『プロ野球編』の里中について

 

「里中 智」で書いたように基本的にプロ編の里中は次第に精彩を欠いていった感を持っているのですが、初期の彼は結構というか相当好きです。体格に恵まれないための苦悩や無印に通じる情緒不安定さや生意気さもちゃんと描かれていて。
『大甲子園』の里中もそれはそれで大好きなんですが、精神的に安定してる分、無印時代の情緒不安定ゆえの色気(高一夏と高二春の土佐丸戦に顕著)が消えてしまってるのが残念な部分でもあった。その点『プロ野球編』ではだいぶ揺り戻しがきたというか、キャラ的に無印に近くなっている。99年のオールスターの時、巨人の松井(以降実在人物も基本敬称略)に「里中 来年は必ずスカイフォークをスタンドに入れてやるぜ」と言われて「はい ぼくも今度は三振にとれるように腕を磨いてきます」と笑顔で返し、松井が内心「かわいい顔しやがって一言多いんだよ」と思うくだりでは「この生意気っぷりこそ里中!」とすっかり嬉しくなったものです。
(松井は95年のオールスター最後の打席で初公開だったスカイフォークに度肝を抜かれた経緯があり、それ以来スカイフォーク攻略に燃えている設定で、96年のオールスターでも「おまえが推薦されて一番喜んでるのはこのおれだぜ おまえのスカイフォークに会えれば・・・・・・ それが今年の全てだ」なんて思ったりしている。この99年オールスターにしてもスカイフォークしか打つ気のない松井が3球連続のストレートをすべて見逃し「お前らスカイフォークで勝負しないのか おれのリベンジから逃げるのか 見損なったぜ」と腹を立てる場面があります。結局3球目は審判にボールとカウントされたので4球目でスカイフォークが来てセカンドフライに打ち取られるのですが)

ビジュアル的にも無印に回帰してる印象です。『大甲子園』だと睫毛が描き込まれてなくてその分男っぽい感じになってたんですが、『プロ野球編』ではやはり睫毛長めなことが多く表情によっては女の子のように見えるときもしばしば。上で引いた台詞にもあるように「かわいい顔」という表現がぴったりです。特に初期は無印にもまして思い悩むシーンが多いだけに、不安そうな苦しそうな表情が少女さながらのはかなげな雰囲気を醸し出していました。

この「不安」は高卒後すぐプロ入りできるだけの実力があるのかという疑問、実際プロ入りしてみてその心配が的中したことに由来しています。ドラフト会議の前後、ロッテに3位で指名を受けながらも、皆で集合写真を撮るときの里中の表情は曇りがちで笑顔もこわばっている。その後ストーリーはもっぱら山田を軸に岩鬼や殿馬の活躍も挟みつつ進み、里中はCMの話やら開幕戦前夜のランニングシーンやらでちらちら姿を見せつつも長く本筋にからんではこない。里中ファンにとってはずっと、不安げだったドラフト前後の彼の表情が焼きついたままだったことでしょう。そして「みんな頑張っている頑張っているのに里中 おまえは何をしているんだ」という山田のモノローグ(逆転満塁大ホームランを放ってヒーローになった直後なのに、自分のことを喜ぶより里中の心配をしてるあたりが山田らしい)をきっかけに、物語は3巻から里中を渦中に置いたオールスター投票の話へと入っていきます。

オールスターの話題が出てきたとき、読者はまず「里中はどうなるんだ」と考えたんじゃないかと思います。主人公であり一年目からすでに大活躍の山田、それに岩鬼、殿馬はルーキーとはいえ高校以来の人気っぷりを考えてもまず選ばれるでしょう。しかし開幕戦の時点で二軍だった、山田のモノローグからすればその後も一軍にあがった形跡のない里中は、いかに四天王の一人であろうが(作中でも読者の間でも)人気があろうがオールスターに出られるわけがない。
入団以前からプロ入りに不安を感じていた、周囲からも体力不足を懸念されていた里中だけに自然な流れとはいえ、仲間との差を改めて突きつけるような容赦ないストーリー展開だなあと感じてしまいました。
ところが入団以来ずっと二軍、しかも二軍でも一試合も投げていないくせに何と人気だけで一位選出されてしまうというまさかの展開に。しかし決して御都合主義という感じはない。サチ子の言う通り人気投票なのだから実力・成績無視で票数を集めることはありえなくないし、超人気チームだった明訓の中でも里中人気が傑出していたのは『プロ野球編』の最初から繰り返し語られていた。むしろこの“実力無視でオールスター選出”を描くために里中の人気っぷりを強調してきたのかもしれません。
そしてこの状況でオールスターに選ばれるというのは、里中にとっては名誉どころか屈辱にしかならない。加えてマスコミには組織票を疑われる始末。無印時代も故障のために苦しむ姿は数多く出てきた里中ですが、実力不足を言い立てられたりマスコミに揶揄されたりなんて扱いはこれまでなかった。やっと里中中心の話が来たと思えばこれですから、水島先生はどこまで里中に試練を与えるのかと驚いたものです。
(余談ですが、山田兄妹が読んでいる新聞―オールスター投票の中間発表には犬飼小次郎の名前も出ている。しかし結局このオールスターでは小次郎は登場せず、それだけなら最終発表までに落選したとも取れますが、翌年の後半戦で二年ぶりに故障から復帰した設定のもと小次郎は再登場している。つまり95年オールスター投票の時点では小次郎はまだ故障真っ最中ということに・・・?中間発表のシーンを描いた後に故障による長期欠場→劇的復活のエピソードを思いついたのか、あるいは中間発表のシーンで名前を出したのにオールスターで登場させるのを忘れたので小次郎不在の理由付けとして“実は故障してたので出られませんでした”という事にしたんでしょうか。オールスターの時点で小次郎故障に関する説明は何もなかった(「あきらめきれないファンが投票したけど治らないことには出られないからなあ」的な)ので後者ですかね。こちらにしたって95年のオールスター投票中間発表に名前が載っていたことのフォローが何もないのは変わらないんですが)

里中は当然出場を辞退するだろうと周囲は思い本人もそのつもりでいたものの、同時にオールスターでなら山田とバッテリーを組める、山田に受けてもらえるという思いもあり――自宅のベランダから星空を見つめ「山田に会いたい」と心で呟くシーンは何とも切ない。山田ともう一度バッテリーを組みたいという思いが「会いたい」というきわめて簡潔な表現に集約されています。
オールスター中間発表で一位→その後不知火に抜かれる→袴田コーチとの秘密特訓が行われている(すでに秘球が完成している)ことの示唆→トップ屋源さんの記事が原因で最終結果で一位に返り咲き(ここでまた“ロッテが仕組んだやらせ記事”だと揶揄される)、という流れの中で里中を心配する山田とサチ子、母の加代らの様子と里中の心境の移り変わりを見せ、ついには加代が組織票ではないことを具体的証拠をあげて明快に否定してくれたのを受けて、里中は「おれは堂々と出る ・・・・・・選んでくれたファンのためにも」と宣言する。
このあたりの、里中がじわじわと追いつめられてくような流れは見事な完成度で物語として実に面白いのですが、里中ファン(とくにリアルタイムで読んでいた人)は“里中冬の時代”が長く続くだけに胃が痛くなる思いだったんじゃないでしょうか。それだけにオールスター投票エピソードのラストで里中が久しぶりに晴れやかな笑顔を見せてくれたのには(私個人としては)救われる気がしました。最後のページに投票最終結果の表が紹介されている(一位里中と二位不知火は103票差)のも感慨を誘う見事な締めです。

(またも余談ですが、歴史と文学の会編集の『親と子の愛と憎しみと』という、主にフィクション世界の親子関係に関する論文を集めた真面目な本のラストに「ドカベン 里中母子と岩鬼母子」と題した小論が載っています。タイトルの通り里中と岩鬼の母子関係を取り上げているのですが、里中母子については無印最終回の“里中が学校を辞めて母の闘病を支える”、『大甲子園』の“手術直後の加代が里中を明訓へと送り出す”と並んでこの“オールスター投票が不正じゃなかったことを立証する”(「出場するように決断を促したのは他ならぬ母であった。彼女は新聞の投票結果を子細に調べ直し、不正に票が上積みされていないことを見極めたのである」)エピソードが採られています。このオールスター投票をめぐる一連のストーリーは里中と加代のツーショットがたびたび出てきて、母のためにも早く結果を出したいと考える里中と、プロで苦労している息子を何とか支えてやりたいと願う加代の母子愛を鮮やかに示してくれていました)

とはいえこれでハッピーエンドになるはずもない。里中が人気先行・実力不足と冷ややかに見られたままなのは変わらないわけで、それがオールスターが実際に始まった時点で一気に表面に出てきます。
まず目につくのは他選手の活躍に脅威を覚える自信なさげな里中の姿。とくに山田が凄絶な読み合いのすえに影丸からホームランを打ったときの「凄い・・・・・・凄すぎる」と呆然と青ざめるところや不知火は土門よりもっと球が速いときかされて「不知火はもっと凄い・・・・・・う 嘘・・・」と声に詰まるところなど。高校時代どんな強敵にも闘志を失わなかった里中を知っているだけに、こんな弱気な里中を見るのは(一人プロの実戦経験がまるでないまま選ばれてるのだから立場上無理ないとはいっても)何とも辛いものがあります。「いや、里中には秘球があるんだから(たぶん)!きっと巻き返してくれるはず!」と自分に言い聞かせてみても、当の里中がこんなに自信なさげとなると本当に秘球があるのかもおぼつかなくなってきます。
さらには登板を前にブルペンで練習する里中の捕手を務めた土井垣の不安いっぱいな様子。単にプロではまだ一球も投げてない、実績がないというのではなく、実際に球を受けたうえでの感想なわけですからマスコミや世論が勝手なこと言ってるのとは重みが違う。「打者ひとりなら何とか抑えられるかも知れないが1イニングとなると持つかな ・・・・・・いや 今の里中の力じゃ山田のリードに頼るしかない し・・・しかしいかに山田でも」なんてモノローグはここまで言うかという感じで、“里中はプロでは通用しない”の思いを強くさせます。

そしてついに里中の登板。投票の中間発表以来の話の流れからして彼が投手陣のトリになるのは必然ではありますが、それでもここまで登場を引っ張っただけにテンションがあがります。
ここで里中モノローグの形でプロ入り後の彼の境遇が語られる。ずっと二軍暮らしだったわけだからおよそ想像はついていたものの、具体的な状況が本人の口から明かされると改めてキツいものがあります。
そしてモノローグの陰を引いたままマウンドに上がった里中は山田を、ベース上から声をかけてくれる岩鬼や殿馬を見て「こ 甲子園だ」と呟く。そして最後の夏の優勝の光景が挟みこまれる。このシークエンスには不覚にも涙ぐみそうになりました。プロ初のマウンドがこんな大舞台でものすごいプレッシャーを負わされた里中が、かつての仲間が高校時代と同じ場所で同じように守ってくれていることにどれほど救われたのかが「甲子園だ」という台詞に凝縮されていて、先のモノローグで里中に感情移入したままに胸打たれずにはいられない。同時に里中が思い起こしている甲子園大会優勝の瞬間は彼のもっとも輝かしい時代の一コマであるだけに、その“過去の栄光”が現在の“落ちぶれた”彼を対比的に浮き彫りにしてしまう。暖かな感動と残酷さを合わせ持つゆえに二重に切ない名場面です。

この後マウンドでの投球練習を見て山田もちょっと困った顔をする。ああやっぱり山田の評価もそうなのか。ここでまた不安感をあおったうえで第一打者として登場するのはヤクルトの名捕手古田。捕手ならではの深く鋭い読みを発揮する古田が相手、しかも最初の打者とあってこの打席の緊迫感は随一。
山田はベテラン古田を相手に一歩も引かない見事なリードを見せ、それがこの打席を実に見応えあるものにしているのですが、「今までの投手に対するリードと全然違う この里中と山田のバッテリーはやはり特別なものがある」という古田のモノローグは当人的には褒め言葉(とくに山田に対する)なんでしょうが、それだけ緻密なリードをせざるを得ない、それほどに里中の球に力がないことをも示していて、これまた里中ファンとしては切なくなってきます。
そしてようやっと古田をアウトに取り、ほっと一息と思ったのもつかの間。古田の粘りによって里中の持つボールは全て投げさせられたから「後を打つ打者にとってこんな大きな援護はない ゲームセットまで里中はマウンドにはいないだろう いるとすればそれはサヨナラゲームのマウンドだ」と青ざめ気味の土井垣の言葉に再度暗雲が。土井垣と対照的にバッテリーが「あとふたり」「あとアウトふたつ」と明るい顔なのがかえって辛い気分を誘います。

土井垣の危惧どおり、山田の苦心のリードと岩鬼・殿馬の好守備にもかかわらず、あとワンアウトを取れないままに最後は何とデッドボールで二死満塁へと追い込まれてしまう。『古田も飯田もアウトにはなっていますが 当たりそのものは会心でしたから四連打のめった打ちと言っていいでしょう!!』という実況の台詞→ハラハラしながらテレビを見ている袴田コーチの姿を挿入→江藤が打席に入る時の「続投だと?それじゃさらし者だぜ東尾さん」という土井垣の悔しげな心の声、と追いつめられ感を積み重ねたあげくのデッドボール。先に古田が「確かに球に力はない・・・ないが山田のリードと里中のコントロールはたいしたものだ」と評したそのコントロールさえこの土壇場で保てなくなってしまった。デッドボールをくらった江藤に、愕然と立ちすくむ里中に代わって山田が謝ってるのも“里中限界”を感じさせないではいません。

そしてついに東尾監督がベンチを出る。自分たちは里中を見に来たのだから交代させるなとのファンの猛講義の声、ストッパー平井の姿、『ああ〜〜 しかし一番悔しいのは山田でしょう 全てを知り尽くした里中を男にしてやれなかったのですから』 『里中交代です!!』との実況。こんな形で降板して終わりなんて、四天王の一人にそんな扱いなんてまさか、と思いつつもここまでやられるともはや交代としか考えようがない。それだけにまさかの続投決定は嬉しい驚きであり、その理由も実に感動的に響く。何より“まさかの”続投、監督の英断であるからこそ里中も袴田コーチから投げるのを止められていた秘球を禁を犯して投げるつもりになった。自分のせいでチームが負けることに耐え得なかったから―ある意味自分のプライドのため―ではなく東尾監督の温情に応えるために。これほどぎりぎりの場面になったからこそ活きる展開であり、そのために里中を追いつめる描写を(時には少し持ち上げることでさらにぐっと落とす緩急を巧みにつけながら)巧妙に組み立ててきた演出テクニックには脱帽の一言です。

さらにとどめは山田が秘球を後逸すること。もし里中が思った通り山田が球をキャッチして普通の三振に取れていたなら、(どんな球だったのかと騒然とはするにしても)もう少し明るい、お祝いムードでオールスターを終えられたかもしれない。しかし本来なら振り逃げされて、しかも満塁なのだから同点、下手すれば逆転という状況になったことで、かえって山田が後逸するような球、振り逃げする気もなくなるほどの自失状態に打者を陥れるような球という形で秘球のすごさを読者に印象づけることになった。あれだけ里中続投を叫んだ、里中ファンが多くいるはずの観客席が歓声のかわりに驚愕のどよめきで覆い尽くされているのもその印象を補強します。
里中が最後の最後にオールスターの4番、あの松井を空振りさせるという鮮やかな活躍を示したのにファンとして素直に喜べない、「あんな凄い球見た事がない 本当のMVPはあの里中の一球だ」という山田の言葉に胸のすく思いはしてもやはり呆然とする気持ちが先に立ってしまう、それは試合終了のときの里中の暗い表情(袴田コーチの言いつけを破ったことと山田に後逸されたことのダブルパンチを受けてるので無理もない)に拠る部分が大きい。里中ファンが本当にお祝い気分になれるのは、後半戦で一軍に上がり初セーブをあげた里中が捕手の瓢箪に涙ながら、でも満面の笑顔で抱きつくシーンまで持ち越されることになりました。


(2012年8月3日up)

 

 

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO