いつかは来る別れだとしても

 

決勝戦を終え芦田旅館に戻った明訓ナインは、激闘に疲れきった体を壁にもたせかけ、あるいは寝ころがりながらも、頭だけはすっかり冴え渡り興奮に上ずった声で今日の試合について語りあっていた。その輪から少し外れて荷物の整理にかかりはじめていた山田に土井垣監督が近付いてきた。

「山田、手首の調子はどうだ」

「はい。大分痛みも引いてきました。大丈夫です」

嘘だった。犬神のデッドボールによるダメージは相変わらず山田の右手首をさいなんでいた。

――しかしこれくらいどうということはない。あいつの苦しみにくらべたら・・・。

準決勝で右親指をツキ指した里中に、自分はしばしば容赦なく全力の球を投げるよう要求した。それは試合に勝つためであり、何が何でも勝つことが里中の望みでもあったからだが、そうやって無理をさせた事が里中のヒジまで傷つける結果になってしまった。痛みと不安の極限の中で投げ抜く里中を、自分は犬神に翻弄されっぱなしで十分に支えてやることができなかった。己の不甲斐なさを思って山田はそっと唇を噛んだ。

しかし里中はどこへ行ったんだろう。トイレかと思っていたが、それにしては遅すぎる。

何げなく窓から庭を見下ろして、山田は目を疑った。里中が投球練習用のネットをいじっている。自分たちは今夜もう一泊して明日の朝には出立する。だから今のうちにネットを片付けておこうというのか。ちがう、張り直しているんだと気づいたとき、山田は部屋を飛び出していた。

「何をしてる、里中!」

庭に出るなり怒鳴るように言った山田の声に、里中はびくっと振り返ったが、じっと山田を見返すと、

「見た通りだよ。投球練習の準備さ」と静かな声で告げた。

「何を言ってるんだ。もう試合はないんだぞ。それよりおまえはとてもこれ以上投げられる状態じゃ――」

「大丈夫だよ。まだ薬が効いてる」

「そういう問題じゃない。今はこれ以上ヒジや親指に負担をかけるな。ゆっくり体を休めて怪我を治すんだ」

「・・・休んだら、投げられるようになるのか?」

聞いたこともないような暗く沈んだ声に山田は思わず息を呑んだ。

「体を休めたら、一晩経ったら、その時おれの右腕は上がるのか?ボールを握れるのか?ちゃんと投げることができるのか?」

「里中・・・」

「今ならまだ投げられる。でも明日になったら、もう・・・投げられる保証なんて、ない。頼む山田、おれの気のすむようにさせてくれ」

悲痛な里中の声に山田は言葉を失っていた。この試合が最後になっても悔いはないと里中は言った。もはや二度とマウンドに立てなくなることも里中は覚悟していた。自分にはもう明日はないのかもしれないと、その焦燥感が疲弊しきっているはずの里中を突き動かしている。

「わかった里中。ただし一球だけだ」

「山田」

「確かに明日投げられる保証はないかもしれない。だからこそ、明日も投げられる可能性を広げるために今は無茶をするな。一球だけ投げたらちゃんと休め。そして治療に専念しろ。おまえはこれからも明訓のマウンドを守っていかなきゃならないんだから」

「・・・わかった」

不承不承という顔つきながらも、里中が頷いた。

「じゃあ少しだけ待ってろ。今ミットを持ってくるから」

「・・・受けて、くれるのか!?」

里中が目を大きく見開く。

「だっておまえだって、手首を痛めてるのに」

「一球程度ならどうってことはない。おまえの球を受けるのは、おれの役割だからな」

自分の痛みなどたいしたことはない。――それに考えたくはないが万が一にでも、これが最後の投球になる可能性があるのなら、その一球は絶対に自分が受けなくてはならなかった。

「・・・ありがとう」

里中がようやく笑顔を見せた。その目にうっすらと涙が浮かんでいる。結局里中には甘いのだ。自分も、土井垣さんも。山田はミットを持ち出すために足早に部屋へと取って返した。

 

山田が部屋に戻るなりバッグからミットを取り出すのを見て、土井垣たちは驚きを隠さなかった。彼らは怪我を案じて口々に止めたが、「一球だけですから」と山田が答えるともはや余計なことを言おうとはしなかった。苦楽を共にしてきた仲間たちの無言の思いやりと信頼を感じて、山田は胸の奥が熱くなった。

庭で大人しく待っていた里中に目配せして、山田はキャッチャースタイルで座ると、ミットをバンと叩いた。

「さあ来い、里中」

「よし」

頷いた里中の顔はいくぶん青ざめている。一球だけと約束させておいてよかった。怪我を抜きにしても延長十二回を投げきった里中の体力は限界にきている。倒れるまえに休ませなくては。

里中は大きく振りかぶった。左膝が上がり上体を折ってゆきながら右腕をぐっと後ろへ伸ばし――その手からボールがこぼれ落ちた。はっと息を呑む山田の前で里中の体が前のめりに崩れた。

「里中!」

左手で右ヒジを押さえて全身を震わせている里中に急いで駆け寄り抱き起こそうとするが、体に手をかけた瞬間里中は悲鳴とともに山田の手を振り払い、苦痛のうめきを漏らしながら地面に転がった。

――薬が切れたのだ。いや本当は大分前から切れかけていたのかもしれない。

自分も土井垣も里中に甘い。里中に必死の目で懇願されれば最終的にはその要求を容れてしまう。それが彼の傷をなお広げることになるとわかっているはずなのに。

「里中!」

「しっかりしろ里中!今医者を呼ぶからな!」

部屋の窓から自分たちの様子を見守っていたらしい面々が駆けつけてきて声をかけるが、里中は脂汗を流してうめいているばかりだ。やむなく里中が痛みで暴れないよう数人がかりで押さえつけるようにして旅館へ運び入れるのを、山田は庭に立ち尽くしたままじっと見送った。

――約束の一球、まだ受けてないぞ。

里中の傷は予想していた以上に深い。去年以上に治療も長引くかもしれない。それでも里中は必ずマウンドに戻ってくると山田は信じていた。いや、絶対に戻ってこなくてはならない。

自分を高校野球に引っ張りこんだ里中。自分を追いかけて明訓に入った里中。そこまでおまえは、おれというキャッチャーを求めてくれたんだろう?なのに勝手におれを置いて行くな。

高校を卒業すれば大学に進むにせよプロに行くにせよ自分たちの道は別れ別れになるだろう。それ以前に、来年の夏が終われば自分たちは野球部を引退しバッテリーを解消することになる。数年のうちに確実にやってくる別れ。だけど少なくとも今はその時じゃない。

――この夏も一緒にここへ戻ってこよう。そして再び真紅の優勝旗を持ち帰るんだ。

山田は旅館の裏口に視線を据えたまま、もう姿の見えない里中に向かって強く呼びかけた。


(2010年2月5日up)

 

 

 

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