New Departure 4

 

買い物の帰り道、古本屋の前でふと足を止めた。

いつもなら通り過ぎてしまう店の何に目を惹かれたのか、近づいてみてすぐにこれだと気づく。店頭正面の本棚に置かれた古びた雑誌。たしか昨日まではなかったはずだ。

背表紙には「月刊ベースボールファン 夏の甲子園大特集」とある。スポーツには疎い私が、少し前なら興味を持たなかったろう本につい目がいってしまうのは現在付き合っている人の影響だ。

里中さんは高校時代野球部だったという。里中さんの学校はかなり強かったらしく、「西武の山田」「ダイエーの岩鬼」など私でも名前を知ってるような有名選手が在籍してたそうだ。

山田は当時から本当に凄い奴だったんだ。時折里中さんは我が事のように嬉しそうに話す。一方で岩鬼さんのことは絶対素直に誉めようとしない。問題児、デタラメな奴、体力馬鹿。言葉だけ聞いていたらよほど仲が悪かったのかと思うところだけれど、「まったくあいつは――」と言うときの口調はいつも懐かしげでとても優しい。野球のことはよくわからないが、そうして楽しそうに彼らの思い出を語る里中さんを見ていると何だか私も嬉しくて、そして少し切なくなる。

里中さんは本当に野球が好きで、野球部の仲間のことが大好きだったのだ。本当ならもう一年、野球を続けたかっただろうに。たとえレギュラーにはなれなかったとしても。

今でも休日には私を相手にキャッチボールをしたり、一人で壁に硬球を投げたりしている。私の目には充分凄い球に見えるのだが、甲子園に出るような学校はそれだけ選手の層が厚いということなのだろう。

私は棚の雑誌に指をかけて引っ張り出した。店頭に並んだばかりだけあって幸いに埃は被っていない。

発行年は19××年とある。当時里中さんは――高校一年。さすがに里中さんの名前は出てこないだろうが、学校のことは少しくらい触れているかもしれない。名前は確か、そう、明訓高校だ。

ページをめくろうと表を返してみて――私の頭は真っ白になった。「夏の甲子園大特集」と大きな黄色い文字が書き付けられた表紙は、今まさに球を投げる瞬間の投手の写真を全面に使っていた。その顔も変わった投球フォーム―アンダースローというのだと彼に教わった―も、私はよく知っていた。

――どうして里中さんが野球雑誌の表紙になっているの!?。

自失から醒めると、私は急いでページを繰った。動揺のあまり、気持ちに反して指がもたつく。

目次のすぐ後に「特集グラビア 夏の甲子園」と銘打って、数ページにわたる特集記事が続いている。うち最初の3ページは、その年の優勝校である明訓高校が占めていた。 

「この夏の甲子園大会は、例年を上回る激闘の末、初出場の明訓高校(神奈川県)が優勝を手にした。大躍進の原動力は入学早々にレギュラーの座を勝ち取った一年生4人。
もともと明訓は「怪物くん」の異名を取る好打者・土井垣の評判こそ高かったが、それ以外の選手が総じて小粒だったために県内のベスト4に留まってきた。しかし今年は投手里中、捕手山田、二塁手殿馬、三塁手岩鬼の4人を得て初めて県予選を突破、甲子園初出場にして初優勝の快挙を成し遂げた。
ちなみに個性派揃いの明訓ナインの人気は物凄く、帰りの新幹線のホームには彼らを一目見ようと多くのファンが詰めかけた。特徴的なのは女性ファンの多さで、彼女たちのお目当ては主にエース里中とキャプテン土井垣。その熱狂ぶりはまさに甲子園のアイドルと呼ぶにふさわしい。」

説明文の上には、マウンド上の里中さんの写真があり、そこにもキャプションが付いている。

「里中智(15)。 「小さな巨人」の異名をとる一年生エース。アンダースローの華麗なフォームから放たれる七色の変化球とコントロールの良さには定評がある。地区予選決勝で堂々の完全試合を達成。甲子園では準決勝で頭に怪我を負い惜しくも10回表で降板したが、それ以外の全試合を完投。また当てる上手さではチームで三本の指に入る好打者でもある。」

次のページはキャプテンの土井垣さん。一枚めくった次のページは山田さん、岩鬼さん、殿馬さんの三人が写真つきで紹介されている。なんと今をときめくスタープレーヤーたちより里中さんの方が扱いが大きいのだ。

一年生エース、優勝の原動力、甲子園のアイドル。私は顔が熱くなるのを感じた。里中さんときたら「山田はすごい」「あいつらはすごい」ばっかりで、自分がその凄いメンバーの中で一年生からレギュラーだったこともエースだったことも、一言も言ってはくれなかった!

ふと会社に入ったばかりの頃に工場長が言っていたことを思い出す。あいつはあんまり女に追い回されたもんだから、少々女嫌いの気があるんだよな。おかげで当時、真面目そうな外見に似合わず実は女たらしだったのかととんでもない誤解をしてしまったのだが――あの台詞の謎がようやく解けた。

同時にもう一つ腑に落ちたことがあった。里中さんが今もピッチングの練習を欠かさないのは、単純に野球が好きだからなのだと思っていた。でもそれだけじゃない。それだけじゃなかった。

諦められないのだ。昔の仲間は――単にチームメイトと言うのではない、対等のレベルにいた友人たちは、プロの第一線で活躍している。本当なら里中さんも彼らと同じ場所にいたはずなのに。行けるだけの力を持っていたのに。

休日に投げているだけじゃない。夜、私を女子寮まで送ってくれた後、帰り道にランニングをしているのを知っている。きっと投げる練習も毎日やっている。その情熱がどこから来るのか――諦めていないからだ。いつか投手として、プロの選手として彼らと同じ舞台に立つことを。

山田さんたちの話をするとき、里中さんはとても嬉しそうで・・・どこか寂しそうに笑う。そんな彼を見ていると、何だか私も嬉しくて、そして切なくなる。私には決して埋めることのできない空虚を、あの人は心の内に抱えているのだ。

私は雑誌を閉じて、表紙につけられた値段を確認した。15歳の里中さんの貴重な勇姿だ。この本は彼には内緒でこっそり部屋に仕舞っておこう。里中さんだってエースだったことを話さなかったのだから、これでおあいこだ。

――グラビア写真の中の里中さんは、マウンドの上で両手を空に向けて飛び跳ねていた。勝利の瞬間なのだろうか、今より少しあどけない顔で、弾けるように明るく笑っている。ここが、あの人の帰るべき場所なのだ。広い球場のマウンドの上が。

だからもしいつか、彼がまた野球をやりたいと言い出したなら、絶対に止めることはしちゃいけない。彼から野球を取り上げるような真似だけは、絶対に。

私は一人そっと胸に言い聞かせた。


(2010年4月16日up)

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