New Departure 2

 

CMに切り替わるなり画面の色が沈んだ気がして、思わずテレビに目をやった。

別に機械の調子が悪いわけではなく、どうやら古い映像を流しているらしい。何だろう、と思う間もなく、私の意識はテレビに釘付けになっていた。

画面に映っているのは甲子園のスタンドを背景にマウンドに立つ少年。

――里中くん。

その姿を見た瞬間、私の意識は12年前の夏の日に引き戻されていた。

 

同僚から甲子園準決勝の切符をもらったから一緒に行かないか。夕飯の席で父がそう言ってきたのがはじまりだった。高校野球なんて興味ない、冷房の効いた家の中にいたいと思ったが、やたら熱心に誘ってくれるのにそうも言いづらくて、結局同行を承知させられてしまった。今思えば、あれは思春期に入った娘とコミュニケーションを取ろうとする父なりの方策だったのかもしれない。

試合当日、私は浮かない気持ちを抱えたまま初めて甲子園球場へ足を踏み入れた。さすがに準決勝とあってスタンドは満員、まわりの観客はみな試合の展開に一喜一憂していたが、あいかわらず私の気持ちは醒めたままだった。豆粒程度にしか見えない選手のプレイになぜああも熱くなれるのか、さっぱり理解できなかった。

途中ラフプレイで選手が負傷したり、えらく体の大きな高校生が助っ人として金網を壊して登場したりの事件はあったものの、基本的に(私にとっては)退屈なままに時間が過ぎていった。

そして運命の6回裏がやってきた。何と外野手(先に金網を壊した高校生だ)の送球が三塁に向かうランナーの後頭部にぶつかるという椿事が起きたのだ。ランナーの体は衝撃で前に吹っ飛び、それでも三塁ベースをしっかりと掴んでいた。そして自分にぶつかったボールが遠くに転がったのを確認すると、彼は再び立ち上がってホーム目指して走り出した。

いかに野球に疎いとはいえ、固いボールが頭にぶつかったのだから相当痛いだろうくらいは想像がつく。それでも懸命に一点をもぎとろうとする彼の頑張りに、私は思わず引き込まれていた。

本塁への送球。同時に走者がホームに滑り込む。判定は、セーフ。

「やったあー!」 

思わず私は父と声を合わせて叫んでしまっていた。

 

続くバッター二人が三振とピッチャーフライに倒れ攻守交代となったが、守備側がなかなかベンチから出てこない。

『里中くん傷の手当てのためしばらくおまちください』

場内にアナウンスが流れる。何ぶん頭の怪我だ。このまま試合に出られるのだろうか。

『ようやくでてまいりましたがリリーフでしょうか続投でしょうか。――続投です!!包帯もいたいたしい里中くん しかし続投です』

私はここで初めて彼がピッチャーだったと知った。小走りにマウンドへ走る少年の姿にわあっと歓声が上がる。いつのまにか客席はすっかり彼の味方になっているようだった。それも無理はない。頭にボールをぶつけられたのに、包帯を巻いているのに、それでも投げようとする。その姿には自然と心を惹かれないではいられなかった。彼は怪我人とは思えない快調なピッチングで打者を打ち取っていった。

しかしやはり無理が祟ったのだろう。4番打者にホームランを打たれたあたりから、彼は徐々に崩れはじめた。力尽きたようにマウンドにへたりこみ、集まってきたチームメイトに励まされてまた立ち上がる。他のナインに囲まれていると、彼がずいぶん小柄なのがわかった。

遠目にもわかるほどふらつきながら、それでも4番を今度は三振に取った彼は、それが最後の力だったらしい。次の回の自分の打席は見逃し三振に終わり、迎えた10回表には立っているのもやっとのように見えた。

それでも懸命にマウンドに向かって歩いてゆく彼の姿に、客席の一角から「がんばれ里中」という声援がとんだ。それは次第に周囲に広がってゆき、気がつけば「がんばれ里中」の声がスタンドを揺るがしていた。

私も叫んでいた。隣で父も叫んでいた。この甲子園球場の観客のほとんど全てが「里中くん」を必死で応援していた。

その声援が届いたのか、里中くんはよろめきながらも第一球を投げた。ボール。第二球。これもボール。いつしか私たちは声援を止め、無言で彼の投球に目を凝らしていた。

結局四球連続のボールで打者を歩かせた里中くんは力なくマウンドに膝をついた。その痛々しい姿に再び「がんばれ里中」コールが沸き起こる。前にも増すほどの大声援を浴びて、里中くんは三たび立ち上がった。

わあっと歓声がスタンドを包む中、しかし里中くんはよろよろとマウンドを降りた。駆け寄ったキャッチャーと何事かを話し、そのままベンチへと歩いてゆく。

『小さな巨人里中くん、限界を知って自ら降板です。しかしよくここまで投げ抜きました。球場を包む大歓声が拍手へと変わってゆきます』

実況中継の言う通り、客席は暖かな拍手で満たされていた。合間に「よくやったぞー!」と声援が飛ぶ。本当によくここまで頑張った。自分といくつも年の変わらない男の子の根性に、私は圧倒され、深い感動を覚えていた。

結局試合は接戦の末、キャッチャーの山田くんのサヨナラツーランで幕を閉じた。終了後の挨拶に山田くんは里中くんを背負って現れ、観客の心を再び暖かいもので、満たしたのだった。

 

翌々日の決勝戦は、父ともどもテレビの前にかぶりつきで見た。

これまで野球なんて興味なかったのにねえ。やっぱり生で試合を見ると変わるものかしら。揶揄するような母のくすくす笑いを私は聞き流した。気になるのは一つ、はたして今日の試合に里中くんは出られるのだろうか。

「雨で一日休みが取れたといっても頭の怪我だからなあ。やっぱり難しいだろうな」 隣で父が気遣わしげに呟いた。

しかし私たちの心配をよそに、里中くんはその日も先発で出場した。頭に包帯を巻いた里中くんをテレビがアップで捉える。初めてはっきりと見た里中くんの顔は思いのほか端整で、それも私を驚かせた。

前半、怪我の影響を感じさせず快調に飛ばしていた里中くんは、次第に疲労の色が濃くなっていった。それでも彼は、ついに最後まで一人で投げ抜いた。

『ゲームセット!明訓高校、初出場初優勝です!』

よろめきながらマウンドを降りる里中くんを山田くんがしっかり支え、高く抱き上げる。その周りにナインが駆け寄ってきて、互いに抱き合い涙しあう。里中くんは血の気を失った顔で、それでも最高に幸せそうに笑っていた。

 

夏休み中の登校日も、クラスは甲子園の話題で持ちきりだった。男子ばかりではなく女子までも。

女子の話題はやはり「明訓高校の美少年エース・里中智」に集中した。これはうちの学校だけの現象ではなく、すっかり全国的に有名になってしまった明訓高校の、その人気の中心は里中くんだった。単に怪我を押して投げる姿が同情を誘ったとかアイドルのような容姿のせいばかりじゃない。彼の野球への、勝利へのひたむきな情熱は、見る者を応援せずにいられなくする何かがあったのだ。

以来、私の生活はいくぶん様変わりした。明訓高校の試合はすべて、放映される限りはテレビでチェックし、新聞や雑誌に里中くんが載ったときは必ずスクラップした。特定の芸能人に入れ込んだことのない私が、こんなふうに誰かを追いかけるというのは本当に異例のことだった。苦しい受験勉強も、里中くんの頑張りを思って、乗り切った。

そして晴れて高校に入学した頃、里中くんは表舞台から姿を消した。突然の高校中退。このとき私の中でも、ひとつの時代が確実に、終わったのだった。

 

「ただいま〜」

「おかえりなさい。今日は遅かったのね」

「ああ。L&Pのショップに寄ってたもんだから。さすがに混んでたぜ。明訓CM効果だな」

そう言いながら、夫は背広のポケットから話題のワンセグ携帯を取り出して見せてくれる。

明訓CMというのはこの春からオンエアされているL&P(ラブアンドピースフォン)社のコマーシャルのことだ。去年の11月に発足したパ・リーグの新チーム「東京スーパースターズ」の親会社であるL&Pは、開幕にあわせてチームの主軸を成す旧明訓高校黄金時代のメンバーを総出演させたCMを流し始めた。それもあえて新録りではなく明訓時代の映像を繋いだものを。

今をときめく○億円プレーヤーたちの初々しい姿は大いに話題を呼び、今L&Pの新機種を買うと明訓メンバーをかたどった人形のストラップがもらえるキャンペーンも大当たりして、L&Pの携帯に乗り換える人が続々出ているという。現に目の前にも一人。

「あら、このストラップ――」

「そ、里中。店員が言ってたけど里中のストラップが一番人気なんだって。他に里中関連グッズが出てないとはいえ、長くプロで活躍してる連中差し置いてすごいよな。往年の女性ファンだけじゃなくて、CMで初めて里中を見た若い子なんかにも大人気らしいぜ」

里中くんの人気ぶりについては私も知っていた。初めてあのCMを見た直後、L&P社の公式サイトをのぞいてみたら、CMオンライン視聴サービスのリンクの下に、「新CMのピッチャーの男の子はだれ?」というコラム(?)があったのだ。

「目下大反響中の新CMですが、一番お問い合わせが多いのが『CMの最初と最後に登場するピッチャーの男の子について教えてください』『彼は今どうしているんですか』というもの。彼の名前は里中智。山田太郎らとは同学年で、1年の夏から明訓のエースを務め、明訓黄金時代を築いた中核メンバーの一人です。ピッチャーとしては小柄ながらも、多彩な変化球と抜群のコントロールで打者を翻弄するさまから『小さな巨人』と呼ばれ、端整な容姿もあってスター選手揃いの明訓野球部でも一番人気を誇っていました。病気の母親の看護のために惜しくも3年次の頭に高校を中退し、以来野球を離れていましたが、このたびスーパースターズに入団。山田との黄金バッテリーの復活、『明訓五人衆』が勢揃いする日も遠くないでしょう」

10年目にして知った中退の真相もさることながら、「スーパースターズに入団」の一文がどれほど私を興奮させたことか。スーパースターズに里中くんがいる。また里中くんを見ることができるのだ。

「ちょうどこれが最後の一個だったって。当分入荷しないって言ってたから、いや〜ラッキーだったよな」

夫は実に嬉しそうな顔でストラップの里中くんの頭をちょいちょいと撫でた。2cm程度の大きさの人形はだいぶデフォルメされているものの、黒目がちの大きな目と小さく微笑んだ口元に彼の面影がある。

「あなたがそんなに里中くんファンだったなんて知らなかったわ」

「里中は野球少年の間じゃ結構人気高かったんだぜ。女人気がすごかったからなかなか大っぴらに言いにくい空気があったけどさ。あのアンダースローとか憧れて真似したもんだよ」

夫は中学高校と野球をしていた。付き合い始めたのはやっとレギュラーを取った高2の頃だったから、練習漬けでなかなかデートもままならなかったのを思い出す。

なんかさあ、あいつが小さい体で頑張ってる姿を見てるとさ、必死に努力すればおれでも出来るかも、って気になるんだよな。夫の言葉を聞きながら、マウンドに立つ里中くんの姿を思い出す。

CMは里中くんの投球シーンからはじまる。流れるような華麗なアンダースロー。マスクを上げナインに指示を叫んでいる山田くん。岩鬼くんの豪快な悪球打ち。殿馬くんの秘打。ベンチから激を飛ばす土井垣監督、山岡さんのダイビングキャッチ、微笑くんの大遠投。山田くんの大ホームラン。名試合の名場面を繋いだ映像の合間に新型ワンセグ携帯の画像が挟み込まれる。

そして里中くんが打者をストライクに取り審判がアウトをコール。里中くんが山田くんに飛びつき、抱き合う二人にナインが駆け寄るところでCMは終わる。たった一分弱の時間に彼らの、彼らに熱狂していた私たちの青春が詰め込まれていた。

――一般の里中くん人気が再燃する一方で、マスコミの反応は全体に冷たかった。「常勝明訓復活」を新球団のウリにしたいために今さら里中を担ぎ出したんじゃないか、というのがおよその論調だった。入団以来里中くんが二軍の練習場に篭りきりで、マスコミの取材に応じていないのも影響していただろう。マスコミ慣れしない里中の気を散らさないためというのは表向きで、とても見せられるレベルに達していないのだ、なんて記事には本当に腹が立った。

「スターズは投手力が弱いから、そう遠くない先に登板の機会はめぐってくると思うけど・・・」 一人言のように夫が言う。

「もう27歳だし、10年もブランクがあるんじゃ今さらプロでそうそう活躍できるもんじゃないよな。プロの世界はそんな甘くないし。でも、それでもあいつなら――里中なら何とかするんじゃないかって、そう思えるんだよ」

後頭部に傷を追いながらランニングホームランを決めたように。怪我に耐えて投げ抜きついには初優勝をもぎ取ったように。次の春も夏もその次の春も、たえず故障や病み上がりのスタミナ不足に悩まされながらも4度の甲子園出場3回優勝という大記録を打ち立てたように。里中くんなら。里中くんならきっと。全国のファンが願っているに違いない奇跡を私もまた信じたかった。

 

そして6月も半ばを過ぎたころにその日は来た。いつものように遅めの夕飯を取りながら、私たちはナイターの中継を眺めていた。

『9回裏、現在先攻のスーパースターズが2対1と1点リード。ツーアウトランナー二塁、迎えるは4番。スーパースターズ正念場です。あっと、土井垣監督立ち上がりました。選手交代です。ピッチャー木下に代わって・・・里中です!』

途端にものすごい歓声が客席から沸き起こった。私は思わず椅子から腰を浮かせた。

「あなた!里中くん!」

「ああ、ついに来たな」

2週間ほど前に里中くんが1軍に上がったという記事が出てから、ずっと待ち望んでいた日がついに来た。思わず画面を食い入るように見つめる私に、夫が苦笑気味の声で呟いた。

「おっさん臭くなってないといいけどな」

「べつに顔でファンになったわけじゃないわよ」

そう返したものの、内心それが一番の不安要素ではあった。復帰以後今もって里中くんはいっさい人前に姿を表していない。往年のファンもCMがきっかけの新しいファンも、知っているのは高校生の里中くんだけなのだ。現在27歳の彼はあの頃の輝きをどの程度残しているのだろうか。

テレビの中で再び大きな歓声があがった。リリーフ用の車を使わず自分の足で走ってくる彼を、カメラがアップで捉える。

高校時代はいかにも華奢に見えた身体は幾分しっかりして細身ながらも強靭さを感じさせる。女の子のように可愛らしかった童顔は年相応に甘さが減じた分凛々しさが増した。整った顔の造作に少年時代の面影を多分に留めながら、彼は颯爽とした大人の男性に脱皮していた。

――やだ、かっこいい・・・・・・!――

言葉も出せずに、私は彼に見惚れていた。

「かっこいいな、里中」

「・・・うん」

夫の言葉にやっと頷いたとき、里中くんがマウンドに立った。

『さあ、10年ぶりの公式戦のマウンドです。抑えるか、里中智?』

実況の声にかぶせるように、里中くんの手からボールが放たれる。あの頃のままの華麗なアンダースロー。ストライク。

『ど真ん中のストレート!一球目は様子見と読んでの山田の大胆なリードです』

二球目はファール。ツーストライク。勝負は次の一球に掛かっている。里中くんがセットポジションから三球目を投げた。

ホームベース上、ボールはテレビ越しにもわかるほどの急角度で落ちた。大きく振ったバットが宙を切る。

『ストライク!バッターアウト、試合終了!2対1でスーパースターズの勝利です!里中、初登板で見事に役目を果たしました。しかし最後のボール、あれは・・・』

「なんだよ今の球!?あんなの見たことないぜ」

「なにって、フォークじゃないの?がくんと落ちたわよ」

「普通フォークはアンダーじゃ投げられないんだよ。普通なら・・・」

普通ならば、できない。それでも彼なら、里中くんなら――。

「・・・やっぱりすげえなアイツ。そのうちスターズのエースにだってなるかもな。そうしたら本当の明訓復活だ。」

そんな日は、きっとやってくる。そう遠くない未来に。

テレビの中では里中くんが駆け寄ってきた山田くんに飛びついていた。山田くんが里中くんの体を受け止め、高く抱き上げる。その姿がCMの、そしてあの日の二人に重なった。


(2009年12月30日up)

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