CALLING(中編)

 

「マネージャー、今戻りました」

いつのまにかフロントのカウンター前に立っていた里中に声をかけられ、マネージャーは広げていたスポーツ新聞を閉じてさりげなく隅に押しやった。

「ああ・・・暑い中ご苦労さん」

「いえ、慣れてますから」

里中はうっすら日焼けした顔で微笑むと踵を返した。確かに40度を超える真夏のマウンドで投げ抜いてきた体には、これしきの暑さは何ということもないのかもしれない。

マネージャーはカウンター隅の新聞に目をやった。中ほどのページの甲子園関連記事にはこんな見出しが付されていた。

『エース里中またも故障か?明訓、春夏連覇に黄信号!』

優勝候補の筆頭・明訓高校のエース里中智は地区予選大会が近いにもかかわらず練習に全く姿を見せていない、さては里中は故障のために出場が危ういのではないか、というのが記事の内容だった。確かに5月の始めからまるで人前に姿を表してないのだから、そう思われてもやむをえないところだが、

――その里中はここにいる。

里中は高校野球ファンなら、まして神奈川の人間なら知らぬ者とてない有名人だ。当然お客からなぜ里中がゴルフ場で働いているのか質問が殺到すると覚悟していたのだが、意外にも、普通に素顔をさらしているにもかかわらず、誰も彼の正体に気づく様子はなかった。まあ自分にしたところで今度ここで働くことになったからと里中を紹介された時、名前を聞くまでは「どこかで見た顔だな」程度にしか思わなかったのだから、皆「よく似た他人」だと疑問に思う前に決めつけてしまうのだろう。

里中はロビーのテーブルでくつろいでいる男たちに呼び止められて何やら談笑している。甲子園常連校の猛練習に鍛えられただけあって体力も腕力も人並み以上、さわやかで礼儀正しい挙措の里中は、キャディ仲間にもお客にも受けがよく、すぐに仕事に馴染んでしまった。とくに打ち手の癖でボールがどこに飛ぶのかあらかじめ方向を読める%チ技は余人には真似しがたいところで、林の中に突っ込んだボールでもなんでもたちどころに見つけだしてくる。里中が客に人気が高いのはこれによる部分も大きい。ずっとグラウンドで白球を追い続けていた里中ならではだ。

マネージャーはわずかに顔をしかめた。彼もまた里中を気に入っていた。青春を賭けていたはずの野球を断念し、仕事と母の看病に追われながら泣き言一つ言わず明るく笑う姿が健気だった。だが、やはり里中のいるべき場所は野球のグラウンドではないのか。そんな思いが胸にあった。

それにしても客はともかく、マスコミが一向に里中不在の真相を嗅ぎつけてこないのが不思議だった。すでに国民的人気を誇る明訓高校野球部は夏の大会が近い今、常に大勢の記者が周辺をうろついているはずだ。なのにどこも里中の中退を記事にしていない。明訓サイドがよほど厳重な緘口令を敷いているとしか思えなかった。しかし何のために?いずれは公表せざるを得ないことだろうに。

ともかくも彼の目にこの記事が触れないといいのだが――。マネージャーは新聞を丁寧に畳んでマガジンラックへそっと戻した。

 


久しぶりの練習休みに山田は里中の母親が入院している(はずの)病院を訪れた。この日を逃せば、もう地区予選が終わるまで休みは取れない。今日しかないという焦りが、山田の中の最後の躊躇いを振り払わせた。

右手のゴルフ場にふと目をやりながら、山田は病院のエントランスをくぐった。エレベーターで病棟へ向かい、ナースステーションの前で足を止める。

「あの、すみません。里中、さんの病室はどちらになりますか?」

考えてみれば自分は里中の母親の名前を知らない。会うべき相手の名前もフルネームで言えないような面会人は怪しまれるんじゃないか。そんな山田の心配はしかし杞憂だった。すぐ正面に座っていた看護婦が顔をあげると、驚いたように目を見開いた。

「えっ・・・まさか、明訓の山田、太郎くん!?」

看護婦の声にその場の全員が振り向きわらわらと近寄ってくるのに山田は苦笑した。なまじ名前と顔が売れてるおかげでとりあえず怪しまれずにはすんだらしい。

「そっかー、智くんに会いにきたのね。里中くん今仕事中なんですよ。18時過ぎくらいには顔を出すはずだけど」

「いえ、いいんです。今日はお母さんのお見舞いに来たんですから」 だからサチ子は連れてこなかった。今日はまだ里中に会うつもりはない。里中抜きでしか出来ない話を自分はしに来たのだから。

「そうですか。じゃあこの面会者名簿に一応名前を書いてください。病室は・・・号室ね」

看護婦が気さくな口調でてきぱきと話す。言われた通りに名前を書き込み一礼して立ち去ろうとすると、看護婦たちが「夏の大会もがんばってねー」と口々に言いながら手を振ってくれた。彼女たちの応対に山田は胸が暖かくなるのを感じていた。

初めて甲子園で優勝した一年の夏以来、大会のたびごとに見知らぬ人に囲まれたり追いかけられたりすることが増えていった。しかし今の看護婦たちの反応はそうしたミーハー的なものとは少し違ったようだった。彼女たちは「里中の友人」として自分を見ていた。それも「甲子園のアイドル」里中ではなく、親孝行の勤労少年里中智の友達として。彼女たちが里中に抱いている親しみと好意はその口調からも伝わってきた。

教わった道順にそって廊下を歩いてゆき、ある病室の前で足を止める。「里中加代」と名札が掛かっている。山田は意を決して息を深く吸いこむとドアを静かにノックした。

 

「はい」と小さく答える声に「失礼します」と短く答えて扉を押し開ける。ベッドに横たわっていた女性が山田の姿を認めて目を見開いた。

「・・・山田くん」

「お久しぶりです」

山田はぺこりと頭を下げた。加代には何度か会ったことがあるが、最後に姿を見かけた時――里中が野球部を去っていった日と比べても幾分やつれたように思えた。

「突然来たりしてすみません。体の調子は、いかがですか?」

「このところ大分落ち着いているの。わざわざありがとう。夏の大会目指して大変な時期なんでしょうに」

「また明日から練習三昧です。・・・今年も甲子園に行きたいですから」

会話が途切れた。やがて加代が真剣な眼差しを山田に向けてくる。山田は気圧されそうになりながらもじっとその目を見つめ返した。きっと彼女はわかっているのだ。自分が続けたかった言葉を――甲子園に行きたい、そのためには里中が必要なのだと。

「・・・私ね、ここ5年くらいほとんどあの子の笑顔を見たことがないの」

沈黙の末に加代が発したのは意外な言葉だった。不遇だったらしい中学時代はともかく、自分の知る里中は誰よりも眩しい、誰もが引き込まれるような笑顔の持ち主だった。なのに母であるこの人が里中の笑顔を見たことがない?そんな山田の疑問を見透かしたように、

「あの子が長期で家にいるのは、たいていどこか故障を抱えている時だったから」と加代は続けた。

「八つ当たりをするわけじゃない、いかにも普通らしく笑顔で振る舞っているけれど、無理に笑っているのがわかるのよ。あの子の本当に幸せそうな笑顔は、TV中継や雑誌の記事の中でしか見られなかった」

加代は里中が野球を続けられるよう身を粉にして働き続けてきた。それゆえ皮肉にも球場で直接息子を応援すること、その晴れ姿を自分の目で確かめることは叶わなかった。

「何度も故障に苦しみ懸命のリハビリに苦しむあの子を見て・・・あの子を支えたいと願う一方で、たぶん私は少し嫉妬してたのかもしれない。こうもあの子の心を捉えて放さない野球にも、山田くん、あなたにも」

「・・・・・・」

「――ごめんなさいね、息子と同い年のあなたにこんな事を話したりして。山田くんには何を言っても受け止めてくれそうな、不思議な安心感があるものだから。智があなたを信頼しきっている気持ちがよくわかる」

「そんな・・・」

「私、今度手術するの。まだ日程は決まっていないけど、たぶん来月。胃ガンの手術よ」

ガンと聞いて山田の顔に緊張が走る。里中が学校を辞めるほどだ、大病なのはわかっていたが。

「智は胃潰瘍だって言ってたけどね。そうじゃないってすぐにわかったわ。あの子は昔から嘘をつくのが下手だったから」

確かに、と山田は心で頷く。里中は思ったことがすぐに顔に出る方だ。そのくせ故障や不調を絶対に自分から打ち明けようとはしない。無理をしてるのが見え見えの顔色で、それでも笑ってみせるのだ。

「表面だけは明るく笑っているけれどね。故障した時とおんなじ顔を、野球を離れても、してるのよ。いえ、野球から離れたことがあの子の苦しみを倍加させてるの。・・・これでもし私に何かあれば、あの子は何もかも無くしてしまう」

この人は後悔している。里中が学校を、野球を辞めるのを止めなかったことを。これまで野球一辺倒だった息子が野球より自分を選んでくれた、その嬉しさに息子に辛い選択をさせてしまったことを。

自分は今その後悔に付け込もうとしている。付け込んで、この人の一番大事なものを取り上げようとしている。だけど。

「おばさん。里中はまだ明訓に籍があるんです」

「え?」

「校長先生に頼みこんで・・・休学扱いに替えてもらったんです。もし――状況が変わったときにまた明訓に戻ってこられるように」

だけど、里中の幸せを願う気持ちは、きっと同じはずだから。

「断りもなく勝手なことをして申し訳ありません。でもどうしても諦められなかったんです。里中と一緒に野球をすることを。・・・ですから手術が無事に終わったなら、」

里中を自分たちに返してください、と。実の母親、それも大手術を前にしている相手に対してあまりにも残酷な一言を思い切って口にしようとしたとき、加代がふっと微笑みを浮かべた。とても穏やかで、哀しげな笑みを。

「ありがとう山田くん。あの子をそこまで必要としてくれて」

「おばさん・・・」

「あの子には帰る場所があるのね。大好きな野球と大切な仲間たちと・・・あの子は一人じゃない」

加代は山田をじっと見つめた。黒目がちの目に強い意志の輝きが宿る。儚げな空気を纏っているこの女性が、そんな表情をすると驚くほど里中に似て見えることに山田は気がついた。

「智をお願いします。手術が終わったらすぐ智に明訓に帰るよう話します。・・・今すぐ追い返してもいいんだけど、さすがにあの子が承知しないでしょうね」

最後はちょっといたずらっぽく笑いながらも、その目尻にかすかに涙が滲んでいるのを山田は見逃さなかった。あえて明訓に「帰る」という表現を用いた加代の気持ちを思うと、山田は申し訳なさでいっぱいになった。

「・・・それはそうです。手術の成功を見届けずに里中がお母さんの元を離れるはずないですよ。・・・だから今日ぼくが話した内容は当面伏せておいてもらえますか」

手術の成否もわからぬうちから野球部復帰の算段をすること――思い浮かべることさえ母親思いの里中は良しとしないだろう。加代も同じことを思ったのか、あっさりと頷いた。

「そうね、手術が終わってからのお楽しみってことにしといたほうがいいわね」

「『手術が成功してから』ですよ」

やんわりと山田が訂正すると、加代はちょっと驚いたように目を見開いてから、「そう・・・そうね、何としても成功させなきゃね」とうっすら微笑んだ。

手術は来月の予定だと言った。おそらく予選大会には里中は間に合わないだろう。なんとしても里中が戻るまで自分たちだけで勝ち抜かなくてはならない。寂しさと不安を押して里中を手放そうとしているこの人のためにも。山田は拳をぐっと握りしめた。

 


「智、今日山田くんがお見舞いに来てくれたのよ」

仕事を終えていつものように病室に顔を出した里中に、真っ先に加代はそう告げた。

「・・・知ってる。ナースステーションで聞いた。山田は元気だった?」

「ええ。夏の甲子園目指していよいよ練習も本格化するみたい。あとお見舞いの品を何も持ってこなかったって言って恐縮してたわ」

くすくすと笑う加代につりこまれたように里中も少し笑った。

「あいつはそういうところ気を使うからな。・・・会いたかったな」

それは掛け値なしの本音であり、同時に嘘でもあった。山田には会いたい。いろんな事を話したい。だけど会えばきっと気持ちを抑えられなくなってしまう。そんな逡巡があの手紙には表れていたのかもしれない。それを山田は読んで・・・そうしてここへやって来た。

会わずに帰ったのはおれの迷いを見抜いていたからだろうか。あるいは単に時間の都合なのか――。

「智、おまえもトレーニングはちゃんとやっときなさいよ」

突然の加代の言葉に里中は一瞬ぽかんと口を開けた。それから、

「何でさ。おれが試合に出るわけじゃないんだぜ」と軽く笑い飛ばす。

「もともとおまえは体が弱かったんだから。気を抜くとすぐに体力落ちていっちゃうわよ」

「・・・大丈夫だよ。キャディの仕事って結構体使うんだからさ。体力つけなきゃいけないのは母さんのほうだろ。変な心配してないで、ほら早く横になって」

苦笑しながら、加代の背に手を添えてそっとベッドに横たえてやる。加代は大人しく頭を枕に沈め、しばらくは他愛もない事を話しかけてきたが、やがて穏やかな寝息をたてはじめた。何だかんだ言っても来客疲れしたのだろう。里中は少しの間母の寝顔を見守ってから、音を立てないようそうっと病室を出た。

6月半ば、外に出るとまだほのかに明るさが残っている。そのまま隣のゴルフ場へ戻ろうとして、さっきの加代の言葉をふと思い出す。なぜ母さんは急にあんなことを言い出したんだろう。山田が訪ねてきたのに触発されたんだろうか?

どうせ部屋に戻っても夕飯を食べて寝るだけなのだ。だったらゴルフ場の周りを一周くらい走ってきてもいいかもしれない。ここに来てから意識的に体を鍛えることから遠ざかってきたが、

「体力はあるに越したことないもんな」

梅雨も上がりこれからますます暑さが増してゆくことだろう。夏バテしている余裕など自分にはないのだから。里中はすっと息を吸い込み、その場で軽く足踏みしてからゆっくりしたペースで走り始めた。

 


『大甲子園』第一話の描写だと里中は山田が加代の見舞いに来たことを知らないふうでしたが、面会記録やナースの話から気づくよなーと思って知ってる$ン定にしました。

(2010年6月11日up)

SEO [PR] おまとめローン 冷え性対策 坂本龍馬 動画掲示板 レンタルサーバー SEO