不在の影(前編)

 

ようやく巡ってきた練習休み、久しぶりに実家に帰った渚は、満面の笑顔の父に迎えられた。

「頑張ってるな圭一。入学早々に大した活躍ぶりじゃないか。お父さんも鼻が高いぞ」

その様子から察するとスポーツ新聞の記事を読んだに違いない。夏・春の甲子園大会を連覇した明訓高校野球部には、来るべき春季大会を前に始終スポーツ紙の記者が張り付いている。彼らが自分のことを「里中のあとを継ぐ一年のエース」「土井垣監督全幅の信頼」などと書き立てたのはつい先日だ。

「まだわからないさ。実戦を経験したわけじゃないし」

「なんだ謙遜なんておまえらしくもない」

父は陽気な笑い声をあげ、渚もつられて笑ったものの、どこか心が浮き立たないのを感じていた。さすがに甲子園優勝校の練習はきついし、先輩たちは総じて口うるさい。入部直後に投げ方をオーバースローに変えさせられたのも今もって納得できてはいない。しかし渚の気持ちを沈ませる原因はもっと別のところにあった。

「全幅の信頼」という言葉に反して、土井垣が自分を誉めてくれたことなど一度もない。それどころか整った顔を常にしかめているような土井垣の、笑顔を見たことすらない気がする。そして土井垣以上に重いのが捕手・山田の存在だった。

――渚、甘くみるなよ里中を。

山田は土井垣のように怒鳴ることはしない。しかし淡々とした声で諭されるとき、あの細い感情の窺えない目で見つめられると体に震えが走る心地がする。二年のくせに三年より態度のデカい岩鬼の専横は腹は立っても恐さは感じない。ただ山田は本当に恐ろしい。世間で「気は優しくて力持ち」などと評されているのとはまるで別人だ。

「・・・里中がいないから、か」

一年次の夏から山田とパッテリーを組んできたエース・里中智は春の大会中に負った右ヒジの怪我のために野球部を去った。投げられないぶん他校を偵察して回ってるとの噂も聞いた。にもかかわらず山田も土井垣も里中は帰ってくるものと信じているらしい。夏・春二度の優勝投手だけに諦めきれず苛立つのも仕方ないのかもしれないが、そんなのはただの未練じゃないか。

渚は大きく首を振った。せっかく久々に家に戻ってきたのだ、今日くらいは不愉快なことを考えるのはやめよう。渚は荷物を置きに自室へと向かった。

 

数日後、父が練習を見にやってきた。例の記事に気を良くしたのだろう。そこそこ大きな会社の社長である父は、時間の融通はかなり利く立場にある。

このところ渚は屋内練習場で山田を相手にひたすら投球練習に励んでいた。最初は投げ慣れたアンダースローからオーバースローに変えろと命令されたことに反発もおぼえたが、ボールにスピードが乗るようになるに従い、土井垣の判断は正解だったと思えるようになっていた。

一球投げるごとに外で見学している記者たちの視線が集中するのを感じる。あれで一年生とはすごいや。そんな声も漏れ聞こえてくる。昔から注目を浴びるのは大好きだった。得意になって渚は投げ続けた。そうだ、決して自分は里中に負けちゃいない。里中に匹敵する、いや、あんなチビよりずっと上に行ける力を持っているはずだ。

――おい渚、おまえ明訓に行くんだって?バカだな、明訓には里中がいるんだぞ。

――日本一の投手と張り合う気か?万年補欠で終わるだけだぜ。

そう言って嘲笑った自由ヶ原中学のチームメイトに自分は敢然と言い返したのだ。里中ごとき、蹴落とす自信がなくて明訓など選ぶものかと。同期の高代には故障者や退部者が多くすぐにもレギュラーを取れるから明訓に入ったと説明したが、それが理由の全てじゃない。もし里中が健在でも、実力でエースの座を奪ってみせると、最初からそう心に決めていた。

これが白新の不知火や横学の土門だったら正直勝てる気がしない。しかし里中なら。二期連続で日本一になったピッチャーといっても要はチームメイトに恵まれていたに過ぎない。「打たせて取るタイプ」なんて言ってられるのは猛打線と鉄壁の守備の支えがあればこそだ。里中なんて大したピッチャーじゃない。それなのに。

――夜、渚は山田の部屋を訪ねて、いろいろ文句を言ったがオーバースローにしてよかったと思うと告げた。オーバーにしろという監督の言葉を支持した山田に遠回しに礼を言ったつもりだったのだが、山田はにこりともしないまま「ヒジの使い方がなってない。だから手元で伸びないんだ」とキツい一言を返してきた。

山田さんはおれを認めていない。スポーツ記者はあれだけ誉めてくれるのに、あの人だけは。

いや山田だけじゃない。高代とグチをこぼしあっていたところに水をぶっかけた微笑も。三年生だって何も厳しいことを言わない代わりに自分のピッチングを誉めてくれたこともない。

そんなに里中でなければダメなのか。自分の何が里中に劣るというのか。自室に戻って布団にもぐりこんでからも渚は胸の内で答えのない質問を繰り返していた。

 

山田とマンツーマンでの特訓は翌日も続いた。もうずいぶんグラウンドでの練習に参加していないような気がする。

山田の要求は熾烈を極めた。どれだけ肩で息をしていようと疲労のあまり吐き気まで催そうと平然と「あと50球」と声をかけてくる。ふらふらになっている渚を気遣ってくれる様子など欠片も見せてはくれない。

まだ一年生にこの球数はリンチに等しいぞ。騒がれてる圭一に対しチームメイトが憎しみをもっていいのかね。今日も練習を見に来ていた父が怒鳴っているのが聞こえる。そういうことじゃない、と貧血気味の頭で渚は思った。山田は自分に対して嫉妬なんてしない。嫉妬を感じるほどに認めてくれてなどいない。

ふらつきながら投げた球がワンバウンドで山田のミットに納まる。山田は黙ってボールを投げて返す。鋭い返球がグローブ越しに左手を叩いた。口に出しては何も言わないが無言のうちに罵られているように感じる。里中の球はこんなものじゃないと。里中ならこの球数を余裕でこなせるのだろうか。自分よりずっと小さいあの体で?

どうにかあと50球を投げ切って練習場を出た。全身が震えて足元も定まらない。山田の後についてグラウンドに出るといつも通り土井垣の鬼のようなノックが行われていた。受けている小柄な影は最初高代かと思ったがもっと小さい。――殿馬だ。春の大会でサヨナラツーランを放ってチームを優勝に導いたのち、ピアノに専念するため野球部を去ったはずの殿馬が、なぜ土井垣のノックを受けている・・・?

殿馬はまるで踊っているかのような軽快な動きで球がどこへ飛ぼうと確実にキャッチする。テレビで殿馬の守備は何度も見てきたが、間近に見る「実物」に渚は目を奪われていた。一ヶ月近いブランクがあるはずなのにろくに汗もかかず表情にも何の気負いも感じられない。

とうてい高代の及ぶところじゃない。グラウンドにへたりこんでいる高代が心なし青ざめているのはまさに同じことを思っているからだろう。殿馬が帰ってくるなら高代のレギュラー落ちはまず確実だな。えづきながらも頭は冷徹にそんな判断を下していた。

何気なく傍らの山田に目を向けて、渚は息を呑んだ。殿馬の守備練習を見守る山田はうっすら微笑んでいた。思えば山田の笑顔を初めて見たような気がする。山田だけじゃない。ノックしている土井垣も笑顔を浮かべている。盟友である殿馬の復帰が嬉しいから?それだけじゃない。あれは安堵の微笑みだ。殿馬がいれば百人力だと。殿馬がいればきっと勝てるという確信を覚えたからこその。全幅の信頼、と渚は口の中で小さく呟いた。もし里中が帰ってきたら、この人たちはやはりこんな顔をするのだろうか。

「おまえまたなんでもどってきたんや。別にいらんのによ」 岩鬼ばかりは嬉しそうな素振りも見せずに相変わらずの罵声を投げかける。殿馬は気にしたふうもなく、「里中がいねーづらぜや。おまえらは優勝できんづらぜよ」とあっさり言い返した。

――なんだと・・・!?

里中がいなければ優勝できない?殿馬は新学期が始まってから一度も練習に出ていなかった。自分の投球を見たこともないくせに、なぜ里中じゃなきゃダメなどと言えるんだ・・・!?渚は叫び出したいような衝動にかられた。

「殿馬、ナイスキャッチ!」 山田の明るいかけ声が虚しく耳朶を叩いていった。

 

日射しも強くなりはじめた頃、夏のシード校を決めるための春季大会が開催された。里中に代わる一年生と前評判の高かった渚はこの大会一番の注目を浴びることになったが、元より目立ってこそ力を発揮する渚は快調なピッチングでライバル校の打線を封じて見事優勝を勝ち取り、評判倒れではないところを見せつけた。

内心渚は大得意だった。いかに多くの強豪校が夏の大会に備えて手の内を隠してきたといっても、自分の右腕が明訓に優勝をもたらしたことは誰も疑い得ないだろう。今の明訓は渚でもっているとはっきり書いた新聞もあるくらいだ。今度こそ山田さんも監督もおれを認めてくれる。

しかし優勝直後に監督に言われたのは思いもかけない言葉だった。直球一本では夏の大会は勝ち目がない。おまえは変化球をマスターしろ。

なぜだ、と胸の底から怒りがせりあがってきた。優勝投手になおこの言い草。

「どうしてですか!?ぼくは直球でちゃんと抑えてきたじゃないですか!」 思わず反論が口をついた。

「生意気言うな!殿馬が止めなかったら何本ヒットを打たれていたと思うんだ!」

確かにセカンド方向にいくつか強烈な当たりが行ったのは事実だ。しかしサインを出したのは山田なのだ。殿馬の守備を信じてセカンドに飛ぶようなコースを指示したんじゃないのか。

――どうせこれが里中なら「打たせて取った」で通るんだろ・・・?

「とにかくあんななまくら球じゃ地区予選は勝ち抜けん。早急に変化球をものにするんだ」

「――お言葉ですが、山田さんが痛くてミットの綿をつめているところを見ました」

ミットに綿をつめる。左手に受ける衝撃を和らげるため綿の量を増やすのは、それだけ球に威力がある証拠だ。

「ミットというのはこれか。よく見てみろ」

監督が山田のミットを投げてよこす。触ってみてその感触に唖然とする。綿が入ってない・・・!

「こういうことだ。これならビシビシといい音がする。さらに屋内投球練習場を使って音響効果を利用した。なまくら球をスピード豊かに見せるための苦肉の策だよ。記者たちに「監督全幅の信頼」とおまえの力を誇大に宣伝したのもな。里中がいない明訓は安パイなどとナメられたんじゃたまらんからな」

土井垣の言葉の一つ一つが胸に突き刺さる。明訓の救世主。彗星のごとく現れた新エース。これまでに築きあげてきたプライドがガラガラと崩れてゆく、その音が耳の奥に鳴り響いた。

「わかったか。おまえの実力など今はその程度のものだ。謙虚に事実を受け止めて練習に励め。それが出来なければさっさと退部届を書くことだ」

――退部届。以前微笑さんに水を掛けられたときも「退部したいのならおれから監督にいってやる」と言われたっけ。所詮自分などいつ辞めてもいい程度の存在ということか。そういや監督は里中が必ず帰ると信じてるんだもんな。

渚は何だか笑い出したい気分になった。自分は直接里中に会ったことは一度もない。自分たちが入部してから里中は一度も部に顔を出していない。なのに存在しない里中の影が今も野球部を覆っている。渚が野球部に溶け込むことを妨げている。里中の存在の――不在の重さが肩にのしかかってくる、その圧迫感がたまらなかった。

「・・・・・・はい。変化球をマスターします――」

もはや今の渚にはそう答えるのが精一杯だった。

 

昼休み、渚はこっそり二年生の階を訪れた。正直上級生のクラスが並ぶ階に立ち入るのは怖い者知らずをもって任じる渚でもいささかの勇気を要した。たしか里中は山田や岩鬼と同じAクラスのはずだ。

別に里中に会って何か話そうというわけじゃない。ただ自分を脅かし続けている男の顔をいまだ見たこともないのが何だか腹立たしかっただけだ。ついでに里中の怪我がどの程度のものなのか――本当に夏の大会までに復帰が可能なのか、あわよくばそれも見定めたかった。

ここからだとAクラスは廊下の反対側の端になる。渚が緊張しながら廊下を歩きだしたとき、ちょうどAクラスの扉が半分ほど開いて隙間をくぐるように小柄な男子生徒が教室から出てきた。両手にプリントらしき紙束を山のように抱えているその顔を渚はよく知っていた。甲子園中継で散々見慣れた甘いマスク。

――里中・・・。

教室を訪ねるより廊下の方がずっと話しかけやすい。・・・話しかける?何を話すつもりだと自問していると半開きのドアが全開になってずんぐりした人影が廊下へ滑り出した。山田だ。ここで彼に見つかりたくはない。渚はとっさに物陰に体を隠した。

「そんな大荷物じゃ足元がよく見えないだろう。半分おれが持つよ」

「これくらい大丈夫だって。日直の仕事なんだから仕方ないさ」

たまたま廊下に誰もいないせいか、距離があるのに二人の声がよく響いてくる。

「いいからほら、遠慮するな」 問答無用で山田は里中の手から上半分強のプリントを取り上げた。里中が山田を見上げて苦笑を浮かべる。

「こんな程度で右腕に響いたりしないよ。まったくおまえは過保護だな。おかげで昨日「どうせならトイレも手伝ってもらえー」とかからかわれたぜ」

「えっ・・・そんな事があったのか?・・・・・・すまん」

「そんなに恐縮するなよ。言った奴は殴、いや小突いといたから」

「・・・右手でやったんじゃないだろうな?」

「だからそれが過保護なんだって」

里中が軽やかな笑い声をあげる。自分に気づかず遠ざかってゆく二人を見送りながら、言いようのない苛立ちが胸の奥から湧き上がってきた。

――なに、笑ってんだよ。なんでそんな余裕なんだよアンタ。自分がいない間に一年生がエースになってマスコミに騒がれて、全然気にならないのかよ。野球部に戻れば即エースの座は自分のものだって、それが当然だって思ってんのか?

そして里中の態度以上に渚を打ちのめしたのは別人のような山田の姿だった。打ちとけた笑顔を見せ、照れて頬を赤らめ心配そうに眉をひそめる。そんな表情も優しい言葉も絶えて自分に向けられたことはない。

――ああ・・・そういう、コトかよ。

今まで考えもしなかったのが不思議なくらいだ。同じ学年、同じクラス、合宿所でも同室。パッテリーである以前にこの二人は無二の親友なのだ。だから山田は自分を認めない。実力の問題じゃない。親友と野球をやり、ともに甲子園に行く、それが山田の望みだ。里中以外のピッチャーは誰だろうと、山田にとっては論外なんだ。

そんなの私情もいいところじゃないか。渚はやり場のない怒りにぎゅっと拳を握りしめた。渚は山田を怖れつつも、チームきっての打撃力を尊敬していた。それだけにこの発見は渚にはショックであり、彼のやる気を削ぐには充分すぎるほどだった。

 

渚のモチベーションに関係なく、山田を相手の特訓は日々続けられた。新しい変化球を身に付けること。それも地区予選が始まるまでに。4月以来の猛練習に体が慣らされたのかさすがに吐き気を覚えることはなくなっていたが、命じられるままに黙々と山田のミットに投げ込みながらも、あの日から気持ちは冷えたままだった。

――どうせなら縦に変化する球がいいだろう。縦のカーブをマスターするんだ。

山田の言葉を皮肉な気分で反芻してみる。「どうせなら」里中が持ってない球を、か。里中里中、全て里中が基準か。たとえどんな凄い変化球を身につけたところで、里中が復帰してくれば嬉々として里中をマウンドに上げるんだろうに。

投げやりな思いで放ったボールは縦にゆるく弧を描いて山田のミットから10cm以上離れた場所に落ちた。

 

いつもより早めに練習終了を言い渡されて、渚は当惑気味に屋内練習場を出た。変化球は一朝一夕に身に付くものじゃない。地道に練習を重ねていくことだ。山田はそんな台詞を口にしたが、その実いっこうにコントロールが付かないのにサジを投げられたんじゃないかという不安がこみあげてくる。

いやそんなはずはないか。里中が大会に間に合うかわからない現状では自分を放り出すわけに行かないのだから。自嘲めいた笑いをこぼしながら渚はグラウンドに目をやった。そこではまだ部員たちが土井垣の猛ノックに四苦八苦している。その中に高代の姿もあった。春季大会が終わった直後に殿馬が今度こそ音楽の道を進むためにアメリカに旅立ってしまったことで高代には再びレギュラー入りのチャンスが巡ってきた。それだけに練習にも熱が入っているようだ。

自分も混ざるべきだろうかとぼんやり考えていると、ふいに後ろからポンと背中を叩かれた。振り向くと眼鏡をかけた小柄な男が立っていた。

「渚、だよな。一年生の」

誰だろう、と渚は頭をめぐらせた。どことなく見覚えがある気がする。相手の全身をさっと眺めて松葉杖を突いているのに気づき、ああと思い当たった。

「三年の・・・北先輩」

「よくわかったな。初対面なのに」

北は丸眼鏡の奥の小さな目をほころばせた。三年の北満男。春の甲子園決勝で里中の代走に出た際の果敢なスライディングが元で足を捻挫し、そのままずっと休部中の右翼手。

「初めまして。北さんの活躍ぶりは先輩たちから聞いています。足の方は、どんな具合ですか?」

松葉杖を突いてるくらいだから具合がいいわけはないが、聞かないのも不自然だろうとあえて質問を投げかけてみる。

「昨日ようやく退院できたところだよ。まだ当分は杖が手放せないみたいだ。夏の大会には・・・間に合わないだろうな」

北の声が少し湿りを帯びる。渚は一応同情したような表情を作りながら、北さんも出られないならレギュラー入りは確実だな、良かったな高代、などと頭の隅で考えていた。

「春季大会ではずいぶん活躍だったみたいだな。スポーツ紙で読んだよ」

その口調に揶揄の響きはなかったが、渚は気分が翳るのを感じた。ここでは誰もそんなことを言ってはくれない。おれの球などなまくらだとしか思ってくれない。

「――大変だよな。やたら優秀でやたらクセの強い先輩を持つっていうのも」

はっと北の顔を見直すと丸っこい童顔が穏やかに微笑んでいた。

「おまえも多分いろいろ鬱屈したものを抱えてるんじゃないか?よかったら話してみろよ」

「でも・・・まだ練習時間が終わってないし、練習後も洗濯とかありますから」

「キャプテンに断っておくから大丈夫。おれは今は・・・半分部外者みたいなものだからかえって話すにも気楽だろ」

ああそうか、と渚は後輩に指示を飛ばしている山岡キャプテンに目をやった。これはおそらくキャプテンの差し金なのだろう。常に里中と比べられる自分が気を腐らしているのを見抜いて「半分部外者」の北をグチの聞き役に引っ張り出した。夏の大会に向けて部員の不満を解消しやる気を引き上げようと言うことか。これまで岩鬼や山田の存在感が大きい分印象の薄かった主将の細やかな気配りに渚は感心した。

ここで言いたいこと言ってしまえば、自分の立場はなお悪くなるのかもしれない。しかし「大変だよな」と言った北の声には満更嘘とは思えない共感の響きがあった。「優秀でクセの強い」後輩に彼もまた悩まされたのかもしれない。渚は二年生に比べると総じて影の薄い三年の先輩たちの立場に思いを馳せた。どのみち今以上に自分の評価が悪くなることもないだろう。何より話してみろと水を向けられてみて、自分がどれだけ胸に渦巻く思いを吐き出したかったかを自覚してしまった。渚は心を決めた。

「ミニ大会が終わった晩、監督から変化球をマスターするよう言われました。おれ・・・ぼくのストレートはそれ一本じゃとても通用しないと」

北に促されてグラウンドの片隅に並んで座り、ぽつぽつと話しはじめる。こんなことはすでに山岡に聞かされているのだろうが、北は相槌を打ちながら耳を傾けてくれる。

「新聞記者はぼくをすごいピッチャーみたいに持ち上げる記事を書いてくれたけど、それは監督と山田さんがそう思わせるように仕向けたんだって――それなら最初からそう言っといてくれればよかったんだ。期待させて・・・里中さんに変わるエースなんて思わせておいて後から落とすような・・・ひどいじゃないですか」

ちがう。監督も山田も自分に対しては一言も、期待させるような言葉はひとかけらも口にはしなかった。土井垣の余裕のなさ、山田の冷淡さこそが自分の実力がどの程度のものかはっきりと物語っていたのに。そうは思っても一度口火を切ったら言葉はとめどなくあふれ出してきた。

「そもそも監督も山田さんも里中さん里中さんって、里中さんは夏に間に合う保証も、そもそも復活できる保証だってないんでしょう?とくに山田さんのは――完全に私情じゃないですか。たしかにおれは大したピッチャーじゃないのかもしれない。でも言われた通りにフォームも変えたし変化球も練習してるし、なのに山田さんの頭にあるのは里中さんばっかりだ。優れたピッチャーだからじゃなくて友達だから――。そんな理由で贔屓するなんて、明訓は実力主義じゃないんですか。だいたい・・・里中さんはそこまでのピッチャーなんですか。特別球も速くないし結構打たれてるし・・・明訓は打が強いから、守備がいいから、もってきただけなんじゃないんですか・・・!」

一気に言葉を吐き出して渚はようやく一息ついた。数秒間があった後、ずっと黙って聞いていた北が小さく笑った。

「おまえも言うなあ・・・。よっぽど溜まってたんだな」

「生意気言ってるのはわかってます。先輩を批判するなんて・・・許されないですよね」

「うちの部は多少の生意気や毒舌じゃ気にもしないよ。岩鬼や殿馬を見てればわかるだろ。土井垣さんは本来先輩後輩のけじめにはうるさい方なんだが、もうすっかり諦めたというか慣れ切っちゃってるな」

言われてみれば確かに、あの二人が先輩に敬語を使っているのを聞いたことがない。岩鬼など監督さえ「どえがき」呼ばわりだが、あの厳しい土井垣が怒りもせず逆に岩鬼を「スーパースター」と呼んで持ち上げたりしている。先輩たちがみなそれで当たり前のような顔をしてるために、こちらも特に気にしていなかったが。

「でも一番凄かったのは入部当初の里中だな。岩鬼たちと違って言葉つきは丁寧なんだが――まさに「慇懃無礼」を絵に描いたようだったよなあ」

思い出し笑いなのか、北はくっくっと喉を鳴らした。

「あいつ入部早々、当時のエースだった三年生にケンカを売ったんだ。『変化球投手のぼくですら先輩ぐらいのスピードはでます。先輩は変化球投手に転向すべきだ』って」

渚は文字どおり開いた口が塞がらなかった。中学時代、自分もさんざん大言壮語だの口の利き方がなってないのと言われたが、さすがにこれほど失礼な台詞を先輩に向かって、いや誰に対しても吐いたことなどない。

「激怒した先輩がどちらの球が速いかで勝負を挑んで、一度目は先輩が勝ったんだがな、里中がキャッチャーを山田に代えるよう要求したうえで再度勝負に臨んで・・・今度は里中の圧勝だった。あとから思えば一回目、あれはわざと負けてみせたんだな。大人しくて争い事を好まない山田を先輩との勝負に引っ張りだすために」

「大人しい?山田さんが!?」

思わず声が高くなった。寡黙な人ではあるが向かい合うだけで冷や汗が流れてくるようなあの迫力――とても「大人しい」なんて形容からは掛け離れている。

「基本的に山田は大らかで気の優しい男だよ。こと試合となると鬼にもなるが。――敵にも容赦ないけど一番キツい思いをしてるのは里中だろうな」

「里中さんが?山田さん、里中さんにはめちゃくちゃ甘いじゃないですか?」

「普段はな。試合の時は捕手として相当厳しい要求も出してくる。春の大会でもツキ指の激痛に耐えながらやっと投げてる里中に、全力の球を投げるよう指示したり・・・でもそれは山田が里中の底力を信じてるからだし、里中も山田を信じてるからこそ無理な要求にも必死に応えようとするんだ」

北は真剣な、けれどどこか暖かい視線を渚に向けた。

「おまえは山田が友達だから里中を贔屓すると言ったけど、あの二人は仲のいい友人である以上にまずバッテリーなんだ。互いの能力と野球に賭ける情熱への信頼が、その結束の根底にあるんだよ」

全幅の信頼か、と渚は心の中で呟いた。

「おまえが山田が自分を認めてくれてないと感じるなら――それはたぶん里中とは関係ない。別のところに理由があるんだ」

「・・・別のところって?」

「それはおれが言っても仕方のないことだ。おまえが山田とのバッテリーを通して自分で気づくべきことなんだと思う」

よいしょ、と北は立ち上がった。渚は北に肩を貸しながら傍らの松葉杖を手渡してやる。

「すまんな。じゃあおれはそろそろ帰るよ。皆も練習上がるみたいだしな。地区予選頑張れよ」

北は自由な方の手を軽く振ると、器用に杖を操りながら監督の方へと歩いていった。別れの挨拶でもするのだろう。

山田が自分を認めないのは里中とは無関係だと北は言った。ならばその理由とはなんだ?やはり自分にそれだけの実力がないと、暗にそう言いたかったのか。

実力。ムラの激しい岩鬼はともかく、殿馬の上を上とも思わぬ態度や気ままな行動が許されているのは、彼が明訓野球部にとって大きな戦力となっているからだ。そして入部早々に先輩にケンカを売り―ケンカを売らせて自分の実力を証明したという里中。

結局はそれなのだ。本当の信頼を、エースの座を勝ち取りたいのなら、実力でそれを認めさせるしかない。中学時代も一年からエースになれたのは父親が理事長だったおかげだとさんざん陰口を叩かれたが、自分は実力を示すことで周囲を黙らせてきたのだ。

おれは決して里中に劣っちゃいない。それを証明してみせる。この夏の大会で。渚は一人密かに胸に誓った。

 


(2010年12月24日up)

 

 

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