CALLING(後編)

 

玄関で電話の鳴る音がした。合宿所の食堂の、いちばん玄関寄りの席にいた高代が甲斐甲斐しく電話を取りに立っていく。

「はい・・・はい。ちょっとお待ちください」

緊張気味に応じる声に、いったい誰からだろうと皆はつい耳をすませた。そこへ高代がバタバタと戻ってきた。

「山田さん、じ、女性からお電話です!」

一瞬部屋がしんと静まりかえり、それからうわーっという歓声が沸き起こる。

「やるじゃないか山田、おまえいつの間に!」 三太郎がますますにこにこ顔になって囃すのに、「えっ、山田さんの彼女ですか!?」 「いつのまに彼女できたんですか!?」と後輩たちが乗っかって大騒ぎする。

「・・・い、いやおれは、心当たりがないんだが?」

「なにー?・・・高代、相手の名前は何ていうんだ?」

「えっ・・・いや、聞いてないですけど」

「おいおい、じゃあ単なる追っかけファンじゃないか。そんなもん取り次ぐなよ」

三太郎に追及されて高代はとたんにおろおろ顔になり、

「いやでも、そんなミーハーな感じじゃなくって、落ち着いた大人の女性の声でしたよ。だから――」

懸命に抗弁するのを耳の端に聞きながら、山田はともかくも受話器に向かった。

「お電話代わりました。山田です」

「――山田くん。私です。里中加代です」

「里中の、お母さん・・・」

思わず漏らした声に食堂に集まっていた全員がばっと山田の方へ顔を向けた。

「急に電話してごめんなさいね。手術の日程が決まったから、あなたには知らせておこうと思って」

電話の主が誰かわかった瞬間に用件は予想がついていたが、それでも緊張に体が固くなった。

「7月の○○日の午前中よ。たぶん地区予選の後半ね」

雨による順延がなければ、準決勝の頃にあたるだろう。相手はおそらく白新か横学か――。

とにかく甲子園大会には里中は十分に間に合う。いや、上手くすれば地区予選の決勝にも出られるかもしれない。

一ヶ月以上のブランクがある里中がいきなり使い物になるのかという不安は不思議なほど感じなかった。里中なら大丈夫だ、何とかなる。

「――了解しました。わざわざありがとうございました。・・・頑張ってください」

言いたいことはもっとたくさんあったが、皆の耳に入るのをおそれて最低限の言葉だけを並べて短く電話を切った。

受話器を置いて振り向くと、食堂にいたはずの連中が一気に詰め寄ってくる。

「何やいったい、なんでサトのお袋さんがおまえに電話かけてくるねん」

「まさか、里中さんに何かあったんですか!?」

岩鬼と後輩たちが口々に聞いてくるのについ及び腰になりながら、

「いや、手術の日程が決まったからって、それを知らせてくれたんだよ」と言葉少なに答える。

「お袋さん手術するのか・・・。それをわざわざ山田に知らせてきたってことは――」

「――手術が成功したら、里中さんが戻ってくるからですよね?」

渚の声に皆がはっと息を呑むのがわかった。学校側にかけあって里中を休学扱いにしてもらったことは岩鬼と殿馬、三太郎は知っているが、下級生たちにはまだ伝えていなかった。岩鬼たちにも手術が成功したら里中を返してくれるよう母親の内諾を取ってある件は告げていない。手術の日程がはっきりしない以上、里中がいつ帰れるとも―そもそも確実に帰れるとさえ言い切れない状況で、皆の気持ちを無駄に乱したくなかったからだった。

とくに渚については、もともとプライドの高い男であり、里中無き後の明訓のマウンドを引き継ぐ意欲に燃えているだけに、自分がなんとしても里中を連れ戻そうとしたことに変に臍を曲げてしまう可能性を考えざるを得なかった。今だって渚が真っ先に真相にたどりついたのは、里中の帰還を素直に喜べない心境ゆえなのではないか。

「そんな予感はあったんです。誰もおれに背番号1を付けろとは言わなかったし、それに何が起ころうとあの里中さんが最後の夏を諦められるとは思えなかったですから。もちろん、山田さんも」

「渚・・・」 

「――でもブランク明けだからって気の抜けたピッチングなんてしてたら、たとえ里中さんでも、おれ、マウンドは譲らないですからね」

強気が信条の渚らしく、にやりと不敵な笑いを浮かべる。山田が里中と最後の夏を戦うことを諦めるはずはないと、すべて見透かしている渚に山田は答える言葉を持たなかった。

――すまない、渚。

里中ほどの安定感はないが、渚だって決して悪いピッチャーではない。単純なスピードだけを取るなら里中より早いくらいだ。それでも結局山田にとって、明訓のエースは里中以外にありえない。最後の夏、甲子園に行くためには、そして優勝するためには、里中が投げなければいけない。それはほとんど刷り込みに近いような確信だった。

すまない、渚、と山田はもう一度心の中でそっと呟いた。

 


「じゃあ、お先に失礼します。明日は6時ですね」

「里中」

いつものように会釈して立ち去ろうとする里中をマネージャーは呼び止めた。

「・・・明日は休んでもいいんだぞ。お母さんの手術があるんだろう」

里中の目が少し翳った。しかしすぐに声を励まして、

「大丈夫です。ぼくがついていても何もできませんし、だったら仕事してる方がいっそ気が楽ですから」と笑顔で告げる。

「そうか・・・」

「心配かけてすみません。明日も頑張ります」

ぺこりと頭を下げて、足早に里中はエントランスを出て行った。

「・・・・・・頑張りすぎるなよ」

マネージャーは口の中で小さくつぶやいた。たった一人の肉親が命を賭した手術を明日に控えているのだ。まだ高校三年生の―高三だったはずの―少年が平気でいられるわけがない。なのに里中は不安をすべて胸の内に押し込めて、笑顔で蓋をしているのだ。きっと明訓時代もああやって、無理を重ねてきたのだろう。

――あいつは野球を捨てても母親を選んだんだ。どうかその母親まで取り上げないでやってくれ。

誰に対してというのでもなく、マネージャーは心の中でそっと祈らずにいられなかった。

 


11回表、渚は40度に近い灼熱のマウンドに立っていた。

額から流れ落ちる汗をぬぐいたいと思う。しかしただそれだけの動作もおぼつかないほどに右腕は重く痺れていた。もはや振りかぶるだけの力が出ずに、セットポジションからやっとボールを投げる。そんな状態でまともな球が投げられるはずもなく、ストライクゾーンをだいぶ外れた球を山田がミットを素早く動かして受ける。バッターは余裕綽綽といった表情でバットを振ろうともしない。

なめやがって、と悔しさがこみあげてくるが体が気持ちに追いついていかない。この準決勝までの連投がすでに渚の肩に相当なダメージを与えてしまっていた。里中さんは甲子園のほぼ全試合を一人で投げきってきたのに、と渚は歯噛みした。

そう、年は一つ上でも自分よりずっと小柄で非力なはずの里中は、負傷事故以外の理由――疲労で腕が上がらなくなったというような理由で自ら降板したことは一度もなかった。頭や肘を負傷してさえ、投げ続けようとする男だった。里中もこんなふうに苦しかったのだろうか。今の自分のように。

完投したい。でももうストライクが入らない。去年の東海戦のときと同じパターンだ。

あの時と同様にスタンドを仰ぎ見る。しかしそこに里中の姿はない。当たり前だ。今頃は母親の手術の真っ最中に違いない。明日の決勝にだって間に合うかどうか。

渚は視線をバッターに据え、懸命に己を叱咤した。気の抜けたピッチングなんてしたらマウンドは渡さないと言っておきながら、里中が戻ってくるまえに自分が倒れてどうする。

――今このときは、おれが明訓のエースだ。明訓のマウンドを死守して里中さんに引き継ぐこと。それがおれの役目だ。

渚は最後の気力を振り絞って、山田のミット目掛けてボールを放った。

 


マネージャー室に戻ってTVを付けると、ちょうどニュースで地区予選準決勝のハイライトを流していた。

『――地区予選準決勝は大激戦の末、三塁手岩鬼くんのホームランによって明訓高校のサヨナラ勝ちに終わりました』

「勝ったか・・・」

アナウンサーの声にマネージャーは深く息を吐き出した。エースの不在で苦戦を予測されていた明訓は、案の定苦戦を重ねながらも何とかここまで勝ち上がってきている。里中抜きでも仲間たちは頑張っている。あとは里中の口から嬉しい報告が聞ければいいのだが。

願いが届いたかのようなタイミングで、ドアがノックされた。「失礼します」とドアを開けたのは予想通り里中だった。自分が所用で出ている間に、里中は勤務を終えて病院へ行ったらしかった。時間的に母親の手術はもう終わっているはずだ。

「里中」

手術はどうだった、と聞きかけてマネージャーは言葉を呑み込んだ。問うまでもない。里中の表情が雄弁に結果を語っている。

「成功でした。転移もないそうです」

短く告げて里中はこぼれるように笑った。マネージャーもつられて笑顔になる。里中のこんなに嬉しそうな顔を見たのは初めてだった。目の淵がわずかに赤らんでいるのは嬉し涙のせいなのだろう。

「そうか・・・良かったな」 思わずもらい泣きしそうになって、マネージャーは軽く鼻をこすった。「ありがとうございます」と里中は微笑み、それから急に真顔を作ると、

「実は・・・もう一つお話があるんです」とやや重い調子で切り出した。

 

今日付いた客の好意で同乗させてもらったベンツが遠ざかるのを、マネージャーは玄関前でじっと見送っていた。

数分前の里中の申し出は実に意外なものだった。「本当に急で申し訳ないんですが」と前置きしたうえで、里中は退職させてほしいと言い出したのだ。自分はまだ明訓にも野球部にも籍が残っていて、夏の大会に出場できると術後の母親に聞かされたのだと。

――全く前代未聞だよな。本人は退学届を出したつもりが、学校側が勝手に休学扱いに変更していたなんて。

どうも山田が学校側に掛け合った結果らしいが、本人に無断で中退を休学に替えてくれと頼む山田も山田ならそれを承知した学校も学校だ。道理で里中中退の報道がいつまでも出ないわけだ。

それほどに山田も学校側も諦められなかったのだ。明訓のエース・里中の存在を。明訓の人間だけじゃない、里中故障の疑いを書きたてた新聞記者も、全国の高校野球ファンも皆が里中を待ち望んでいるのだ。突然里中に抜けられるのは正直痛いが、このさい仕方がない。もう一度甲子園のマウンドに立つ里中を見たいのは自分とて同じなのだから。

――それにあんな顔をされたら、引き止める気も失せるってもんだ。

懸命に真面目な顔を作ろうとしても口元が緩むのを抑えきれず、黒目がちの大きな目をきらきらと輝かせている里中はあまりにも幸せそうで、反対の言葉など到底口にできなかった。する気も起きなかった。

別れ際、里中は「卒業したらまたここで働かせてください」などと可愛い事を言ってくれたが、それはしっかり断らせてもらった。野球を断念しようとしても野球の方から呼び返しに来るような奴に他の仕事が務まるものか。君は大学かプロで野球を続ける男だからと言ったら、里中は「まさか」と笑っていたけれども。

――今年も甲子園に行けよ里中。そして真紅の優勝旗をこの神奈川に持って帰ってこい。

マネージャーは右手を眼前に上げぎゅっとガッツポーズを作った。

 


フロントで電話が鳴っている。マネージャーは足早に近づくと慣れた手付きで受話器を取った。

「はい、芦川カントリークラブです。あ、××様、いつもお世話になっております。ご予約ですか?」

『ああ。再来月の22日が希望なんだが――』

顧客の話す内容を、マネージャーはさらさらとメモ用紙に書き取った。

『――ところですごく若い男の子のキャディさんがいたろ。もしスケジュールが空いてるようなら彼に付いてほしいんだけど』

キャディの指名は原則的には禁止だが、常連に頼まれればなるべく要望を入れるようには配慮している。しかしこれはどうしたって無理だ。

「里中ですか。申し訳ないんですが、里中は先月で退職したんですよ」

『え、そうなのかい?優秀な子だったのに残念だな。まだ始めたばかりだけど仕事が楽しいって言ってたのに』

「――あいつはよくやってくれましたよ。でもあいつの天職は別にあるもんですから」

マネージャーは穏やかな視線をロビーのテレビに向けた。画面には甲子園大会準決勝の中継が映し出されていた。

 

『インコースへ食い込むカーブだ。自在里中、水田くんも三振にとりました。みごとだ!!復活の小さな巨人、意地の14回突入です!!』

 


明訓に帰る里中を見送るのは原作ではゴルフ場の社長さんですが、社長と一アルバイトだとなかなかカラむ場面が作れなそうだったので、マネージャー=直接の上司に役を振りました。
なおタイトルの「CALLING」は「天職」の意味で使っています。

(2010年6月18日up)

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO