無印最終回について

 

前回「無冠のヒーロー」を書いていて改めて疑問に感じたことがあります。なぜ無印『ドカベン』は里中中退で終わらなければならなかったのだろう。「高三春・土佐丸戦〜最終回」でも書きましたが、春の甲子園に優勝したあと、最後の夏に向けてがんばろう!と気勢をあげておしまい、でもよかったはずなのに。急転直下なんの前振りもなく里中が学校を去って行く最終回の展開に当時の読者は相当ショックを受けたんじゃないでしょうか。

この最終回について水島先生は当時を振り返り「最終回を盛り上げるエピソードとして、それがいいと思ったんでしょう」とコメントしてますが、つまりは優勝してそのままアゲアゲモードで終わるのでは盛り上がらない、主人公たちが何不足なく幸せいっぱいの状態では終われない、と感じたということですよね?このあたりやはり水島先生の本分はやや暗めの、しっとりと情感のあるストーリーテリングにあるということなのかもしれません。

まあこのコメントは連載終了から何年も経った後のもので、インタビュアーに言われるまで里中を中退させたことも忘れてた(笑)くらいなのでも一つ当てにならないのですが、最終回を書いた当時の水島先生の心境を知る手がかりとしてより有効そうなのが、上掲「高三春・土佐丸戦〜最終回」の項で引いた無印最終回時に一緒に雑誌に掲載された水島先生による後書き的メッセージ。ここに “読者に岩鬼の帽子の下はどうなってるのか質問を受けて以来、岩鬼が帽子を取るのを最終回にしようと決めていた”裏話が出ています。帽子を常に肌身離さない岩鬼が帽子を外すシチュエーション――風で飛ばされたなどの偶発的事故設定もありだったでしょうが、やはり帽子取りをストーリーにしっかりからめようとすれば自発的に帽子を脱ぐ展開が望ましく、何のために?→誰かにあげるため→餞別、という連想で、仲間との別れが最終回という構想に至ったものかと推量できます。

ではなぜそれが里中だったのか。たとえば最終回を劇的に彩るという意味では主人公たる山田が野球部を去るラストでもおかしくなかったんじゃないか。里中中退の理由は母の病気ですが、これは母親を介護するためというより母子家庭で働き手の母親が倒れたために治療費・生活費などの経済状況が逼迫したことによる。貧乏ネタならこれまでそんな気配もなかった(むしろそこそこ裕福な中流家庭の子ぽい雰囲気だった)里中より、繰り返し家の貧しさに触れられてきた山田こそがふさわしい。加えて甲子園大会中に負傷し、決勝戦でも無理を押してホームランを放った山田には、そのケガが元で再起不能→野球部を去ったとしてもおかしくない流れができあがっていた。岩鬼が大事な帽子を餞別に贈るのも連載開始当初からの相棒だった山田相手の方がよりしっくりくる。・・・ひょっとして最初は山田退部展開を予定していた?土佐丸戦でケガを負ったのはその伏線で、決勝戦の山田ホームラン→優勝決定の場面でオールスターキャストが山田を称えるいささかアレな演出も、これで選手生命を終えることになる彼へのはなむけだったとすればなんか納得できるし。

それでも山田が野球部を去る展開にならなかったのは、おそらく主人公が再起不能とか野球を止めるという展開は少年誌的に重すぎたんでしょう。やはり少年誌(『週刊少年マガジン』)に掲載された『巨人の星』も最終回、利き腕を完全に破壊された主人公が友人の幸福(結婚式)をよそ目に歩き去る姿で幕を閉じますが、その読後感はなんとも重たいものだった。あの時代(『巨人の星』は66年〜71年連載)はそうした重さもアリというかむしろ時代の空気に合っていたんでしょうが、無印が連載終了した81年頃は世の中がどんどん軽薄短小に向かっていった時期で、少年誌的にあまり重い描写は好ましくなくなっていたのかもしれません。
それでも水島先生は最終回を彩るエピソードに“別れ”を選択した。岩鬼に帽子を取らせる理由として仲間との別れを想定したせいもあるでしょうが、それだけではない。というよりそこで“別れ”というシチュエーションを思いついたこと自体が作者の内的必然性に基づいているのでは。以前初期のエピソードである幽鬼鉄山と牙師弟の物語について「この重苦しさこそが作者の書きたかったもの――というより『ドカベン』らしさを逸脱しても作者の内面からこみあげてきてしまったもののような気がします」と書きましたが、長期連載、それも最大のヒット作である『ドカベン』を終えるにあたって最高の最終回を、と考えたとき、描きたいエピソードとして胸の内から溢れてきたものは順風満帆のハッピーエンドではなく別れ、大事な仲間たちと青春をかけた野球との決別という哀しい結末だったということじゃないでしょうか。それでも時代風潮への配慮や絵柄の変化もあってか、幽鬼鉄山&牙編とちがって劇画的な重苦しさはない、哀切かつ美しいラストシーンに仕上げられています。

それは野球部を去るのが山田ではなく里中、去ってゆく理由が再起不能ではなく母親の病気(当人が言うとおりいずれ家庭の状況が好転すればまた野球をできる可能性は十分ある)という二点が大きかったと思います。里中はこれまでにもたびたびケガで再起不能になりかけたことがあり、常にどこか薄倖の匂いを漂わせているキャラであり、今まで全く登場しなかった母親がいきなり病気だとか実は母子家庭で経済的に困窮してるとかの設定は唐突だったものの、野球をやめる、野球部を去る、というシチュエーション自体はたしかに彼が一番似合っているでしょう。
結果、去ってゆく里中が最終回の主人公も同然になってしまったわけですが(のちに『大甲子園』が連載された際も、里中が明訓に復帰するところから話が始まるため、初登場シーンといいそこまでの前振りといい、無印を知らない人がいきなり読んだらまず確実に里中が主人公だと勘違いしかねない描写になってます)。そして次に目立つのは大事な帽子を餞別に投げて里中を見送る岩鬼。最終回だというのに山田は里中と岩鬼にいいところを持っていかれてしまった格好です(もちろん山田にも里中最後の一球を涙ながらに受けるという見せ場はちゃんとあるのですが・・・)。
私が里中ファンだという贔屓目を抜きにしても、栄光のただ中にある者よりも去ってゆく者の背中の方により惹きつけられないではいられない。『ドカベン』がすっかり国民的ヒーロー・山田の活躍一辺倒の“陽の世界”一色になってかつてのような複雑な陰翳を失っていったかと思えた最中に、こんな陰翳に満ちた美しいエピソードを幕引きとして描かれた――主人公(たち)が公私ともに充実しきってるかのような(その分陰の魅力に乏しくなってしまった)『スーパースターズ編』や『あぶさん』も、もしかしたら無印最終回を彷彿とするような哀しくも見事な最終回を見せてくれるのかもしれません。

 

追記−ちなみに“大勝利の直後、いきなり主人公の相棒が野球を辞めて主人公の前から去っていく”というのは、水島先生の出世作である『男どアホウ甲子園』最終回と同じ展開。主人公・藤村甲子園とバッテリーを組んでいた豆タンこと岩風五郎もまた突然阪神退団を宣言する。しかも理由が母親の病気(甲子園・豆タンバッテリーの場合、甲子園がアクの強い性格であること、豆タンは常に恋女房として甲子園を立てていることから、豆タンが去るラストではあっても“去られる甲子園”のほうがちゃんと主人公してましたが)。甲子園の心のマドンナ・朝野あゆみがこれも唐突に政略結婚させられる展開も、のちに『プロ野球編』で岩鬼の恋人・夏子のエピソードとして踏襲されている。処女作にはその作家の全てがあると言いますが、デビュー作ではないものの初期作品、初の大長編である『男どアホウ甲子園』には、その後の水島漫画のルーツが多分に詰まっています。『男どアホウ甲子園』には別に原作者(佐々木守氏)がいるので、どこまでが水島先生の脳から生み出されたものなのかは判然としないのですけども。

 


(2012年1月15日up)

 

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