土門 剛介

 

神奈川県下のライバルたちの中でも不知火・雲竜に数歩遅れて山田高一の秋から登場したのがこの人。「微笑三太郎」の項でも書きましたが、白熱の甲子園大会が終わってストーリーに一段落がつき、三年の土井垣が引退して明訓野球部も新規巻き直し、というところで、新たに読者の興味を引っ張るべく登場した新キャラが三太郎と土門だったのだと思います。

一年生のくせに傲岸不遜な態度で早くもチームの実質的トップに立っている不知火・雲竜(不知火など秋にはもう選手兼任監督になっている)と違って、土門さんは顔こそ怖い&フケているものの基本は穏やかな紳士、しかし内には情熱を秘めているタイプ。しかし不知火たちほどあからさまではなかったものの、県下のライバルの例に洩れずこの人もやはり山田ストーカーの気味があった。なにせ初登場からいきなり意味深な態度で、初対面しかも優勝パレード中の山田にゴムマリを放ってよこすわけですから。まあ土門さんにしてみれば、自分がケガで夏の大会に出られずにいるうちに同じ神奈川の、それも強豪とは言い難かった学校が全国制覇してしまったわけで、その躍進の原動力となった強打者の存在が気になってしょうがないのは無理からぬところです。

土門がダンプカーに撥ねられたのがいつだったのかはっきり書かれてはいませんが(後に谷津吾朗が「ぼくが入部した時土門さんは大ケガをして入院していましたから」と語っているので4月以前の可能性が高い)、夏の大会が始まるまでは山田はそんな有名ではなかっただろうから(中三の頃高校生や埼玉の不知火まで山田の練習を見に押し寄せてましたが、土井垣ほか明訓の野球部員は誰も山田を知らなかった。局地的な有名人だったのか)おそらく土門としても夏まではノーマーク、やはりまだ一年の不知火・雲竜も中学時代の戦績は華やかながら高校球児としては未知数であり、当時彼が強打者・ライバルとして認識してたのは第一に土井垣だった可能性が高いと思います。
しかし土門は事故のために大ケガを負い、医者に見放されてもなお諦めず懸命のリハビリで奇跡の復活を遂げたものの夏の大会には間に合わず、ついに三年の土井垣と対決する機会を逸してしまった。のみならず高校球児誰もにとって目標であるはずの夏の甲子園大会、その出場資格を競い合う場に立つことさえ叶わなかった。ピアノコンクールのために手指の股の切開手術まで受けながら結局コンクールまでに傷がふさがらず出場ならなかった殿馬に劣らず無念だったことと思います。そんな無念を抱えた土門が見出した新たなライバル、それが甲子園大会で土井垣をもしのぐ活躍を見せた大スラッガー・山田太郎だったんじゃないでしょうか。

しかしなまじ完全復活したために今度はそのあまりの剛球ゆえの捕手難に悩まされることになった。彼がどんな経緯で微笑三太郎の存在を知りどうやって横浜学院に転校させる手筈を整えたのかは明らかではないですが(三太郎は土門本人とは面識がなかったようなので三太郎転校に関する交渉は他の人間―おそらく横学野球部部長―が行っていたようですが、三太郎は「ドカベン」という仇名以外は土門の名前も自分が行くべき学校の名前も所在地もわかってはいなかった。これは部長の不手際というより三太郎がボケてたんでしょうねえ)、その三太郎はなんと山田のいる明訓に編入してしまい、彼らが優れた捕手を調達しようとしたことがかえって県内のライバル校を強化する結果になってしまった。しかも明訓には名捕手山田がいるために三太郎のポジションはレフトという・・・捕手三太郎を切望した土門にしてみれば二重に納得行かない展開だったことと思います。

そしてそれ以上に捕手がいないために本気の球を投げるに投げられないという問題が立ちはだかってくる。準決勝で捕手山口にハッパかけられ、あえて本気の球を投げたおかげで勝てたものの山口は負傷してしまった。決勝戦を本気で投げずして山田に勝てるものか―決勝戦前日に雨の中捕手を探し歩いている土門が何とも憐れです。草野球じゃないんだからどんな名捕手を見つけだそうと学外の人間じゃどうにもならないのに(学内の人間だって野球部員じゃない時点でもうアウト)。
それだけに偶然谷津吾朗を見つけたときの喜びはいかばかりだったことか。野球がヘタすぎて野球部をクビになったような男、土門の球を剛球どころか下手したらゆるく投げた球さえキャッチング不能かもしれない男を、それでも自分の球を体で止められる耐久力があるという一点にかけて強引に捕手に据えた。吾朗にしてみればいきなり明日試合に出ろ、しかも味方殺しの剛球を体で止めろという、あまりにも無茶で自分勝手な要求だったはずですが、吾朗はそれをあっさりと承知してしまう。野球部をクビになった経緯のある彼だからこそ、自分を認めてくれた、このうえなく自分を必要としてくれた土門に心を動かされずにはいられなかったんでしょう。

土門の方もそんな吾朗をパートナーとして大事にした。山田とストレートで勝負したかった土門の想いに反して、チームの勝利のために変化球を投げろと吾朗が指示を出してきたとき、急造捕手、それもまともな捕手としての技能を持たない彼の意志を要らざる口出し、出すぎた真似と退けることをせずその言い分を入れた。個人の意地よりチームを優先させろという吾朗の指示に利があったのはもちろんですが、土門が自分の無茶な要求を聞いて野球部に戻ってきてくれた吾朗に深く感謝していたからこそだと思います。

結局試合には敗れたものの吾朗の根性と人間性を認めた土門は、春の甲子園大会に(彼の自腹で?)吾朗を旅立たせ明訓を偵察させたり(吾朗が詳細につけたメモを“おまえがわかっていればいい”と受け取らず内容も質さなかったあたり、明訓の具体的データを知りたかったというより、彼らはじめ一流の選手のプレーに間近でかつ真剣に接する機会を与えることで吾朗の野球眼を進展させることがこの旅の目的だったんでしょう)プロテクターとレガーズつけたまま日常生活を送らせたりと、吾朗を一流の捕手に育てるべく時間をかけて教育していく。そしてその甲斐あってかつて野球部を辞めさせられたのが嘘のように捕手としても打者としても立派に成長した吾朗は土門ともども夏の地区予選で明訓をあわや敗退かという際まで追いつめる活躍を見せます。

それもこれも土門の薫陶あればこそ。山田たち明訓五人衆が後輩を指導する場面はときどきありますが後輩たちはプレーヤーとして大成した様子はないし(山田世代卒業後の夏の大会は地区予選で敗退している)、不知火や雲竜も後進を育てたような描写はない。その点吾朗は甲子園出場こそ成し遂げられなかったものの、打たれ強さだけが取り得の素人レベルから山田や里中も舌を巻くほどの選手へと成長し、その後プロに入ったらしい形跡すらある(水島先生の別作品『白球の詩』に髪型以外は吾朗そっくりの「谷津吾朗」というキャラクターが登場している)。プレーヤーとしてだけでなく次の世代を育成することにかけても、高校時代からすでに土門さんが抜きんでていたのがわかります。

 


(2012年8月17日up)

 

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