監督編

 

「里中。きみ、留年だや」

「――は?」

最後の甲子園大会が終わり神奈川に帰ってきて最初の部活のあと、里中は太平監督に呼び出された。呼ばれたのは部室だったからてっきり野球に関することだと思っていただけに、とんでもない不意打ちだった。

「きみはもともと成績も平均以上だし、補習を詰め込めば単位は何とかなりそうなんだや。しかしどうにも出席日数がの・・・・・・」

里中は4月の新学期が始まる日に退学届を出して一たび学校を去った。山田が校長に直談判し退学を休学に替えてくれたおかげでこうして野球部に復帰することができたが、一学期を丸々休んでしまったのだから出席日数が足りなくなるのは当然だ。

「本当は山田たちと一緒に卒業できるようにしてやりたかっただや。今年のドラフトではきみが目当ての球団も多いだろうし。・・・すまんのお」

小さくぺこりと頭を下げようとする太平を里中はあわてて制した。

「いいんです。もともと4月の段階でいったん中退を覚悟したんですから」

「・・・やはり、留年より中退を選ぶつもりかの?」

「はい。本当にいろいろお世話になりました」

きっぱり答えた里中に迷いはなかった。あと半年で卒業ならともかく、さらに一年余計に高校生活を送る余裕など今の自分にはない。まだ入院中の母の治療代もかかるし、これまでの借金だってある。春の時点で一度定めた決意をもう一度するだけのことだ。この夏思いがけずまた甲子園に行き四度目の優勝を手にすることができた。その僥倖だけで、もう充分すぎる。

「一つ考えたんだがの。里中、監督をやってみる気はないかの?」

「えっ!?」

「この明訓野球部の監督をだや。昼は授業に出て放課後は監督をやる。一昨年の土井垣監督のように」

突然の提案に里中の頭は俄かについていけなかった。混乱しながら言葉を探し出す。

「だって・・・太平監督はどうされるんです?」

「・・・わしは花巻に帰ろうと思っとる。もともと長くて二年の約束でこちらへ来たんだがや。だいぶ皆数学の成績も上がってきたし・・・実のところ息子の体調があまり思わしくないんじゃ」

「息子って・・・洋くんが?」

「いいや、その下にもう一人おるんじゃが、兄と違って昔から体の弱い子での。この春からは寝たり起きたりなんだや。なるべくなら・・・側にいてやりたいと思ってなあ。夏の大会も終わったし、校長に話をしようかと思ってたところだったんだや。きみが後を継いでくれるなら野球部も安泰だ。・・・どうだ里中、引き受けてみるつもりはないかや?」

意外すぎる話に里中はまだ半ば茫然としていた。しかし残り半分で確かにこの話を喜んでいる自分にも気づいていた。

この二年半、楽しいことも辛いことも、高校生活の全てが詰まっている明訓野球部を里中は愛していた。山田、岩鬼、殿馬、微笑――野球部の栄光を背負ってきたメンバーが抜けたとしてもなお。「好きな野球チームは」と問われて「明訓高校です」と答えた土井垣に劣らぬほどに。

その野球部を今度は監督として自分が率いる。選手としてではなくても、もう一度明訓のユニフォームを着てあの甲子園のグラウンドに立つ。想像するだけで胸の奥が熱くなるようだった。日頃から即断即決の里中の心はこの時点でもう固まっていた。けれども、

「――監督って、いくらぐらい給料を貰えるものなんですか・・・?」

お金のことはしっかり確認するのを忘れなかった。

 

この秋から里中が明訓の新監督になる――このニュースは「明訓番」記者たちによって、たちまち広く知れ渡るところとなった。

「里中さんが監督ってことになると、明訓は土井垣監督時代みたいな正統派の采配になるんでしょうね」

「だろうな。里中は攻走守すべて明訓でもトップレベルだったし試合展開の読みにも長けている。いかに「五人衆」が抜けるといっても――秋以降も明訓は手強いぞ、吾朗」

「大丈夫ですよ。いくら里中さんがプレーヤーとして優秀でも監督は初めてなんだし・・・土門さんの采配の方が上に違いないです」

小さな目に揺るぎない信頼を込めて吾朗は土門を見上げた。

「そうじゃない。確かに秋季大会はおれが監督を務めるつもりだが・・・その後はおまえに監督を引き継ぎたいと思っている。」

「えっ!?」

あまりにも思いがけない言葉に吾朗は小さな目をいっぱいに見開いた。それがおかしかったのか土門は低く笑いながら、

「11月にはドラフト会議がある。――おれも来春には卒業だからな」

ああ、と吾朗は納得した。土門はダンプカーに撥ねられ長期入院したために一年留年している。だから一つ年下の自分や明訓五人衆と学年は一緒で、来年卒業だ。

――土門さんほどの投手なら確実に今年のドラフトで指名を受ける。当然土門さんも指名された球団に入るつもりだろう。そうなればドラフト以降、横学には監督がいなくなってしまう。

なぜ今までそれを全く考えてもみなかったのかと吾朗は歯噛みした。土門さんはプロに進むのが当たり前の人なのに。

それから土門の言葉を改めて反芻し顔色を変えた。土門は自分に監督を引き継ぐといったのだ。明訓にはついに及ばなかったが、県内でもベスト4には余裕で入る強豪チームへと横学野球部を鍛え上げた、それは選手として、後には監督としての土門の頑張りによるものだった。土門が築いたその栄誉ある横学野球部を、自分が引き継ぐというのか・・・!?

「む・・・無理です!」

思わず叫んでしまった吾朗に土門が訝しげな顔で「なぜだ?」と問う。

「うちの野球部をここまでにしたのは土門さんです。とても、ぼくなんかに後任が務まるわけありませんよ・・・!」

慌てふためく吾朗の様子を土門はしばらく見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「――初めて会った時、おまえは野球部を辞めさせられたと言ってたな。あまりにも野球が下手だったからだと。そのおまえをおれは強引に野球部に連れ戻していきなり翌日の試合でキャッチャーをやらせた。おれの無茶な要求におまえは全力で応え、プロテクターを着けて生活する過酷な訓練にも耐え抜いた。そしていつかおれの球をちゃんとミットで受けられるようになり、4番打者、キャプテンとしてチームを引っ張るまでになった。おまえの忍耐強さ、苦痛をものともしない芯の強さにおれは舌を巻いたよ」

「・・・・・・」

「それに甲子園まで行って明訓ナインと生活を半ば共にしたおまえは、里中の性格や考え方をおれよりよく知っているはずだ。おまえになら野球部を任せられる。おれの後を託すのはおまえしか考えられない。――嫌か?」

嫌、などと言えるわけがない。一度は野球部を追い出された自分を土門さんが拾ってくれた。下手でも大好きだった野球をもう一度できるようにしてくれた。

いくら体が頑丈でもプロテクターを着けていても、土門の剛球を繰り返し体で受けるのがキツくなかったわけではない。それでも耐えられたのは土門の役に立ちたかったからだ。神奈川県、いや全国でも屈指のピッチャーの投球を自分が支えている、その自負心があったからだ。吾朗にとって土門は大恩人で――彼の頼みを断る言葉を吾朗は持っていなかった。土門に頼られることが、嬉しくてならなかった。

「わかりました。非才の身ですが、せいいっぱい務めさせていただきます!」

いつもの笑顔になって直立不動で宣言した吾朗に、土門が目を細めて頷いた。

 

「よぉ里中、留年するそうじゃないか」

「・・・監督就任おめでとう、じゃないのか」

ふらりと明訓のグラウンドを訪ねてきた不知火の第一声に里中は頬を引き攣らせた。いかにも一触即発の雰囲気を漂わせている二人を、背後で練習中の部員たちがちらちらと気にしている。

「おめでとうと言えるかどうか。上位打線が全員抜けて同時に守備の要も抜けた。これでなお「常勝明訓」の名を守りきるのは相当難しいぜ。この時期に監督を引き受けるなんざ火中の栗を拾いに行くようなもんだ」

嫌なことを言う奴だ。里中は眉根に皺を寄せた。

「そんなことは承知の上だ。困難だからこそやり甲斐があるってもんだ。おれは来年もきっと明訓を甲子園に連れていってみせる」

胸をそらし気味に言い切った。不知火は皮肉っぽい笑みを浮かべると、

「実はおれも、秋も引き続きうちの野球部の監督をやることになった」とさらりと告げた。

「え!?おまえも留年するのか?」

「違う!夏の予選大会の後、後任を探したんだがなかなかなり手がいなくてな。次の監督が決まるまでの繋ぎ役ってところだ」

「そういえばおまえ、一年秋からずっと選手兼任監督やってたんだっけ。・・・おまえでも充分監督が務まるってことだな。何だか気が楽になったぜ」

「・・・あいかわらず口の利き方を知らん奴だな」 今度は不知火がむすっと顔をしかめる。

「まあおれの場合は長くても秋季大会が終わるまでだ。ドラフトで指名されるに決まってるからな、おまえと違って」

「あぁそうか。どうせ12球団とも一位指名は山田で決まりだからな。五位くらいまでには指名されるといいな」

二人は物騒な笑顔を見交わしあっていたが、やがて不知火がふっと息をついた。

「だがな、もしも本当におまえが山田在籍時にも劣らぬチームを作り上げることができたら――プロ入りは少し延期してもうしばらく白新の監督をやってもいいかと思ってる」

意外な言葉に里中は目を丸くした。

「つまり、野球浪人するってことか?」

「一昨年の土井垣や土佐丸の犬飼と同じだ。・・・結局おれは一度も明訓に勝ってないままだからな。おれが全力で倒したいと思う、それだけの価値が新生明訓にあるならば、だが」

「あるに決まってる。このおれがチームを率いるんだからな」

ニヤリと不敵な笑いを口元に刻む不知火に、里中もまた挑戦的な笑顔を返した。

「――そういや横浜学院は今度谷津が土門から監督を引き継ぐらしいぜ。秋季大会の前か後かは知らんが」

「吾朗が?・・・三校ともおれたちの代の監督が揃うわけか」

「三つ巴だな。この秋は面白くなりそうだ」

 

――秋だけじゃない。次の春も、そして夏も。常勝明訓の名前を再び高校野球界に轟かせてやる・・・!。

 

高校球児たちの熱い季節は、まだまだ終わりそうにない――。

 


「監督編」といいつつ、就任エピソードしかなかったりします。里中と不知火の「リリーフ、おれ」が可能なら、新生明訓vs白新の架空対戦書いてみようかとも思ったんですが(在学三年のうちに出場可能な大会は5回までだそうなので、二人とも選手として試合に出られない)。里中の出席日数については、高三の三学期なんてほとんど授業ないのでその間登校すれば十分欠席分カバーできるんじゃないかという気も・・・。ちなみに里中が不知火のことを“一年秋からずっと監督やってた”と言ってますが、正確には二年秋だけは別に監督が存在してます。

(2011年10月7日up)

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO