捕球するまえに殿馬はすでに二塁を蹴っている。そのまま余裕のタイミングで三塁に到達した。一方の山田は無理をせず一塁に留まっている。

助かった、と一ノ瀬は大きく息をついた。もう少し捕球に手間取ったら殿馬の足ならホームインされていたかもしれない。おそらく次の上下はスクイズをやってくるだろう。ベンチを見ると監督のサインもスクイズ警戒を告げている。二岡と目を合わせ頷きあう。

『ストライク!上下くん大きくスイングするが空振りです。一ノ瀬くん、4回表に高代くんにヒットを打たれたほかは明訓の下位打線を完全に抑えています。』

上下は大きく振ってきた。しかしこれはスクイズはないと見せかけるための作戦だ。二岡は大きくリードを取っている殿馬の顔をうかがった。わからない。この男のポーカーフェイスからは何も読み取れない。しかし状況から見て殿馬は必ず走ってくるはずだ。一ノ瀬が警戒しながら第二球を投げた。

瞬間殿馬がスタートを切った。一ノ瀬ははっとした。すでにボールは手を離れている。ウエストするには間に合わないが殿馬だって間に合わない。このタイミングではホームに着くよりボールの方が早いはずだ。一ノ瀬は勝利の予感に右拳を握ったが、殿馬は途中でくるりと三塁に引き返し、上下はあっさり空振りした。

一ノ瀬は拍子抜けした。なんだいったい。こちらを苛立たせる作戦か?三球目。ふたたび殿馬は走るそぶりを見せたものの今度はスタートを切りもせず、上下は三振に終わったのだった。

『上下くん三振。明訓二死1、3塁で6番蛸田くんをむかえます』

打席に入った蛸田はストライクゾーンに体をかぶせるように構えてきた。その表情はいくぶん引きつっている。打てないならデッドボールででも出塁する覚悟ということか。いい度胸だ。二死ならスクイズはまずない。ならば真っ向から打ち取ってやる。

一ノ瀬はワインドアップに構えた。瞬間殿馬がスタートを切った。ホームスチール!?下手にモーションを止めればボークになる。しかし今から動きを止めずにウエストに切り替えることもできずに、一ノ瀬はそのまま決め球のストレートを投じる。しかしホームスチールに驚いた焦りが球に出たのか、思ったよりスピードが乗らず、二岡のミットに収まった一瞬後には殿馬がホームに滑りこんでいた。

『殿馬くんツーアウトからホームスチール!二岡くんタッチ間に合わず、セーフです。明訓1点を追加しました!』

愕然とするバッテリーを殿馬は涼しい顔で眺めて、

「秘走『運命』づらぜ。里中ばかり走らせてもいられねえづらからな。」

飄々とうそぶいて見せたのだった。

 

結局蛸田を三振にとって5回表を終わったものの再び一点差になってしまった。5回裏、攻撃は7番一ノ瀬からだ。打順も回らずしばらく休めたはずの里中の球を打てるかどうか。

その心配は現実のものとなった。一ノ瀬は再びファールで粘る手に出たものの、後方に飛んだ三球目を果敢に追いかけた山田に捕球されアウト。8番四谷はバントすると見せてバットを引き、里中のダッシュを誘おうとするが、里中は全く動こうとしない。自分を疲れさせるための振りだけと見切られている、ならば今度は二球目から本当にバントだ。勢いこんでバントしたものの、里中ではなく山田が素早く飛び出してきてキャッチ、一塁送球でアウト。

里中の疲労を誘う打球は全部自分がさばくということか。大した恋女房だぜ。二岡は同じキャッチャーとして山田の心意気と、その強肩、巨体に似合わぬ軽快なフットワークにしばし感じ入った。

ファールで粘るのもバントも駄目とあって、やむなく正面から打ちに行った五島はファーストフライに打ち取られ、××高の攻撃は早くも三者凡退でチェンジとなったのだった。

 

6回表、先にヒットを打たれただけに下位の中では警戒していた高代を三振に取り、8番香車の打席を迎えた。

「香車〜!一丁頼むぜ!」

ネクストバッターズサークルの里中が明るい声をかける。里中があんな大声で激を飛ばすのは珍しい。それだけ期待できるバッターなのか。先の打席を見るかぎりでは大したバッターとも思えないが、夏の大会に出場していなかっただけに未知数には違いない。警戒の視線を飛ばすとちょうど香車と目が合った。香車はニヤリと不敵な笑みを浮かべるとバッターボックスの端ぎりぎりに立った。

――なんだこれは?長身でリーチがあるとはいえ、これじゃアウトコースは完全に届かないじゃないか。

――落ち着け一ノ瀬。これはアウトコースを投げさせるための罠だ。

恐らくアウトコースに自信のある男なのだろう。だから好みのコースに投げさせるためにこんな奇策に出た。そうとしか考えられない。二岡はサインを送った。ここはあえて逆を突く。インコースのストレート。一番威力のある球をかましてやれ。

一ノ瀬は頷いてボールを放った。香車はバットを構え体を内側へぐっと乗り出した。だぶついたユニフォームをボールがかすめる。

「デッドボール!」

高らかに宣言する審判に一ノ瀬が目を剥いた。

「どうしてですか!?明らかにストライクゾーンへかぶさってきたんだから、ぶつかってもストライクのはずです!」

「いいや、バッターボックスから体は出ておらん。デッドボールだ!」

「そんな・・・」

なお言葉を接ごうとする一ノ瀬に、二岡は大人しくするようジェスチャーを送る。審判の言う通りだ。香車はバッターボックスから出ていない。ボックスの端に立っていたためにストライクゾーンの目測を誤ったのだ。

――デッドボールを誘うために端に立った、それを見抜けずインコースを指示したおれの読み違いだ。

二岡は忸怩たる思いに唇を噛み締めた。

 

香車が一塁へ走り、里中が打席に入る。ここからは実質上位打線だ。今日の里中は走ることに重点を置いている。香車を送るだけでなく自分も出塁しようとするだろう。ヒッティングか、それともセーフティーバント・・・。いっそ出塁させ走らせて疲労を誘う手もあるが、里中の足では本当に点を入れられかねない。一点差をつけられている状況ではリスクは避けた方がいい。やはり打たせないことだ。

一ノ瀬はセットポジションから第一球を投げた。ストレートと見せた内角へのシュート。上手く引っかかってくれるか。客席がにわかにどよめいた。二岡が驚いた顔を一塁方向へ向ける。走る素振りも見せていなかった香車がいきなり二盗を試みたのだ。速い。里中よりさらに。二岡が二塁へ送球しようと立ち上がったときにはすでに二塁ベースへ到着している。

――香車の武器は足だったのか!

里中はバットを振りもせず悠然と立っている。このうえ里中にまで出塁されたらダブルスチールもある。里中は塁に出せない。緊張のうちに、二塁にも注意しながら第二球を投げる。盗塁を警戒して一番早いストレートをアウトコースへ。

『一ノ瀬くん第二球投げた、あっと香車くんまたも走った。今度はバッテリーも警戒している、二岡くんただちに三塁へ送球、しかし香車くんの足が早い、セーフ、セーフです!』

一ノ瀬は愕然と三塁を見やった。わずかツーストライクの間にもう三塁に来ている。何て奴だ。里中はあいかわらずバットを振りもしない。しかし次はきっとスクイズをやってくる。この状況なら自分で走るより体力を温存して確実に一点を狙ってくるだろう。二岡に目をやると、思いは同じなのか静かに頷いた。

 

『一ノ瀬くんウエストボール、これでウエスト3回目です。間で三塁への牽制も繰り返しています。連続盗塁を見せつけられた後だけに相当警戒している様子です。』

次は岩鬼だ。ど真ん中を投げる限り岩鬼は心配ない。このままフォアボールで里中を歩かせ、岩鬼で勝負するか?それでも殿馬に回ってしまう。さっき本盗で一点をさらっていった殿馬――。二岡は歯噛みした。香車、里中、殿馬。明訓きっての俊足連中の打席が集中している。こいつらに次々に走られたら。やはり里中はアウトにとるべきだ。向こうもこのまま歩かされる可能性を考えているだろう。その油断を突くんだ。

二岡のサインに一ノ瀬は頷き、セットポジションから可能な限りの、渾身のストレートを投げた。里中がバントの構えに変える。香車がスタートを切る。よし。この球威ならスクイズを狙っても小フライになるだろう。そうしたら里中を、さらに香車をホームでタッチアウトにできる。二岡は捕球に備えて腰を浮かせた。

そのとき、里中がバットを引くとボールを打った。狙い済ましたような力強さ。いやスクイズと見せて最初からヒッティング狙いだったに違いない。鋭い打球が二遊間を抜ける。

『里中くん打ったー!センターがボールを追います。香車くん余裕でホームイン。里中くん一塁を回り二塁へ、センター八塚くん、今ボールに追いついた。里中くんすでに二塁も蹴った。三塁へ送球、タイミングはギリギリだ。里中くん頭からすべる、三塁五島くんタッチにいく、・・・セーフ!里中くん三塁打、明訓3点目です。』

やられた。まんまとしてやられた。あの明訓を相手に2点差。まだ一死でしかも里中が三塁にいる。一ノ瀬が不安も顕わな目を向けるのへ、二岡はタイムをかけて駆け寄った。弱気になるな。5回までの疲れが蓄積してるうえ三塁まで走った直後の里中はまだ息も整っていない。さすがに今本盗はやってこない。岩鬼はストレート一本で打ち取れる。問題は殿馬だが・・・それはまた後のことだ。

二岡の言葉に一ノ瀬は少し顔色を取り戻し頷いた。苦しいがここは踏ん張るんだ。この調子なら里中は9回持たない。必ず捕まえられるはずだ。

 

一ノ瀬の投げたど真ん中のストレートを岩鬼は大きく空振りした。こいつは難なく取れる。一ノ瀬は幾分気をよくして同じコースへ第二球を投げた。またも大きく空振り――したはずが、勢いが良すぎて360度回転したバットがボールをかすめた。怪我の功名と言うのかちょうどバントしたような格好になり、ボールはマウンドとホームの中間あたりに転がる。岩鬼版秘打回転木馬づら、ネクストバッターズサークルの殿馬がぼそりと呟いた。

三塁の里中がスタートを切った。やはり。この好機を逃すような男じゃない。すでに予期していた二岡はいち早くボールに飛びつくと、岩鬼は無視してホームベース前に立ち塞がった。身を翻して三塁へ戻ろうとする里中を追ってタッチしようと右腕を伸ばすが、里中は軽く体を仰け反らせてかわす。さらに腕を伸ばすのもバックステップでかわすと、目標が外れ前につんのめった二岡の隙をついて脇をすり抜け、一気に本塁を目指そうとする。

「なめるな!」

二岡は素早く体を反転させ、まさにホームベースに駆け込もうとしていた里中の体に飛びついた。二岡にのし掛かられた形で里中の体が地面に倒れる。

『アウト!里中くん惜しい。わずかに手が届きませんでした。二岡くんの執念の勝利です。この間に岩鬼くんは二塁へ進んでいます。』

二岡は体を起こしながら一ノ瀬の顔を見た。血の気を失いかけていた顔に安堵の微笑みが広がっていく。二岡は軽くガッツポーズで応えた。それからやはり体を起こそうとしている里中を見下ろす。立ち上がり上半身の汚れを払うその顔がわずかに顰められたのに二岡は目を留めた。

二岡のファイトは一ノ瀬にも伝染したらしい。二塁には岩鬼がいる。岩鬼も塁に出せば果敢に走ってくる油断ならない男だ。いまだピンチは続いているのだが、一ノ瀬は動揺することなく、殿馬にはセーフティバントで出塁されたものの微笑をセンターフライに取って、山田に打席を回さずにこの回を一点に抑えたのだった。

 

続く6回裏、これまでの明訓優勢の風向きが変わりはじめた。結局得点は成らなかったものの、1番、3番とヒットを放ち、4番の九谷の打球も微笑のファインプレーがなければホームランになっていただろう。

里中の球威が落ちてきている。それは単に疲労のためではないと二岡は踏んでいた。本塁前でのクロスプレーの時、里中はどこか痛めたのではないか。一瞬の里中の表情がそれを物語っているように思えた。このまま里中が崩れれば、控え投手の渚に交代すれば勝機はある。いや必ず勝ってみせる。そのためにもこれ以上追加点はやれない。

その決意通りにバッテリーは7回表、先頭打者の山田をセンターライナーに抑え、打者4人でその回を終えた。7回裏、マウンドに上がった里中は、2点のリードにもかかわらず表情がこわばっている。里中の限界は近い。この回で打ち崩せ。監督の言葉にナインは力強く答えた。


里中の様子がおかしい。それは山田も感じていた。ただの疲労じゃない。さっきのクロスプレーでどこか打ったのだろう。里中は何も言わないが、おそらく結構な痛みがあるのではないか。山田はそっと溜息をついた。里中はいつもそうだ。回りが気づくまで自分からは痛いとか苦しいとか決して口にしようとしない。そのために怪我を悪化させることもしばしばだ。

体が辛いときはせめて自分にだけは言っておけと叱るのが本当なのだろう。しかし山田はあえてそうしてこなかった。一人黙って痛みを背負いこみマウンドに立つ、そんな極端に負けず嫌いの性格こそが、体格に恵まれない里中を「小さな巨人」と呼ばれるほどのピッチャーたらしめているのだから。山田は昨日の太平監督の言葉を思い返した。

 

「きみや岩鬼は当然卒業後プロに行くんじゃろうが、里中もやはりプロに入るつもりなんじゃろうかの」

山田ははっと息を呑んだ。岩鬼は以前から何かにつけ自分はプロ級だの高校を中退してプロに入るのと豪語しているが、里中とはそういう話をしたことがなかった。冗談で将来プロで対戦したら互いをどう攻略するかなんて口にすることはあっても、ちゃんと真剣に現実問題として語り合ったことはない。来年の今ごろには否応なく突きつけられる問題だというのに。

「知ってのとおりわしは野球は素人だがの、テレビの中継を見てもプロの投手ちゅうのは大体上背があるもんじゃろ。野手なら小さい奴も結構いるようだがな」

山田は冷水を浴びせられたような気がした。監督は里中がプロでは通用しないと言いたいのか。

「本で読んだんじゃがの。高校ではピッチャーをしてたが、プロでは打者転向ちゅうのはよくある話らしいだや。里中には足がある。打つ方でも頼りになる。来年のドラフトを意識するなら、ピッチング以外の能力もこう、アピールしておいた方が有利になるだや」

「・・・・・・」

「わしは監督である前に教師だがや。教え子の進路のことはちゃんと考えてやらんと、な。少しでも可能性が広がるように」

監督の言葉には悪意も毒もない。この人は純粋に里中を案じてくれているだけだ。そうわかってはいても山田はショックを拭えなかった。確かに里中は投手としては小柄だ。入学当時に比べれば大分背も伸びたし筋肉も付いてきた。右ヒジのリハビリで世話になった小泉先生の栄養指導に従って、魚も残さず食べるようになった。今ではクラスの男子と比べても体格的に決して劣ってはいない。しかし野球選手、それも投手という括りで見るならば――白新の不知火や東郷の小林とは骨格からして違っていると言わざるを得ない。持って生まれた体質は完全に変えられるものじゃない。

監督の言う通り、高校はピッチャーだったがプロでは野手・バッターとして成功した例はいくらでもある。あの王貞治選手だって高校時代はピッチャーだったのだ。それでも山田にはピッチャーじゃない里中というのは想像がつかなかった。どんな苦痛にもハンデにも負けずマウンドを守り抜く。それこそが里中であるはずだった。

先のことはわからない。プロの世界はそんなに甘くはない。それでも明訓にいる間は――里中はマウンドの上にこそいるべきだった。太平さんは教師として里中の将来を考えると言った。ならば自分は女房役として、あいつのために出来ることをすればいい。まず今はあいつの体に負担のかからないリードをすることだ。山田は自分自身を納得させると、里中にサインを送った。


監督の指示通り××ナインは果敢に打ちに行った。下位打線にもかかわらず意外なほどボールに当たる。守備陣のファインプレーに阻まれて長打にこそならないが、里中の不調は隠しようもない。二死二塁で9番五島がバッターボックスに入る。ここで上位に繋げればこの回で逆転もできるかもしれない。

甘く入った内角へのシュートを五島は引きつけて打った。真正面へのピッチャーライナーになる。里中はとっさにグローブを出し打球をキャッチした。が、そのまましばし硬直する。左手が小刻みに震えているように見える。――怪我は左手か。

二岡は二塁上の一ノ瀬と目を見交わした。どちらからともなく笑みがこぼれる。結局無得点でチェンジになってしまったが、それだけの収穫はあった。今の捕球がとどめだ。これで里中は降板する。

――この試合、勝てる。あの明訓を自分たちが破るんだ。

 

『8回表、明訓高校の攻撃です。8番センター香車くん』

バッターボックスに入った香車を二岡は見上げた。先程とんでもない俊足を見せ付けた男。間違ってもこいつは塁に出せない。もっとも8番を打っているくらいだし、さっきの出塁もデッドボールだった。こいつが出るには四死球を誘う以外はセーフティバントしかない。バントできないような全力の球で来い。二岡のサインに頷いた一ノ瀬は、ワインドアップから最高の速球を投げた。

140キロのストレートをど真ん中へ。予測どおり香車はバントしてきたが、ボールの威力に押されてキャッチャーフライになった。まずはワンアウト。二岡はそっと息を吐き出し、ネクストサークルの里中が立ち上がるのを見た。

すぐにも渚と交代するかと思ったが、打率の高い、今日は足でも活躍している里中を打席が回る前に交代させるのはもったいないと判断したのだろう。しかし左手を負傷していれば打球を引っ張ることができない。里中も香車同様バント狙いだろう。それさえ左手に力の入らない状態ではままならないはずだ。すぐに里中を代えなかった、その判断を後悔させてやる。

一ノ瀬はワインドアップから第一球を投じた。香車に対したのと同じど真ん中への速球。一球目は振らずに見逃す。タイミングを計っている。あと二球のうちには確実にバントしてくる。一ノ瀬は振りかぶって第二球を投げた。同じコースへ渾身のストレート。――意外にも里中はヒッティングの構えから鋭くバットを振ってきた。

強振されたボールが三塁方向へ飛ぶ。しかし振りの鋭さの割りにボールが飛ばない。左手の握力が落ちているためにミートの瞬間にバットから力が抜けたのだ。バントしても今の自分の握力なら香車と同じように打ち上げるのが関の山だ、里中はそう判断してヒッティングに出たのだろう。実際強振してもやっとバント程度の打球にしかならなかった。

『里中くん懸命に一塁目指して走ります。サード五島くんボールを拾って一塁へ、送球が高い、一塁三池くんジャンプしてキャッチ、この間に里中くん一塁に滑り込んだ。セーフ!ジャンプした分だけ里中くんの手が早かった。・・・しかし里中くん起き上がらない。どこか怪我でもしたんでしょうか?』

やっちまったな、と一ノ瀬は内心呟いた。傷ついた左手でピッチャーライナーを捕球、サードへヒッティング、さらには滑り込み。これじゃ明日以降の試合も投げられるかどうか。いや、明日以降などない。勝つのは自分たちなのだから。里中が右手で体を支えるようにしてようやく起き上がった。様子を気遣う審判に右手を軽く振ってみせて、左のヒジの下を押さえながら、青ざめた顔でベンチへ歩いていく。これで渚に交代だ。あいつの足は果たしてどんなものだろうか。一ノ瀬の考えを遮るようにアナウンスの声が響いた。

『明訓高校、里中くんの怪我の治療のため、特別代走、香車くん。』

バッテリーは目を剥いた。渚と交代じゃないのか?また次の回も投げるつもりなのか?それ以前に香車が代走だと!?

二人は飄々と一塁ベースに向かって歩く香車を見つめた。その顔には不敵な、打者としての香車にはなかった自信に満ちた笑みが浮かんでいる。

まさか里中の奴、香車を塁に出すために大げさに痛がってみせて引っ込んだんじゃないだろうな・・・!?疑心を胸に二人は明訓のベンチで山田の手当てを受けている里中に目をやった。


『あっと香車くん走った!6回表に続いてここでも盗塁。二岡くん、急いで送球するが間に合わない。二塁セーフです!』

「まったく大したもんだよ香車のやつ。走るとわかっててもあいつの盗塁はちょっと防げないからな」

「あとはこれで自力で出塁できるようにさえなればな。バントをもっと練習させないと」

手当てをしながら山田は里中の言葉に相槌を打った。痛み止めのスプレーが効いたのか、里中の表情は大分和らいでいる。

「痛みはどうだ。次の回行けそうか?」

「ああ。左手だし、単なる打ち身だからな。当面の痛みさえ止まれば大丈夫。この春みたいな事にはならないさ」

里中は軽く笑って見せた。実際の痛みがどんなものなのか、それは里中にしかわからない。里中が大丈夫と言う以上自分はそれを信じるしかない。幸い現在2点をリードしている。この調子ならここで香車がさらに1点入れてくれるだろう。気持ちの上でも体力的にも楽なピッチングができるはずだ。もともと里中が足で稼ぎながらでもちゃんと9回を完投できるように流れを組み立ててきたのだ。――春の土佐丸戦のときとはちがう。もうあんなことには絶対にさせない。

渚と交代させるという選択肢は考えなかった。里中が投げられると言うかぎり、明訓のマウンドは里中のものだ。来年のことは来年考えればいい。今はこの一戦を勝ち抜くことだ。里中と一緒に。

『岩鬼くん空振り、香車くんまたも走る、速い、実に速い香車くん、三塁もセーフです!』

 

――まったく山田のやつめ。

笑顔で言葉を交わしている山田と里中を視界の端に捉えながら太平は苦笑した。渚と交代させるのでなく特別代走を出そうと言ったのは山田だった。香車の足を生かすためだと山田は説明したが、何のことはない、山田は里中を交代させる気などさらさらないのだ。投手として以外の里中の可能性を知らしめたい、そう言った自分の言葉に対抗して、明訓のピッチャーは里中でなくてはならない、里中は投手でしかありえないと主張するかのように。

そもそももっと点差が開いていれば早々に渚を登板させてもよかったのだ。向こうのバッテリーが山田の長打を完全に封じていたためそうもならなかったが。

――まさかそのために本気で打たなかったというわけではあるまいがの。

まあ山田の判断が「里中完投」だと言うならそれもいいだろう。里中のことは山田に任せておくのが一番確かなのだから。

『香車くん走ったー!!二岡くんタッチにいくが、そのミットを蹴った。二岡くん落球、香車くんホームイン、明訓4点目です!!』

 


あまり盗塁シーンを見ることのない里中の俊足を生かした話を書きたくて考えた話です。ついでに盗塁といえばこの人、の香車、未来の盗塁王・殿馬にも走りまくってもらいました。

(2011年5月21日up)

 

一回表、岩鬼三振、殿馬見送り三振、微笑センター前ヒット、山田絶好球と見えたチェンジアップをホームランならずフェンスにあたり一塁へ(ツーアウト1,3塁)、上下三振。1回裏、1,2,3凡退。2回表、蛸田、高代、香車凡退、2回裏、4番ヒット、5番バント(一死2塁)、6、7凡退。3回表、里中セーフティバント、岩鬼三振(里中二盗)、殿馬プッシュバント(一死1,3塁)、微笑スクイズ、外されるも強引に飛びつき、当たらなかったものの三太郎が邪魔になってキャッチャーが取りそこない里中ホームイン微笑アウト(二死ワンストライク2塁、1点)、山田ライトゴロ、一塁、上下ピッチャーフライ。3回裏8、9番バントの振りで里中を前進させるも凡退。1番セーフティバント、2番スリーバント失敗。4回表蛸田凡退、高代ヒット(1死1塁)、香車三振、里中ヒット(二死1,2塁、前がいるため盗塁できず)、岩鬼三振。4回裏、3番ファールでねばる(疲れさせる作戦)フォアボール出塁。4番ホームランを警戒して渾身のシンカー、しかし意外にもバント、里中意表をつかれたのと前の打席で疲れていたため動きが遅れるもかろうじてアウトにする(1死2塁)、5番三遊間抜ける球を岩鬼のファインプレーにはばまれる。(二死二塁)、6番ライトゴロ(二塁ランナーホームイン、ランナーを二塁で殺してチェンジ)(1−1)、5回表、殿馬ヒット1塁、微笑凡フライ、山田ファールでねばって(里中を休ませるための時間稼ぎ)二塁打、殿馬3塁山田1塁(1死1,3塁)、上下三振だが殿馬ホームスチール(2死1塁)(2−1)、高代三振。5回裏、7番ファールでねばろうとするも三球目で山田に捕球される。8番バントをすると見せかけて里中を動かそうとするが里中動かず、本当にバントしたところを山田に差される。(ツーアウト)、9番ファーストフライ。6回表、高代凡退、香車デッドボールで出塁。里中ワンストライクのうちに二盗、ツーストライクで三盗、ピッチャー、香車に牽制を繰り返しスクイズ警戒のウエストボール3連発。渾身のストレートを投げるも狙い済ました里中に三塁打(一死3塁、1点)(3−1)、息の上がっている里中はさすがに本盗はないだろうと岩鬼にストレート攻め→岩鬼版秘打回転木馬、里中ホールスチール、キャッチャーが素早くボールにワンバウンドで飛びつき里中の前に立ち塞がる、戻ろうとする里中をサードとの間で追いつめるが里中はタッチをかわして本塁へ走ろうとする、キャッチャー飛びついて里中を引きずり倒す(2死2塁)、ピッチャー勇んで殿馬には出塁されるも、微笑センターフライ(3−1)、6回裏、1番ヒット、2番ピッチャーフライ、3番ヒット、4番ホームラン性の球を微笑に阻まれる(二死1,2塁)、5番凡退。7回表、山田センターライナー、1塁へ、上下(結果的に)バント、山田2塁アウト、上下一塁セーフ、(1死1塁)、蛸田、高代凡退。7回裏、6番二遊間を抜けるはずのライナーを殿馬に阻まれる。7番ライトゴロ、(1死2塁)、8番サードフライ、9番ピッチャーライナー。里中取るもしばし硬直(左手のケガ?)8回表、香車バント失敗、里中サードゴロ、一塁滑りこみセーフだが左手の痛みを訴え、特別代走香車。

 

1番七尾(レフト)、2番八塚(センター) 3番六田(ショート)4番九谷(ライト) 5番三池(ファースト) 6番二岡(キャッチャー) 7番一ノ瀬(ピッチャー) 8番四谷(セカンド) 9番五島(サード) 

 

 

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