Hot Beat

 

「失礼します」

生徒会室のドアを開けると、すでに先客が会長の机の前に立っている。里中はちょっと眉根を寄せた。

「やあ、野球部の里中くんか。君が来るってことは、用件は例の特別予算のことかな?」 会長の言葉に、里中は「はい」と頷いた。

新学期に入って各部活のキャプテンは軒並み代替りした。先日顔合わせを兼ねて新キャプテン全員が生徒会室に集まったのだが、その席で自然と周囲の注目を集めたのが野球部の新しい主将となった里中だった。この夏、甲子園初出場初優勝の快挙を遂げた野球部の一年生エース、そしてこの場で唯一の一年生キャプテン。回りが全員上級生という状況に気後れする様子もなく、里中は堂々たる態度で特別予算の認可を申し出たのだった。

「グラウンドを囲むフェンスをもっと高くしたい、か。野球部としては当然の要求だと思う」

会長の言葉に里中はもう一度頷く。フェンスの増設は前キャプテン土井垣時代からの課題だった。土井垣は野球部きっての強打者だったから、彼の打った球が軽くオーバーフェンスしては近隣の家の窓を割ったり屋根瓦を壊したりするのは日常茶飯事であり、野球部にとっての悩みのタネでもあった。当然何度もフェンスを高くしたいと予算の要望は出していたらしいのだが、当時の野球部は土井垣の猛打こそあれ全体の実力としては県内ベスト4がせいぜいとあって、学校側もそこまでお金を掛けてはくれなかったのだ。

しかしこの夏野球部は初の甲子園優勝を達成し、全国に明訓高校の名声を轟かしめた。今なら多少の要求は十分に通るはずだ。土井垣引退後、名実ともに明訓の主砲となった山田に思う存分打撃練習をさせてやりたい。そう言えば誰も反対はできないだろう。里中はそう計算した。

――今のおれが野球部のためにできるのはこんなことぐらいだからな。

里中は胸の奥でそっと自嘲の笑いをこぼした。

 

「だが、今回は予算を付けられない。君には申し訳ないが」

予想外の会長の言葉に里中は目を見開いた。

「どうしてですか!?もうすぐ秋季大会がはじまるんです。この試合の出来で関東大会、ひいては来年春のセンバツ出場校が決まるんですよ!」

思わず大声を出す里中を会長は目で抑えると、

「特別予算を申しこんできたのは野球部だけじゃないんだ。陸上部から老朽化した器具類を新調したい旨要求があった」

静かに告げた声に里中は先客≠ノ目を向けた。どことなく見覚えのある顔だとは思ったが――この間顔合わせの席で会った陸上部のキャプテンだ。

「野球部の学校への貢献度も考慮した上で生徒会で話し合った結果、ここは陸上部を優先すべきだろうとの結論に達した。器具が傷んだままでは部員の怪我にも繋がりかねないが、フェンスが低くても怪我人は出ないからな。現状もそれでやってきたんだから今後も何とかできるだろう?まあ陸上部の要請の方が急務だということだ」

会長の言う事は正論だ。反駁のしようがない。だけど。里中は悔しさにそっと唇を噛んだ。その時これまで黙って二人の話を聞いていた陸上部キャプテンが重々しく口を開いた。

「その話なんですが会長、いったん留保してもらってもよろしいですか?里中くんと二人で話し合った上で改めて申し込みをさせて頂きたいんです」

思いがけぬところから救いの手が差し伸べられて里中は唖然とした。会長は里中以上に驚いた様子で、

「そりゃあ、君が構わないなら・・・」と今までになく歯切れの悪い返事を返してきた。

「では失礼します。・・・里中、ちょっといいか?」

促すように振り向いたキャプテンに里中は固い表情で頷くと、彼の後について生徒会室を出た。

 

「改めて、陸上部キャプテンの野崎だ。よろしく」

「野球部の里中です」

太く落ち着いた声で話す男を里中は見上げた。自分より頭一つ高く体格も全体にがっちりしている。一歳しか違わないのにまるで大人と子供のようだ。圧迫感を跳ね返すように、里中は視線に力をこめた。

「野崎さん、どうして予算請求を取り下げたんです?」

「まだ取り下げたわけじゃない。君との話し合いの結果次第だな」

「話し合い?」

訝しげな態度を隠そうともしない里中に、野崎は廊下の周囲をさりげなく見回してから、

「君に一つ頼みがある。もしそれを聞いてくれるようなら、特別予算の枠は野球部に譲ろう」

「・・・頼み?何ですか?」

里中はますます警戒心を強めた。この男とまともに口をきいたのは今日が初めてだ。いきなり頼み事をされる覚えがない。何を言われるのか全く予測のしようがない。

「――Eクラスの島野を知っているか?うちの期待の一年生だ」

「島野?いいえ」

学年が同じでもクラスが違う相手の顔や名前などそうそう覚えているものではない。まして入学このかた野球三昧の日々を送っている里中にとって、野球以外の学校生活は今ひとつ印象が薄かった。島野と言われて思い出すのは、地区予選決勝で戦った東海高校の代打の男がそんな名前だったかなというくらいだ。

「体は小さいが大した俊足でな、とくに夏前あたりからぐんぐんタイムを伸ばしていたんだが・・・練習熱心がたたったか、脚を疲労骨折してしまったんだ」

どうも話が見えてこない。里中は内心苛立ちながらも野崎の言葉に耳を傾けていた。

「まもなく新人大会の地区予選があるが、どうも間に合いそうもない。出れば確実に一位になって県大会に進める力のある奴なんだが」

そこで野崎はいったん言葉を切ると、里中をじっと見つめた。

「島野の入学当時、4月の体力測定の時点であいつはすでに学年トップのタイムを出していた。ただ一人、島野とほぼ同じタイムを出した奴がいたが・・・そいつは陸上部ではなく野球部の新人だった。うちの一年生はいまだにこの時の二人のタイムに追いついていない」

そういえば体力測定で50メートルを走ったとき周囲が妙に盛り上がっていたっけ。学年新が出たとか何とか。投球は足腰が肝心、まして自分は足腰に負担のかかるアンダースローだからと中学以来投球練習以上に走りこみに力を入れてきた結果、スピードも人並み以上に鍛えられたらしい。結局その後さらに0.2秒タイムを上回る奴が出たそうだが、それが島野だったのか。

「陸上部ならともかく野球部の奴に0.2秒しか差をつけられなかったのがよほど悔しかったんだろう、島野はそれは懸命に練習に取り組んでいた。そのために地区大会に出られなくなったんだから皮肉なものだが」

それがおれのせいだとでも言いたいのか。何でこんな恨み事を聞かされなくちゃならないんだ。里中はだんだん本気で腹が立ってくるのを感じた。

「・・・で、頼みがあるって話はどうなったんですか。言いたいことははっきり言ってください」

歯に衣着せぬ里中の言葉に野崎は一瞬虚を突かれたような顔になったが、やがて「噂どおり鼻っ柱が強いな」と苦笑すると、

「おまえに島野の代わりに地区大会に出場してほしい。種目は400メートルだ」

単刀直入に言い切るのに今度は里中が絶句した。

「――出られるわけないじゃないですか!選手登録もしてないのに!だいたいうちの秋季大会と日程が重なるでしょう!?」

「いや、地区大会の方が一週間早い。県大会とはちょうど日程がかぶるが・・・それまでには島野が復帰できるはずだ」

「選手登録は?ぼくは部員でさえないんですよ」

「もちろん。島野の名前で出るんだ。幸いあいつは一年でまだ顔が売れていない。体格もおまえと同じくらいだ。理由を付けてなるべく顔を見せないようにすれば何とかごまかせる」

「ごまかせるわけないでしょう!無茶苦茶ですよ!」 里中は声を張り上げた。

「それに島野はここ数ヶ月で飛躍的にタイムが伸びたって言ったじゃないですか。4月時点ではほとんど変わらなかったといっても今じゃ島野の方がずっと早いはずです。本職でもないぼくに替え玉が務まると本気で思ってるんですか」

「言っただろう。残念ながら島野を除けばうちの一年の誰よりもおまえの方が早い。正直県大会に進める力があるのは島野だけだ。故障するほどに必死で努力してきたあいつが、せっかく晴れ舞台に出るチャンスを潰したくないんだ。無理は承知だ。頼む里中。地区大会で代わりに走ってくれ」

一息に言って深く頭を下げた野崎の姿を里中はしばし無言で見つめていた。それから絞りだすような声で、

「・・・少し考えさせてください」と一言告げたのだった。

 

野崎と別れた里中が野球部のグラウンドに立ち寄った時、すでに練習時間は終わり部員たちの姿もなかった――ただ一人をのぞいて。

山田はマシンを相手に打撃練習に励んでいた。里中が右ヒジを負傷し、岩鬼の喧嘩沙汰で部員が激減した今の野球部にはバッティングピッチャーが務まる人間さえいない。里中の胸がじわりと痛んだ。気配に気づいたのか山田が振り返った。

「お帰り、里中。予算の話どうだったんだ?」

明るく声をかけながらマシンを止めに行こうとするのを、「いいから。練習続けろよ」と軽くいなす。

「――ひとまず保留になった。他の部との調整が必要らしくて」

あえて詳しい事情は告げなかった。山田には野球に専念してほしかった。予算の心配なんかはキャプテンの自分がすればいいことだ。・・・今の自分はそれくらいしかすることがないのだから。

「そうか。まあ無理なら無理でも仕方ないさ。他の部にもそれぞれの都合があるからな」

のんびりした口調で言いながら、マシンが吐き出した球を山田がジャストミートする。快音とともに鋭い打球が飛んでゆき、フェンスにぶつかって跳ね返った。

――山田はボールが場外に飛ばないようなバッティングをしている・・・。

入部したばかりの頃、山田は竹棹を工夫して土井垣の大ホームランが近隣の家に飛び込まないよう細かく気を配っていた。近所に迷惑をかけることより自分のバッティングフォームを崩さない方を優先した土井垣と同じように振る舞うことは、山田には、できない。その遠慮が、優しさが、天性のホームランバッターの力を削いでしまうのではないか。想像するだけでも里中は慄然とせずにはいられなかった。

「・・・ごめんな、山田」

「何であやまるんだ。おまえは十分やってくれてるじゃないか。キャプテンとして皆をまとめ生徒会と折衝し、夜は逆療法の激痛に耐えている。これで秋季大会までに復帰できれば、もう言うことはない」

――そう言って、おれの復帰を信じて、山田はひたすら待ってくれている。部員がレギュラー以外いなくなって野球部の存続さえ危ぶまれた時、山田が「もう少しで里中が帰ってくるから」と皆を鼓舞してくれたのだと先輩たちから聞いた。おれを待って、おれを信じてくれる山田の気持ちに報いたい。山田のために野球部のために、今おれが出来ることはなんだ?

山田がバットを振る。打球はフェンスの同じ位置に当たって跳ね返り、コロコロと転がった。

「待ってろよ山田。思いっきりボールを飛ばせるようにしてやるからな」

「・・・里中?」

妙に力強い里中の言葉を訝るように山田が振り向いたとき、里中はすでに背を向けて合宿所へ歩き出していた。

 

翌日、放課後に里中は陸上部の練習場を訪れた。部員たちがある者は走りある者は柔軟をしている中に野崎の姿を探す。一際背の高い男の影に目を留めたと同時に、野崎の方もこちらに気づいて近付いてきた。

「里中」 それだけ言うと野崎は黙って里中を見つめた。里中も挑むように野崎の目を見つめ返した。

「・・・島野は一年生です。今回がダメでもまた来年があるでしょう?」

「・・・おまえがそう言われたとしたら、それで納得したか?」

甲子園の時のことを言ってるのだと里中は察した。頭の怪我を押して決勝戦を投げ、その無理が祟って右ヒジまで壊すことになってしまった。もしそうなるとわかっていてもやはり自分は投げたに違いない。目の前の戦いに勝つ。その時はそれがすべてなのだから。

「――勝てる保証はないですよ。それに県大会は絶対に出られませんから」

「大丈夫だ。もう数週間休養できれば島野は必ず治る。必ず走れるようになる」

チームで戦う野球とちがって、陸上の個人競技は欠場したからといってチームの皆に迷惑がかかるわけじゃない∞そんなに県大会に出たいなら意地でも島野本人が走ればいいだろう≠サんな理屈を今さら野崎に言うつもりはなかった。島野の復帰を信じて彼のためにベストを尽くそうとする、そんな野崎の姿が山田に重なる。

――おれたちは幸せ者だな、島野。

心の中でそっと呟くと、「特別予算の件、約束は守って下さいね」と里中はちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

 

この日から里中の日常には若干の変化が生じた。野球部キャプテンとしての仕事の傍らランニングに精を出すようになった。右腕が肩より上がらず普通の練習に参加できない分、これまでも走る練習に専念していたのだが、とにかく暇さえあれば走り続けた。

一方で野崎との打ち合わせを兼ねて陸上部にもちょくちょく顔を出し、陸上のトラックを走る練習もした。部員たちは皆事情を知っていて、里中が人目に立たず練習できるよう何かと気を配ってくれる。春以来久々にタイムを計ってみると、さんざん走り続けた甲斐があって0.4秒ほど早い数値が出た。

「大したもんだな。やはりおまえに頼んだのは正解だった」

「出ると決めた以上は勝たないと。これで負けたらバカみたいですからね」

里中はそっと右腕を回してみる。途中でやはり強い痛みを感じたが、走るさいに手を振るくらいならほとんど影響はない。

試行錯誤のうちに日は流れ、早くも新人大会は数日後に迫っていた。

 

「里中」

教室を出たところでふいに呼び止められた。振り返ると、坊主が少し伸びた程度の短髪の、小柄な男が思いつめたような表情で立っている。見たような顔だな、と一瞬考えてから男が松葉杖をついているのに気づいて、ああ、と思う。

「島野だ。・・・今回は世話をかけるな。本当はもっと早く礼を言いに来るつもりだったんだが・・・」

少し俯いて唇を噛んでいる。里中には島野の葛藤が手に取るように理解できた。体力測定で自分と僅かしかタイムが違わなかったことにショックを受けて無茶な練習に励んだという島野。本当なら一番頭を下げたくない相手だったろう、その自分にピンチヒッターを頼まざるを得ない無念。里中は甲子園準決勝で怪我のためにどうやってもストライクが入らなくなり自らマウンドを降りたときの悔しさを思い出していた。

「足の具合はどうだ?」

「順調だよ。県大会までには必ず治してみせる」

島野の目に強い意志の光が宿る。里中はふと笑い出したい気分にかられた。考えてみれば、いや考えるまでもなく自分たちはずいぶん無茶な綱渡りをやっている。自分が無事県大会出場を勝ち取っても島野が確実に間に合うという保証はない。島野が間に合っても自分が無事県大会出場を果たせるとは限らない。両方の条件が揃わなければ全ては無駄になってしまうのだ。

「当たり前だ。みんなおまえが戻るのを待ってるんだから。・・・陸上部の全員が今度のことに全面協力してくれてるんだぜ。よそ者のおれが助っ人で入り込んで、気分いいはずないのにさ。それだけおまえは大事に思われてるんだ」

そうでなければ島野ひとりのために全員のメリットになる器具類の新調を諦めたりはしない。里中が微笑むと島野もようやく笑顔を見せた。

「・・・ありがとうな。よろしく頼む」

「ああ。任せとけよ。・・・ところでおまえ、東海高校に兄貴がいたりしないか?」

「いいや・・・?何の話だ?」

「ああいいんだ。気にしないでくれ。じゃあな、リハビリ頑張れよ」

まあよくある顔だし名前だよなと里中は一人納得すると、きょとんとしている島野を残してさっさと歩き出した。

 

大会当日の朝は抜けるような青空が広がっていた。暑からず寒からず、走るには絶好の日和と言えた。もっとも里中としてはもう少し涼しい方がありがたかったのだが。

「どうだ里中、息苦しくないか?」

「ここに来る間に大分慣れましたよ。鬱陶しいし暑苦しいですけどね」

野崎に答える里中の顔は包帯にくるまれている。目と鼻腔、口以外は完全に覆われた状態で、さながらミイラ男か透明人間だ。これならさすがに誰も里中だとは気づかないだろう。競技場に来る前に、陸上部の部室でマネージャーに巻いてもらったのだ。快適にはほど遠いが視界は良好で呼吸も問題ない。走るのに支障はなさそうだった。

里中は周囲をぐるりと見回した。今日出場する一年生部員はさすがに緊張を隠せない面持ちだ。競技には出場しない二年の部員たちやマネージャーが離れた位置で見守っている。ほかに二人ばかり明訓の制服を着た女子生徒がいるが、漏れ聞こえる会話の内容からすれば、野崎のファンの子たちらしい。野崎自身は走らないのにそれでも見にやってくるのだから相当なものだ。

『次は男子400メートル。出場選手はあちらで待機してください』

里中は野崎に頷くと、待機場所へと向かった。顔を一面包帯で覆った風体は病院ならともかく陸上競技場では異様としか言いようがない。回りの人間がちらちらと視線を投げかけてくる。運営側には食べ物アレルギーで蕁麻疹が出たので外気にさらすとまずいと説明してある。文句を言われたり揶揄されたりはしないだろうが、偽名で出場している後ろめたさがあるので、注目されるのは――仕方ないとはいえ、有難くない。さっさと走り終えてここから抜け出したいが、うまくいかないもので里中は最後に走るグループに入れられていた。

前の2グループがようやく片付き、里中は立ち上がった。選手五人がラインに並んで合図を待つ。

『位置について、用意――スタート!』

ランナーが一斉にスタートを切る。みんなさすがに俊足が揃っている。しかし1周目を回り切ったあたりで里中が数珠繋ぎの状態から体一つ抜け出した。もともと短距離より中〜長距離の方が得意なのだ。そのままの位置をキープしながら3周目に差しかかる。

コーナーを曲がりながら里中は頭部に違和感を感じた。包帯の締め付ける感触が何だか緩くなっている。走りにともなう振動のために包帯がほどけかけているのだと気づいて里中は愕然とした。しっかり巻いてもらったつもりだったが、所詮は素人、巻き付け方が甘かったのか。

冗談じゃない。こんなところで正体がバレたら何もかも水の泡だ。いやそれどころか陸上部は―自分の素性がバレれば野球部も―何らかの咎めを受けるに違いない。里中は歯噛みしたが今さらどうにもならない。何とか包帯がもってくれることを信じて走り抜くしかない。

しかし3周目も終盤になると、いよいよ包帯の緩みはひどくなってきた。遠からずずり落ち始めるだろう。コーナーを回りながら里中は左手で頭を押さえた。とにかくあと一周だ。このまま何とか最後まで持たせるんだ。

頭を押さえることでたしかに緩みの進行は食い止められた。しかし左腕を振れないためにスピードの乗りがよくない。いつの間にか左隣のコースの男が並んで走っている。このままじゃラストスパートで抜かれる。コーナーを曲がりながら里中は前方を見すえた。あと50メートル。こうなったら一か八かだ。

里中は頭を押さえていた左手を下ろすと、両手を大きく振って全力疾走に入った。とたんに包帯がずり落ちはじめるのがはっきりわかった。とにかくゴールまで持てばそれでいい。

あと30メートル。隣の奴もぴったり付いてくる。落ちてきた包帯が視界を半ば塞ぐ。あと10メートル。完全に見えなくなる前にゴールをしっかり目に焼き付ける。もう隣の奴との差がどうなってるのかもわからない。後は全力を出し切るだけだ。

最後の力を込めて足を力強く蹴り出す。視界が完全に遮断された。わーっという歓声だけが布越しに遠く聞こえてくる。

『一着、明訓高校島野くん、タイムは・・・あっ、島野くん、どこへ行くんだ、島野くん!』

止まるわけにはいかなかった。勝利を喜ぶ余裕もなく、里中は両手で顔を覆うとそのまま走り続けた。とにかく人のいないところに行かなければ。

島野≠フ奇妙な行動に場内にざわめきが広がる。野崎ファンの女子二人は互いの顔を見合わせた。ゴール近くに陣取っていた彼女たちは包帯が完全に落ちてしまったあとの島野≠フ顔を一瞬目撃したのだ。

「・・・蕁麻疹って言ってたけど、顔何ともなかったよねえ」

「うん・・・それにあの顔って・・・・・・」

懸命にも彼女たちはそれ以上口にしなかった。事情はさっぱりわからないが、自分たちが見てしまったものを口外すれば大好きなキャプテンに迷惑がかかる。そうとっさに判断したのだった。

 

里中は競技場の外れの木蔭で荒い息をついていた。さすがにここなら誰も見ていないだろう。手の甲で額の汗を拭ったところへ、頭の上に何かがバサッと被さった。驚いて、引っ張り下ろして見ると大判のタオルだった。

「お疲れ、里中」

耳に馴染んだ声にはっと顔を上げると、いつの間に近づいたのか、優しい目が微笑みかけている。

「山田!?」

心底びっくりしてつい大声を出してしまう。どうして山田がここにいる?そんな里中の疑惑を見透かすように、

「このところおまえの様子が変だったからな。いくら普通の練習が出来ないからって、陸上部まで出かけて走る練習をしてるのは明らかに行きすぎだ。何かあると思ってたら、今日が陸上部の新人大会だって聞いてピンと来た。――助っ人に出る条件は例の特別予算か?」

「まいったな・・・・・・何から何までお見通しか」

里中は深く息を吐き出した。打者の顔色からどんな球を待っているのか的確に察知できる山田に隠し事をしようとするのがどだい無理だったのだ。

「走るうちに包帯が取れかけたのを見て、おまえはきっとこっちに逃げてくると思って待機してたんだ。タオルで汗を拭いたら包帯を渡してくれ、ちゃんと巻きなおしてやるから」

言われた通りに包帯を渡すと、山田は器用な手付きで包帯を手早く巻きつけていく。

「山田・・・・・・怒らないのか?」

「そうだな。もう少しで面が割れるところだった。籍のない部の部員の名を騙ったんだから、不祥事を起こしたかどで秋季大会は出場停止になったかもな。キャプテンとしては実に軽率だ」

声も顔も笑っているが辛辣な言葉が里中の胸にぐさりと突き刺さった。山田の言う通りだ。そして自分もそれがわかってたからこそ山田にも何も言わなかったのだ。

それでも無茶と知りつつ自分は野崎の話に乗ってしまった。野崎の、島野の思いに心を打たれたせいもあるが、第一の理由は自分がキャプテンだったからだ。名ばかりの。投げられなくなった自分をそれでもベンチに入れてやろうという監督の温情で選ばれた、役立たずのキャプテン。だからこそ野球部の役に立ちたかった。何か形に残るようなことをしたかったのだ。

「でもそれを責めるつもりはないんだ。皆が打撃練習を存分にできるようにおまえが懸命だったのも、島野に肩入れした気持ちもわかってるから。ただおまえは一つ考え違いをしてるよ。おまえは監督が温情だけでおまえをキャプテンにしたと思ってるんだろうが、あの人はそんなに甘くはない。おまえがいるといないじゃ皆の士気が違うんだ。怪我にも負けずに投げ抜き初の優勝をもたらした――おまえは明訓野球部のシンボルなんだよ、里中。どんな名目をつけても監督はおまえを手放したくなかったんだ」

「山田・・・・・・」

「だがおれはそれ以上にピッチャーとしてのおまえを手放したくない。だから今おまえが第一にすべきなのはまずヒジを治すことだ。ヒジを治して、ちゃんと投げられるようにすること。そうだろ?」

「ああ・・・わかってるよ」

あえてぶっきらぼうに答えて視線をそらす。そうしないと涙が出てしまいそうだった。山田の言葉が、自分を必要だと言ってくれた気持ちが有難くて。照れ隠しのように右腕をそっと回してみて、はっとした。痛みがこない・・・!。

「山田!右腕を上げても痛くない!痛みが消えてる!」

「本当か!ちょっとシャドーピッチングをやってみてくれ」

里中は頷いてワインドアップに構えいつものフォームで投げる真似をする。痛くない。これならいける。あとは怪我のために落ちた腕力と握力が戻れば秋季大会で投げられる。

「全力疾走のために大きく腕を振ったのがかえって効いたのかもしれないな。よかったな里中」

「山田・・・!」

里中は山田の体に正面から飛びついた。「おーい、さ・・・島野〜!早く戻ってこーい!おーい!」と野崎の呼ぶ声が少しずつ近付いてくる。

「さあ早く行ってこい。最後まできっちり代役を努めなきゃな」

「ああ!」

背中を叩いた山田に里中は元気よく頷いて、軽やかな足取りで競技場に向かって駆け出した。


陸上競技についての描写は、一応調べてはみたもののかなりデタラメです・・・。
包帯里中については『球道くん』に登場する“透明選手”がモデルだったりします。また島野の名前は文中にもあるように東海の代打島野から、野崎キャプテンは白新高校のキャッチャーから名前をもらいました。

(2010年2月13日up)

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