New Departure 3

 

最後に火の元と窓が開いてないかを確認して、裏口から外に出て鍵をかけた。

 

この工場では終業時間ぎりぎりまで機械を動かし、後に一人残って装置の点検と掃除を行うのが常だった。明日のために簡単なメンテナンスをして、必要なら油を差す。手早くやれば一時間かからない程度の作業だ。以前は社員皆の回りもちでやっていたが、里中が入って以来、もっぱら残業係は彼の役割になっていた。一番年下だから面倒を押しつけられたわけではない。里中の事情を知った上での皆の温情だった。

ここに勤めている人間に暮らし向きの豊かな者などいないが、病気の母親の療養費を背負った里中が一番苦しい。こんな小さな工場の残業代など微々たるものだが、それでも多少の足しにはなるだろう。そんな皆の気遣いが有難かった。

一度定時に上がってから母の病院に行き、7時すぎまで病室で過ごす。それから工場に戻って一人で点検作業。それが里中の日課だった。そしてここから夜の日課がはじまる。

里中は軽く息を吸い込むと、スポーツバッグを背に、ゆっくりしたリズムで走り出した。

 

駅の裏手の公園は夜になるとすっかり人気がなくなる。公園のわりに木立が少なく、駅に近いため街燈が多くて遅くまで明るいからアベックがいちゃつくには向かないのだろう。里中はスポーツバッグを下ろすと、中からボールとグローブを取り出した。

毎晩仕事の後に里中はここへやってくる。ランニングがてらここまで走り30分の投球練習。その後5キロ走ってからアパートに帰る。朝も仕事に行く前に柔軟をやってから10キロ走る。疲れないわけではないが、高校時代の練習に比べれば軽いものだ。

軽く肩ならしをしてから壁に向かって投げ込みを始める。ストレート、カーブ、シュート、シンカー、スライダー。持っている球種のすべてを順に投げてゆく。そのたび壁がガツンガツンと鈍い音を立てる。特に印をつけたわけではないが、いつも球の当たる場所――ストライクゾーンはいつか壁が変色してしまっていた。

額にうっすら滲む汗をぬぐうこともせず投げ続けながら、里中の心はまたいつもの思いに還ってゆく。

――山田。

ガツン、と音がしてボールが跳ね返った。

――山田、山田、このボールが向かう先に、どうしておまえがいないんだろう。

長年の過労に蝕まれた母親の体はつぎつぎに内臓疾患を併発し、ここ数ヶ月は幸いに小康状態を保っているものの、いまだ退院の見通しは立たなかった。母の治療費と生活費、以前からの借金返済のすべてが里中の肩にかかっている。明訓を辞めるとき、またいつか必ず野球をすると母に言った。その「いつか」がいつ来るのか、本当に来るのかももはや疑わしかった。

それでも里中はこの2年半自主練習を欠かしたことはない。止めてしまえば二度と野球に戻れなくなる、それが恐ろしかった。そしてそれ以上に――仕事でどれだけ疲れていようと体が欲するのだ。白球を投げることを。

――なあ山田、おれとおまえの生きる世界はまるっきり離れてしまったけど、今はこうして一人でボールを投げるのが精一杯だけど、おれはまだどこかで夢見ているんだよ。いつかまたおまえと、おまえたちと一緒に野球ができるんだって・・・・・・。

 

「ほれ五利はよ来んかい。時間がのうなるわい」

「もともとは鉄つぁんが道間違えたんやおまへんか。駅の方や言われたのにどんどん暗い方向行きよってからに」

事の起こりは一時間ほど前にさかのぼる。シーズンもオフに入り、東京メッツの老エース岩田鉄五郎と監督の五利一平は骨休めのため3泊4日の日程で温泉へやってきていた。あえて数キロ先の有名な保養地を避け、その隣町に宿を決めた二人は、のんびりと温泉につかってシーズン中の疲れをほぐすのに専念した。

それでも3日目となるとただじっと温泉につかるだけでは退屈になってきて、町を探索に出かけることにした。しかし特段観光地ではない、中小の工場や商店と民家ばかりが建ち並ぶ町はとくに見るべきものがあるわけでもなく。散歩がてらにぶらぶらと一日歩きまわったあげくに、二人は軽く夕飯でも食べるかと小さな居酒屋へ入った。彼らの正体≠ノ気づいて、狭い店内はたちまち大歓声につつまれた。

「しかしメッツの岩田さんと五利さんが本当に単なる保養だけでこんな田舎町にいらしたんですか。実は何か裏の事情があるんじゃあないんですか」

メッツファンだと言う主人はすっかり上機嫌で、手ずから二人にビールを注いでよこす。

「裏の事情って、何や」

「有望な選手を見つけてスカウトに来たとか」

「疑り深いやっちゃな。何もあらへん。わてらかて骨休めくらいするわな。なあ鉄つぁん」

「有望な選手って、それらしい奴がここらにおるんか」

いきなり真剣な眼差しになって身を乗り出す鉄五郎の姿に、五利は呆れた顔になった。

「あかん、また鉄つぁんが商売気出しよったがな。あんたが余計なこと言うさかい」

「おまえは黙っとれ。心当たりがあるんか」

「・・・心当たりというか、たまに材料が足らなくなって夜分に駅前のスーパーに買出しに行くことがあるんですが、そのたび見かける兄ちゃんがいて。公園で一人壁に向かってボール投げてるんですよ。キャッチボール式じゃなくて、もっと本式な投球練習」

「ピッチャーか。どんな男だ」

「年は20歳そこそこぐらいの――どっかの工員でしょうね、ツナギみたいのを着てて。小柄で結構な男前ですよ」

「顔はどうでもええがな。肝心の球筋はどうなんや。使えそうなんか」

茶々を入れるような五利の言葉を鉄五郎は乱暴にさえぎる。

「そんなこと素人に聞いてわかるか。わしが自分の目で判断する。そいつはいつ公園に来る?」

「確証はないですけど通るたびいますから、毎晩じゃないかな。時間は今くらいですかね」

「――行くぞ五利。ご主人、朗報を感謝する。釣りはいらん。取っといてくれ」

「お勘定は明日でいいです。その代わり結果がどうなったか、聞かせてくださいよ」

人懐こい笑顔で言う主人に軽く会釈して鉄五郎は店を出た。あわてて五利が後を追う。

「全く投手の話となると目の色変わりよる。草野球レベルかもわからんのに」

「どこかの工員らしいと主人は言うとった。汗水流して働いたあとに毎晩ピッチングの練習をする。よほど野球が好きでなけりゃ続くもんじゃない。それだけでも見る価値はある」

「・・・毎晩ちゅうのは主人の想像だけやろが。まったくもう」

五利はため息をついたが、鉄五郎の我が儘には慣れている。気を取り直すと鉄五郎に並んで歩き出した。

 

線路づたいに明るい方を目指して歩くと数十メートル先に駅の看板が見えた。カンカンという踏み切りの警告音に続いて傍らをゴトゴトと電車が通り過ぎてゆく、その音の間に何か別の音が混ざっている。二人は顔を見合わせた。野球人として長い彼らはその音が何なのかを即座に捉えていた。

周辺をぐるりと見渡すとそれはすぐに見つかった。駅のすぐ裏手にある公園は、この時間でも駅舎の明かりや街燈に煌煌と照らされている。その白い光の中に人影がひとつ、遠目にもはっきりと見てとれた。

「鉄つぁん、あれや。あいつやがな」

「しっ!静かに。このまま少し様子を見よう。」

「そ、そうやな。実力を見るには、気づかれん方がいいな」

もちろんそれもあった。しかしそれ以上に、わずかな自由時間を投球練習に注ぎこんでいるのだろう青年の邪魔をしたくなかった。

うちの立花と同じ右のアンダースローだが、スピードはこの男のほうが上だ。変化球のキレもいい。何よりコントロールが優れている。壁に一箇所変色してる部分があり、投げる球がすべてそこへ吸い込まれていく。

――あいかわらず、いい球を投げているな。

隣でぽかんと口を開けながらしばし投球練習を見つめていた五利が、ふいに目を見開いて鉄五郎の服の袖を引いた。

「小柄で男前、アンダースローに変化球。な、鉄つぁん、あいつ、もしかして・・・」

「ああ。明訓高校の、里中だ」

 

二年前のドラフト会議の盛り上がりはすさまじかった。いわゆる「山田世代」が高校卒業を控えたこの年、指名された選手のほとんどが彼らの名前で埋まったのである。山田太郎本人に至っては、なんと10球団が1位指名するという驚くべき事態となった。

当然鉄五郎も夏前から山田獲得を狙っていた。しかし五利は千葉の剛腕投手・青田高校の中西球道を強く推した。「あいつは鉄つぁんの後を継げる男や」という五利の言葉に動かされて、甲子園での二人の戦いぶりを見たうえで一位指名を決めようという話になったのだが――信じがたい番狂わせが起きた。山田をはじめとする「四天王」の入学以来四期連続甲子園出場、三回優勝を果たした優勝候補の筆頭・明訓高校が地区予選決勝でまさかの敗退を喫したのである。

原因は投手力の不足――「明訓四天王」の一角、エースの里中が欠けたためだった。春の甲子園優勝の直後、家庭の事情だとかで里中は突然退学、エースの抜けた穴を埋めるべく第二投手の渚が力投したものの準決勝で肩を痛め・・・山田を中心に打線が、守備陣が踏ん張るも、ついに不知火率いる白新高校にはわずかに及ばなかった。

それまで、岩鬼・殿馬・微笑と、現在もプロで活躍している選手たちを擁しながらも、あくまで山田あっての明訓、明訓は山田でもっていると思われてきた。たしかに山田が明訓の大黒柱だったのは疑い得ないが、里中の存在がどれほど大きなものだったか――山田のリードあっての投手と軽く見られることも少なくなかった里中が、なりは小さくとも「巨人」に他ならなかったことをこのとき誰もが痛感したのだった。

かくて山田は最後の甲子園に出場できず、一方の中西はアメリカ留学を宣言して高校卒業後早々に旅立つことになり――五利との約束も宙に浮いた形になって、結局鉄五郎はプロ野球界あげての山田獲得合戦には参加しなかった。山田は交渉権を得た西武に二つ返事で入団し、すでに球団の「顔」と呼ぶにふさわしい地位を確立している。

――その山田の相棒だった男が、今自分たちの眼前で一人ボールを投げている・・・・・・。

 

リズムに乗って投げていた青年が手を止め、大きく息を吐き出して額の汗を拭うのを見て、鉄五郎は一歩前に進み出た。声をかけようとしたが、それより先に気配を察したのか向こうが振り返った。端整な顔に驚愕の表情が広がってゆく。

「里中くんじゃな。元明訓高校の」

「・・・メッツの岩田さんと・・・五利監督・・・?」

呆然とした声で里中がつぶやいた。

「おう、わしらの顔を知っとったかい」

「当たり前です!野球をやっていてお二人を知らない人間なんていませんよ!」

力いっぱい叫ぶように言う様子に鉄五郎は笑いを誘われた。

「さっきから君の練習を見せてもらった。球のキレもスピードも、高校時代と比べてまるで衰えておらん。何よりコントロールが正確だ。どうだ、メッツのテストを受けてみんか」

「鉄つぁん!」

突然鉄五郎が切り出したのに五利があわてた様子で袖を引っ張る。鉄五郎は構わずに続けた。

「君が高校野球を諦めた事情はよく知らん。しかし君はこうして一人で練習を続けている。君は野球を捨ててはいない。それだけの力量と情熱を埋もれさすのはいかにも惜しい。うちに来る気はないか」

里中は大きな目を見開いたまま立ち尽くしていた。その目に8割の驚きと、2割の喜びと困惑と誇らしさと・・・様々の感情がないまぜに溶け合っている。こんな目の青年を鉄五郎は何人も見てきた。その中でプロとして花開いたのはほんの一握りだったが。

長い沈黙があった。里中の目の光がしだいに昏く沈んでゆき――彼は顔を俯けると静かに首を横に振った。

「里中」

「すみません。本当に、もったいないようないいお話なんですけど」

きっと顔を上げた里中の表情はすでに落ち着きを取り戻していた。

「母が病気なんです。もう何年も患っていて・・・。プロに入れば遠征もあるしキャンプもある。長く母の側を離れるわけにはいかないんです」

きっぱりと言い切る口調に迷いはなかった。里中が高校を辞めた家庭の事情というのは母親か。鉄五郎は深く息をついた。

「――そうか、わかった。お袋さんを大事にな」

「・・・はい」

一瞬里中の目に無念そうな光がよぎった。自分でもそれと気づいたのか感情をごまかすようにパチパチと瞬きする様子が、鉄五郎には痛ましく思えた。

「今の時期、夜はかなり冷えこむからな。気をつけろよ」

「――はい。ありがとうございます」

里中が深々と頭を下げた。

 

公園を出て宿へ向かって歩きながら、鉄五郎も五利も自然と無口になっていた。

電車の音に鉄五郎は振り向き、腕時計に目をやる。これが最後の電車だろう。もうじき駅舎の明かりも落ちる。

――ユニフォームも歓声も、チームメイトも無く。それでも一人投げ続ける里中の姿は、まるでナイターのマウンドに立っているように見えた。

別れ際、「気をつけろよ」という自分の言葉に里中は一瞬右肩を押さえた。体を冷やすな、風邪を引くなというつもりで口にした言葉を、里中は「肩を冷やすな」という意味に受け取った。

――あいつは根っからの、投手だ。

いつか本物のマウンドに戻ってこい、里中。現在の努力と情熱さえ忘れなければ、いつかきっと道は開けるはずだから。

 

鉄五郎と五利が去った後、里中は練習を再開する気にもアパートに帰る気にもなれず、しばらくそのまま佇んでいた。

「・・・くっ」

やがて小さくうめきを漏らすと、堪えきれなくなった涙がぽたぽたと地面に零れた。

球界最高齢の現役投手、生きた伝説とも言われる岩田鉄五郎が自分を認めてくれた。「いつかまた野球をする」、その「いつか」がプロ入りという最高の形で目の前にやってきたのだ。心が動かなかったといえば嘘になる。

しかし母を犠牲にすることは絶対にできない。二度と野球を母に優先することはすまいと、高校を辞めたあの時に決意したその気持ちは今も変わっていない。だから今は、行けない。申し出を断ったことに後悔はなかった。それでも、

――それでもおれは、野球がしたいんだ。

自分の力がプロで通用するのか試してみたかった。あいつらと同じ舞台に立ちたかった。

未練がましい、と里中はぐいと涙をぬぐった。いつか母が健康を取り戻したら、その時こそ野球に戻ればいい。思う存分野球をやればいい。

――メッツなら水原さんに会えただろうけどな。

水原勇気。東京メッツで、そしてプロ球団で唯一の女性選手。女であるゆえのスタミナのなさ・非力という致命的ハンデを背負いながらストッパーとして活躍する水原を、アンダースローという共通点のせいもあり、里中は自分に重ね合わせて応援していた。女の水原さんでもあれだけやれる。そう思うとなんだか力が湧いてくる気がした。もちろん水原の活躍は彼女が利き腕の手首をボーリングで鍛えることで開発した必殺球「ドリームボール」あってのものなのだが――。

ふと里中の脳裏をある考えがかすめた。ドリームボールの基本は下手からのフォークボールだ。それが落ちるときにナックルめいた変化を伴う。普通なら下手でフォークは投げられない。ボールを指の間に挟んだ状態で上から下に振り抜く動作が必要になるから、動線が下から上に向かうアンダースローでは原理的に難しいのだ。

――でも水原さんはそれを投げている。

下手であっても手首を立てることができればフォークを投げられるんじゃないか。里中は右手首を内側に曲げてみた。もともと体の柔らかい里中だが、中学から変化球を投げ続けた手首はとくに柔らかくて、曲げた指先が腕に付きそうだ。

――できるかもしれない。下手からのフォークボール。

自分の知るかぎりそんな球が投げられるのは球界広しと言えども水原勇気一人だけだ。そして体力的には女の水原よりさすがに自分の方が有利であるはずだった。

水原をしのぐ自分のドリームボール。里中の胸の内で、すでに今日の無念は過去のことになっていた。明日の夢を心に描いて、里中はボールを人差し指と中指の間に挟むと、腕を下手から勢いよく振り抜いた。

 


このシリーズでは里中は高三夏の甲子園に行っていないので、『大甲子園』で里中を誉めてくれた二人と別の形で引き合わせてみました。
五利さんは予選決勝の時点では不知火押しでしたが、ややこしくなるのでそのへんはスルーということで。

(2010年4月10日)

  

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