水原 勇気

 

『野球狂の詩』後半の主人公・水原勇気。プロ野球界初の女性投手として吉田えりさんが四国独立リーグに入ったときとか、いまだに女性の野球選手・ピッチャーの話題のたびに引き合いに出されるほどの有名キャラクター。個人的に水島マンガの女性キャラで一番好きなのが彼女です。

水原は一見、かなり“男にとって都合のいい女”キャラじゃなんじゃないかと思います。たとえば“ドリームボール”の生みの親であり後には最大のライバルとして立ちふさがることになる捕手・武藤兵吉が、水原入浴中の風呂場に入ってきたり、着替え中の水原をいきなり抱きしめたり、「このコブがじゃまなんだ」と胸をつかんだりとさんざんセクハラ行為をかましてきても、「キャア」と悲鳴をあげたり目を白黒させたりするだけで、彼に嫌悪感を覚えてるようすはない。それどころか武藤さんがトレードで広島カープに移ったあと、これらの行動と込みで彼を懐かしく思い出している。武藤さんの奇行は水原とドリームボールの可能性に舞い上がってるがゆえでスケベな意図はまったくないし水原もそれを理解していればこそですが、まるで動じないのではなく戸惑いと恥じらいとを程よく見せてくれる反応は、男性読者にとって実に好ましいものだったんでは。

また、メッツに入ってさほど経たない頃、水原が入浴中に自分の二の腕を見つめて「う〜〜〜ん 力コブが出てきたみたい そのぶんすこし 胸が小さくなった だんだん男みたいなからだにちかくなっていくのかしら・・・・」と苦笑してる場面がありますが、腕が太くなるのも胸が小さくなるのも野球選手としてはプラスでも女としては嬉しくない事態のはず。それを水原はショックを受けるでもなく逆に“プロ選手として有利”だと喜ぶでもなく、ちょっと困ったような、でも何だか嬉しそうなそんな表情で受け止めている。その表情がまたコケティッシュな可愛らしさに満ちている。上述のセクハラ的行為も自身の体の変化も深刻にならずさらりと受け入れてしまう、その軽みが彼女の大きな魅力だろうと思います。

セクハラといえばもう一つ、プロ初登板のさいに相手バッターたちはしばしば水原にウィンクしてみたり投げキッスしてみたりするのですが、水原は最初こそ困ったような顔をしたものの、二度目には投げキッスに笑顔でウィンクを返してみた、ビーンボールまがいの投球に怒った相手に丁寧に詫びたあと「プロだからな このくらいよけられるぜ」との言葉に「すてき」とキュートに微笑んでみせたりする。男たちの失礼な態度に「女と思ってバカにしないで」と腹を立てるのでなく、逆に女であることを生かして気のきいた応答をしてみせる。だからといって積極的に女を売りに相手を誘惑してかかってるあざとさはない。あくまで“セクハラ的行為・発言への大人の対応”の範囲内。しかも実はこの裏でキャッチャーの帯刀と図って―女と見てあなどっている相手チームの心理をついて―荒れダマ作戦→暴投+見せかけの後逸で見事に初勝利をもぎ取ってのける。相手バッターたちを女性らしい態度で巧みにあしらいながら、その“あしらい”を隠れ蓑にまんまと計略を成功に導く――このしたたかな一面も含め、バランスが水原勇気の魅力を形作ってるのでしょう。

そんな彼女がラスト、メッツの男性陣を思い切り振り回してくれる。カープに移籍後、一度は自由契約になりながらも水原のドリームボールを打つためだけに復帰した武藤が、最終回ただ一球のみの水原リリーフに合わせて代打で登場したときのこと。捕手(水原がリリーフするときだけ捕手を務める)岩田鉄五郎がカーブを投げるよう指示したにもかかわらず水原は首を振り続ける。「わたしはこのマウンドがさいごになってもドリームボールを投げます! わたしもドリームボールにはプロとして生きていくためのすべてを賭けてきました・・・ 武藤さんもそれを打つために10年間のすべてを賭けてくれたのです! でもわたしは打たれません いえ打たせません!!」「ドリームボール以外なにもないわたしです これを打たれてはプロにはおれません」。
元は自分のアイディアから生まれたドリームボールを打つことだけに照準を合わせ、結果通常のバッティングがガタガタになってしまった(ために一度はカープをクビになった)武藤、そしてドリームボールが実在すると証明されたために最もドリームボールを知る男としてカープに復帰がかなった武藤――そこまでドリームボールに魅入られた武藤に他の球を投げるなどできない。これはメッツ二軍で世話になった武藤への義理+恩返しであり、同時に水原自身の投手としてのプライドの問題でもある。ついに鉄五郎が折れてドリームボール勝負となったが、ドリームボールの正体を完全に見切った武藤は手をボキボキ言わせながら(骨折した?)見事にサヨナラホームランを放つ(この場面、これまで読者にも実態が伏せられていたドリームボールの変化のプロセスを武藤さんの視点で解説し、追ってスポーツ記者の山井さんが補足説明している。ドリームボールがどんな球なのか最後まで引っ張ったうえで、もっとも劇的なポイントで謎を二段構えで解き明かす構成が実に巧妙)。

この一球を最後に武藤はついに心置きなく引退を表明する。当然「これを打たれてはプロにはおれません」と言い切った水原も――と思ったところで、翌日?グラウンドでちゃっかりいつも通りにランニングする水原の姿に鉄五郎・五利ともども読者もポカンとしたことでしょう。その直前の鉄五郎と五利の会話で「ドリームボールを打たれたら引退するなどとぬかしよってとうとう・・・」「どこかでやっぱり女なんや 感傷的になっちまうんやな」と“水原引退”を印象づけておいたうえでこれですから。
しかも「やっぱり野球をあきらめられません」とか思い詰めた顔でまたメッツに置いてくれと頼むならともかく、笑顔であっさり「だってあんなこと本気にしてるんですもの」「投手ならだれだって信念の一球を投げるときそのくらいの覚悟はするでしょ」と心配した方がバカみたいにさらりと言ってのける。この場面の水原はいつになく口が悪くて、鉄五郎に「岩田さんおぼけになったんですか」「やっぱりもうろくしてます」「いちいち打たれるたびにやめていたら鉄五郎さんはもう灰になっています」と言いたい放題。そもそも鉄五郎と五利の姿に気付いたときの第一声が「オッス」。しかしこれら失礼な言動の数々がまったく嫌な印象を与えない。明るくキュートな笑顔と仕草のせいで台詞の一切が、そのあっさりちゃっかりした態度がかえって何とも魅惑的になっている(「おぼけになったんですか」と失礼な内容を丁寧に女性らしい言い回しで口にするのがまたユーモラス&キュート)。

そしてとどめのように「野球ってほんとうにすばらしい!」と満面の笑顔で鉄五郎の胸に体を寄せ、思わず赤面した鉄五郎をよそに再びグラウンドを走りながら「岩田さん わたし野球大すき〜〜」とこれも満面の笑顔で右手を上げてみせる。武藤との勝負に投手生命を賭けて(賭けるかのごとき言動を取って)我が儘を通し、結局打たれたためにすわ引退かと周囲を慌てさせながらその心配をあっさり笑顔で笑いとばす。しかし嘲笑するような嫌な態度ではなく言葉つきは実に失礼千万なのにその表情とあいまってむしろ茶目っ気を感じさせる。その表情、浮かれてると言っていいほどの笑顔の背後にあるのは鉄五郎に叫んだように“野球が大好き”だという強い気持ち。だからこそ思わず鉄五郎に抱きついてしまうような行動もベタついて見えないし、水原に振り回された格好の鉄五郎や五利も「安心した どうやらこいつはわし以上の野球狂や」と安堵と喜びを口にする。彼らは少し前までは「やっぱり水原勇気は娘っこじゃい」「どこかでやっぱり女なんや 感傷的になっちまうんやな」と武藤に打たれたと言って野球を辞める水原の娘らしさ=精神的もろさを惜しんでいただけに、彼女の図太さ、女らしくない性格はいっそ好もしく映ったようです。

しかし女らしくないと言い切るには鉄五郎の胸に飛び込むというのは実に女性的行動。というよりこれは女性だから違和感がないのであって、いくら可愛い顔でも男だったら―たとえば里中が「野球ってほんとうにすばらしい!」と山田か誰かの胸に飛び込んだらやっぱり不気味でしょう(『大甲子園』第一話で岩鬼の胸に飛びこんでましたが、あれはまたちょっとニュアンスが違う)。
女らしからぬ図太さ・したたかさと女らしいコケティッシュさを合わせ持ち、男にとって都合がいいようでいて時に悪気ない笑顔で男たちを振り回す水原は多分に“悪女”なんではないかと思います。意識的に女の武器をフルに利用して男を騙し操る型の悪女(『三銃士』のミレディーのような)とは対極の、本人は何ら意識しないままその言動、「本当は狙ってるんじゃないのか?」と勘ぐりたくなるようなギリギリ加減の密着度などによって、加えて容姿に優れているゆえに、男たちを惑わせてしまうタイプの天然の悪女。思えば一時代を築いたような、青少年にアイドル的人気を博したヒロインたちにはこの手の女子が多い気がする。『超時空要塞マクロス』のリン・ミンメイや『タッチ』の浅倉南に代表されるあだち充漫画のヒロインの多くなど・・・。水原勇気もまた、今もって女性投手といえば真っ先に名前があがるほどに強烈な印象を読者に残しているのは、女性のプロ野球選手という設定の目ざましさばかりでなく、水原の一種小悪魔的な、女性としての魅力に根ざしてるんじゃないでしょうか。

 

余談その1――『野球狂の詩』は不定期連載だった前半は東京メッツの選手各人(時にはスポーツ記者の山井さんなど選手外の人も)を主人公とするオムニバス短編形式だったのが、後半週刊連載になって単独主人公を置いた長編の形に変わりました。水島先生は『ドカベン』の対弁慶戦のときに“山田にピッチャーゴロを打たせるはずがあまりにいいスイングが描けたのでホームランにしてしまった”(豊福きこう「明訓高校が敗れた30年前の夏。」(『Number』平成21年8月20日号))というくらい行き当たりばったりでマンガを描く方ですが、『野球狂の詩』後半は全体の構成をしっかり計算して描いたという印象を受けます。
その投球に男をしのぐ逸材だと鉄五郎が惚れ込んで回りが呆れ返るほどの懸命の説得を経てようやくメッツ入りさせた水原が、最終的にはプロとして通用できる球はドリームボールしかない、というあたりはちょっとアレですが、武藤がトレードで去ったために立ち消えになったかに見えたドリームボールの話が、当初は順調に活躍した水原が女ゆえの弱点を突かれて打ち込まれたところから再びドリームボール開発へ、そしてドリームボールが実在するか否かで引っ張ったすえにドリームボールをめぐる恩師ともいうべき武藤との対決がクライマックスになるというストーリー展開は実に見事。
(夏目房之介『消えた魔球 −熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか−』は、「この魔球の本質は“本当にあるのか”と疑わせながら9回ツーアウトツーストライクからのリリーフのみ、ただ一球に使うという点にありました つまり、したたかなかけひきこそ野球だ! ・・・というのが水島新司マンガによる魔球の自己否定だったわけです」と評する)

加えて水原は結構な美人であり、上で書いたように鉄五郎や五利、一方的に執念を燃やしてる武藤も含め多くの男たちが彼女に振り回されてるのですが、水原獲得のために自らスカウトに動きドリームボール開発に当たっては周囲の批判をものともせず水原に完全密着して捕手役・参謀役を務めた鉄五郎や武藤の異様なほどの思い入れはあくまで“野球人・水原”に対するもので、彼らの野球狂の血がそうさせるという形で色恋を排除している(女としての水原に執心なのは阪神のルーキー・沢村慶司郎ぐらい)のも、恋愛マンガではなく野球マンガなんだというきっぱりした自負心が感じられて爽快です(水原についてはちょっと微妙。後述)。
最終回、「わたし野球大すき〜〜」という水原の高らかな宣言と彼女もまた鉄五郎を超えるほどの野球狂であったと示して物語の幕を閉じるのも、野球狂たちの生き様を描いた当初からのコンセプトをきっちり守り抜いていて最高のラストだったと思います。多くの読者が想像したろう“武藤に打たれた水原がメッツを去る”最終回ではこの晴れやかさ、すがすがしさはなかったでしょう。しかし直前に敗北した『野球狂の詩』が“去らない”ラストで、直前に甲子園で優勝した『ドカベン』が“去る”ラストというのもなかなかにアマノジャクですね(笑)。

 

余談その2――武藤さんの奥さんの立場から見ると水原はまさしく“悪女”だと思います。武藤さんは水原に、正確には彼女のドリームボールにすっかり取り憑かれ、ために普通のバッティングを放棄して現役引退を早めてしまった。水原とドリームボールは武藤の人生を完全に狂わせてしまった。武藤さんの執念は色恋ではなく野球人としての本能から来てるとわかってはいても相手が女性、それも若くて相当な美人であるだけに、奥さんとしては嫉妬と恨みに凝り固まっても無理もない局面です。なのに奥さんは終始水原にごく好意的に接している。水原自身には何の悪気も責任もないとはいえ、実によく出来た奥さんです。おそらく彼女は、ずっと二軍暮らしで鳴かず飛ばずだった武藤の灰色の野球生活を水原とドリームボールの存在が色鮮やかなものに変えてくれた、苦痛も大きいが希望もある、人生の張りを与えてくれたと水原に感謝すらしてたんじゃないじゃないでしょうか。

しかし武藤さんが水原に恋愛感情を持ってないのはほぼ確かなのですが、意外にも水原の方が武藤さんに惚れてる可能性がゼロじゃない。初先発にあたって緊張を隠せずにいる水原にエースの火浦健が“ピンチになったら恋人の名前をつぶやくと落ち着くかも”といったアドバイス(あのハードボイルドな火浦の口からこんな台詞が出るとは!)をするシーンがあるのですが、そこで水原が心につぶやいた「大好きな人の名」が「武藤さん」・・・。「恋人」でなく「大好きな人」と言い換えてはいるものの、恋愛対象という文脈で武藤の名前が出てくるというのは・・・。
後に『野球狂の詩・平成編』が始まったとき、第一話に水原そっくりの茜という娘が出てきますが、父親については何も触れられていない。そして水原の姓は「水原」のまま。・・・まさか、ねえ。まあ水原は二人姉妹の長女なのでだれか婿をもらったと考えるのが順当なんでしょう。
ちなみに茜は一話に出ただけでその後全く気配も見せませんが、おそらく当初はすでに40近い水原の代わりにそっくりな娘を二世として活躍させる予定だったのが、娘では水原ほどの求心力は持ち得ないということで水原勇気本人の年齢を度外視した活躍に変更されたんじゃないかなーと想像してます。

 

 

(2012年2月4日up)

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