『巨人の星』感想

 

言わずと知れた魔球系*球マンガの頂点。日本人なら知らぬものとてない有名作であり、私も有名シーンやらメインキャラの名前やらはさすがに知ってましたが、マンガもアニメもこれまで見たことがなかった。
大時代的な台詞や「大リーグ養成ギプス」などの道具立て、キャラが何かと滂沱の涙を流す暑苦しさ、星一徹のちゃぶ台返しなど、やや嘲笑的にネタにされることが多い作品だけに正直「荒唐無稽なスポ根マンガ」という先入観があったんですが、このたび「アンチ『巨人の星』」と言われる『ドカベン』ページを作るにあたって、『ドカベン』の仮想敵だった『巨人の星』が実際どんな話なのか頭っから読んでみました。――素直に感動しました。

主人公・星飛雄馬の魔球三種は(文庫版の後書きで石橋貴明さんがツッコミを入れてるように、いろいろと無理はあるんですが)一応の科学的説明はされているし、伏線も存外上手く生かされている。
そして「父と子の物語」という軸が最後までブレることなく、初期からの最大のライバルと親友も途中で立ち消えることなく、立場の変化はあっても存在感を失わなかった(準ライバル的キャラだった速水や鳴り物入りで登場した新ライバル・オズマは早めに消えてしまったが・・・)。たえず締め切りに追われ、毎週ごとに「引き」が必要になる週刊連載にもかかわらず骨格がしっかりした物語という印象でした。

何より驚いたのは、『ドカベン』以前にはなかったんだろうと思い込んでた「捕手によるリード」がちゃんと―『ドカベン』ほどの緻密さはないものの―描かれていたこと。
「『ドカベン』の革新性」(1)(2)で「熱血野球マンガの王道パターン」「投手と打者の駆け引きがメインなのでバックの守備にスポットが当たらない」と書いたとき、一番に意識していたのはそれこそ(噂で聞き知る範囲での)『巨人の星』だったんですが、何球目で「大リーグボール」を投げるかといった配球や、初期の高校野球編の時点でバックを信頼して打たせて取ることの重要性も触れられていたのにびっくりしました。
(とはいえ高校時代のチームメイトは親友となる伴宙太と初期の先輩バッテリー以外名前が出てこず個々のキャラも書き分けられてませんが。特段のファインプレーも出てこないし)。
巨人入団後は同じチームに長嶋・王をはじめ有名選手がひしめいてるわけですから捕手やバックを軽んじた描き方が出来ないのは当然ともいえるんですが。彼ら実在選手、とくに巨人の選手勢は人格面でも実力面でもそれぞれに立派な人物として描かれていて、このあたりは『スーパースターズ編』にも見習ってほしいような・・・。

また「『ドカベン』との出会い」で『ドカベン』の絵の画期的スタイリッシュさに触れましたが、文庫版11巻で作画を担当した川崎のぼるさんが書いてらっしゃるところによると、『巨人の星』も当時としては画期的な構図やコマ割りを多用してたそうです。
「見開きで大きなカットをいれ、たてに長いコマを思いきって使う。ページぎりぎりまで絵柄を入れた断ち切りを多用する。セリフは線で囲わずバックに流す。」 今は当たり前に使われてるこうした技法が当時は新鮮だった、ということは、つまりこれらの技法は『巨人の星』によって根づいたということにならないか。
近年のマンガに比べると(70年代の『ドカベン』と比べてさえ)コマはむしろ小さめ(その分1ページあたりのコマ数が多く情報量も多い)だし、絵柄のせいもあってスタイリッシュという印象からは程遠かったのですが、そのつもりで見ると、最後の一球の描写など投球と打撃のそれぞれをスローモーション風にしたり飛雄馬の体を透かして打席の伴を描くなど実に凝っている。やはり一時代を築くようなマンガには絵にも相応の新しさがあるのだなとしみじみ思いました。

そして物語全体の雰囲気は「暑苦しい」というよりはむしろ「重苦しい」。それは線の太い劇画らしいタッチによる部分もなくはないですが、ストーリーそのものが、飛雄馬の初恋のあたりから話が進むほどにどんどん重くなってゆく。飛雄馬と一徹、ライバルたちとの関係性にも次第にどろどろした情念が入り込んでゆき(主として恋愛問題)、「大リーグボール3号」が出てからは飛雄馬はすっかり笑顔を失って破滅へとひた走ってゆく。
無惨なまでに明暗のはっきりした栄光と挫折を繰り返した飛雄馬は最後「禁断の魔球」の投げすぎが原因で利き腕の左手の機能一切を絶たれ、何ら救いを与えられないままで作品は幕を閉じる。選手生命を失うのみならず左手が全く動かなくなる危険を冒して(というより途中からは「大ボール3号」を投げ続けるかぎり破滅は避けられないとはっきり自覚したうえで)、なお魔球を投げ続ける飛雄馬の選択はあまりにデスペレートだが、球質の軽さという投手として致命的な欠点を背負い(この欠点に気づいたときのショックの描き方がまた半端ない)魔球を会得することでやっと一人前のプロ投手たりえる飛雄馬が、魔球を攻略されるたびどん底に落ちてきた姿がすでに「大リーグボール」1号2号の時に描かれているため、彼が破滅承知で限界まで3号を投げ続けずにいられなかった心境が納得できるようになっている。

それにしても少年誌でよくこんな暗い(同時にどこか宗教的神々しさのある)ラストが描けたものだとこれまた驚きました。
『ドカベン』にはこういう暗さ・重さはない。『ドカベン』で一番「重い」試合といえば高二春土佐丸戦でしょうが、再起不能覚悟で投げる里中はやはり悲愴感に満ちているものの、いかなる時でもどこかユーモラスな印象を与え決して悲愴なムードに染まらない岩鬼や殿馬がそばにいるためか、『巨人の星』ほど陰惨な印象にならない。
全体のトーンも、子供から大人への成長とその過程で乗り越えねばならない試練の大きさを描いた『巨人の星』と違って、高校入学以降はキャラの私生活はほとんど描かずもっぱら野球の描写のみに集中し、彼らの「成長」よりも「少年の日々」に焦点を当てた『ドカベン』では、どろどろした人間関係は描かれない。とくに恋愛問題は徹底的に排除されているし、母や兄たちに疎まれている岩鬼を除いて家族との確執も登場しない。岩鬼のそれにしてもあまり突き詰めることなく、重い雰囲気になることを岩鬼のキャラクターが妨げている。『ドカベン』はあくまでも野球に青春をかけた少年たちが「常勝」の光の中を歩む物語なのだ。
(だからこそそれまで家族の影が全く出てこなかった里中が母親の病気という野球外部の要因によって「少年の日々」を破られ「社会の荒波」に放り出される―ことが暗示される―のが無印『ドカベン』のラストになったのだろう)。

現実の野球界とリンクするようになった『プロ野球編』以降「常勝」の看板は外れることになりますが、明訓OBのみならずライバルキャラまで、個々の選手としての彼らは常に実力・人気の両面で栄光の真っただ中にある。
「スカイフォーク」で、「スカイフォークは手首やヒジに負担がかかるという描写があったんだから、「一試合に何球までしか投げられない」とか「故障の危険を冒してそれでもスカイフォークを投げるか?」とかそんな展開をどんどん作っていけばよかったのに」と書きましたが、星飛雄馬が「大ボール3号」以降背負いこんだ途轍もない暗さを回避するために、あえてそこは深く突っ込まなかったという気がしてきました。「非魔球系」であるのみならず作品のトーンの「明るさ」においても、『ドカベン』はアンチ『巨人の星』だったんじゃないでしょうか。

 


(2010年12月18日up)

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