パートナー

 

「みんな、地区予選一回戦の相手校が決まったぞ。東郷学園高校だ」

土井垣キャプテンの言葉に山田は殿馬と目を見合わせた。自分たちが鷹丘中学野球部時代、唯一戦ったのが東郷学園中学だった。その東郷とさっそくに戦う。山田はいくぶん因縁めいたものを感じた。

「ちなみに東郷のエースはまだ一年生だそうだ。みんな、一年坊主に舐められるなよ」

土井垣の声が微妙に熱を帯びた。

「小林づらな。高校に上がって早々エースとはさすがづらぜ」

「いや、小林くんじゃないよ。小林くんは中学卒業後すぐにアメリカに留学したはずだ」

わざわざ自分のところに挨拶に来てくれたのだから間違いない。しかし小林のほかに一年からエースを張れそうな人材が東郷にいただろうか。高校から東郷に入ったのかもしれないな、と山田は思った。

 

『いよいよ神奈川県地区代表を決める予選大会がはじまりました。一日目の第一試合は明訓高校対東郷学園高校』

わーっと歓声があがり、強風に旗がひるがえる。県内ベスト4には入る強豪東郷学園は相変わらず応援席が満員だ。ただ鷹丘時代と違うのは明訓側も負けずに応援団が大勢いる。ただその多くは(他校の生徒も含めた)土井垣ファンの女子だったりするが。

スターティングメンバーが発表されるのを山田は聞いていた。一年生で名前が入っているのは殿馬ひとりだけで、山田と岩鬼はベンチウォーマーである。当然岩鬼が黙っているはずもない。

「な、なんでや監督、へたくその山田はともかく、なんでわいがベンチ要員なんじゃい。ここは一年生エース岩鬼の出番やないか!」

食ってかかる岩鬼を、徳川はぎろりと睨みつけた。

「べらんめえ、黙って見てろい。東郷の一年生エースがお出ましだぜ」

「ぬな?」

『東郷ナイン、今守りにつきます。ピッチャーの里中くん、投球練習をはじめました』

山田はマウンド上の少年に目をやった。ピッチャーとしてはずいぶん小柄だ。おそらく160cmもないだろう。体つきも華奢で顔立ちも少女のようだ。去年東郷と戦った時にはこの少年はベンチに入っていなかった気がする。やはり外部入学だろうか。

里中がゆっくりしたモーションからボールを投げた。右のアンダースロー。小林ほどのスピードはないがコントロールは安定してそうだ。打たせて取る軟投派か。

山田の隣で岩鬼も目を大きく見張って投球練習を眺めていたが、突然マウンドの方へ歩いていくと里中をまじまじと見つめ、少し離れてまた見つめ直して、

「な、なんや、一年生エースて中学一年生かいな。可愛いねえボクぅ〜」

キャッチャーの隣に立ってゲラゲラ笑う岩鬼のみぞおちに、白球が鋭く突きささった。

「あ、すみません、手がすべりました」

ちっともすまなそうじゃない棒読み口調で里中が詫びる。岩鬼の顔がみるみる赤く染まった。

「お、おんどりゃ何しくさんねん、このどチビが!」

拳を振り上げて飛びかかろうとする岩鬼をあわててベンチから飛び出した山田が押さえつけた。

「落ちつけ岩鬼、こっちが悪いんだから」

「は、放せやぁ〜まだ!あのガキに思い知らせてやらんと」

懸命に岩鬼を押さえながら、山田の頭は今見た球のことで占められていた。

――すごいキレのカーブだ。

あれはちょっと打ちあぐねるだろう。土井垣さん以外うちの打線は期待できるとは言いがたいから。

「君!早くベンチに戻りたまえ!進行のじゃまだ」

「す、すみません。ほら岩鬼くん」

主審に頭を下げてなおぐずぐず言う岩鬼の背中を押しながら、ふと振り向くと里中と目が合った。何かを訴えかけるような熱っぽい視線が山田に強い印象を残した。

 

『里中くん、軽快なピッチングで三者凡退に押さえました。攻守交代、東郷学園の攻撃です』

「里中はさっきのカーブを投げませんでしたね」 

「うちの打線には普通の投球で十分ってことだろうよ、がぴぴぴぴ」

山田の呟きに徳川が酒をあおりながら下卑た笑い声をあげた。

「それにひきかえ、東郷の打撃はさすがに上手いねえ。大川があっぷあっぷしてるぜ」

確かに1番がヒットで出塁、2番がそれを手堅く送り、3番は凡打に打ち取ったものの、4番のレフト前ヒットでさっそくに1点を取られてしまった。しかし相手の打撃の上手さ以上に、エース大川の球威のなさ、守備の拙さに原因があるように山田には思えた。殿馬のファインプレーがなければさらにもう1点入っていただろう。

「まあ2回の攻撃は土井垣からだからな。キャプテンが取り返してくれるだろうよ」

里中の球は投球練習の時と同様、コントロールはいいしスピードもそこそこあるが、小林ほどの剛速球ではない。変化球もカーブ、シュート、シンカーと投げてはいるが、さほどキレが鋭いわけでもない。明訓きっての強打者・土井垣なら打つだろう。

――あの球を使ってこなければ、だけどな。

 

『土井垣くん、初球から叩いた!これは大きい、打球はレフトスタンドへ向かって伸びる伸びる・・・あっ思ったより左へ流れています。折からの強風に乗って左へ切れる、切れるか、――切れたー!ファール、土井垣くん惜しくもファールです』

ち、と軽く舌打ちして土井垣はバットを構え直した。里中は特にほっとした顔も見せずに第二球を投げた。快音とともにボールがセンターへ飛ぶ。フェンスにぶつかって跳ね返った球をセンターが拾うが、土井垣はすでに二塁へ達していた。きゃーっと黄色い声が観客席からあがった。

『二塁打です。さすがは強打者土井垣くん。しかし後が続かない。5番関谷くん、6番大股くん、7番山岡くん凡打に打ち取られました。明訓この回無得点に終わりました』

「な、なんやあんなチビ相手にふがいない連中やで。早うわいを出さんと致命傷になるかしれんで」

手を振り回して徳川に訴える岩鬼を、「おめえを出したら、それこそ致命傷づらぜ」と殿馬がいなす。なんやととんま、と岩鬼が言い返しかけるのを無視して、殿馬は守備につくためズラズラとベンチを出て行ってしまった。

二回裏、さすがに下位打線とあって7番は三振、8番もキャッチャーフライに下したものの、9番の里中がサードゴロで出塁、さらに1番の打ったライナーをファースト大股が弾いたためにランナー2、3塁となった。

「ここはあれやな、きっとスクイズしてくるで」

「いや、二死だからスクイズはまずないよ。上位打線だけにヒッティングを狙うか、あるいは・・・」

言いかけた時わーっという歓声が上がった。大川がまさに投げようとする瞬間、三塁の里中がホームに向けてスタートを切ったのだ。二死なのにスクイズか?あわてた大川の投球が大きく右上にそれた。土井垣が立ち上がって飛びつく ――取った。

「なめるな!」

バランスを崩しながらも土井垣はタッチにいく。が、滑りこんだ里中の足がわずかに速かった。

『セーフです。里中くんホームイン!土井垣くんの動きも見事でしたが、わずかに間に合わなかった。里中くんの好判断でした』

里中は起き上がるとユニフォームの泥を払い、土井垣を、ついでまだマウンドで愕然としている大川を見ると、わずかに顎を上向けてくすりと笑った。その小馬鹿にしたような仕草に大川の顔がさっと赤くなった。

「生意気な野郎だ。大川、挑発に乗って動揺するな。まだランナー二塁だ。気を抜くなよ」

「あ、ああ・・・」

答える大川の声はかすかに震えていた。

 

土井垣の注意にもかかわらず、動揺が残ったのか大川は甘い球を投げてライト前ヒットにされたが、続く3番をファーストフライに取ってそれ以上の追加点は何とか阻止した。しかし3回表が三者凡退に終わり、打線の援護がないままに3回裏、先頭打者にホームランを打たれ、さらに続く5番もレフト前ヒット。青ざめた大川の顔から汗がぽたぽたと滴るのを山田は見た。

――いけない、完全に大川さんは縮こまってしまっている。このまま崩れっぱなしになるぞ。

思わず隣の徳川に目を向ける。

「なんだなんだ、まったく大川の奴は肝が据わってなくていけねえ。向こうの一年生の心臓をちっとは見習いやがれ」 毒づきながらもあいかわらず酒をぐびぐびやっている姿はいっこうに緊迫感がない。

失点もなく打線が順調に点を取ってくれている里中にはそもそも崩れる要素がないから比較しては大川が気の毒だ。そうは思っても、岩鬼にボールをぶつけ、土井垣と大川に喧嘩を売るような素振りをして平然としている里中の心臓が強いのは間違いない。自軍が守備についている間も打者に勝負を挑み続け、精神状態がもろに投球にあらわれるピッチャーは、勝気な性格でないと務まらない。その意味で里中は優秀なピッチャーに違いなかった。

「なんや、度胸やったらわいの方がずーっと上やで。あんなちっこい体じゃ心臓のサイズかてしょせんはノミの心臓よ」

「へっ、違いねえぜ。確かにおめえを上回る強心臓の持ち主はそうそういるまいよ」

かっかっかっと笑う岩鬼にあっさり同意した徳川は、大川が6番にもヒットを打たれてさらに一点を追加されたところでベンチを立ち上がった。

「おい審判、選手交代じゃ。ピッチャー大川に代わって岩鬼!」

岩鬼のハッパがぴーんと伸びる。まさか、と息をのむ山田をよそに岩鬼は意気揚揚とマウンドへ向かって歩いてゆく。

――度胸は折り紙つきでも岩鬼は無類のノーコンだ。それは徳川監督も百も承知のはずなのに。

『この回2点を取られた三年生大川くんに代わって一年生の岩鬼くんがリリーフです。しかし岩鬼くん大きい、一年生とは思えません。岩鬼くん、投球練習なしでいきなり打者に向かいます。第一球投げた!巨体にふさわしい剛速球、あーしかしボールは土井垣くんのミットから遠く離れてバックフェンスに突き刺さりました。大ボールです』

「落ち着いていけ、岩鬼!」

ボールを投げ返しながら土井垣が怒鳴る。

「わぁっとるって。ちっと力が入りすぎただけやがな」

自信満々に笑いながら岩鬼が振りかぶり第二球を投げる。ボールはまたもやフェンスを直撃した。

『岩鬼くん、球速はありますがさっぱりストライクが入りません。ストレートのフォアボールでランナーを出してしまいました』

「ばかやろう、どこに投げてる!ちゃんとミットをよく見ろ!」

「じゃ、じゃかあしゃい。試合を盛り上げようっちゅう、これもわいの配慮やで」

心配した通りだ、と山田は内心でつぶやいた。岩鬼は調子に乗ってくれば結構ストライクが入るのだが乗せるまでが難しい。しかもその調子が大して持続しない。まさにキャッチャー泣かせだ。ついでにデッドボールも多いから敵バッター泣かせでもある。

そうこうする間に8番バッターもストレートのフォアボールで出塁させてしまった。たちまち無死満塁のピンチである。

「おお、いい具合に荒れとるわい。こりゃあさすがに荷が重いの」

どっこいしょ、と徳川が立ち上がった。「審判、選手交代じゃ!」

「な、なんやて、わいを代えるいうんか!?球が入らんのはミットの構え方があ、あかんのじゃい」

岩鬼はリリーフしてからボール球しか投げていない。このままでは押し出しで一点献上することになる。降板は無理からぬところだが、他にピッチャーができる人間がいるのだろうか。

「キャッチャー、土井垣に代わって山田!」

「えっ!?」 思わず山田は声をあげた。

「あのでかぶつのお守りは土井垣には荷が重すぎるぜ。あいつの操縦ならおめえに勝るやつはいねえだろ」

ホームベース前では土井垣が信じられないという面持ちで突っ立っている。観客席からは土井垣ファンの少女たちのブーイングが沸き起こったが、徳川が続けて「大股しりぞいてファーストに土井垣!」と言うと、たちまち歓声に取って変わられる。顔がよく見えるからその方がいい、というのが彼女たちの言い分らしかった。

土井垣に代わってプロテクターとレガースを付けた山田はまずマウンドへ向かった。

「気楽に行こう、岩鬼」

「な、な〜にのほほんとした顔しとるねん。全くおんどれの顔見とるとわいまで気が抜けるわ。緊張感のないやっちゃで」

何とか言いながらも心もち嬉しそうな様子だった岩鬼だが、里中がバッターボックスに入るのを見て表情が変わった。

「あのチビ、さっきはようもわいにぶつけてくれよった。ここは一つお返しをしてやらんと」

キシシと不気味な笑い声を立てる。いかん、と山田は体を固くした。ここでデッドボールを出せば押し出しになる。それにあの華奢な体に岩鬼の剛速球を食らったら、当たり所が悪ければ骨にひびくらい入りかねない。

「い、岩鬼くん――」

山田は何とかなだめようとして、待てよと思い返した。

「そうだな。あいつはきみを侮辱したんだから、そこはちゃんと落とし前をつけるべきだよ」

「や、やぁまだ、おんどれわいの気持ちをわかってくれたか。そや、男ならきっちりけじめ取ったらなあかん」

岩鬼はハッパをふるわせながらロージンバッグを手に取った。しばらくぱたぱたと念入りに粉を手につけていたが、勢いよく振りかぶった。

――失敗したら許せよ、里中くん。

山田はこっそり胸のうちでつぶやいてミットをど真ん中に構えた。

「死ねやぁ、どチビ!」

本音が透けてみえる雄叫びとともに岩鬼はボールを放った。ごうっとうなりをあげながら球は一直線に飛んで山田のミットにおさまった。まともにストライクが入るとは想定外だったのか、里中は驚いた顔でバットを振りもしなかった。

思った通りだ。ど真ん中を投げようとするからボールになるなら、最初からボールのつもりで投げさせればいい。

「おのれぇ、今度こそや!」

二球目もしっかりど真ん中に決まった。今度も見逃しのストライク。これならいける。岩鬼の球はストライクゾーンに入るかぎりはそうそう打てるものじゃない。里中を三振にとった勢いであと二人も何とか抑えられるだろう。

「往生せいや〜!!」

岩鬼が三球目を投げた。空気を切り裂いて飛んできたボールを、しかし里中は正面から打ちにいった。が、球の威力にバットを押され、ボールは後ろのフェンスに向かって飛ぶ。ファールになる球だが、山田はあえてそれを追いかけた。

『里中くん打った!しかし後方へのファールになりました。あっ、山田くんボールを追った、グローブを伸ばしてキャッチ、しかし勢い余ってフェンスに衝突だ、ボールはつかんでいるか、いや落とした落とした、里中くん一塁へ、ランナーいっせいにスタートを切ります。山田くんまだ起き上がってきません、打ちどころが悪かったか?』

三塁ランナーがホームまであと半分の距離に達したとき、突然山田が起き上がった。手元に転がっているボールを拾うと、体型からは意外なほど俊敏な動きでホームを踏み、即座に三塁へ送球した。

『あ〜〜、山田くん起き上がってベースを踏んだ。三塁ランナーフォースアウト。三塁の北くんへ送球、さらに北くんから二塁殿馬くんへ。な、なんとトリプルプレーです。無死満塁のピンチから一瞬にしてチェンジです。山田くんの大ファインプレー!』

「山田のやろう、狸寝入りとはやりやがるぜ。大人しく見えて食えない奴だ」

土井垣が感心したようにつぶやいた。

悔しげな顔でランナーたちが引き上げてゆく。その時里中がちらりと山田の方を見ると小さく笑った。さっき土井垣たちに向けた皮肉な笑い方とは違う。「さすがだな」と言われたように山田は感じた。

 

『山田くんのファインプレーで追加点を阻んだ明訓、見違えるようになった岩鬼くんのピッチングで4回5回と三者凡退です。一方東郷も里中くんの力投さえて土井垣くんと山田くんにヒットを打たれながらも無失点に押さえています。6回表明訓の攻撃は1番石毛くんからです』

里中は大きく振りかぶるとゆっくりしたモーションから第一球を投げた。石毛はあっけなく空振りする。

「きれいなフォームづらな」

「あ、アホかとんま、何を敵に感心しとるねん」

岩鬼がハッパをふるわせてわめくのへ、

「フォームがきれいっちゅうことはリズムにかなってるってことづら。そのリズムが読めれば、打てるづらよ」

殿馬はさらりと答えると、ズラズラとネクストバッターズサークルへと歩いていった。

 

石毛が三振に倒れ、バッターボックスに入った殿馬を山田は見つめた。リズムが読めれば打てると殿馬は言った。鷹丘時代、「秘打 白鳥の湖」「秘打 花のワルツ」などという奇妙な打法であの小林からホームランとヒットをもぎとった殿馬だ、なにか里中を打ち崩す秘策があるのかもしれない。

――ずんずらずんずら、ずんずらずんずらずん。

一球目を殿馬はあっさりと見送った。

――やっぱり五拍子づらな。そして徹底したアウトコース狙いづら。

殿馬はバットを握りなおすと、大きく構えた。マウンドの里中が眉をしかめる。

『殿馬くん、バットを長く持った、というか両手でグリップの端を握っている状態です。アウトコースに備えたのでしょうが、いくらなんでも極端です。これでバットが振れるのでしょーか?』

「あ、アホかとんま、非力なおのれじゃバットがすっぽぬけるわい!」

岩鬼の怒声を意に介さず泰然と構える殿馬に里中が第二球を放った。打てるものなら打ってみろと言わんばかりの、アウトコースのストレート。

――規則正しい五拍子のリズム、五拍子といえば・・・・・

殿馬は右手をグリップから放すと、左手一本でバットを振り回した。

「組曲『惑星』より、秘打『火星』!」

バットの先が球を捉えた瞬間に右手でバットを強く前方に押し出す。

『殿馬くん打ったーー!火を吹くような痛烈なライナーが二遊間を抜ける、殿馬くんバランスを崩して倒れるも起き上がって走る走るー!』

小柄な殿馬のリーチでは外角は届きにくい。いや、届きはするもののどうしても飛距離が出にくい。それを殿馬は最大限バットを長く持つことで補った。しなうように振られたバットの遠心力でボールに飛距離を出した。しかもバットが振り切れすぎてファールにならないよう右手でバットを押して球のコースを調整した。

――殿馬のたぐいまれな身の軽さとピアノで鍛えられた左腕の力があればこそだ。

山田は深く感心の息をついた。

『レフト今ボールに追いつきました。殿馬くんはすでに1塁を回っている、2塁へ送球、しかし足が速い、セーフセーフ、殿馬くん二塁打です』

「よっしゃー、とんまのわりにはよう頑張ったで!あとはわいがホームラン打って返したるわい!」

勇ましく宣言してバッターボックスに入った岩鬼は、豪快に三振して明訓ベンチの皆をずっこけさせた。

『岩鬼くんあっけなく三球三振。続くバッターは4番の土井垣くん、長打が期待できます』

バッターボックスに立った土井垣はバットを構えた。一球目、アウトコースへのカーブ。土井垣はあえてバットを振らず見送った。

――リズムが読めれば打てる、か。なるほど、五拍子だな。

岩鬼のような剛速球でもなく、変化球といってもさほどの変化があるでもない。球質の軽い里中の球はもとより自分なら当てるのはむずかしくない。ただ微妙に落ちたり曲がったりするために今一つ長打に結びつかず、塁に出ても後が続かないため得点にはならなかった。

しかし今は二塁に殿馬がいる。それに正確なタイミングが取れれば曲がり端を叩くことができる。

――これで一気に2点だ。

里中が二球目を投げた。

――ずんずらずんずら、ずんずらずんずら、ずん!

インコースのシュートを土井垣は強振した。痛烈なライナーがライトへ飛び、壁に当たって跳ね返る。

「ちっ、当たりがよすぎたか」

土井垣は一塁めがけて疾走した。

『土井垣くん、痛烈な当たり。ライトが取ったがホームは間に合わない、殿馬くんホームイン、土井垣くんも二塁セーフです。明訓ついに1点を返しました』

わーっと明訓応援席が歓声に包まれる。ざわめきの中、殿馬はネクストサークルの関谷にそっと耳打ちした。

――五拍子か、よし。

関谷はこっくりと頷いた。

 

『関谷くん打った、しかし方向が悪い、セカンドの真正面だ。土井垣くん走れません、関谷くんは1塁セーフです。明訓高校二死一、二塁のチャンス、バッターは6番の山田くんを迎えます』

ネクストサークルの山田が立ち上がると客席から期待のどよめきが沸き起こった。

『山田くんは5回表にヒットを放っています。長打が出れば一気に2点、ともすれば同点もありえます。ここに来てにわかに打たれ出した里中くん、好打者山田くんを抑えるか!?』

打席に入った山田がバットを構える。キャッチャーのサインを覗き込んだ里中が首を横に振った。少し間があって今度は首を縦に振る。セットポジションから第一球を投げる。高めのストレート、しかしコースは明らかにストライクゾーンを外れている。ボール。二球目を投げる。これもボール。

――敬遠か。

二塁上の土井垣は小さくうめいた。山田がフォアボールで出れば二死満塁だ。しかし次の山岡に打てるかどうか。里中は全力で抑えにくるだろう。五拍子のリズムを読んでいることにもそろそろ気づかれるころだ。

山田はマウンドの里中をきっと見つめた。自分がホームランを打てば同点になってしまう。里中が敬遠策を取っても不思議はない。しかし、

――この男の目は逃げてはいない。

ホームランを打たれれば同点、それは逆に言えば打たれても同点ですむということだ。ならばきっと里中は勝負に来る。山田はバットをしっかり握りなおした。

里中が三球目を放つ。ストライクゾーンぎりぎりのストレート。山田はバットを一閃した。打球は鋭く三塁線へと飛び、ファールラインぎりぎりでバウンドしてレフトへと抜けた。

『山田くん打ったー!打球は三塁を抜けてレフトへ、土井垣くんホームイン、レフト花丸くん追いついてキャッチ・・・あっボールをはじきました。なんと打球の回転がグローブの皮をえぐっています。関谷くんも今ホームインしました。山田くんも二塁をけって三塁へ向かいます』

カバーに入ったセンターがようやく打球をキャッチした。山田も三塁を回る。ショートを中継してバックホーム、キャッチャーのミットにボールが入ったちょうどその瞬間、山田の体が勢いよくぶつかってきた。巨体の猛タックルをあびてキャッチャーのミットからボールがこぼれ落ちた。

『山田くん今ホームイン!山田くんのランニングホームランで明訓は一気に3点を奪い同点に追いつきました。敬遠と見せて勝負に来た里中くんの球を狙いあやまたず長打に結び付けた山田くんの見事な一撃でした』

ベース上で体を起こした山田はマウンドに視線をやった。里中はさすがに悔しそうに肩を落として佇んでいた。

――おれはてっきりストレートと思って振った。しかしバットに当たる直前球はわずかに内側へスライドした。

ストレートと見せかけたシュート。スピードがほとんど変わらないだけにまんまと引っかかった。力技でぎりぎりライナーに持っていったおかげでボールに強烈なスピンがかかりレフトのグローブをえぐる幸運に恵まれたが、あやうく詰まらされるところだった。

大したピッチャーだ。そのうえまだあいつは「幻のカーブ」を持っている。それをいつ使ってくるのか、そこにこの勝負の鍵がある。山田は密かな戦慄を覚えていた。

 

『里中くん、3失点のショックから気を取り直して、続く山岡くんを凡フライに打ち取りました。六回裏、東郷の打順は下位からですが、スリーランの雪辱に燃える里中くんに回るだけにバッテリーも気が抜けません』

「しかしまあ、山田は大したもんだぜ、あのでたらめな岩鬼をどうにかこうにか通用させてるんだからよ」 ベンチの徳川が笑い声をあげた。

岩鬼のピッチングはあいかわらず乱気流だが、それだけに打者も狙いがさだめられず、デッドボールぎりぎりの球も多いだけについボール球を振ってしまい凡打に終わっている。また山田が上手くおだてたり闘争心をあおったりしてここぞの時には何とかストライクを投げさせている。7、8番を無事凡打に打ち取り、9番の里中の打順を迎えた。

「待っとったでえお里ちゃん、こ、今度こそ冥土に送ったるわい」

相手が里中だととりあえずストライクを投げさせる工夫がいらない。山田はミットをど真ん中に構えて剛速球を待った。

「吹っ飛べや、里中〜!!」

ボールがうなりをあげて飛んでくる。里中はバットを短く持ち変えるとボールを前方に転がした。

『里中くんセーフティバント、ボールは1、2塁間に転がった、殿馬くんと土井垣くんが取りに走る、土井垣くんキャッチ、しかし岩鬼くんが一塁カバーに行っていません、里中くん余裕でセーフです』

「何やってるんだ岩鬼!」 

「じゃ、じゃかましいわい、どチビめ、男なら真っ向から勝負せんかい」

土井垣が怒鳴り岩鬼が八つ当たり気味に言い返すのを山田はじっと聞いていた。

――岩鬼の球を振り切るのは難しい。しかしセーフティバントなら非力でも足のある里中なら出塁できる。

『さあ里中くんが1塁に出ました。続く1番市川くんも同じくセーフティバント。二死でランナー1、2塁。2番森くんには長打が期待できます。ここで再び点差を引き離しておきたいところです』

何とかここで打ち取りたい。三度セーフティバントでくるか、意地にかけても振ってくるか。

どのみち乱気流の岩鬼にコースの指示などしようがない。とにかくストライクでさえあればいい。あとは剛速球の威力にかけるだけだ。

二連続ボールの後、ストライクゾーンど真ん中に球が飛んできた。見澄ましたようにバッターはこれを強振した。

『森くん打った、大きい当たり、しかしスタンドまでは届かない、平凡なレフトフライです』

よし、と山田が息を吐いたその時、

『あ〜〜っ、里中くん、タッチアップなしでスタートを切った!これは無謀です。レフト東口くん落下点でグローブを構えて・・・あっ、意外に打球が左に流れています。東口くん上を見ながら二歩、三歩打球を追って動きます」

山田は愕然とした。土井垣のホームランを吹き流した強風。それに里中は賭けたのか。どのみち捕球されればスリーアウトでチェンジだ。それならわずかでも落球の可能性があるのならと――。

『里中くん三塁を回った、東口くんボールを追って走る、腕を伸ばした、取った、取りました。スリーアウトチェンジです。里中くん無念!』

三塁とホームの中間地点で足を止めた里中は大きく息をついて汗をぬぐった。

 

『6回裏、里中くんのファイト実らず東郷無得点に終わりました。7回表、明訓の攻撃は8番北くんからです。全力疾走直後の里中くん、ピッチングへの影響が心配されます』

「あ、アホやな、どうせアウトになるものをあない走りよって、息が上がってろくな球が投げられへんわい」

「逆づらぜ。投げられねえから走ったんづらよ」

「なんだって殿馬、それはどういう――」

山田が言いかけたとき、カキンと軽快な音が響いた。北が第二球を打ったのだ。打球はサードゴロになり北は1塁へ、続く東口もライナーを打ったものの、これはセカンドのファインプレーに阻まれた。

『里中くん打たれています。北くんに続いて石毛くん、殿馬くんもヒットで出塁。一死満塁のピンチです。やはり無茶な走塁がこたえているようです』

それだけじゃない。全身を使って投げるアンダースローはオーバースロー以上に体力を消耗する。あの小さな体で1回から一人で投げ続けているのだから、相当な疲労が蓄積されているはずだ。コントロールは何とか保たれているが球威がガタ落ちだ。

「よ〜〜し、わいがとどめのホームランをかましたるわい!」

例によって気炎を吐きながら岩鬼がバッターボックスに入る。しかし里中の初球をあっさりと見送る。

「ストライク!」 

「な、なんやて、こんなに低いやないけ!よう見んかい!」

審判に食ってかかる岩鬼の姿に明訓ベンチからため息がもれる。これはダメだ。こと岩鬼に関しては球威がどうでも関係ない。なにせど真ん中はまるで打てないくせにくそボールは必ず打つという奇天烈な男なのだから。

待てよ、と山田は思いついた。ということは里中がくそボールを投げれば岩鬼には絶好球ということになるんじゃないか。

――しかし球威は落ちても里中のコントロールはまだ健在だ。どうやってくそボールを投げさすか・・・。

第二球を今度は大振りした。しかしバットの軌道がボールからまるで離れている。あと一球だ。山田は急いで「タイム願います」と声を上げた。驚いた顔の徳川と土井垣にまず断ってから、塁上の三人に作戦を説明する。

「ばかげた作戦だが、ほっといても打てない岩鬼ならそれもよかろう」

土井垣のこの言葉がゴーサインとなった。

『相談がまとまってランナー各自ベースに戻ります。さあ一死満塁のピンチを脱するか、里中くんふりかぶりました』

そのとき客席から驚愕の声が沸き起こった。何と三塁ランナーの北がホームスチールを敢行したのだ。走る北の姿を横目に捉えた里中は、とっさにウエストボールに切りかえる。かかった、と山田が拳を握りしめた瞬間――里中の手がボールを握ったまま頭上で静止した。

『――ボーク!里中くんボークです!ランナー一塁ずつ前進、北くん今ホームインです。明訓ついに逆転!信じられない、痛恨のミスです!』

なぜだ、と山田はマウンドに立つ里中を凝視した。なぜ里中は投球を途中で止めた?まるでウエストボールは岩鬼の好物だと知っていたかのように。

――知っていた?まさかそんなはずはない。中学から一緒の自分だってこの間練習中に気づいたばかりだというのに。

『岩鬼くん三振、しかし東郷にとってはまだピンチが続きます。二死二、三塁でバッターは4番の土井垣くんを迎えます』

土井垣はバットを構え鋭く里中を見据える。里中はキャッチャーのサインにいったん首をふり、二度目で深くうなずいた。山田ははっとした。里中はさっき自分の打席でも一度首を振った。その結果来た球は――。

里中はセットポジションから第一球を投げた。あまりスピードの乗っていない球がど真ん中に飛んでくる。絶好球だ、と土井垣は初球から打ちにいった。が、バットが触れる直前、ボールが急激に手元へ切れ込む。

「うっ!?」

打った、というより打たされた格好でボールが三塁線の向こうへ飛んだ。ファールになるはずの球だったが、サードが追いかけこれをキャッチする。

――あの球だ。岩鬼のみぞおちに入ったカーブ。

ついにあの球を使ってきた。疲労しているはずなのに、ここぞの時の球にはさすがに力がある。きっと土井垣なら慣れれば打つだろうが、まず土井垣にはもう打席がまわってこないだろう。今の一点を守りぬかねばならない。山田の手に力が入った。

 

『土井垣くん、惜しくも内野フライに打ち取られました。しかし明訓はこの回一点を奪い、ついに逆転に成功したのです』

続く7回裏、岩鬼はデッドボールとフォアボールを出し一度は満塁になったものの何とか無得点で逃げ切り、そして8回表。5番の関谷がサードゴロに倒れ、三たび山田の打順が巡ってきた。

『ワンアウトで迎える打者は6番の山田くん。山田くんはこれまでの二打席里中くんからヒットを打ち、うち一つはランニングホームランです。すでに1点リードされてるだけに里中くんがここで勝負に出るかどうかが注目されます』

山田はゆっくりと打席に入り、正面に立つ里中の顔を見つめた。試合も大詰めにもかかわらず里中は関谷には例のカーブを投げてはこなかった。投げるまでもなく打ち取れると甘くみたのか。一人で8回を投げ、果敢に走り、その疲労から球威の落ちている今の里中にそんな余裕はないはずだ。実際さっきもサードのダッシュがもう少し遅れていたら打球が外野に抜けた可能性もあったのだ。

――投げられねえから、走ったんづらよ。

一試合に何球しか投げてはいけないという制限でもあるのか。そこまで体に負担のかかる投げ方の球なのか?

・・・本当はその理由を山田はうすうす勘づいていた。もしこの考えが正しいとしたら、それはとても痛ましいことだ。自分がキャッチャーだからこそ、なおの事そう思う。

何にせよ里中は自分には本気の球を投げてくるはずだ。山田には確信があった。

――岩鬼にボールをぶつけたあのとき、里中の目はおれを見ていた。岩鬼ではなく、おれを。

理由はわからない。だが、里中は自分に見せるためにあのボールを投げた。だから自分には必ず勝負を挑んでくるはずだ。

キャッチャーのサインに里中が首を振った。そして胸の前で右手をサッサッと動かす。

サインに首を振る。それが本気の変化球を投げるときの里中の合図だ。こちらに気づかれるのは承知のうえで、それでもおれの球を打ってみろと言わんばかりの自信に満ちた態度。山田はバットを構え、グリップをぎゅっと握りしめた。

里中がワインドアップから第一球を投げた。インコースへ切れ込むカーブ、と思いきや球はアウトコースのストレートだ。予想外の球に山田は空振りした。第二球も再びアウトコース。山田はかろうじてバットの先に当て、打球はファールラインの向こうへ飛んでいった。

カウントツーゼロ。遊び球を入れてくるか?里中の目に強い意志の光がきらめいた気がした。来る。山田は静かに呼吸を整える。流れるような美しいフォームから白球が放たれた。土井垣に投げたものよりスピードも乗った、最高の球がストライクゾーンど真ん中へ飛び込んでくる。山田は鋭く内角に切れ込んでくる瞬間を狙いすましてバットを振るった。

バットが空を切った。ボールは手元へ向かって曲がるかわりにがくんと下方に落ちたのだ。

――シンカーか!

カーブとシュートのほかにシンカーにも本気の球があったのだ。ボールは山田のバットの軌道を外れて落下し、捕手のミットをもすり抜けて後ろに転々と転がった。

『山田くん空振り、しかしキャッチャーもボールを後逸!山田くん振り逃げだ!キャッチャー、あわててボールを追って一塁へ投げます、が、わずかに山田くんの足が速い。セーフ、セーフです!』

はあはあと息を弾ませながら山田がマウンドに視線をやると、ちょうど里中と目があった。

投球制限なんかじゃない。里中本人には何の問題もない。にもかかわらず本気の球を投げたくても投げられなかった。彼の変化球を取れる捕手が東郷にはいない、ただその一点のゆえに。

里中の目には悔しそうな、どこかすがるような不思議な熱を帯びた光があった。そんな顔をするな。きみは勝負には勝ったんだから。山田は心の中でそっと呟いた。

 

結局山田が塁に出たものの、7、8番と凡打に倒れて8回表は無得点、8回裏、9回表も双方ランナーは出たが無得点のまま試合は推移した。

そして9回裏、6番打者にフォアボールによる出塁を許したものの、明訓は1点の差をついに守り通した。審判が試合終了を宣告したとき、ネクストサークルの里中が小さく肩を落とすのを山田は見た。

 

試合のあと、部室でのミーティングを終えて帰路についた山田は、家の前に誰か小さな影が立っているのに気がついた。

「おかえり、山田くん」

「――里中くん?」

なぜ今日試合をしたばかりの敵校のエースが自分の家の前にいるのか。里中は山田の困惑を気に留めたふうでもなく、

「二回戦進出おめでとう」と右手を差し出してきた。

「・・・ありがとう」 いまだ困惑しながらも山田は里中の手を握った。

「しかし遠からず不知火の白新高校、雲竜の東海高校とあたることになる。あの鼻バッテンの三年生やノーコンの岩鬼じゃ、まず勝ち抜くのは無理だぜ」

山田は素直にうなずいた。里中が負け惜しみを言っているとは思わなかった。投手力が弱い、それが明訓の致命的欠点だと山田自身も思っていたからだ。

「いや、こんな事を言いにきたんじゃないんだ。疲れてるところを悪いんだが、少しだけキャッチボールに付き合ってもらえないかな」

肩に掛けたスポーツバッグからグローブとボールを取り出してみせる。一瞬だけ考えて山田は頷いた。試合の当日に自分を訪ねてきた真意を知りたかったし、ほかにも里中には聞きたいことがあったからだ。

「ここじゃ通行人の邪魔になるかもしれない。たしか数十メートル行ったところに空き地があっただろ。あそこへ行こう」

「このへんの地理にくわしいんだね」

「まあ、ちょっとね」

軽く受け流すと里中は歩きはじめた。山田も肩を並べて一緒に歩く。

不思議な気分だった。さっき戦ったばかりの相手とこうして並んで歩いている。空き地でキャッチボールをするために。

「里中くん、一つ聞きたいことがあったんだ。きみは岩鬼にウエストボールを投げようとして途中で止めたけど、あれは・・・」

「悪球打ちの岩鬼にウエストなんて投げたら下手すると満塁ホームランだ。あいつ力だけはあるもんな」

まんまときみの作戦に嵌ったよ、と里中は苦笑した。

「やっぱり・・・。でもなぜきみは岩鬼の悪球打ちのことを――」

「きみを見ていたから」

きっぱりした口調と真っ直ぐな眼差しに山田は言葉を失った。

「うちと西南中学の試合で初めてきみを見た。カバーリングの見事さ、洞察力の豊かさ、守備のうまさ・・・キャッチャーとしてのきみの力量におれはすっかり目を奪われた」

あまりにストレートな誉め言葉が面映かったが、山田には別のことがまず気にかかった。

「じゃあきみは、中学から東郷なのか」

「小林がいたせいでずっと補欠だったけどな。鷹丘と試合したころはベンチにもいなかったし」

里中が自嘲するように笑う。これだけの技量を持った投手が小林がいる間は完全に埋もれてしまっていた。それも彼の変化球をまともに受けられる捕手がいなかったためか。

「きみを見て、こいつとバッテリーが組めたらと心底切望したよ。よっぽどきみを追いかけて同じ高校に進学しようかと思ったんだが、いろいろそうもいかない事情があってね」

その事情とはおそらく経済的なことだろう、と履き古したスニーカーを見下ろして山田は思った。試合中、里中がたびたび自分に向けた視線の意味がこれでわかった。あれは打者としての自分ではなく捕手としての自分に向けられたものだったのだ。

「それでも諦められなくてよく練習を覗きに行ってたんだ。鷹丘時代も明訓に入ってからも。だからきみが岩鬼にわざと危険な球を投げてボール打ちをさせてるところも実は見ていた。それで知ってたのさ」

空き地に着いたために里中は話を打ち切り、数メートル先へ歩いて山田を振り返った。ちょうどマウンドとホームベース程度の距離がある。山田はその場にしゃがんでミットを構えた。里中は微笑むと、ゆっくりと投球モーションに入った。試合のときと同じ優美なアンダースローからキレのいい速球が繰り出され、バシンと小気味よい音を立てて山田のミットに収まった。

「よし、里中くん、次はインコース高めのカーブ、右打者で」

ボールを投げ返しながら山田が声をかけたのに、里中はちょっと驚いた顔をしてから頷き、再びゆっくりしたフォームからボールを放った。ストライクゾーンど真ん中からぐっと向かって右に大きく曲がるのを山田はすっとミットを動かして巧みにキャッチした。里中がこぼれるような笑顔を見せる。

続けてシュート、シンカー、チェンジアップと一球ごとに球種とコースを指定したが、そのすべてを里中は指示通りのコースに確実に投げ込んできた。9回を投げた後で疲れているはずなのに、球のキレとコントロールはいまだ安定している。

岩鬼の手前大声では言えないが、山田はピッチャーに一番重要なのはコントロールのよさだと常々考えていた。球威よりもスタミナよりも、狙った場所に確実に投げられるコントロールさえあれば、リードの可能性が無限に広がる。球威やスタミナにしても、自分ならこれだけの変化球を生かしたリードができる。9回を、延長試合も余裕で投げ抜けるような配球を組み立ててやれる。

そんなことを考えている自分に山田は苦笑した。里中はライバル校のエースなのだ。秋季大会で、来年の地区予選でまた戦うかもしれない相手だ。それでもこうして里中の球を受けているのは楽しかった。西南中時代から今まで、こんな風に思い通りの球を投げてよこすピッチャーには出会ったことがなかった。

 

夏の長い日も西の空になごりを残しながら暮れてゆこうとしていた。さすがにボールが見えなくなったところで二人は手を止め汗をぬぐった。

「ありがとう。楽しかったよ。無理を言ってすまなかった」 微笑みながら再び差し出された里中の手を、

「こっちこそ、とても楽しかった」 山田も再び握り返した。里中は何かを言いかけ、ふときまり悪げに視線をそらした。

「なあ山田、・・・またときどきこうやって付き合ってもらっても、いいかな?」

山田は目を細めて頷いた。試合中はあれだけ強気だった男が妙に遠慮がちな口をきくのが、おかしかった。

「もちろん。いつでも歓迎だよ。里中」

 


(2010年2月20日up)

明訓高校:1番石毛(ショート)、2番殿馬(セカンド)、3番大川(ピッチャー)→岩鬼(ピッチャー)、4番土井垣(キャッチャー)→(ファースト)、5番関谷(ライト)、6番大股(ファースト)→山田(キャッチャー)、7番山岡(センター)、8番北(サード)、9番東口(レフト) 

1回表:1、2、3凡退。
1回裏:1番ヒット、2番犠牲バント、3番凡退、4番ヒット、一点、5番ヒット(2死1、3塁)、6番凡退(殿馬ファインプレー)(0−1)。
2回表:土井垣ホームランを吹き流されファール、ヒットで二塁へ。5、6、7凡退。
2回裏:7、8凡退。9番里中ヒットで一塁、1番ヒット(2死2、3塁)、里中の盗塁にあわて2番への暴投によりホームイン(2塁は走らず)、1点(0−2)。2番ヒット(2死2、3塁)、3番凡退。
3回表:8、9、1凡退。
3回裏:4番ホームラン、1点(0−3)、5番ヒット、6番ヒット、1点(0−4、無死二塁)、ピッチャー岩鬼に交代、7番フォアボール、8番フォアボール(無死満塁)、キャッチャー山田に交代、9番里中、岩鬼ビーンボールを狙った結果ストライクになり三球目で後方へファール。山田わざと落球してトリプルプレー。
4回表:2、3番凡退。土井垣ヒット、5番凡退。
4回裏:1、2、3凡退。
5回表:山田ヒット。7、8、9凡退。
5回裏:4、5、6凡退。
6回表:1番凡退、殿馬「秘打火星」二塁打、岩鬼三振(2死2塁)、土井垣二塁打、一点(1−4、2死2塁)、5番ヒット(2死1、2塁)、山田ランニングホームラン(4−4)。山岡凡退。
6回裏:7、8凡退、里中セーフティバントで出塁、1番バント出塁(2死1、2塁)、2番センターフライ、里中二塁から走塁するも捕球によりチェンジ。
7回表:8番ヒット、9番凡退、1番ヒット、殿馬ヒット(一死満塁)、岩鬼スクイズと見せての悪球誘い、里中ボーク、1点(5−4、1死2、3塁)、岩鬼三振、土井垣カーブを打たされアウト。
7回裏:3番セーフティバント、4番デッドボール、5番凡退(1死1、2塁)、6番フォアボール(1死満塁)、7番凡退、8番凡退。
8回表:5番凡退、山田ファール2回、シンカーを空振りするもキャッチャー後逸。(5−4、一死一塁)7、8番凡退。
8回裏:里中ヒット、1番バント(1死2塁)、2番ヒット(1死1、2塁)、3番デッドボール(1死満塁)、4番ダブルプレー。
9回表:9番凡退、1番ヒット、殿馬セーフティバント(1死1、2塁)、岩鬼三振(2死1、2塁)、土井垣ピッチャーライナー。
9回裏:5番凡退、6番フォアボール、7番凡退、8番凡退。試合終了(5−4)。

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