ドリーム・マッチ(前編)

 

金曜の午後から降り出した雨は、今日になっても降ったり止んだりを繰り返していた。この雨のせいで先週の日曜に続いて、今日も決勝戦は明日に順延と決まった。

どうせなら明日も雨で中止になればいいのにな。絶え間なく雨水の伝う窓を睨みながら里中は思った。

雨は里中にとって縁起がいい。怪我で本調子じゃない時に雨による試合延期に助けられたことが一度ならずあった。しかし今里中が秋季大会決勝の延期―来週の土曜はもう関東大会の開幕だから実質的には決勝戦なしでの両校不戦勝―を望むのは自分自身のためではなかった。

明訓の主砲山田は先週土曜の対白新戦をきっかけに目下かつてない大スランプに陥っていた。どんな打ちごろの球もまともに前に飛ばせない。かろうじて当てることはできてもファールかキャッチャーゴロになってしまう。ついにキャプテンの岩鬼が打撃練習禁止を言い渡したのが日曜の午後。それから今日まで山田は一切バットに触ってもいない。

――岩鬼のやつ、いくらなんだって無茶苦茶だ。

悪いフォームで打ったらなお悪くなるだけ♀站Sの言うことも一理ある。しかし金曜日になってもまだ山田に打たせないなんて。ぶっつけ本番でいきなり打てというのか。

里中は拳を握りしめた。山田の打撃がなければ明訓にまず勝ち目はない。決勝に残った時点ですでに関東大会の出場は決まっているとはいえ、彼らにとって敗れることはすでにタブーといってよかった。それはたった一回を除きミニ大会に至るまで全ての試合に勝ち続けてきた常勝*セ訓高校のプライドだった。

とくにこの決勝戦は相手が相手だけに絶対に負けたくない。東郷学園――小林には。

 

日曜日、決勝戦開始時刻の15分前になっても、なお雨は降り続いていた。さっきから審判団は試合を行うか否かの協議に入っている。

「今日しかあらへんのや、やろやないけ。雨ン中の決戦もまたドラマやないけ!」

岩鬼だけは元気に吼えていたが、いくらか小止みになってきたとはいってもこの分ではまず中止だと内心その場の誰もが思っていただろう。

『さあ審判団がでてまいりました。どうやら中止と決まったようです』

実況の声をよそに一早く審判団の元に歩いていった岩鬼はその内に一人と何か話していたが、たちまち満面の笑顔になった。

「お〜〜いやるそやで。東郷守らんかい」

まさか、と里中は目を瞬いた。どうせまた岩鬼のホラだ。

その時急に雨足が弱まった。みるみるうちに雨は完全に止み雲の切れ間からは太陽までのぞいている。この急激な天候の変化に中止と決めていたに違いない審判団も顔を見合わせている。

「お〜〜、天は我を見捨てたまわず!これもわいの日頃からの行いのおかげや!」

岩鬼が空を仰いで自画自賛する。

「まったくづらぜ。あいつの行いが悪いおかげでよお、決勝戦やるはめになったづら」

飄々と呟く殿馬を里中は思わず見つめた。やるのか本当に?グラウンドだってずいぶんぬかるんでいるのに。

殿馬の、そして岩鬼の言葉はまもなく現実となった。再び協議の結果、予定に数分遅れて決勝戦の開始が発表されたのである――。

 

『・・・3番ピッチャー里中くん、4番レフト微笑くん、5番キャッチャー山田くん――』

先攻の明訓高校のオーダーが発表された時、球場をどよめきが揺るがした。観客だけではない、東郷ベンチ側も驚きを隠せない様子だ。それ以前に明訓ナイン自身が何より驚いていた。「毎試合ごとにかわるネコの目打線」と言われた太平明訓だが、よもや大事な決勝戦に山田を4番から外してくるとは。

「何を驚くことがあるんじゃい。一週間バットを握ってもいない奴に4番を任せられるかい」

太平監督の横でふんぞり返る岩鬼を里中はきっと睨んだ。

「握らせなかったのはおまえだろ!」

「よせ里中。・・・いいんだ」

「山田・・・」

山田の不調は間違いない。しかし山田を4番から外すことはその不調を相手に知らせるようなものだ。アメリカ仕込みのエース小林と、去年の夏明訓を初の全国大会優勝に導いた名将・徳川監督を擁する東郷学園に対抗するには山田の力が――明訓の誇る4番主砲の山田が不可欠なのに。

歯噛みする里中をさらに驚かせたのが東郷側の先発メンバー表だった。小林はピッチャーではなくセンターと発表されたのだ。

確かに夏にアメリカから帰って以来、小林はずっとセンターを守ってきたし背番号も8番をつけている。しかし誰もが東郷の真のエースは小林と認識していたし、決勝戦は当然彼をピッチャーで先発させると思っていたのだ。この試合の勝敗がどうだろうと関東大会に出場はできる。だからここはエースを温存して手の内を見せまいとしたのかもしれないが――小林にとって山田は中学時代からのライバルではなかったのか。ようやく二年ぶりに山田と戦える、そのチャンスに登板しないつもりなのか。

「お、お、おのれ、控えピーを使ってくるとは、わいらをコケにしよってからに!」

このオーダーにはさすがに岩鬼もショックを受けたらしい。顔を真っ赤にしハッパがぶるぶると震えている。

「そう怒ることねえづらぜ。めった打ちにしてやりゃあよお、自然と小林が出てくるづら」

「それもそやな、よ〜〜しわいが早々にピッチャーをノックアウトしたる。そして小林を引っ張り出してやるで〜〜!」

岩鬼の大声が雨上がりのグラウンドにこだました。

 

ピッチャーの片山が規定通り投球練習を終え、岩鬼はずんずんと打席に入った。

「よっしゃ、来いや山片ーー!」

大きく構えた岩鬼の気合に片山は特にビビる風もなく、悠然と第一球を投げた。

「よーしそれでいい片山、あのハッパはど真ん中さえ投げとけば安パイだぜ」

徳川がベンチにぐいと体をもたせたまま呟いた。その言葉通り岩鬼は大きく空振りした。が、そのはずみにバットがすっぽ抜けて勢いよく前方に飛ぶ。よける間もなかった。バットは投球直後の不安定な体勢のままの片山の左足を直撃した。

『岩鬼くん空振り、しかしバットが飛んで片山くんの左足に当たりました!片山くん足を押さえてうずくまる。岩鬼くんの怪力で飛ばされたバットです。相当痛そうです』

「片山!」

「片山しっかりしろ!」

口々に叫びながら東郷ナインがマウンドに駆け寄る。皆で片山を囲み傷の様子を確かめていたが、やがて小林がバッターボックスでぽかんと立ったままの岩鬼をきっと振り返った。

「岩鬼、おまえさっき言っていたな。片山を早々にノックアウトしてやると。それはこういうことか。これがおまえのやり方なのか!?」

抑えた口調の中に隠しきれない激しい怒りが滲み出している。

「そうだ岩鬼、汚ねえぞ!」

「バットを投げつけてピッチャーを潰そうなんて、常勝明訓もやることがえげつないぜ!」

「なんやと!わいはそんな小細工はせえへんで!単なる不可抗力や、この程度よけられんヤツが鈍いんやないか!」

「そうだ!岩鬼さんがそんなセコい真似をするもんか!片山ごときいつでも実力でノックアウトできるぜ!」

東郷ナインの怒声に対し岩鬼が、明訓の後輩たちが反論する。両者の罵り合いはそのままつかみ合いに発展しそうな勢いだったが、

「おっよぉてめえら考えてもみるづらぜ。岩鬼に狙ってバットを飛ばせるようなコントロールがあったら苦労しねえづら」

ネクストバッターズサークルの殿馬の飄々とした声が場の雰囲気に冷水を浴びせた。何となく白けた空気が漂ったところへ、

「残念ながら殿馬の言うとおりだぜ。ハッパの野郎にそんな芸当はできやしねえよ」

徳川監督も口を合わせたため、東郷ナインはしぶしぶといった様子で矛を収めたのだった。

 

『開始早々あやうく一触即発のところでしたが、どうにか収拾がついたようです。しかし両脇を抱えられるようにしてベンチに下がった片山くんの足はどうでしょうか。果たして続投なのか、あっ、徳川監督がベンチから立ち上がりました。やはり選手交代のようです』

実況中継がいったん途切れ代わってアナウンスが響きわたる。

『東郷学園高校、選手の交代をお知らせします。ピッチャー片山くんに代わり小林くん、センターには小林くんに代わって小早川くんが入ります』

ベンチから走り出てきた小林の姿にわーっと歓声があがる。準決勝の横学戦でわずか一打席登板しただけの小林。片山には気の毒だが、おかげで東郷真のエース小林の実力を初回からじっくり見ることができる。

小林、と里中は口の中で呟いた。ついに小林と勝負できる。中学時代小林とエースを競うために東郷中学に入った。しかし入学当時、小林とは体格から球の威力から差がありすぎて・・・勝負にさえならなかった。その差を縮めようと、小林を追い越そうと、必死の努力を積み重ねたことが今の里中の基盤になっている。今なら。今なら対等の立場であいつと投げ合うことができる。

「よっしゃーー!こっからがほんまの試合開始やで!」

岩鬼が元気に声を張り上げる。そうだ。ここからが本当の戦いの始まりだ。

 

軽く投球練習を終えた小林がバッターボックスの岩鬼を見据えた。さっきのいきさつがあるだけにその眼には怒りの色がなお燃えているように見える。

小林はもともと精神的動揺が球に出やすいところがあった。これでコントロールが狂って悪球を投げてくれればしめたものだ。そんな山田の期待はあっさり裏切られた。岩鬼の豪快なスイングはボールをかすりもしなかった。

「あ〜、岩鬼以外ならホームランボールなんだけどなあ」

微笑が無念そうな声をあげる。もっとも地顔が笑ってるためにいっこう緊迫感を感じさせないが。

ホームランボール。確かにそうだ。ど真ん中というだけじゃない、思ったよりスピードが乗っていない。しかしこれが小林の実力と甘く見る気持ちは毛頭なかった。横学との試合で谷津に投げた一球目はもっと早かったはずだ。そして二球目は――。

――あの時。小林は吾朗に何の球を投げたのか。一見したところは普通のチェンジアップ。しかしあの吾朗の呆然たる顔色はただ打ちそこなった不甲斐なさばかりとは思えなかった。何かあのチェンジアップに劇的な変化を見たのではないか。

小林はまだまだ力を伏せている。岩鬼はど真ん中でさえあればスピードはどうでも打ち取れる。そう思ったからスピードを抜いてきたのだろう――。山田の推測を裏付けるように、緩めのど真ん中三球で岩鬼を三振させた小林は一転してキレのいい速球で続く殿馬と里中を難なく討ち取ったのだった。

 

『1回は明訓東郷ともに三者凡退に終わりました。2回表は4番微笑くんからです』

微笑が数度バットを素振りしてからバッターボックスへと入る。

――三太郎のやつ大分気負ってるな。三回戦の桐竜学院戦でも4番を打っちゃいたが、山田不調の今は同じ4番でもまったく重みが違ってるはずだぜ。

徳川がマウンドの小林に目くばせするのに、小林も心得てると頷いた。山田の打棒が当てにならない以上、微笑は自分が打たねばの気合たっぷりで大振りしてくるだろう。まずはスローボールでタイミングを外してやる。小林はことさら大きなモーションから緩やかなストレートを投げた。

瞬間、微笑がバントの構えに切り替わった。バント?まさか?徳川と小林の驚きをよそに微笑は球を1、2塁方向へ軽く転がした。

『微笑くんセーフティバント!これは小林くん意表をつかれたか。ファースト川中くんセカンド市川くん急いでボールを追う、川中くん追いついた、しかし微笑くんの足の方が早い、一塁セーフです』

一塁カバーに入っていた小林はほっと一息つく微笑を見つめた。今一番長打を期待されているはずの微笑がバントとは。まるでこの後の山田の一発を期待しているかのように。さては山田はスランプを脱したのだろうか?それを隠してこちらを油断させるためにあえて山田を4番から外したのか?小林は明訓ベンチに視線をやったが、微笑のにっこり顔からもグリグリメガネに隠れた太平監督の顔からも、その内心はさっぱり読み取れなかった。

『明訓高校、無死一塁でバッターに山田を迎えます。先週の白新戦以来目下大スランプ中と噂される山田くんですが・・・ここで一発が出るでしょうか』

――あわてるなよ泉。山田がスランプなのかそうでないのか、まずは様子を見るんだ。

徳川の意を受けたキャッチャー泉はアウトコース・カーブのサインを出した。小林の球威ならファールになるだろう。小林は緊張した顔で頷き、セットポジションから第一球を投げた。しかし動揺があったのか、ボールはホームベースから3センチほど外へずれる。

――いかん、外へ行き過ぎた。

これでは振ってくるはずがない、そんな泉の予想に反して山田はボールを打ちに向かってきた。体を横に泳がせるように、くずれたフォームから懸命に振ったバットが空を切る。

『ストライク!山田くん明らかなボール球をわざわざ振って無駄にストライクを取られました。やはり調子は戻っていないようです』

小林は安堵と失望の入り混じったため息をついた。ひどいスイングだ。あれが安定したフォームからホームランを量産してきたあの山田だろうか。山田がこんな状態なら、もはや東郷の勝利は決定的といっていい。

――どうせなら本調子のおまえとやりたかったが・・・それは関東大会に譲るとしよう。ここはおれたちが勝たせてもらうぞ。

すっかり余裕の出来た小林は、山田をピッチャーゴロであっさりとアウトにした。

 

『山田くんをうち取った小林くん、油断したのか次の上下くんをフォアボールで出してしまいましたが、蛸田、高代と凡退に押さえました。2回裏、こちらも4番からの攻撃です。打撃は不振でも山田くんのリードは狂っていません。小林打つか里中抑えるか?』

バッターボックスに入った小林は正面の里中に目を向けた。白新戦のときにスタンドから里中の投球を観察したが、実際に打者として里中と向き合うのは初めてだ。

中学の頃より背は大分伸びたのだろうが、マウンドに立つ里中はそれでも小さく見えた。相変わらず幼さの抜けない顔の中で、大きな目が熱い闘志をたたえてこちらを見据えている。昔部内のライバルだった頃に向けてきたのと同じ、負けん気いっぱいのまっすぐな瞳。

――来い、「小さな巨人」。

華麗なアンダースローから放たれたボールは一直線に山田のミットへと吸い込まれた。

 

『里中くん、初球は何とど真ん中のストレートです。失投でしょうか?小林くんもかえって意表をつかれたのか見送ってしまいました』

小林がまさかという顔でこちらを振り返る。失投ではない。もし小林がミートしたとしてもわずかにスピードを抜いてあるから外野フライで捕れたはずだ。しかし我ながら大胆なサインにはちがいない。里中もさすがに驚いたようだがよくサインどおりの球を投げてくれた。

絶好球ともいえるボールを初手に投げさせたのには一つ確認したいことがあったからだ。アンダースローのピッチャーは日本でも決して多くないが、アメリカにはほとんどアンダースローがいないのだ。おそらく小林は中学時代から現在までアンダースローのピッチャーと対した経験はないだろう。アンダースロー独特の浮き上がるような球の軌道、オーバースローと異なるリリースのタイミングに小林は馴染みがない。打ち頃の球を見送ってきたのはその戸惑いの証拠だ。

里中はかつてピッチャー小林に対抗するためにフォームをアンダースローに変えたのだと言う。苦汁の末の変身が、今バッター小林と対するうえで里中の武器となっている。

アンダーに小林の目が慣れる前に決着をつけることだ。山田はサインを送った。ど真ん中からアウトコースへ逃げるカーブ。力強く頷いた里中が放った球を小林は大きくかっ飛ばした。

『小林くん打ったー!!これは大きい。そのままレフトスタンドへ入るか、フェンスぎりぎりまで下がった微笑くん、ジャーーンプ、捕ったか?捕りました!微笑くんのファインプレーです!』

山田は里中と顔を見合わせた。アンダースローにはタイミングが合わないと、そう思っていたのに。ああもあっさりスタンドまでボールを運ぶとは。三太郎のファインプレーがなければ一点入ってたところだ。

山田は軽く首を振った。ともかくここは後に引きずっちゃいけない。まず後続を断つことが肝心だ。山田は立ち上がると小走りにマウンドへと向かった。

 

山田のリードに支えられて里中は危なげなく5、6番と凡退させた。対する小林も香車と岩鬼を三振に取る。続いて殿馬が打席に入った。

『おっと殿馬くん、バットを地面に水平にして前方へ突き出した。このポーズは・・・!』

――「秘打 白鳥の湖」か!

小林はこの打法には苦い思い出があった。中学時代、このふざけた構えから自分はホームランを打たれたのだ。

二度は打たせてたまるか。打たれた経験があるだけに自分はこの秘打の攻略法も知っている。小林は大きく振りかぶって第一球を投げた。殿馬が爪先立って回転を始める。小林は口元に笑いを刻んだ。かかった。白球は殿馬のバットの届く距離を越えてアウトコースへ大きく曲がった。当然ボールになる球だがそれを見定めて回転を止めることはできない。回転を始めてしまったらもう球のコースを視認することはできなくなるのだ。

『ストライク!殿馬くん大ボールを振らされた。小林くんが一枚上手でした。』

――「白鳥の湖」破れたり。

しかもこの秘打を一度使うと目が回るのは避けられない。すでに殿馬の足元はおぼつかず目の焦点も合っていない。よしもう一球、殿馬のリーチでは届きにくいアウトコースだ。

小林はアウトコースへストレートの速球を投げた。その時ふらふらだったはずの殿馬が軽やかに横へ飛んで三塁方向へとバントを決めた。

『殿馬くん打った!目を回したと見せかけて甘い球を誘いました。ボールは三塁方向へ転がる、殿馬くん速い、一塁セーフ、セーフです!明訓ツーアウトからようやくランナーが出ました。迎えるバッターはこれもピッチャーながら好打者の3番里中くんです』

――確かに里中の打率は打撃のチームと言われる明訓でも3本の指に入る。伊達に明訓の3番を打ってるわけじゃない。それでも非力な里中では小林の速球をそうそう飛ばせるものじゃない。しかしツーアウトでは送りバントもできない。里中はダメモトでヒッティングに行くしかないはずだ。

速球で里中を打ち取れ。徳川からのサインにキャッチャーの泉は頷いた。ここは小林の一番威力のあるストレートを三球続けさせる。ただしコースは上、下、真ん中と投げ分けながら。泉がサインを送ると小林は頷き、セットポジションから高めのストレートを放った。里中は初球から果敢にバットを振り、狙いすましたようにミートした。

『里中くん打ったー!小林くんの右を抜けるヒット、セカンド市川くん飛び出してワンバウンドで取った。サード原くん二塁カバーに走るが市川くんの戻るほうが早い。しかし殿馬くんの足はもっと速い、セーフ!ぎりぎり二塁セーフです。その間に里中くんも一塁に到達しています』

小林は憮然と額の汗をぬぐった。セットから投げたためわずかに球威が落ちていた。そうでなければそうそう里中になど打たせはしなかった。しかしここまでだ。先の打席で山田の不調は明らかだった。微笑は今度こそ長打を狙ってくるだろう。タイミングを狂わせて打ち取るんだ。

小林は4番の微笑に第一球を投げた。わざと力を抜いたチェンジアップ。勢い込んで打ちにきた微笑はバットを早く振り切りすぎて空振りする――はずだったが、案に相違して微笑はスピードを抑えた振りで当ててきた。小林の目論見を読みきっていたかのような完璧なタイミング。ボールは一、二塁間を抜けてライトへと転がる。ライトの津末が拾いに行く間にランナーは全員余裕で進塁した。

「三太郎、ナイスバッティング!」 二塁の里中が明るく声をかける。

「なぁに、何かピンときたんだよな。ここはスローボールだって」

――やはり読まれたのか。しかし自分のフォームに目立った癖などないはずなのに。油断ならない男だ。

小林は奥歯を噛みしめた。まんまと二死満塁に追い込まれた。次のバッターは、山田。

『明訓、二死満塁のチャンスで山田くんを迎えます。しかし相変わらず不調らしい山田くん、このチャンスを無事活かせるでしょうか?』

「とんま〜走れ〜!どうせ山田のやつは打てんわい!」

岩鬼がベンチから怒鳴っている。仮にも山田が打者だというのにホームスチールなどやってくるか?しかし相手は殿馬だ。どんな意表をつくプレーもあの男ならやりかねない。

一応三塁を警戒しながらも小林はワインドアップからボールを投じた。山田は初球から打ちにきた。しかしやはりタイミングがあわずにファールになる。二球目もファール。そしてその次も。

『山田くんねばります!すでに7球連続でファールにしています!』

――山田のやろう、小林を相手に打撃練習をやってやがる・・・。

徳川は戦慄を感じた。とにかくファールでねばって球数を打つことで調子を取り戻そうと目論んでいるのか。その調子にファールがだんだん真後ろに飛ぶようになってきている。ボールが真後ろに行くのはタイミングが合ってきている証拠だ。

マウンドの小林もまた焦燥感をおぼえていた。ファールでねばられるのは投げているこちらの方が辛い。さらにランナー三人を背負っていることのプレッシャー。このままでは失投を持っていかれかねない。それならば。

小林は軽く振りかぶった。そしていつものオーバーハンドの代わりに――横手からボールを投げた。

『小林くんなんとサイドスローだ!しかもオーバーよりスピードが乗っています。山田くんタイミングが合わない、空振りだ、山田くん10球ファールでねばりましたがついに三振です!』

まだ呆然とバッターボックスに立ち尽くしている山田を見て小林は大きく息を吐き出した。本当はここで使うつもりはなかった。この試合に勝っても負けても関東大会への出場は決まっているのだし・・・今日の山田は真の力を見せずとも十分打ち取れそうに思っていたからだ。

真の力――中学最後の試合で当時川越中学のエースだった不知火守に惨敗を喫した小林は、それまでの自分の投法に限界を感じていた。だからアメリカに渡ってからさまざまな投げ方に挑戦した。変化球主体のピッチングをしてみたり、投球フォームも腕の角度足の上げ方、いろいろと研究を重ねた。

実はアンダースローも試してみたのだが、これは早々に放棄した。アメリカではアンダーで投げる人間はほぼ皆無だから練習試合でも有利だったが、身長のある自分には向かないと感じたのと――何だか里中の真似をしているような気分になったからだ。アンダーをかじったおかげで里中の投球のタイミングは測りやすいからまんざら無駄にはならなかったが。

そんな試行錯誤の末に小林が行き着いたのがサイドスローだった。この投げ方にしてオーバーよりもスピードが上がったし、よりコントロールもつくようになった。これなら絶好調時の山田でもきっと抑えられる。だから不調のはずの山田をサイドスローで打ち取ったというのは、小林にとっては内心忸怩たるものがあった。

 

『両校とも無得点のまま迎えた3回裏、里中くん、先頭打者の川中くんを死球で歩かせ、1番市川くんにセーフティバントを打たれたものの力のこもったピッチングで8番泉、9番花丸、2番森と三振に打ち取りました』

たいした奴だ、と山田は苦笑した。予想外の小林のサイドスローに動揺するどころかかえって奮起したらしい。力あまってデッドボールも出してしまったが。あの負けん気があればこそ、不知火や土門のような超高校級のピッチャーに一歩も遅れをとることなくマウンドを守り抜いてこられたのだ。

「ナイスピッチ、里中」

ベンチへ向かいながら里中に声をかけると、里中がいつもの勝気な笑顔を返してきた。

 

4回表は高代が何とか当てて塁に出たものの打者四人で終わり、迎えた4回裏、3番の小早川がバッターボックスに入るのを見て、里中は目を見張った。

――左打席だって?

『あっと小早川くん、左打席に入りました。第一打席は右で打っていたはずですが、スイッチヒッターなんでしょうか』

山田と顔を見合わせる。おそらく山田も同じことを考えているのだろう。春の準決勝で信濃川高校が取ってきたオール左作戦。右のアンダースローは左打者に弱い。その特性を利用した作戦だった。もちろん普段は右を打っている選手が左打席に入るのだから長打は望めないが、逆にとにかく当ててはくる。同じ徳川監督だ、左打者を並べることで自分に心理的圧迫感をあたえ、さらにバントの連続で疲れさせるつもりだろう。

山田のサインに頷いた里中は第一球を放った。ストレートと見せたシュート。バントしようとすれば打ち上げて小フライになるはずだ。小早川がバントの構えになる。かかった、と思ったとき小早川が体をぐっと乗り出して当ててきた。プッシュバント。打球は小フライのつもりで前進していた里中の頭を越えてフラフラと落ちた。地面に転がった球をすばやく走ってきた殿馬がキャッチして一塁へ送球する。

『セーフ!わずかに小早川くんの足が早かった。里中くん裏をかかれました』

里中は額の汗をぬぐった。次は小林だ。長打が出れば一点入るかもしれない。打たせるわけにはいかない。

里中の意気込みなど知らぬ気に小林は悠々とネクストサークルから立ち上がり、左打席に立った。

――左だと!?小林まで!?

他の打者はともかく4番の小林にまでバント戦法をさせるつもりか?徳川監督は何を考えている?

山田からサインが出る。低めのストレートを全力投球で。バットを本来と逆に持っているのだからバントにせよ普段のようにはできないはずだ。里中は頷いて第一球を投げた。サイン通りのコースにぴたりと入った絶妙のボールを小林のバットが叩いた。打球は一直線に遠くライトスタンドへ吸い込まれていった。

 

『ホームラン!小林くんのツーランが出ました。東郷学園一気に二点を先取です!』

ゆっくりと塁を回る小林を山田は驚愕とともに見つめていた。こけおどしの左打席じゃなかった。あれは狙い済ました当たりだ。小林はスイッチ打法も身につけていたのか。それを隠すために徳川さんはあえて小早川にも左打席で打たせ、信濃川戦同様アンダースロー対策とだけ思いこませた――。

そして、これで全部だろうか?サイドスローにスイッチ打法。小林のあのバネ仕掛けのような体にはまだ何か秘密兵器が隠されてるんじゃないだろうか。小林という男の底の深さに山田は戦慄を覚えていた。

 

『4回裏、小林くんのツーランで2点を取られたものの、里中くんよく踏ん張って後続を断ちました。5回表、打席は1番の岩鬼くんからです、ああっと、なんと岩鬼くんも左打席に入ります!』

客席がどよめきに満ちた。小林は明訓ベンチに目をやったが、山田以下チームメイトも驚いた顔をしている。太平監督の感情はあいかわらずグリグリ眼鏡に隠れてさっぱり読み取れない。小林はベンチの徳川に目で問い掛けた。

――太平監督の作戦でしょうか。岩鬼に悪球を打たせるための?

視線の意味が通じたのか徳川はにしゃにしゃ笑いながら顔の前で手を横に振った。そんなことで打てやしない、あいつの選球眼は左に入ったくらいじゃあ治らない、と言うように。

小林はベンチに向かって頷いた。ならば迷うことはない。小林がオーバースローから投じた球を、ごうっと音が聞こえてきそうな猛スイングで岩鬼が振った。空振り。二球目も同じく空振り。

「よっしゃ、タイムや!」

岩鬼が審判に声をかけると右打席に移動する。

「待ちたまえきみ、ツーストライクを取られたらもう打席の移動はできんぞ。それくらい知らんのかね?」

「な、なんやて!?そ・・・そーやったかいな。まったくけったいなルール作りよるで」

岩鬼はぶつぶつ言いながら左打席に戻った。

――あれが狙いか。左に入ったくらいじゃ選球眼は治らない。しかし左の視界に慣れたところで右に移動すれば、あるいは。そう考えたんだろうが。

そんなことでたやすく打たれてたまるものか。渾身のストレートで打ち取ってやる。小林はワインドアップから三球目を投じた。と同時に左打席の中で岩鬼がもぞもぞと体を後退させはじめた。何をやってるんだ?小林の疑惑をよそに打席ぎりぎりまで下がった岩鬼は後ろにいったん体をのけぞらせてから、

「よっしゃー!絶好球じゃい!!」 

いきなり体を前に乗り出しながらバットを一閃した。グワラゴワガキーンと馴染みの怪音を立てて、白球はレフトスタンドへ飛び込んだ。

『岩鬼くんホームラン!体を可能なかぎり後ろに引いて、自ら悪球を作り出してのホームランです!』

岩鬼のやつ。あんな器用なこともできるようになったのか。小林は歯噛みした。これで1点差。次のバッターは癖者の殿馬。こいつも油断ならない。

ベンチに顔を振り向け徳川のサインを見た小林は愕然とした。敬遠!?殿馬を敬遠しろというのか?

小林の顔が引きつったのを察したのだろう、補欠選手が伝令で走ってくると素早く小林に耳打ちする。これは殿馬のリズムを狂わす戦略だ。4球目からは勝負でいけ。なるほど、と小林も頷いた。ピアニストでもある殿馬の打法は独特のリズム感に支えられている。その調子を崩せということか。

『あっと、キャッチャー泉くん立ち上がりました。敬遠です。小林くん、殿馬くんを歩かせて里中くんと勝負するようです』

ネクストサークルの里中が顔を強張らせる。殿馬は山田と並んで明訓で最も恐ろしい打者だ。殿馬敬遠は当然の戦術といえる。それでも自分が舐められてるように感じて面白くないのだろう、強気な里中らしい、と小林は思った。

里中と対照的に当の殿馬は悠然としている。そののほほんとした佇まいからはまるで感情が読み取れない。さっきの打席の“目を回したふり”といい一筋縄ではゆかぬ奴だ。敬遠球といっても油断はならない。小林は気を引き締め第一球を投じた。

瞬間、殿馬の体が大きく跳ね上がった。思い切り上方に伸ばしたバットの先端がボールに触れる。わずかに突き上げられた球はしばらく滞空してからバッターボックスのすぐ外にぽとりと落ちた。

『殿馬くん敬遠球を打った!泉くん取って一塁へ、しかし殿馬くんの方が早い、セーフ、セーフです』

「名づけて“秘打・悪球打ち”!」

一塁ベースを踏まえ飄々と宣言する殿馬に、ベンチの岩鬼がカクンとこけた。

――信じられん。あの短いリーチで・・・!

念には念を入れ、ことさら高めの位置にボールを放ったにもかかわらず、殿馬はそれを当ててきた。自分の身長ほどもジャンプしたのではないか。おそらくはこちらの作戦も見越したうえで、一球目から、わざわざ敬遠球を打つはずがないというこちらの心理の裏をかいてきた。

続く里中がバッターボックスに入る。無死一塁で一点差、後に微笑と山田も控えている。こうした場合、3番とはいっても手堅くバントで走者を送りに出るだろう。里中はバントも上手い。要注意だ。

大きくリードを取る殿馬の姿が視界の端にちらつく。一塁になかば気を取られながら放ったボールを、予想にたがわず里中はバントしてきた。巧みに三塁方向へ打球を転がし素早く一塁へ走りこむ。

『里中くんセーフティバント成功です!小林くん、敬遠球を打たれたショックかややコースが甘かった。明訓無死一、二塁で四番の微笑くんの打席を迎えます』

いつものニコニコ顔で微笑が打席に入る。笑顔が地顔なのだとわかってはいても、ナメられているように思えて小林は奥歯を噛みしめた。前の打席ではチェンジアップを狙い打たれた。なら今度は自分の一番速い球で勝負してやる。

小林はクイックモーションから第一球を投じた。サイドスローから渾身のストレート。150キロ近い速球を、しかし微笑のバットが正面から叩いた。キーンと小気味良い音とともに鋭い打球がセンター方向へ飛ぶ。

『微笑くんのセンターライナー!ランナーいっせいにスタートを切った。小早川くん、ボールに追いついて・・・二塁へ投げた。しかし微笑くんの足が速い、セーフです。殿馬くんは一足先にホームイン、里中くんも三塁へ、明訓同点に追いつきました』

小林は拳を握りしめた。小早川の判断にミスはなかった。小早川の肩では直接のバックホームは無理だ。中継のためまずセカンドに送球した。ホームが間に合わなかったとしてもせめて微笑は刺せるように。微笑の足が予想以上に早かったためにそれも成らなかったが。

問題は自分にある。あれは完全な狙いうちだ。またも微笑に読み切られた。せっかくの二点差をこの回で一気に逆転されてしまった。しかもまだノーアウトでランナー2、3塁。そして次の打者は、山田だ。

ゆっくりした動作で山田がバッターボックスに入る。1回表はあっさりピッチャーゴロに倒れた山田は、3回表にはファールでねばってきた。明らかに山田は調子を取り戻しつつある。そして自分はすでに切り札の一つを――サイドスローを見せてしまった。焦りを覚えつつ小林は山田を見据えた。その堂々たる構えにも表情の窺えない細い目にも、スランプを感じさせるものは何一つない。

何を恐れている、もともと自分は山田と戦うために帰国したようなものなのだ。小林はためらいを振り切って第一球をオーバースローで投じた。スピードの乗った渾身のストレートがミットに突き刺さる・・・はずが山田のバットがボールをかすめた。打球がバックフェンスに撥ねる。それならばと今度はサイドスローで投げた球もファールにされる。

やはり山田は調子を取り戻しつつある。ファールとはいえ一球ごとに飛距離が出ている。もはや投球フォームを変えたくらいでは通用しない。

“あれ”を出すべきだろうか。しかしまだ5回の表だ、早すぎるだろうか?小林が迷いつつベンチに目をやると、徳川監督もまた難しい顔をしている。おそらく小林同様、“あれ”を使うタイミングを考えているのだろう。珍しく大真面目に顔をしかめていたが、小林の視線に気付くと一瞬の間のあと小さく頷いた。「やれ」という徳川の声を小林は聞いた気がした。

迷いを振り払った小林は大きく振りかぶり、運命の一球を投じた。一見ただのストレートと見える球に山田は戸惑ったようだったが、力強くバットをスイングしてきた。そのバットが――空を切った。

『空振りだ!ファールでねばってきた山田、根尽きたかついに三振です!』

やった、と小林は大きく息を吐き出した。山田はまだ呆然たる面持ちでバッターボックスに立ちつくしている。これでまた調子を崩してくれればよいのだが。それとも一球だけで球の性質を見切ったのだろうか・・・?

それは山田の次の打席でわかることだ。小林は続く上下と蛸田を危なげなくピッチャーゴロとショートフライに打ち取り、この回を締めくくった。

 


5回表で出てくる「2ストライクの後は打席を変更できない」ルールについて補足。私は無印『ドカベン』のどこかでこのルールを見た記憶があって小説の中でも使ったのですが、最近『ダントツ』を読み返していたら、ダントツが相手校の打者が2ストライク後に打席を変更したのを指摘して逆に「いつのルールを言ってるのかね」と返されるシーンが出てきて、あわててネットで調べたらやはり現行の野球規則にはこのルールはない(ピッチャーがモーションに入る前なら打席の変更は自由)らしい。じゃあ2ストライク以降打席が変更できなかったのはいつまでなのか、無印でこのルールが出てきたのはどこだったろうかと読み返してみたら、高一夏の通天閣戦、7回表の殿馬の打席で里中が岩鬼に“2ストライクまでなら変更は自由”なむね説明するシーンがありました(文庫版では“2ストライクまでなら”の部分が削ってある。その後のルール変更に配慮したものでしょう)。通天閣戦の連載は74年8月、『ダントツ』の問題のシーンは82年10月なので、この間にルールが改訂されたもののようです。『ドリーム・マッチ』の舞台となる75年秋の時点でどうだったかはちょっとわからなかったのですが、あえて書き直しはせずそのままいっちゃいました。しかしルール改訂から30年前後経つのに今も「2ストライク後は打席を変更できない」と思っている人がずいぶんいるようで、どうやらその理由は私と同じく『ドカベン』にあるらしい。無印『ドカベン』の影響力恐るべし。

(2012年5月13日up)

 

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