New Departure 5

 

風に初夏の気配が混じり始めたころ、山田はスーパースターズの二軍練習場を訪れた。一軍の正捕手にして不世出の大スラッガーの姿に、グラウンドのそこここで驚きの声があがる。

――おい山田さんだぜ。何だってこんなところに。調整じゃないよなあ?

――昨日の試合でも普通に打ってたぜ。調子悪いわけないよ。

疑問符で彩られた彼らのざわめきは、山田が歩いてゆく方向を見定めると納得の声に変わった。山田の行く手には屋内練習場があり、そこには彼の古くからの盟友が数ヶ月篭りっぱなしになっているのだった。

 

中の音にかき消されないようやや強めにドアをノックすると、しばらくしてドアが開き二軍コーチが顔を覗かせた。

「おお、来たかね」

「練習中すみません。少しお邪魔しても大丈夫ですか」

「構わんよ。そろそろ休憩を入れようと思ってたところだ。あいつはどうも根を詰めたがる癖があるから」

困った奴だよ、とコーチは破顔した。口ではそう言いながらも里中に目をかけてくれているのがその暖かな口調でわかる。

「面倒事を頼んでしまって申し訳ありません」

「なに、それが仕事だからね。確かに最初おまえさんから話を聞いたときはそんな無茶なと驚いたがね。あいつの投球を見てもっと驚いた。あいつはすでにその無茶を8割がたものにしてたんだから。私はほんの仕上げを手伝っただけだよ」

にこやかに言うとコーチは体をずらして山田に中へ入るよう促した。一歩中に入って練習場を見回す。目当ての人物は部屋の中央で軽く体をほぐしている。声をかけようとしたが、それより前に里中の方がこちらに気づいた。

「山田!」

輝くような笑顔で駆け寄ってくるのに山田は微笑みを誘われた。前に会った時より少し痩せたようだ。しかしかえって精悍さを増したような気のする姿に、この数ヶ月の彼の努力を山田は痛感した。そのくせ自分に向ける表情はこの間よりも無邪気で、少年めいて見える。俗事を離れ、ひたすらに野球と向き合い続けた数ヶ月間が、彼をかつての野球少年に戻してしまったかのように。

「久しぶりだな。今日はどうしたんだ」

「おまえの顔が見たくなってな。例の球、完成したんだろ」

一瞬間があってから、里中は力強く頷いた。その表情に自信と誇らしさが滲んでいる。

入団以来里中に会うのは今日がはじめてだった。春キャンプや試合で忙しかったせいもあるが、あの球が完成するまでは里中は自分に会いたくないんじゃないかと考えたからだ。だから二軍コーチに例の球が完成したら連絡をくれるように頼んで、直接自分で練習場に顔を出すことは避けてきた。昨日ついに待望の電話を受けて、さっそくに飛んできたのだ。里中の晴れやかな顔を見て、自分の判断は間違ってなかったと山田は幸せな気分になった。

例の球――入団テストの時、最後に里中が投げた下手からのフォーク。アンダースロー独特のボールが浮き上がるような軌道から打者の手元で一気に下降する。通常の上手からのフォークに比べて、いったん上昇する動きが加わるためなお打ちにくい。この球にさらに磨きをかければ一線級の打者でも打ちあぐねるに違いない。そう考えた山田は、下手のフォーク≠より研ぎ澄ますように二軍コーチに依頼したのだった。

「ここまで来たんだから、おれの球を受けてってくれるんだろ?」

「そのつもりだが、今から休憩だったんじゃないか。少し体を休めてからにしよう」

「おれなら大丈夫。せっかくおまえが来てくれたのに、待ってられないよ」

体がうずうずする、と言いたげな里中の様子に山田は苦笑した。本当に野球のことだとこの男は子供みたいになってしまう。

「わかったよ。今仕度するから」

山田は近くに置かれていたミットを左手にはめて構えた。サインを出す。まずはストレートからだ。

里中が頷き、ワインドアップから球を投じる。バシンと軽快な音とともにボールがミットに収まる。

山田はわずかに眉をひそめた。この間のテストの時のほうがもっとスピードがあったような気がしたのだ。

カーブ、シュート、シンカー、スライダーと順に投げさせてから、ついにフォークのサインを出す。里中がいささか緊張の面持ちで頷いた。

里中が大きく振りかぶった。左足の膝が胸まで上がり、ゆっくりと上体を折る。馴染みの流麗なフォームから放たれた白球は、ストライクゾーン手前でぐっと浮き上がりど真ん中へ向かって吸い込まれる、と思ったところで急激にがくんと落ちた。山田はあわててミットを出し、かろうじてこれを拾った。

明らかに前に見たものより浮き上がる角度も落ちる角度も直角に近くなっている。もしこれが青空の下のデーゲームで使われたら空にボールが吸い込まれて消えたように見えるだろう。

「どうだ、山田?」

里中が少し不安そうな声で尋ねてくる。

「見事だよ、里中。これで完成だな」

明らかにほっとした顔になった里中だが、

「だからもう当面この球は投げるな」と山田が続けると、その表情が凍りついた。

「どうして!ようやく完成したばかりなのに!」

「・・・理由はおまえもわかっているはずだ。ストレートやシュート―フォーク以外の球のスピードがテストの時より落ちている。おまえ、肘を悪くしかけてるだろう」

里中ははっと目を見開くと左手で右肘を押さえた。その動作が山田の言葉を雄弁に裏書きしている。

下手でフォークを投げるのは球の性質上難しい。里中は人一倍手首が柔らかいために何とかそれを可能にできた。しかしそれでも手首や肘に負担がかかるのは否めず・・・。練習のためにフォークを多投したダメージが出はじめているのだ。

こうなることは目に見えていた。それでも里中をプロの投手として通用させるためには、どうしても決め球が一つ欲しかった。実際にその球を投げることはほとんどなくても確実に「ある」というだけで、打者を攪乱するようなリードができる。練習の過程で手首や肘を壊す危険はあるが、すでに独力でほぼそれをマスターしている里中なら、決定的な故障に見舞われる前に球を完成させるだろう。そう確信していたからこそ山田は新球の開発に踏み切ったのだ。

「――何も一切封印するということじゃない。ここぞの時に投げられるように、この球は温存しておこうということだ」

里中は唇を噛み締めて山田の言葉を聞いていた。山田が言葉を切るとしばらく沈黙が訪れ―やがて里中は顔を俯けたままぽつぽつと言葉を紡ぎだした。

「野球選手が現役でいられる期間は限られている。まして投手の肩は消耗品だ。他の野手より選手生命は短い。おれはもう27だ。あと何年投げられるかもわからない。だったらおれはこの球に賭けたい。プロの、一軍のマウンドで一流の打者と戦いたいんだ。一日も早くおまえたちと一緒に戦いたいんだよ」

最後は顔をあげ、山田の顔を正面から見据えて言い放つ。その訴えるような口調も眼差しも山田はよく知っていた。高二春の甲子園決勝で、右肘と親指の故障にもかかわらず続投させてくれと監督に懇願した、あの時と同じだ。

一日も早く一軍のマウンドに立ちたい。そのために余計投手としての寿命を縮めることになっても。山田はそっと溜息をついた。現在の栄光のために未来を根こそぎ投げうつような―そういうところは高校時代と見事なまでに変わっていない。

かつては小柄な体格へのコンプレックスがそうした一種デスペレートな行動に結びついていた。今の里中を追いつめているのは焦りだ。年齢からくる焦り。自分たちと同じ舞台に立ちたいという焦り。離れて暮らす家族に早く結果を見せたい気持ちもあるだろう。おそらく里中は新球とともに数年で燃え尽きる覚悟さえ決めているのではないか。

――そんなことには、させない。

だから新球が完成したと連絡を受けるとすぐに山田は飛んできたのだ。血気にはやる里中を落ち着かせるのは昔から自分の役目だったから。

「おまえに早々に引退されたらおれが困る。おまえはおれがこれまで組んだ中で最高の投手なんだから」

「・・・冗談だろ?西武の頃には松坂や犬飼の弟や、オールスターでは不知火だって・・・」

「それでも目を見るだけで球種や球のコース、気持ちまで通じ合えるのはおまえだけだった。ようやくおまえとまた組めるようになったのに、数年で終わるんじゃもったいない。だからあの球だけに固執するな。手首や肘の負担を最小限に抑えて、長く現役で活躍できるようなリードをおれがちゃんと考えるから」

「・・・・・・おまえは本当に人をその気にさせるのが上手いな」

里中はちょっと泣き笑いのような顔で微笑んだ。スーパースターズへの入団を決意したときと同じ顔で。

「まかせるよ山田。おれはおまえのリードを信じて投げるだけだ。これまでと同じように」

さわやかに言い切ってから、ちょっと悪戯っぽい上目遣いになって、

「おれの負担を気遣って、肝心なときにあの球を要求しないなんてのはダメだからな」

しっかり釘をさすのに山田は苦笑した。

「もちろんだ。おれもおまえの底力を信じているよ。おまえはそんなにヤワじゃないって」

「よし」

里中が笑顔で頷いた。

「ホッとしたらなんだか喉が乾いたな。山田、食堂にコーヒーでも飲みに行こう」

「そうだな。もともと休憩時間だったんだもんな」

コーチは気をきかせたのかとっくに練習場から姿を消している。二人はドアを開けて表へと出た。

「いい天気だな。このところたいがい屋内に篭ってるからさ、外に出た時の日差しが本当に眩しく感じるよ」

晴れ渡る空を仰いで深く息を吸い込む里中の横顔を、このまま青空に溶け込んでしまいそうだと、山田は眩しげに見つめた。

「・・・そういえば、例の球、もう名前は付けたのか」

「いや。おまえ付けてくれよ。おれはどうもネーミングセンスには自信がない」

土井垣さんもひどかったけどな、と里中は笑った。

「そうか、それじゃ・・・『スカイフォーク』はどうだろう。球が浮きあがるとき、一瞬空に吸い込まれたように見える。青空の下で投げたら、きっと空に溶け込んだように感じるんじゃないか」

「空のフォーク≠ゥ。いい名前だな。さすが山田だ」

里中は笑顔で頷くと再び空を見上げた。山田も並んで上へ向けた、その視界の端をジェット機が彼方へ飛び去ってゆく。青く澄んだ空に飛行機雲の白いラインがどこまでも長く伸びていった。


このシリーズの里中(大人バージョン)は『プロ野球編』の彼よりもうちょっと大人っぽい男っぽい外見でイメージしてます。ついでに書くと3話、4話、4.5話は無印最終回の延長線上(70年代後半)、1話、2話、5話は『スーパースターズ編』準拠(2003〜2004年)が前提だったりします。

(2012年9月6日up)

 

 

 

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