ファースト・キス

 

「ねえ、サチ子は?ファーストキスっていつだった?」

「・・・え?」

 

きっかけは昼休み、クラスの友人たちとの他愛もないおしゃべりだった。最近彼氏が出来た明子のデートの報告にみんなで耳を傾けていたはずが、いきなり矛先がこちらに向いた。

虚をつかれながらも何とか平静な態度を繕って、

「まだだよ。だって男の子とつきあったことないし」 なるべく無難に聞こえるように答えを返す。

「えー、ほんとにー?サチ子美人だしすっごいモテるじゃん。普通に中学で彼氏作ってると思ってた」

「あれじゃん?サチ子は理想が高いんだよ。まわりがうんと華やかだからさ」

そう言う和代の口調には幾分トゲがある。休日のたびに兄貴の試合の応援に繰り出していた時代は気にもしてなかったけれど、中学に入った頃から自分の立場が回りの嫉妬や反感を買いやすい事を、私は次第に自覚するようになっていた。有名野球選手を兄に持っているということ。やはり有名選手である兄の友人たちと近しいこと。ついでに言ってしまうなら――人より整った顔をしていること。

だからいつからか友人たちとの付き合いにも自然と言葉を慎重に選ぶくせが付いた。女子の集団の中で総スカンを食ったりしたら、学校生活は真っ暗になってしまうのだから。

「ぜーんぜん。兄貴本人は地味そのものだし、同期の友達も全国に散っちゃってるからそうそう会えないし。・・・でも年上好みってのはあるかなあ。明子の彼氏は大学生なんだよね?」

じゃあクラスの男子に目を向けろと言われる前にそれとなく牽制しながら、話題を明子の方に戻す。思惑通り明子が彼氏がいかに大人で優しいかをのろけ出したのにホッとした時――頭の隅にふとした疑問がよぎった。

――むかし、誰かとキスしたことがあった気がする。中学よりももっと前、小学生のころに。

小学生のころは男の子顔負けのお転婆ぶりで、どちらかといえば女の子より男の子と遊んでいたような気がする。そしてそれ以上に野球部の合宿所で兄のチームメイトと過ごす時間の方が長かったはずだ。

懐かしい合宿所の風景が瞼の裏に甦ってくる。甲子園の連続優勝校とも思えないような古ぼけた建物、何かといえば皆が集まっていた食堂兼ミーティングルーム、青春の泥と垢が染み付いたようなお風呂。

そうだ、あの場所だ。あの頃あそこで、誰かと。

ドクドクと心臓が高鳴った。チームメイトと言っても、とくに親しかったのは兄と同期の4人だ。彼らの誰か、なのだろうか。

「サチ子どうしたの?なんか顔赤いよー」

「あんまし明子がのろけまくるからじゃん。ウブなサチ子はあてられちゃうよねえ」

友人たちのツッコミをとりあえず笑って受け流す。彼女たちの前でこの手の考え事をするのはまずい。私はひとまず物思いを頭から振り払うことにした。

 

学校の帰り道、友人たちと別れ一人になったところで携帯電話を鳴らした。数回コール音が鳴ったあと、「なんやドブスかいな」と聞きなれたバカでかい声が耳元に響く。

「こんな真っ昼間っからなんや。暇なやっちゃのう」

「その電話に出てるハッパだって暇人じゃんかさ」

「暇なもんかい。夜はおんどれの兄貴のチームと試合があるやろが」

ハッパ―岩鬼はあいかわらずずけずけと物を言う。僭越ながら私をブス呼ばわりにするのはハッパくらいのものだ。だからハッパに対してはこちらも自然と喧嘩腰で話してしまう。でもそんな言葉の応酬がちっとも不快じゃない。

兄貴の友人のうちでもハッパとは一番付き合いが長い。兄貴の友達にそうそう会えないと和代たちには言ったけれど、岩鬼だけは在京チームと試合をするとき必ずうちに泊り込む。ハッパとの距離は昔と変わらない。子供の頃と同じように言いたい放題話すことができる。

「――で、なんや。なんか用があったんちゃうんか」

だから、岩鬼にならこんなことだって、聞ける。

「ねえ、私のファーストキスの相手って、ハッパ?」

しばらく沈黙があった。それから、

「な、な、なんちゅうことを口にするんじゃい!嫁入り前の娘が、い、いやらしい。だれがドブスなんぞとキ、キスなんぞするもんかい!」

一気に大声でまくし立てられる。きっと今ごろ耳まで真っ赤になっているのだろう。その顔を想像してつい笑ってしまう。

ブツッと音がして一方的に電話が切れた。これじゃ今夜の試合は動揺のあまりちっとも打てなくなってしまうかもしれない。あるいはかえってど真ん中の球を特大ホームランするだろうか?

想像するとますます笑えてきた。一人路上で笑っていたら怪しい人になってしまう。私は懸命に笑いを噛み殺しながら、小走りに駅へと向かった。

 

人波に押されるように電車を降り、ホームの階段を下って改札をくぐりぬける。地下鉄に乗り換えるために地下通路を歩き出したところへ、後ろから「サッちゃん」と声をかけられた。条件反射で振り向くと見慣れた、けれど意外な人の姿があった。

「里中ちゃ・・・!」 思わず大声を出しそうになってあわてて口を押さえる。ロッテの里中だなんてわかったら、たちまち回りの人間が目の色変えて殺到してくるに決まっている。そんな私のあわてっぷりがおかしかったのか、里中ちゃんはくすくすと笑った。

「久しぶりだね。学校の帰りかい?」

「うん。里中ちゃんは、どうして・・・」

ロッテは日ハムと三連戦の真っ最中だったはずだ。確かにドームからここまではそんなに遠い距離ではないけれども。

「今日はローテーションに入ってないからさ。試合前にさっと買い物しちゃおうかと思って。この地下街の店の和菓子、お袋が好きだから」

親孝行の里中ちゃんらしい台詞になんだか胸がほっこりとする。里中ちゃんのお母さんは貧乏の中女手ひとつで息子を立派に育てあげた女傑のはずなのに、どことなく品があって儚げな雰囲気を持った女性だ。あの人が愛好するのならきっと上品な口当たりの美味しいお菓子なんだろうな。

好奇心が顔に表れてたんだろうか、里中ちゃんが「サッちゃんもお店覗いてみる?ちょっと遠回りになるけど」と声をかけてくれたので、私は素直に頷いた。お菓子も気になるけれどそれ以上に、せっかく久々に会えた里中ちゃんとこのまま別れるのはもったいなかった。

私たちは他愛もない話をしながら地下街を歩いた。通りすがりの人がちらちらとこちらを振り返ってゆくが、女性ばかりだから里中ちゃんの正体≠ノ気づいたわけではないのだろう。

――格好いいもんなあ、里中ちゃん。

一応変装のつもりなのか目深にかぶった野球帽で目はほとんど隠れているが、それでも彼がごく端整な顔立ちをしているのがはっきり見て取れる。

初めて会ったころは、子供心にも小さい人だと感じた。顔だって女の子みたいに可愛らしかった。今はプロ選手の集団に混じっている時こそ小さく見えるけれど、こうして一般人のなかにいると、一見細く見えてもやはり鍛えた体をしてるのがわかる。昔より身長差は縮まっているはずなのに、里中ちゃんがあの頃よりずっと大きく感じられた。

身につけているポロシャツもスラックスも、ある有名なスポーツメーカーのブランドだ。まともに買い揃えたら数万円かかるのだろうが、里中ちゃんはこのメーカーのCMをやっているから(「自分は芸能人じゃないから」とCMに出たがらない里中ちゃんが親会社以外で唯一出演をOKしたのがこれだ)、その関係でプレゼントされたものを無造作に着てるのに違いない。

いまやスタープレーヤーになったというのに、相変わらず里中ちゃんの生活は(兄貴ほどではないものの)慎ましいものだ。お洒落や遊びには一向関心が湧かないらしい。ただ野球さえあればいい人なのだ。あの頃と同じように。

・・・あの頃、私は明訓の応援団長であると同時に里中ちゃんの応援団長でもあった。ある意味おにいちゃん以上に里中ちゃんを真っ先に応援していた。

――だから一番可能性≠ェあるのは里中ちゃんだ。

考えを頭に上せただけで頬が熱くなるのがわかる。よく里中ちゃんに飛びついたり抱きついたりしていたあの頃、冗談でキスくらいしていてもおかしくない。その場合間違いなく私が一方的にしたんだろうけど――そう思うと少しだけ胸がチクンと痛んだ。

ハッパには何だって、余計な事まで話せてしまう。でも里中ちゃんにはとても聞けない。こうして一緒にいてもどこか体がぎくしゃくしてしまう。昔は子供の特権で無邪気に引っ付くこともできたのに。

里中ちゃんの後についてお店に入った。私が商品をあれこれと目で追っているうちに、里中ちゃんは迷いなく奥の棚に詰まれた包装済みの箱を二つ手に取ってカウンターへ持っていく。

「これお願いします。あ、手提げは別々で」

里中ちゃんはカードでさっさと会計を済ませると、手提げの紙袋を一つ私に差し出した。

「これ、お土産に持って帰りなよ。買い物に付き合わせたお礼」

「え?だって、そんな、悪いよ。付き合わせたなんて、私が好きでついてきたんだし」 まさかうちの分まで買ってくれるとは思わなかった。さすがに恐縮して財布を出そうとすると、

「いいって。おれが勝手に買ったんだし、高校生からお金もらうわけにいかないよ」

優しく笑いながら、でもきっぱりと言い切られてしまう。

「・・・じゃあ、ありがたく貰っとくね」 きっとそのへんのお礼は兄貴が代わりにしてくれるだろう。

「山田が遠征から帰ってきたら一緒に食べなよ。結構日持ちするからさ」

里中ちゃんは朗らかに笑った。里中ちゃんにとって私はあくまでも「高校生の子供」で「山田の妹」でしかないのだろう。昔からずっと、この先もきっと。胸の奥がもう一度チクンと痛むのを私は感じた。

 

家に戻るとじっちゃんにお菓子を押し付けるように渡して、まっすぐ自分の部屋に飛び込んだ。通学カバンを投げ出して、ベッドにボスンと体を倒す。なんだか今日は妙に神経が疲れる一日だった。こんな時には――。

私は上半身を起こしてラックの一番上の段に並んでいるCDを取ると、プレーヤーにセットし再生ボタンを押した。穏やかなピアノの音が流れ出す。子供の頃から耳に馴染んだ、殿馬ちゃんのピアノの音。

美しい、叙情的な音色が心に染み渡っていく。落ち込んだときや気が高ぶっているとき、殿馬ちゃんのピアノを聞くと不思議なほど気持ちが落ち着いた。殿馬ちゃんのピアノは殿馬ちゃんそのものだった。いつも冷静だけど優しくて情熱的で、気ままな一匹狼に見えてとても仲間思いで。

岩鬼には何でも話せる。里中ちゃんには肝心なことは何も話せない。殿馬ちゃんは何も言わなくても不思議と気持ちを察してくれた。私が何かを悩んでいるとき、さらっと大事なアドバイスを投げかけてくれた。殿馬ちゃんがいてくれるとそれだけで安心できた。試合の面でもそれ以外でも――。

――秘打!!口づけとでも言っておこう。

ふいに耳元に甦った声があった。とたんにこれまで忘れていた状景がありありと思い出されてきた。

――殿馬ちゃん、だ。

あれは最初の甲子園で優勝した少し後、音楽のために一度は野球部をやめようとした殿馬ちゃんが、ホームランを打つまではと言って戻ってきてくれたときだった。殿馬ちゃんが帰ってきた、それが本当に嬉しくて、すっかり舞い上がって「好き好き」と首にしがみついたら、殿馬ちゃんが急に顔を振り向けて、カムバックの挨拶だと私の唇にキスをしたのだ。なんだって今の今まですっかり忘れていたのだろう。

思えば殿馬ちゃんはいつも私に優しかった。鷹丘中学時代、野球部存続をかけて部員を探し歩いていたとき、真っ先に野球部に入ってくれたのが殿馬ちゃんだった。それまで全然野球をやったことなんてなかったのに―おそらくは背丈ほどもあるプラカードを持って中学校内を回っていた小さな女の子に同情して―入部を決心してくれた。

ときどきハッパにお風呂でセクハラされたときも、いつも助けてくれたのは殿馬ちゃんだった。女のくせに全然胸がないとか女じゃないと言いはるなら胸をさわっても怒らないはずだとか言いながら、まだ真っ平らだった胸をぺたぺた触ってきたハッパを、そのつど殿馬ちゃんが洗面器で殴って撃退してくれた。

――まだ子どもづら。これからづんづらぜ。

――おれが怒るづら。

急にどきどきと胸が騒ぐのを覚えた。殿馬ちゃんは紳士だから、ハッパの暴走を止めてくれたんだとだけ思っていた。でも、もしかしたらあれは。

・・・たとえ私が怒らなくても自分が怒ると言った。殿馬ちゃんは岩鬼が私に触るのが嫌だったんだろうか。妬けたんだろうか。――彼自身が私に、触れたかったんだろうか?

いつのまにか最後までたどりついたCDが止まってしまっても、私はまだ呆然と火照る頬をもてあましていた。

 


殿馬はサチ子が好きだったんじゃないかなーと結構本気で考えたりしてます。実際にはサチ子のファーストキスは兄貴に奪われてそうですが(一年夏の白新戦直後の描写とか見てると)。

(2010年5月29日up)

 

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