不在の影(後編)

 

予選大会開幕から4日後、夏らしい快晴の下、ついに明訓高校の初試合の日がやって来た。対するは剛腕雲竜を擁する東海高校。

やはり里中は間に合わなかったな、と渚は安堵の息を吐いた。ここまで来て里中に先発を取られたのではたまったものじゃない。しかし予想外だったのは殿馬の不在だ。

春季大会優勝からまもなくニューヨークへ発った殿馬は、そのまま音楽留学するものと思われていた。だから正確には殿馬の不在そのものはみな最初から覚悟のうえだった。だが留学を蹴って予選大会に出場するため日本に戻ってくる途中の殿馬が、ハイジャック事件に巻き込まれ太平洋上で立往生することになるなんて誰が想像できたろうか。

出場どころか生命さえも危ぶまれる状況とあって、皆さすがに昨日から顔色が冴えない。しかし殿馬と付き合いの浅い自分にとっては正直殿馬が抜けたことによる守備の穴の方が差し当たっての問題だった。代わってセカンドに入った高代には悪いが、守備力が大幅に落ちることは否めない。

東海のベンチ前では一番打者の雲竜が素振りをしている。左手一本で振っているにもかかわらず、マウンドまでうなりが聞こえてきそうだ。それでおれを震え上がらせるつもりか。そもそも怪力・豪打で知られた雲竜を一番に持ってきたのも、初っ端から自分をビビらせて打ち崩すのが目的なのだろう。

なめやがって。おれを呑んでやろうというつもりだろうが、相手を呑んでかかるのはおれの得意技だぜ。

渚は数回右腕をぐるぐる回すと練習球を山田のミットに投げ込んだ。打席に入った雲竜を無視して柔軟体操をはじめ、さらにマウンドをこれ見よがしに丁寧にならし、空を行く飛行機を見上げてみせる。

「早うせんか!飛行機なんぞどうでもいいバイ!」

雲竜のがなり声にしめしめと思う。奴さん大分冷静さを欠いてきたぞ。

山田からサインは出ていない。どんな球を投げるも自由。自分のペースで投げてこそおれは実力を発揮できる。さすがに山田さんはわかってるな。

飛行機の轟音が次第に遠ざかってゆく。殿馬も今ああしてどこかの空をさまよっているのだろうか。

――殿馬も里中も必要ない。おれがこの腕で明訓を勝利に導いてやる・・・!

渚は力強く振りかぶると、大きく左足を蹴りだし第一球を投じた。体に馴染んだアンダースローから最高のストレートをど真ん中へ。

雲竜が左手一本でバットを振り回した。キインと小気味よい音が響くと、勢いよく打ち上げられたボールはそのままスタンドへと吸い込まれていった。

 

一瞬の自失から渚を引き戻したのは岩鬼の怒鳴り声だった。なぜアンダーで投げた、ふざけた投球をするな。ミニ大会はずっとオーバーで投げてきたから相手の意表をつくつもりだったのだが、やはりオーバーほどはスピードが出ないせいかいきなり被弾してしまった。

終わったことをくよくよしても仕方がない。まだ一回、たかが一点だ。二番打者の嵐山が打席に入る。山田はあいかわらずノーサインだ。山田は自分の配球を信じてくれている。渚は今度はオーバースローから覚えたての変化球を投げた。しかし思うように曲がらずボール球になってしまう。次の一球を投げる。ボール。次もまたボール。ついにフォアボールで打者を押し出し、3番の目方、4番の王島も連続のフォアボールで出塁させてたちまち無死満塁に追い込まれてしまった。

おかしい。ストライクが入らない。最初にアンダースローで投げたせいでオーバーのフォームが乱れてしまったのだろうか。さすがに渚は焦りながら山田を見た。普通なら叱るなり激励に来るなりする場面だが山田は動かない。マスクの下の細い目が冷たく渚を見つめている。そして変わらずノーサインのまま。

もはや渚には山田が自分を信用してくれてるとは思えなくなっていた。そもそも山田が自分を信用してくれたことなどこれまであったか?・・・もはやサジを投げているということか?ミニ大会とはちがう、甲子園出場がかかっている大事な試合なのに?

山田だけじゃない、ナインの誰もマウンドに励ましにこようとしない。広いグラウンドでひとりぼっちになったような孤独感が渚を捉えた。

――何をビビってるんだ。中学の時だって回りはみんな敵ばかりだったじゃないか。それでもおれは一人で投げ抜いてきたんだ。

持ち前の負けん気で自分に言い聞かせる。そうだ、一人で、おれの実力でこの場を乗り切るんだ。そうすれば皆おれを認めざるを得なくなる。渚は深く息を吸って5番の江尻に対峙した。

 

江尻にライナーを打たれたものの山田の好判断でトリプルプレーに取り、1回表は何とか一失点に抑えた。1回裏で味方が2点を返して逆転、3回表に再び雲竜にホームランを打たれたが後続を断った。しかし4回表、4、5、6、7、8番と続けて打たれ、岩鬼のエラーもあって再度満塁のピンチとなったところで思いがけず9番の雪村にホームランをくらった。ピッチャーに打たれた。しかも満塁ホームランを。さしもの渚をも完全に打ちのめすに足る過酷な現実だった。

こんなのは悪い夢だ。ミニ大会ではあれだけ快調に対戦校を抑えてきたのに。相手がちょっと本気を出してきたらこのザマか。おれは所詮中学級だったということなのか・・・?

やっと盛り返してきたのにこの回一挙に6点を取られ再び点差が大きく開いてしまった。しかも次の打席は東海、いや神奈川きっての剛打王雲竜。雲竜にはすでに二度のホームランを打たれている。足がガクガク震える。なんてこった。強気が信条の自分が立っているのもやっとだなんて。

くらくらする視界に、山田が立ち上がってマウンドに歩み寄ってくるのが見えた。きっとこっぴどく叱責されるんだろう。そう思っても、ついに山田が動いたことに渚はどこか安堵感を覚えていた。

「はじめてだぞ。一挙6点というのは。――しかしおまえももろいな・・・。」 口調は穏やかだが辛辣な言葉が肺腑をえぐる。なまじ顔は微笑んでいるだけになおの事恐ろしかった。

「――降ろさせてください。・・・正直今日は調子が悪かったんです」 何とか切れ切れに紡いだ声も、

「それはおれじゃなく監督にいうべきだろう」と一刀両断にされる。

「もし降りるなら今のうちだぞ。プレイがかかってからじゃみっともないからな。あと、降りるんだったら退部届を用意しておけよ」

退部届か、そうだろうな、と渚はあっさり納得した。夏春を連覇した「常勝明訓」が予選で一勝もせず敗退するなんて、まさに戦犯ものだもんな。ぼんやりそんな事を思う間に山田はホームベース上に戻りプレイの声がかかった。これでもう降りられなくなった。最低でも雲竜の打席は投げなければならない。しかしどんな球を?どんな球種をどんなコースで?動揺の極地にある渚は、もはやその判断も成し難かった。

山田さん、と渚はすがるような目を向けた。助けてください山田さん。サインを出してください。もうどうしていいかわからないんです。

あれだけひどい事を言われながらその相手に助けを乞う。普段なら限りない屈辱と感じるはずの行為も、追いつめられた今の渚には唯一の手段のように思えた。山田は相変わらずの冷徹な視線をマスク越しに注いでいたが、やがてその手が動きサインを形づくった。

それを見たとたん胸のつかえが一気に軽くなるのを感じた。打たれない保証はない。しかし何を投げるべきかの悩みはひとまず解消された。今は山田のリードを、判断を信じるしかない。

渚はオーバースローから第一球を投げた。ボールになるストレート。雲竜は勢いよく空振りした。まずはワンストライク。続いてスローのストレートをアウトコースへ。雲竜はボールを勢いよく飛ばした、かに見えたが、意外にもボテボテのゴロになったそれを岩鬼が取ってアウトとなった。

単なる幸運じゃない。雲竜をゴロに抑えられたのは、雲竜が打ち気まんまんなのを逆に利用して力を抜いたボール球を引っ掛けさせた結果だ。こういう戦い方もあるんだ、と渚は素直に納得していた。

 

以降、山田のリードを得て渚の投球は急激に立ち直っていった。打者の癖や狙いを読みきる山田のリードは実に的確で、打者を次々凡退に打ち取ってゆく。それを自分の実力だと勘違いするような思い上がりはもはや渚にはなかった。優れた捕手にリードを任せることが、こんなに心身を楽にしてくれるなんて・・・!

7回裏、渚に打席が回ってきた。一回6失点の重みは大きい。投げるだけに専念して打つ方は味方に丸投げしようという気にはとてもなれなかった。自分の失投や判断ミスでここまで追い込まれてしまった。罪滅ぼしのために、チームのために何としても塁に出なければならない。何としても。

渚は勝負よりも確実性を選んだ。インコースの球をよけそこなったと見せてのデッドボール。ボールのぶつかった左腕が痛んだがそんなものは何でもない。

「渚〜、ちったあわいの心をヨロっと動かすような根性みせてくれるやないけ。よっしゃ〜ごほうびにわいが1点差に迫るツーラン打ったるで」 岩鬼がバットを大振りしながら吠えた。

何度か対戦経験のある雪村はさすがに岩鬼の悪球打ちを心得ていてど真ん中を突いてきた。案の定岩鬼は二連続で空振りする。しかし三球目、岩鬼の上体が不自然に揺れていると思ったらいきなり大ホームランをかっとばした。このとき岩鬼は自ら悪球を作り出すためにこっそり酒を飲んでいたのだと渚は後から知った。

「どや渚、何とかわいに繋ごうという、おんどれのファイトに報いたったで!」

「岩鬼さん・・・」

ガハハと大笑いする岩鬼を渚は感慨を持って見つめた。別段岩鬼に繋ごうと意図したわけではないがたまたまそういう形になった。そして唯我独尊の岩鬼は、それだけに自分を頼ってくる、自分を立ててくれる相手に対しては全力で応えようとする男だった。土井垣が岩鬼を何かと持ち上げるのも、そんな岩鬼を気持ち良く働けるようにするためなのだ。

そうだ、おれはずっと周りから認められたい、信頼されたいと思うばかりで、自分の方からチームメイトを信頼しよう頼ろうとはしてこなかった。こちらから素直に頼っていけば向こうも手を差し伸べてくれる。現に山田さんはおれがプライドも何も捨ててサインを求めたら、すぐにそれに応えてくれたじゃないか。

――おまえが山田とのバッテリーを通して自分で気づくべきことなんだと思う。

北の言葉が胸に甦る。まず自分が捕手を信じること。バックを信じること。渚は目の前が急激に明るくなってゆくように感じた。

 

渚の出塁を皮切りに猛攻に出た明訓は、3点を返して同点に追いついた。そして8回表、再び渚はマウンドへと上がった。

数球投げるうちに異常に気づいた。左腕が思うように上がらない。さっきのデッドボールの後遺症だ。加えてこれまでに蓄積された疲労。前半さんざん打たれたためにかなりの球数を投げてきている。何とか先頭打者を三振に取ったものの球威がガタ落ちだ。中学時代にはデッドボールに傷ついた左腕を吊って、それでも投げ抜いたことさえあったというのに。

7番長田の打席、山田からサインが出る。アウトコースへのストレート。一球でいいから全力の球を投げろ。今の渚には正直キツい注文だったが拒否するつもりは毛頭なかった。山田が投げろというならそれが最良の選択なのだ。チームにとって、そして自分にとって。

苦しいだろうがここはふんばってくれ。マスク越しに山田の目がそう語っているのがわかる。少し前まではただ恐ろしかった山田の眼差しが、今は自分を見守ってくれていると感じられる。きっと里中もそうだったのだろう。ツキ指がどれだけ痛くても、信じていたから耐えられた。山田の判断に従えばきっと勝てると、そう信じていたから。

渚は懸命の力を振り絞ってボールを放った。しかし渚の想いに反してど真ん中へ行ったボールはあっさり打たれてライト前ヒットとなった。

「渚、どんまいだ。ワンアウトワンアウト、楽にいこ」

マウンドに寄ってきた山田が明るく声をかけてくる。優しい笑顔に涙が出そうだった。センターの山岡が、三塁の岩鬼もそれぞれに激を飛ばしてくれる。皆の気持ちに応えたいとそう思うのに、かえってプレッシャーがさらに腕を縮こまらせるのかまるでストライクが入らない。連続フォアボールの上、雪村をデッドボールで出塁させまたも満塁となってしまった。

そして次のバッターは雲竜だ。ここで満塁弾でも浴びたらさすがにもう取り返しようがない。左腕はいよいよ痛んで、もうまともな球を投げることさえおぼつかない。里中は利き腕の右を怪我していてさえ最後まで投げ抜いたのに。こんな自分がこれ以上投げればチームに迷惑がかかるばかりだ。しかし交代できるピッチャーが今の明訓にはいない――。

うつろな視線をスタンドにさまよわせた渚は、そこに信じがたいものを見つけた。幻かと目を数回しばたたいた。

――里中、さん。

今だ療養中のはずの里中がバックネット裏の入口近くに立っていた。気遣わしそうな表情で試合をじっと見つめている。

「里中さん」

投げられる状態ならベンチに入っているはずだ。そうわかっていても渚は里中の存在に救いを求めずにいられなかった。

これまでなら一番弱みを見せたくない相手のはずだった。だが里中はチームメイトだ。苦しいときにチームメイトに助けを乞うのは何も恥ずべきことじゃない。

マウンドをふらふらと下りた渚に心配そうに山田が駆け寄ってきた。そして渚の視線を追って目を丸くする。里中の目が渚と山田をひたと見つめた。

 

『明訓高校、選手の交代をおしらせいたします。渚くんに代わりピッチャー、里中くん』

アナウンスが流れるなり球場はこの日一番の大歓声に包まれた。ふらつく足でベンチに戻った渚をユニフォームに着替えた里中が出迎えた。初めて間近で顔を見る里中は、穏やかに微笑んでいた。

「渚あっぱれだぞ。たいしたピッチングだったぞ」

「さ、里中さん・・・」

「その根性、おれにも分けてくれ」

バトンタッチというように渚の手を軽く叩いて軽やかな足取りでグラウンドへ駆けてゆく里中の背中から、渚は目を放せずにいた。二年の先輩がこれほど暖かな言葉をかけてくれたのは初めてだった。それもずっとライバル視してきた里中が。あれほど欲しかった自分を評価する言葉を。

マウンドに立った里中の頭を岩鬼がぐりぐりと乱暴になで回しながら何か話しかけている。岩鬼も土井垣も、皆がごく明るい笑顔を見せている。一打四点の危険な場面だというのに。それだけ皆が里中を信頼しているのだ。明訓ナインだけじゃない。彼の登場に大声援を送ったこの球場の観客のすべてが。

肩ならしの練習球を投げ終えた里中は、「里中里中ファイト」の大声援を背に、打席に入った雲竜に第一球を投じた。

「甘いわい里中!」

雲竜は例の片手スイングでボールを高く打ち上げた。ボールはライトスタンドへと飛んでゆく。いきなりのホームラン。渚は愕然とした。思えば病み上がりの、二ヶ月以上も練習に参加していなかった男にいきなり投げろというのが無理な話だったのだ。さすがに里中もショックだろうとその顔を見ると――笑ってる?

ボールはわずかに切れてファールになった。悔しがる雲竜と対照的にバッテリーは泰然自若としている。知っていたのだ。必ずファールになるはずだと。

「うまい!あと半球ずれていたらホームランになるところだった」

隣で土井垣が興奮気味に呟く。わずか半球。その綱渡りを可能にする里中のコントロール。里中のコントロールを信じた山田のリード。彼らが黄金バッテリーと呼ばれる理由を渚は痛感した。

第二球も雲竜は強打に出たが、タイミングを外されピッチャーゴロに打ち取られた。1、3塁のダブルプレー。わずか二球でチェンジとなった。

「みたか渚。三振にとろうと思うから苦しい。打たせてとるは投手の最高度の技術だ」

「はい」

土井垣の言葉に今の渚は素直に頷くことができた。思い通りの打球に打ち取れるように、山田は考え抜いたリードをしている。そしてそのリードを里中は最大限活かすことができる。どんな剛速球を投げる投手よりも、捕手にとっては理想の投手だろう。

だから山田は里中を大事にする。里中も自分の力を一番引き出してくれる山田を大事にする。あの二人は仲のいい友人である以上にまずバッテリーなんだ。北の言葉が心の底から納得できたのだった。

 

結局里中は残りの回を無失点に抑えきり、山田のサヨナラホームランで長く苦しかった試合は幕を閉じた。

ゆっくりベースを回った山田が戻ってきたとき、渚はベンチを飛び出し迷わず山田に抱きついていた。広い胸に受け止められた瞬間、涙が噴き出すのをこらえることができなかった。そんな渚と山田をナインが囲み、代わる代わる肩や頭を叩いてくれる。これまで敗戦の悔しさに一人泣いたことはあっても、勝利に嬉し涙を流したことなどない。ましてやチームメイトとこうして抱き合い喜びを分かち合うなど考えられなかった。

けれど渚はかつてない充足感をおぼえていた。野球は9人でやるものだ。自分は決して一人ではないのだと知った。未だかつてなく苦しい試合で――かつてなく楽しい試合だった。

「里中また勝ったな」

「はい、渚がよく投げましたよ」

土井垣と里中が語りあう声が遠く聞こえていた。

 

夜、反省会が終わり解散になった後、しばらくしてから渚は自室をそっと抜け出した。今日はとにかくいろんな事がありすぎた日だった。気が高ぶっていて、この調子じゃ当分眠れそうもない。少し風に当たって興奮した頭を冷ましたかった。

グラウンドに面した窓の一つを開け、そこから外に出ようとして、渚はグラウンドの人影に気づいた。山田と、土井垣。

「ともかくも勝てたな。次は不知火の白新と当たることになるだろうが、それまでには里中が本式に戻れる。あとは殿馬が間に合ってくれれば・・・」

「きっと無事戻ってきますよ。日本には帰ってきてるんですから」

殿馬を乗せたジャンボジェットは今日の夕方羽田空港に着陸したものの、依然ハイジャック犯に占拠されたまま目下膠着状態に入っていた。

「そして何よりおまえだ山田。その右手、とっくに完治したものと思ってたぞ。ろくな治療もせずに放置するからそこまで悪くなったんだ。里中、殿馬、北が抜けてこのうえおまえまで休めなかった気持ちはわかるが――。白新戦までには何とか治してくれよ。あの不知火の球を打てるのはおまえしかなさそうだからな」

そこで土井垣は大きく息を吐き出した。

「それにしても今日の試合はハラハラさせられたぞ。あれだけ失点が続きながらよくノーサインで投げさせたもんだ。おまえの忍耐強さには恐れ入ったよ」

「監督もよく何も言わずぼくの好きにさせてくれましたね。感謝してます」

「渚のことならおまえが一番よくわかるだろうからな。おまえの判断が一番正確だ」

「――バッテリーの間には信頼関係が必要です。投手とバックの間にも。自尊心が強くて一人相撲を取っていた渚に、それを知って欲しかったんです。大量失点の危険があるのはわかってましたが、渚がぼくを信頼してくれなければどんなリードも無意味になってしまいますから」

「信頼関係か・・・。そうだな。去年の夏、おれと里中がバッテリーを組んだときがそうだった。あいつはおれのリードに不満たらたらで、おれはあいつの力をまるで信じてなかった。渚を見ててあの頃の里中を思い出したよ」

ふと土井垣が忍び笑いを漏らした。

「いや、あいつの方がずっとタチが悪いな。渚は結局おまえのリードを受け入れたが、里中は自分にリードをさせろと言い出し・・・おれ相手の練習では全部くそボールを投げることで自分の捕手は山田しかいないとアピールし続けて、ついにおまえとのバッテリーを成立させたんだから」

こっそり会話に耳を済ませていた渚は、思わず吹き出しそうになってあわてて口を押さえた。自分もかつてわざとくそボールを投げることで自分がリードを出せるように仕向けたことはあるが、里中はさらにその上を行っていた。あの土井垣を相手に自分にリードを出させろと要求し、信頼しあえる捕手と組みたいがために土井垣を正捕手の座から引きずり下ろしたとは!どうやら自分たちは結構な似たもの同士であるらしい。

返答に困ったのか頭を掻いている山田に土井垣は、

「まあ生意気なくらいの方が、投手としては優秀なのかもしれんな」 と陽気な口調で言った。

「そうですね。向こうっ気が強いのは渚のいいところですよ」

「あいつはいいピッチャーになれそうか・・・?」

「――ええ。まだまだ荒削りですが、きっとこれから伸びますよ」

渚は再び口を押さえてそっと窓際を離れた。これ以上話を聞いていたら、また泣き出してしまいそうだった。

結局前よりも目が冴えてしまった。この調子じゃ何時に眠れるかわからない。明日の練習に響くかもしれないが、たまにはそんなのもいいと思えた。山田が自分を認めてくれた。その喜びを今はじっと噛み締めていたかった。渚は足音をひそめて、自分の部屋に向かって歩き出した。

 


『ドカベン』にはまって一番最初に考えた(原型ができた)話がこれでした。渚が入部当初の里中の生意気っぷりを先輩から聞かされて唖然とする、というのを書いてみたかったのです。

(2010年12月31日up)

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