中西 球道

 

『球道くん』の主人公にして、水島野球マンガ全体を通しても、藤村甲子園(『男どアホウ甲子園』)、新田小次郎(『光の小次郎』)と並ぶ剛球投手。『大甲子園』では明訓高校と延長18回に及ぶ死闘+翌日の再試合を繰り広げ、その実力・存在感を充分に見せつけてくれました。

『大甲子園』の時点では身長180cmと紹介され、多分に男っぽいハンサムに成長している球道ですが、子供時代は里中そっくり(鼻の形以外は)の実に可愛らしい男の子でした。顔の面積の半分を占めるような大きな目をうるませているところ(泣いてるわけではなくもともとの水分量が多い感じ。里中もそんな表情をしてることがよくあります)など、幼児とも思えないような色気さえ感じられます。中身はあの球道だけに結構なやんちゃ坊主ではあるのですが、そうはいってもまだまだ幼さ・無邪気さが勝っている印象です。ボールを投げるときのかけ声も後のような「ぬおおお」ではなく「たああ」ですから(笑)。

そんな彼は中学くらいから『大甲子園』に通じる男っぽい外見に変わってゆき、性格的にも短気で喧嘩っ早い少年へと成長してゆきます。このへんは育ての父である中西大介の影響が大きいかも。球道が試合中に喧嘩沙汰で退場を食らったと同じ日に大介もやはり試合中の喧嘩沙汰で退場させられて愛子ママが呆れるエピソードなんてのもあるくらいで、まさに血が繋がってないとは思えないそっくり親子ぶりです。それだけに球道も自分が中西家の実子でないとは考えもしなかったろうし、高校生になってから大介の口からそれを知らされたときは結構なショックを受けたはずですが、そのことで両親との関係に亀裂が入ることはなかった。事実を受け入れたうえで家族との絆を変わらず保ち、ほどなく再会した実の母親にも相応の愛情をもって接している。養父母に実の子と同じ愛情を注がれたからこそ、球道は腕白ながらも曲がったところのない純粋な少年へと育ったのだと思います。

 

そんな球道が99年になってロッテにドラフトで一位指名されるという形で『プロ野球編』に登場したとき、読者は多分に驚いたらしい。それも好意的な驚きではなく怒り呆れる声が多かったようです。ここで『プロ野球編』を見限ったという人も多かったと聞きますし。
『大甲子園』はあくまで企画ものであって『ドカベン』と『球道くん』の世界は本来別物と思っていたのに、なし崩しに二つの世界が一つになってしまった。しかも『プロ野球編』は『ドカベン』世界の地続きなのだから、球道がそこに加わるということは脇役扱い、ともすれば山田の引き立て役に甘んじるということを意味するわけですから、球道ファンに顰蹙を買っても無理のないところでしょう(犬飼知三郎が登場した時点で、いやむしろ冒頭で里中が普通に明訓野球部に所属してる時点ですでに『大甲子園』の設定が『ドカベン』ワールドの正史に組み込まれてはいるんですが、知三郎は『大甲子園』のオリジナルキャラだったので、まだしも他の作品から越境してきた感は少なかった)。
また昔に比べてずいぶん大人しくなったというか、試合中に審判に逆らったり乱闘したりで退場という場面がおよそ存在しないのもなんか球道らしくない。入団後の会見の場で記者たちから「中西君ほどの才能ならどこで野球をやっていようが話題になるはず」「たとえアフリカのジャングルの中でもね・・・ それがこの5年間全然聞こえてこなかった」などと、すでに才能が枯れている、客寄せパンダとして指名したと揶揄されたのに怒って、彼らをグラウンドへ連れて行き「バカどもだから見せなきゃ分からんのですよ・・・」「失礼には失礼を これがおれの主義よ」と言い放ってその投球を見せつけた不敵な態度はさすが球道という感じだったんですが。

加えて球道がドラフトでの指名拒否を宣言して高校卒業後アメリカへ渡り普通に大学生をやってたらしい(上述の会見の席で「オリオン大学ではもちろん野球をやっていたんだろうね」と聞かれ「適当にね」と答えている。このはぐらかしたような回答と5年間噂が聞こえてこなかったあたりからして、まともに野球をやっていたとは思えない)というのも彼の柄に合わないことはなはだしい。どう考えても高校卒業後速攻プロ入りが(実力的にも本人の性格的にも)ふさわしいキャラであり、本場アメリカでのプロ野球を目指した(『MAJOR』みたいに)というならわかりますがなぜ大学に?球道を出すにあたって彼がこれまでプロ入りしてなかった理由を作る必要があったのはわかるんですが、せめてもっとキャラクターに合った理由にしてくれれば・・・。それこそメジャーリーグで活躍してたのを口説いて移籍させたとか。

しかし翌2000年の開幕試合(ロッテ対西武)で球道が初登板し、山田のホームランで敗れたものの7回までをノーヒットに抑え実力を示したさい、立花龍司コンディショニング・ディレクターが袴田チーフコーチと観戦しながら「球道 次はリベンジだ あれだけの苦しみを乗り越えてきたおまえだ そうでなければおれが米国(アメリカ)から連れて帰った意味がない」「オフにはあいつとおれの苦労話を肴に20勝の祝でもやろうか」と発言していて、ここから推すと球道がこれまで日本のプロにもメジャーにも入らなかったのは再起不能ものの重い故障を負っていたせいで、その故障を懸命のリハビリでようやっと克服して再起が叶った(「あいつとおれの苦労話」というからには再起の過程に立花氏も大きく関わってるっぽい。99年ドラフトの席で当時はスカウトだった袴田氏も「探しに探し 苦労に苦労を重ねた1位ですから」と話していたので彼も関与してるらしい)ということのようです。

しかし94年のドラフトの指名を拒否してるわけですから、故障は高三の11月までに起きている。となると故障の遠因は高三夏甲子園準決勝の二連投にあったんじゃないか。
再試合の際に前日18回を完投した里中は先発を回避して5回から登板しましたが、同じく18回を投げきった球道は平然と先発完投している。球道は体力のない里中とは違う、二連投くらいでびくともしない、と監督も青田ナインも養父中西大介も皆それを当然と思ってるし、何より球道自身が自身の体力・右腕を信じきっている。
でもチームメイトに山田や岩鬼、殿馬のいる里中と違って球道は投げるだけでなく打つ方の要でもある。彼の一身にかかる負担は里中より大きいはずで、しかも球道は地区予選の決勝で左腕を骨折している。甲子園一回戦の段階ではまだ傷が癒えきらずにクジ引きで不戦勝を引いて大喜びする一幕があったくらいで、二回戦までに完治したことにはなってますがやはり本当の本調子ではなくて、しかし自分の体力を過信してる球道はそれに気づかず無理を重ね、ついには甲子園が終わってから致命的な故障を引き起こすに至った――と推測できます(里中のようにケガが多くスタミナにも難があるとその分本人も周囲も体調に気を遣うから異変に気づきやすいし、無茶もするけど少なくとも「無茶をしてる」自覚はあるので、かえって本当の大故障には至らないのかも。高一秋、高二春、高二冬〜春の故障も結局数ヶ月で復帰可能でしたし)。
そして日本の医者にはサジを投げられ、より高度な医療を求めて渡米したものの再起不能を宣告され、野球ができなくなった自分をかつての野球仲間や剛速球投手ともてはやした人々に見られたくなくてそのままアメリカに留まって野球と無縁の生活を送っていたが、その後新たな治療法が見つかり一縷の希望をもって手術に臨み見事成功(この前後で立花氏や袴田氏と知り合う)、苦しいリハビリを経てついに投手として復活した・・・そんな流れだったんじゃないでしょうか。
2000年の春キャンプの頃、まるで動向の伝わってこない球道を山田は「中西は鉄のカーテンの中で必ず何かをやっている」と目していましたが、里中のスカイフォークのような新球がその後出てきたでもないので、秘密特訓ではなくまだリハビリ中だったんでしょうね。前年のドラフトの時点では故障は完治したもののまだまだプロで投げられるレベルではなかった(記者陣の前で投げたのは一球だけなので、あの時点であのレベルの球を継続して投げられたかは不明)ということでは。
そして開幕試合までにすっかり本調子にもってきた球道は、山田にホームランくらったことでかえって火がついたのかその後三連続完封をなし遂げ、一年が経つころには「パ・リーグNo.1の速球王」(つまり不知火より速い)と言われるまでになります。

 

ところで球道が入団したのがロッテだったということで、当然読者は同じチームの里中とのからみを予想したことと思います。事実同人誌界ではこの二人のカップリングというのも人気のようですが、そういう視線を抜きにしても高三夏の甲子園であれだけの激闘を繰り広げた相手であり、投手としてのタイプは正反対である一方でどちらもケガを押しても投げ続ける熱血野球バカという共通点があり、少なくとも球道の方は翌日の決勝戦での発言を見るに試合を通じて里中の技量に相当の感銘を受けた様子がうかがえるので、この二人がチームメイトになったなら、同い年でもあることだし野球談義を通してすっかり打ち解けて親友にもなれるんじゃないかと感じたものでした。

と同時に同じ投手であり相手の力量に対する敬意もあるがゆえにお互いライバル意識も相当強くなりそうな気配も漂っていました。特に里中の方は球道入団に数ヶ月先立つ日本シリーズの初日にオリックスの殿馬とのトレードがスクープされるという事件を経験している。このトレード話は結局実現しなかったものの、完全なガセだったのか実際にロッテ首脳部の中に球道が入団するなら里中は放出しても構わないという考えがあってそれが記者に洩れた結果の記事だったのかはわかりようもないし、少なくとも世間は球道>里中と考えてるからこそこんな記事が出るのだと里中が考えても無理のないところ。かつて苦戦した記憶があるだけに球道のロッテ入りに里中は戦々恐々だったことと思います(球道一位指名を聞いた直後「野球を続けていたとしたら こいつは凄えぞ」とちょっと冷や汗かきつつも何か嬉しげな様子だったので、有力なライバル登場にかえってワクワクする気持ちもあったようですが)。スカイフォークを共同開発した、ロッテでの師匠と言っていい存在だった袴田さんが球道を連れてきたというのも心情的に面白くないだろうし。
2001年の正月自主トレの際に岩鬼と三太郎が三冠王の話をしてるのを受けて「おれの目標の防御率のタイトルはとにかく同じチームにいるライバル・球道に勝たない事にはな・・・」と語ってるあたりにも顔は笑ってるものの里中が相当の緊張感を持ってることが感じられる。前年に球道が大活躍してるだけになおさら。
2002年の西武対ロッテの開幕戦の時に記者たちの間で「しかし連続三冠王を目指す山田にとって里中先発はラッキーだな」「そうよな 里中は去年カモにしてきた山田だからな」「どうして中西じゃないんだ ロッテにとって勝利の8割は山田対策だろ」「その山田を開幕は中西でピタリと抑えてスタートを切るべきだろう」なんて会話が交わされてるのが出てきたときにはやはり球道入団で里中の立場が微妙になってたのかと思ったものです。少し後には里中が同じチームの先輩小野さんに「おれに言わせりゃ“先発里中”でもう(注・試合を)捨ててるよ」なんて言われてたりするし。「冗談よ冗談」とフォローはしてるものの・・・。

ともあれ、ライバル意識が前面に出るにせよ早くから意気投合するにせよ里中と球道のツーショットや一緒のシーンが多々出てくるだろうと期待してたんですが、蓋を開けてみればそんなシーンはほとんど出てこない。たまに移動の車の中で会話してる場面がある程度。せっかくこの二人、(とくに里中から球道に対する)感情の引っ掛かりや、衝突を経過したうえでの友情など美味しくなりそうなネタが満載なのに。「高一夏・土佐丸戦」の項で触れた2003年の開幕試合で里中が降板した話なんかもそうですが、どうも『プロ野球編』以降対人関係があまり掘り下げられなくなったというか、キャラクターの感情の揺れといったものが深く描かれなくなったような。『プロ野球編』も初期はなかなか一軍に上がれず、あげくにプロ未登板のままオールスターに一位選出されてしまった里中の苦悩とか、そんな里中を案じる山田の思いとかがちゃんと描かれてたんですけどねえ。

そんな中で数少ない里中と球道にからむエピソードが2001年の開幕戦西武対ロッテの第二戦。ロッテの開幕投手だった球道は山田の第二打席、左足に異常(肉離れ?)が起こったためにツースリーで降板し、一球のみ里中がリリーフすることになったのでした。
山田はこの打席に六打席連続ホームランの記録がかかっており、里中としてはチームのためにも球道のためにも六連続は断固阻止したいはずの緊張感あふれる局面ですが、マウンドにあがる里中は気負いを感じさせない笑顔で、読まれてるのを承知で投げたスカイフォークで見事山田をライトフライに打ち取る。
球道に代わって山田を抑え、第一打席でホームランを打たれた球道の無念も晴らした形で、球道が里中に感謝を述べるとか二人が手を取り合って喜ぶとかの友情シーンが期待されそうな場面ですが、特にそういったシーンは登場しない。山田の第一打席ホームランが入るかどうかというときネット裏の里中も球道を案じてドキドキしてる場面と、里中が山田を抑えたのを見た球道が「さすが小さな巨人」と内心呟く場面があるくらい。山田を打ち取った里中の心の声も「山田 勝ったぞ」。球道に呼びかけるんじゃなくて山田。里中にとっては「球道の代わりに勝った」ことじゃなく「自分が山田に勝った」ことの方が重要なのか?とついツッコみたくなります。

そんなこんなで里中と球道がどの程度仲良いのか(あるいは悪いのか)は結局よくわからないまま。まあ会話の中で里中が『大甲子園』では名字呼びだった球道のことを「球道」と呼んでる場面があるので、多少は心安くなったってことでしょうかね。


(2012年4月21日up)

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