CALLING(前編)

 

ぱたぱたと窓を叩く雨の音に山田はうっすらと目を開けた。首を左側へ傾けて――誰もいない空間に溜息を吐き出す。朝、合宿所の布団の中で目を覚ますとこうして左隣を確認し溜息をつく、それがここ一ヶ月ほどの山田の習慣になってしまっていた。

一ヶ月――里中がここを出ていってもうそれだけ経つのに、一人分の体温の消えた部屋にいつまでも馴染めない。今までだって里中が長期にこの合宿所を空けたことはあった。一年夏の甲子園と二年春の甲子園の後、いずれも彼が利き腕に故障を負った時だ。それでも教室に行けば里中に会えた。今はもう校舎の中にも里中の姿はない。そしてこの先も彼が帰ってくることはないのだ。

里中が高校を辞めて働くと言ったとき、自分は彼を止められなかった。あれだけ野球に全てを賭けていた男が野球を辞める――里中は多くを語らなかったが、その理由が母親の病気にあることは明らかだったからだ。母一人子一人の里中の家で、働き手の母親が倒れることが何を意味するのか、早くに両親を亡くして祖父に引き取られ、貧しい中でさんざん苦汁も舐めた山田には身に沁みてわかっていた。そして経済的な問題以前に、苦労して自分を育ててくれた母親の窮地を顧みずに自分の夢を追えるような、里中がそんな性格ではないことも、よく、わかっていた。

里中にはあれしか選べなかった。自分もただ見送るしか仕様がなかった。それでも自分は諦められないでいる。部屋の入口に掛けられた里中の名札は、外す気になれないまま今もそこにある。

雨は小止みになりつつあるようだった。これなら朝練は予定通り行えるだろう。

もうじきに梅雨も明ける。そうしたら夏がやってくる。自分たちにとって最後の夏、里中のいない夏が――。

 

授業が終わって合宿所に戻ってくると、玄関先で小さな影が大きく手を振っているのが見えた。

「サチ子、どうしたんだ?」

妹のサチ子は皆の好意で一年次から合宿所へ出入り自由となっている。だからサチ子が合宿所に来ること自体は何もおかしくない。ただ妙に落ち着きのない身振りが気になった。

「おにいちゃんに手紙だよ。家の方に届いたんだけど早く見せたくて走ってきたの」

勢いこんで手を大きく振り回しながら話すサチ子をなだめながら、山田はハガキを受け取った。差出人の名前に山田の目は釘付けになった。・・・里中だ。里中から手紙が――。

「ねえ、里中ちゃん何て書いてきたの。今どこに住んでるの」

サチ子がせがむように山田の服を引っ張る。小学校4年になったばかりのサチ子には読めない漢字も多い。上手とはいえないが几帳面な懐かしい筆跡で綴られた文章を山田は読み上げてやった。

 

『山田、元気にしているだろうか。おれは今お袋の病院の隣にあるゴルフ場で、住み込みでキャディの仕事をしている。仕事にも大分慣れたしまわりの人もみんな良くしてくれて、元気でやってるから心配しないでくれ。夏の甲子園に向けてみんな練習にも熱が入ってることと思う。今年も必ず優勝しろよ。遠くから応援してるからな。』

山田はハガキを表に返した。長屋の住所を記した文字列に、一字無理やり線を伸ばして書き直した形跡があった。最初里中がどこの住所を書きかけたのか山田にはすぐわかった。明訓高校の合宿所。最初は合宿所宛てに手紙を出そうとして、けれどきっとこの場所は里中にとってあまりにも思い出がありすぎた――野球に結びつきすぎていたのだ。

差出人の欄には「里中智」と名前のみ書かれ住所は記されていない。しかし消印の○○という町の名前には覚えがあった。同じ神奈川県内の地名だ。

――こんな近くに・・・・・・。

どこにいるとも所在の知れなかった里中が県内にいる。○○近辺で病院に隣接するゴルフ場。特定するのは決して難しくないだろう。しかし、

――里中はおれたちに会いたくないかもしれない。

だからこそ住所は書かなかった。里中は野球を思い出させるものとは距離を置きたがっている。合宿所とも自分たちとも。

「里中ちゃんに会いに行こうよおにいちゃん。今の住所書いてあるんでしょ?」

サチ子が無邪気に目を輝かせて見上げてくる。

「いや、住所は書いてない。それに里中が会いたがるかわからないし」

「どうしてー?会いたくなかったら手紙書くわけないじゃん。会いたいに決まってるよ!」

単純だが真理をつく言葉に山田ははっとした。確かにそうだ。距離を置きたいなら手紙をよこす必要はない。

里中はおれが捜そうとすることを承知で手紙を出したんじゃないか。皆に会いたくないと思いながら、同時に会いたくてたまらないんじゃないか。ハガキを前に二つの相反する思いを抱えて躊躇う里中の姿を思い浮かべて、山田は痛ましさを覚えた。

あの日、自分は里中に言った。おまえなら社会のどんな荒波にも負けはしないと。そう、幾度も再起不能ものの故障から懸命の努力で立ち直ってきた里中なら、きっとどんな苦しみにも耐えられるにちがいない――ただ一つ、野球を奪われること以外なら。

山田は胸の内で炎が燃えあがるのを感じた。おれは何をしていたんだろう。あいつが野球を捨てる、それは絶対にあってはならないことだ。それがあいつにとってどれほど苦しいことなのか、自分はずっと一番近くで見てきたはずじゃないか。

ならば自分は考えなければならない。友人として、女房役としてどうすれば里中を野球に引き戻すことができるのか。あいつにとって一番いい方法を探し出すんだ。どんな無茶に思えるようなことだって、自分たちは現実にしてきたじゃないか。

「おにいちゃん?」

怖い顔で黙り込んでしまった山田を、サチ子が不安げに見つめている。

「いや、なんでもない。・・・里中にはもうすぐ会えるよ」

「ほんと!?」

サチ子の顔がぱあっと輝く。

「本当さ。約束だ。」

必ずまた会える。また一緒に野球ができるようになる。この明訓で。

山田は試合中に打者の攻略法を考えるときのような冷静さで、今後の具体的プランを思いめぐらせていた。

 


雨の音が遠くで響いている。布団の中で里中は瞼を持ち上げると、睡魔を振り払うように一気に上体を起こした。

ゴルフ場の朝は早い。一応目覚ましをかけてはあるが、早朝練習に慣れた里中はいつもアラームが鳴るより先に自然と目を覚ます。

里中は現在ゴルフ場で住み込みのバイトをしている。といっても他の従業員は皆通いばかりで、住居用の部屋などは存在していないから、物置になっていた部屋を一つ空けてもらってそこに布団と身の回りの荷物を運びこんである状態だ。シャワーも食堂も下に行けば利用できるから、バイトと母の看病で一日を終える今の里中は特に不便を感じることもなかった。

ただ時おり一人部屋を寂しいと感じてしまうのは・・・合宿所ではずっと山田と同室だったせいだろうか。

山田、と口の中で呟くと心の奥がうずくのを覚えた。高校を辞めてから――里中はなるべく明訓の仲間のことは考えないようにしてきた。自分はずっと野球のために母をないがしろにし続けてきた。だからこれからは母さんのことを、母さんの健康を第一に考えなければならない。それは中退を決めた時に一緒に決心したことだった。山田に手紙を出したのは、心配性の彼に自分の現状を報告して、それでけじめを付けるためだ。決して未練なんかじゃ、ない。

里中は首を振って無理やり自分に言い聞かせると雨音に耳を澄ませた。この感じなら雨は長く続かないだろう。ただコースがぬかるんで多少回りにくいかもしれないな。

里中は手近に干していたタオルを取ると、顔を洗いに行くために立ち上がった。

 


放課後、いつもなら合宿所へ寄ってすぐ練習に出る山田は、普段はあまり来ない場所へ足を踏み入れた。校舎のやや奥まった一角――校長室だ。

突然の来訪に校長はちょっと驚いた顔をしたが、相手は学校の英雄というべき山田である。すぐに満面の笑顔になって、

「やあ山田くん、どうしたんだね?」と朗らかな声で問うてくる。

「実は・・・お願いがあるんです。三年の、里中智のことで」

山田が切り出すと校長の笑顔が少し翳った。

「里中くんか・・・。彼のことは本当に残念だった。しかし事情が事情だからね・・・。お願いというと、もしや里中くんのお母さんに何かあったのかね?」

「いえ、そうじゃないんです。・・・今さらなんですが、里中の退学届を留保していただけませんか。とりあえず休学ということにしておいてほしいんです」

里中のために何ができるのか。どうやったら里中がもう一度明訓で野球をすることができるのか。考えた末に山田が出した結論がこれだった。母親の病が癒えたとき、再び里中が明訓野球部に戻ってこられるように。

常識はずれの山田の申し出にさすがに校長は面食らったようだった。

「いや、しかし、君、そんな無茶な。すでに退学の手続きをしてしまってるよ」

「なら手続きをし直してください」

きっぱり言い切った山田の言葉に今度こそ校長は絶句した。普段はむしろ穏やかで大人しい性格の山田が教師、それも校長を相手にこんな強権的な態度に出るなど想像の外だったのだろう。

「里中の存在あってこその常勝明訓なんです。この夏も甲子園に行くためには、里中の力が必要なんです」

「しかしだね山田くん、お母さんの容態はもういいのかね。お母さんの病気が重いからこそ中退したのだろう?」

「ええ。・・・まだ入院中のはずです」 痛いところを突かれた、と思った。

「だったら里中くんは復学どころじゃないはずだ。・・・これは里中くん本人の希望なのかね?」

「――いいえ。ぼく個人の希望です」

「本人にも保護者にも無許可で、勝手に退学届を撤回するわけにはいかんよ。最後の夏を里中くんと戦いたいという君の気持ちはわかるが」 優しく教え諭すように校長が言う。

「でしたら、保護者に許可を取れば休学扱いにしてもいいんですね」

予想外の切り込みだったのか校長は少しの間目を白黒させていたが、やがて「君は・・・無茶苦茶だな」と大きく溜息をついた。

「仮に休学にしたところで、夏の大会までにお母さんの病気が治る保証もあるまいに」

「・・・確かにその通りです。それでも、たとえ1%にも満たない可能性だとしても、里中が帰ってくることに賭けたいんです。このまま退学扱いになってしまえばその可能性さえゼロになってしまいますから。里中ともう一度一緒に戦いたいんです。お願いします」

山田は深々と頭を下げた。長い沈黙が続き、重い空気が流れる。ここが正念場だ。山田は頭を下げたままその場を動こうとしなかった。

「まったく・・・無理を押し通そうとするのは、土井垣くん以来の野球部の伝統だな」

苦笑まじりの校長の声に、え?と山田は顔を上げた。

「優勝旗盗難のときだよ。先生方は皆責任を取るため関東大会を出場辞退で一致していたのに、土井垣くんは一人『何の罪もない部員たちが責任を問われるのはおかしい』と主張して譲らなかった」

そうだった、と山田は思い出す。あのとき土井垣は野球部解散を賭けてついに先生たちを説得することに成功した。そして監督就任早々のこの騒ぎが、部員たちの土井垣への信頼を揺るぎないものにしたのだった。

「あのときの土井垣くんは――思い出しても必死だったなあ。『何の罪もない部員に責任を取らせるな』、『人が盗んだものならその人に良心があれば戻ってきます』、それでも先生たちが及び腰なのを見るとついには『ぼくには校長室に立ててある優勝旗が見えます』なんて言い出してなあ」

校長がくすくすと忍び笑いを漏らす。土井垣がどうやって職員会議の結論を引っくり返したか、そこに至る詳細を聞くのは初めてだった。そういえばあの頃の土井垣さんは今の自分と同じ年だったんだな、と山田は改めて青年監督の苦悩を思った。

「結局、土井垣くんの必死さが理事長や先生たちの心を動かしたんだ。彼がここまで言うのなら我々もそれに賭けてみようと、そう決心した。――そしてそのおかげでわが明訓は関東大会に優勝し、続く春のセンパツにも優勝することができた」

「・・・・・・」

「2年半前までは県内ベスト4がせいぜいだった野球部に甲子園優勝の栄光をもたらしたのは君らの代だ。とくに山田くん、君の存在があったからだ。その君がこうも必死に頼んでいる・・・願いを聞かないわけには行かないだろうね」

「・・・校長先生」

「私だってもう一度夏の甲子園優勝旗を飾りたいからね。本当に里中くんが帰ってくるというなら大歓迎だよ。一度退学届を受理したものを休学扱いにするなどは異例中の異例だが――まあ、優勝旗の盗難やそれを隠匿したのに比べれば、単なる学校内部の問題にすぎんな」

「校長先生!ありがとうございます!」

山田はもう一度深く頭を下げた。

 

校長室の扉を閉めた山田はほっと息を吐き出した。とりあえず第一関門は突破だ。

「普通こういう場合は署名集めたり部員一同で校長室に押しかけたりするもんじゃないかねえ。全く水くさいぜ」

「一人で全部しょいこむあたりが山田らしいづらけどな」

耳慣れた、しかし意外な声に山田ははっと振り向いた。

「三太郎、殿馬、岩鬼まで・・・今の話、聞いてたのか?」

「耳には自信があるづらぜ」

「おまえが何か思いつめたような顔で校舎の外れの方に行くからさ。何かな〜と思って。な?」

どうやら教室を出たあたりからずっと尾行られていたらしい。気づかなかったのは、やはり緊張で注意が散漫になっていたのだろう。

「太平監督は知ってるんづらか?」

「昨日話したら、自分を通すよりおれが直接校長に掛け合う方が効果的だろうって言われたよ」

「監督らしい読みづらぜ」

「でもよかった。智、明訓に戻れるんだな」

「戻れるいうても何年先かもわからへんで。わいらの卒業と入れ替わりかもしれんしな。ドチビが帰ってきたかて、わいなしやったら県大会の一回戦で負けるわい」

「そもそも来年以降に復学しても公式戦には出られんづらぜ。『入学から三年目まで』『18歳以下』が出場の条件づらからな。横学の土門と同じづら」

殿馬の言う通り、横浜学院のエースだった土門剛介は一年次の終わりにダンプカーに撥ねられる大事故に遭い、入院治療のために出席日数が足らず二年生を二回やっている。だから自分たちより一歳年上の土門は学年は同じ三年で、しかし在学四年目のため公式戦には出られず今は横学野球部の監督をしているのだ。

――里中が甲子園に行けるのはこの夏だけだ。これが里中にとっても自分たちにとっても最後の夏になる。

「ところで岩鬼、・・・里中の名前は部員名簿からもう抹消してしまってるか?」

「そんなもん、さっさと抹消するに決まっとるやろが!わいは、いつまでもサトの名札戸口にぶら下げとるような未練がましい男とはちゃうんやで!」

「岩鬼――」

「・・・ただここんとこ後輩を鍛えるのに忙しゅうて、うっかり抹消作業を忘れとったけどな」

「岩鬼!」

山田は思わず岩鬼の両手を握りしめた。

「は、放さんかい、気色悪いやっちゃな。そういう真似はサトとやっとりゃいいんじゃい。いちゃつきバッテリーめが」

岩鬼は山田に握られた手をさもうんざりしたような顔で振ってみせた。それを殿馬は呆れたように、三太郎はいつも通りにこやかに眺めている。

これでいい。里中がいつ帰ってきても受け入れる準備はできあがった。あとは里中の母親次第だ。

「やぁまだ、何をボケッとしとるんや、練習や練習!さっさと来いや!」

そう、絶対に勝ち抜かなければならない。里中が帰る前に試合に負けてしまったら何にもならないのだから。

山田は物思いをひとまず打ち切り、岩鬼たちの後を追って走り出した。

 


無印ラストでは里中中退は三年一学期の始業式の日となってますが、『大甲子園』ではブランク一ヶ月と言われてますね。しかし一ヶ月では春季大会には出場したことになるのでは?というわけでここでは間をとって5月前半くらいに中退という設定にしています。

土門さんの留年については原作に描写がないのですが、彼ほどの選手がドラフトにかからないはずないのに(実際『プロ野球編』では山田たちと同期で横浜ベイスターズに入団している)山田三年の夏に横学の監督をしているのは、卒業後も土井垣・小次郎のように野球浪人したのか留年したのかどっちかだろうと、大ケガのために山田一年夏の大会には出られなかったことを考えると出席日数が足りず留年のほうがありそうだなということでこういう描写になりました。

(2010年6月5日up)

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