無冠のヒーロー −初期の山田太郎とあぶさん−

 

高校二年あたりからは全国No.1の強打者として高校球児皆の打倒目標となった山田。しかし高一、とくに最初の夏ごろはまだ“わかる人間にはわかる”という感じの評価のされ方でした。たとえば土佐丸戦前の練習時に記者が「山田はめだたんけどええバッターやな」「ミートにかけちゃひょっとして大会NO.1かもしれん」と噂してたり、土佐丸戦終了後に球場職員が「なんちゅうても明訓はキャッチャーの山田がええ」「あのドカベンか・・・目立たんけどたしかにNO.1や」と離してたり。前者はバッターとして、後者はキャッチャーとして、どちらも“目立たない”と断ったうえでしかしNO.1だと語っている。記者たちによると甲子園にきてから土佐丸戦前まででコツコツ打って5割の打率というから確かにこりゃすごい。
一回戦の通天閣戦以降土佐丸戦までの試合は描写がはしょられてる(二回戦は一部描写あり)ので、山田がどの程度打っていたのかも具体的に描かれてないのですが、彼らの会話からホームランなどはないものの二打席に一度はヒットを打つような形でチームに貢献していたことがわかります。「コツコツ」打ってるので、そして外見も華やかさなスター選手っぽさがないので(土井垣はこのスター性があるゆえに実力以上に目立ってそう)目立たないけれど、見る人が見ればわかる。山田をNo.1だと話しているのが一般客ではなく記者や球場職員というプロフェッショナルなのがそれを示しています。
明訓が優勝した直後、実況(解説者?)が選手皆のプレーを紹介したさいに『しかし・・・・・・しかしわたし個人として最大のヒーローをあげさせてもらえるなら 今大会屈指のNO.1選手に山田太郎くんをあげたい 特に本塁を死守したあのキャッチングはなんといってもすばらしいものでした』と表現するのも、もっとわかりやすく目立っているヒーローはほかにいるけれど(たとえば決勝戦で決勝打となった大ホームランを打った岩鬼)、でも自分としては、と少々ためらいつつも言わずにいられないというニュアンス(ちなみにこの解説、キャプテン土井垣についてはまるで触れていない。山岡にさえ言及してるのになあ)。
打つほうの活躍は岩鬼が決め、負傷にめげず投げぬいた里中とともに表面的な話題を独占させつつ、影の立役者として山田が語られる。甲子園大会めざして合宿所入りした朝に岩鬼の「おめえはいいな人気がのうて」発言に対して笑顔で「かくれたヒーロー山田くん」と山田が自分で答える場面がありますが、まさにこの時代―高一夏地区予選から甲子園優勝までの山田は、影のヒーローと呼ぶのがふさわしい。

まあ一方で甲子園開会式の入場シーンで「大会NO.1捕手と評判の高い山田くん」なんて言われたりもしてるんですが、後年ほど山田が誰もが認めるスーパーヒーロー化していない。キャラ描写的にとてもバランスの取れていた時期だと思います。『ドカベン』終盤―山田高校二年時の関東大会優勝から後になると、もともと人気チームの明訓の中でも山田人気が突出してしまい、ライバル校の選手、とりわけピッチャーは誰もが打倒山田に情熱を燃やし、高三春の甲子園大会決勝戦では山田の決勝打(ホームラン)のさいにこれまでの登場人物がほぼ総出演で山田のすごさを称えるという、まるで世界が山田を中心に回ってるかのような展開になってきて一読者としてはなかなか付いていけないものを覚えましたから。

(個人的に、明訓ナイン中での一番人気―とくに女子からの―は素直に里中でいいと思うのです。ピッチャーというポジション的にもビジュアル的にも。里中の場合、どれだけ人気があろうが一時の栄光に過ぎない―小柄のハンデとケガの多さを考えると将来性は低い―という匂いが濃厚に漂っているので、その人気っぷりがかえって儚さ、痛々しいような切なさを里中のキャラクターに添える効果をあげているというか。これは実力より人気先行の客寄せパンダ扱いされた『プロ野球編』初期になお顕著です。だから里中ならいかに女の子に騒がれようが嫌味にならない。打撃でも守備でも将来性抜群すぎる山田がこのうえ人気までNo.1じゃ、あまりにも一人勝ちすぎてなあ。このへんが『大甲子園』ではやや補正されててほっとしました)

 

同様に、後にいくほど主人公が超人化し、それに比例して作品およびキャラの魅力が失われていった感があるのが『あぶさん』。『ドカベン』と並ぶ水島先生の代表作にして最長連載作品です。試合がテレビ中継される機会の多い、それだけ一般人気も高いセ・リーグの球団ではなくマイナー感の強かったパ・リーグの、その中でも強豪チームとは(当時は)言い難かった南海ホークスに所属しているという設定、結果作中でパ・リーグの選手たちが多く取り上げられたこともあり、パ・リーグの球団のファンやプロ選手(とくにパ・リーグの)から熱い支持を受け、往時はホークスが苦戦していると観客席から「あぶさんを出せー!」と声援がとんだという話があるくらい、実在の人間のごときリアルさをともなって読者から愛されていたようです。

この作品のキモは主人公の“あぶさん”こと景浦安武のダメっぷり―あたら才能はありながら大酒呑みで体力が続かないためスタメン出場できず代打専門に甘んじているという設定にあったと思います。酒のせいで1、5軍のような不安定なポジションに常に置かれているにもかかわらず酒を断とうとする意志などいっこう見せない。性格的には至って気の優しい好人物だし、飲んで暴れるようなタチの悪い酒呑みでこそないものの、バットを握っても手がふるえるというほとんどアル中状態。
そんなスポーツ選手として、一人間としても欠格といっていいような男が、いざ打席に立つと手のふるえがピタリと治まり大ホームランをかっとばす。一打席、一打に全てを賭けて結果を出すあぶさんの姿は、日頃がだらしないだけにその一瞬の輝きが際立って見える。一瞬だけのヒーロー、それがあぶさんというキャラクターであり、魅力だったのだと思います。

そして『あぶさん』の世界観を支えていたのが、あぶさん行き着けの居酒屋「大虎」とそこに集う人々。店主(おやじさん)はあぶさんにすっかり惚れ込んでいて、娘のサチ子と一緒になって現役引退後は店を継いでくれることを切望している。プロ選手とはいえ代打専門で大酒呑みの、およそ将来性のありそうもない男を、大事な一人娘をやろうというほどにその人間性を買ってくれている。サチ子の方もそんな父の思い入れを迷惑がるどころか、彼女自身あぶさんを何年も想い続けている。そして常連客たちも皆あぶさんのことが大好きで、彼の活躍を我が事のように喜んでくれる連中ばかり。
「大虎」周辺の人々、あぶさんの隣に住む小学生の少女カコとその母親も、決して裕福でも立派な人格者でもない。むしろ社会の底辺に近い部分でつましく時にはずるく、けれど精一杯に日々を生きている。それは初期のゲストキャラの多くにも言えること。
だからこそ彼らは酒のせいで大成できない“弱い”ヒーロー・あぶさんを愛するし、あぶさんが他者に示す、時に過剰なほどのやさしさ(捨て子を拾ってしまい、景品の粉ミルク欲しさで盗塁賞を狙って奮闘するとか)も、持てる者の余裕ではなく持たない者同士の連帯感が根底にあるように思えます。
それは悪くとれば弱い人間達がお互い傷を舐めあってるとも見える。たとえば「大虎」の父子はあぶさんの選手生命と健康を考えるなら彼に酒を出さず、禁酒して野球に全力を傾けるよう説教するのが正しい姿なのかもしれません。でもそうはしない。商売だからというのではなく、野球以上に酒を愛するあぶさんから酒を取り上げることの残酷さをよく承知しているから。弱い人間を弱いままに受け入れ、弱さゆえのやさしさと哀しさを滲ませる人々の物語を暖かな目線で綴る――そうした“人情物”は水島先生の得意とした所であり、初期の『あぶさん』の持つしっとりした情感を生み出していたのだと思います。

ゆえに中盤以降、あぶさんがいつしかスタメン定着し、二年連続で三冠王を取ったり、はては“球聖”なんて言葉が冠せられたりとどんどん超人化してゆくに従い、こうした情感はすっかり薄らいでしまった。あくまで“代打屋”、光の当たる場所にいるスターではなくて影のヒーロー、というところにあぶさんの格好よさがあったのに。
また、第一話の時点ですでに26歳、大酒呑みなのを考えても選手生命はさほど長くなさそうだったあぶさんが、なんと60過ぎても現役を続ける仰天の展開に(しかもいっこう老けない。野球の実力でも多少の波はあれど衰えなし)。『あぶさん』は実際のペナントレースとリンクして進行しているので、連載が続くかぎりあぶさんはコンスタントに年を取らざるを得ず、だからといって主人公、“ヒーロー”を弱体化させたくはない――ということなんでしょうが。60過ぎても現役でいられる体力があるのは、長らく代打に徹してきたぶん体を酷使してないからだ、というような説明にはさすがにポカンとしました。酒呑みで体力がないから代打専門じゃあなかったのか?代打のみでホームラン王を取った頃は、もう年齢的に引退も遠くないだろうあぶさんの、選手生命最期の輝き、という感じで素直に応援できたんですけども。

もう一つ、個人的にはホークスの親会社が南海からダイエーに代わったことで球団が大阪から福岡に移転せざるを得なくなったのも痛かった。主たる舞台が福岡になってしまえば必然的に「大虎」のシーンは少なくなってしまう。試合の後、「大虎」のいつもの席に座って酒を呑むあぶさんとカウンターの中でいきいきと立ち働くおやじさんとサチ子、いつもガヤガヤと何がしか騒いでいる常連客たち――『あぶさん』の定番というべき居心地よい空間がなかなか登場しなくなってしまった。おそらく水島先生も頭を抱えたことと思いますが、あぶさん一人が福岡に単身赴任(この頃すでにサチ子と結婚している)、サチ子は子供と大阪に残り今までどおり店を手伝う、という形に決着させていて、できるかぎり「大虎」の雰囲気を損うまいとした配慮のほどが窺えます。

思うに、『あぶさん』を完結させるなら、このときが一番のタイミングだったんじゃないか。他にもホームラン王達成時、三冠王達成時とかタイミングは何度かありましたが、『あぶさん』という作品には上で書いたような「大虎」の存在、大阪という街の空気が不可分に結びついていると感じるので。ちょうど年齢的にも体力の衰えを実感したあぶさんがホークス移転を機に引退を決意、連載当初から言われ続けていたように義父から「大虎」を引き継ぎ、サチ子と夫婦仲良く店を切り盛りする姿を描いて幕、でよかったんじゃないかと。
個人的には引退後のあぶさんにはコーチや解説者といったスター選手らしい第二の人生ではなく、(あぶさんがどんどんスーパーヒーロー化してゆき、還暦を過ぎてなお現役を続けるに至ってそんな展開にはなりえないとわかってはいたものの)一介の飲み屋のオヤジに収まってほしかったです。伝説などと大仰なものではない、ささやかな武勇伝の数々とともにホークスファンの記憶にとどまり、引退から十年以上も経った頃に、たまたま入ってきた客が「若い者は知らんだろうが、昔ホークスに景浦って選手がいてなあ・・・」なんて話してるのを何食わぬ笑顔で聞いている、みたいな光景を見てみたかった。

(実際にはあぶさんは現役引退後しばらくのインターバルの後ホークスのコーチに就任してそのまま福岡に留まってしまいましたが。それはまだしもコーチ就任が決まる前、完全にホークスから離れていた一時期もなぜかそのままあぶさんは一人福岡に住み続けた。遠からずあぶさんをホークスのコーチにさせようという水島先生の心づもりがあったからだろうとは想像できますが、これといった理由もないまま別居状態が続くことをサチ子も何ら気にしてないような描写が、何か二人の間が冷え切ってしまってるかのごとくで・・・。)

 

これら山田やあぶさんの過剰なヒーロー化は、連載が長くなるとキャラクターにすっかり情が移ってしまって、我が子に対するがごとく、彼らに“苦労をさせたくない”“成功者になってほしい”気持ちが水島先生の中で膨らんでしまった、その結果じゃないかという気がします。少年誌掲載の『ドカベン』では、もともと主人公のヒーロー化が起こる素地があるというか、ある程度無理からぬことなんでしょうが(読者層が若い分単純に主人公の華々しい活躍を喜ぶ傾向がある。当時の『週刊少年チャンピオン』のバックナンバーを見ると、読者のお便りコーナーに小学生男子からとおぼしき“山田のホームラン”がカッコいい”というような投書がしばしば載ってました)、サラリーマン向け雑誌連載の『あぶさん』なら初期の方向性を貫くことに何ら問題はなかったでしょうから(その場合何十年にもわたる長期連載は無理だったでしょうが。初期設定のままだとあぶさんの選手生命はそう長くなさそうなので)。
輝かしい大スターよりもその周辺で瞬く小さな星を細やかに描き出す筆捌きにこそ水島先生の本領があると信じている私には、過度なまでの栄光を身に纏ってしまった現在の彼らの姿が、何だか哀しく思えるのでした。

 


(2012年1月7日up)

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