Blood 4

 

9月も半ばを過ぎたある日、里中は久しぶりに野球部の練習をのぞきに出かけた。

プロ入りを期している山田と岩鬼、ノンプロ狙いの微笑は引退後も何かと野球部に顔を出しては後輩たちの指導に当たっていたが、大学進学を表明した里中は受験勉強と休学した分の補習に追われて、放課後はもっぱら図書室にカンヅメの日々を送っていた。今日も授業が終わったあとずっと補習のプリントと首っ引きだったのだが、いささか倦んで気分を変えようと思い立ったのだ。

木立ちの生い茂るグラウンドの裏側から回ってゆっくりと歩いてゆく。グワラゴワガキーンと豪快な打球音とともに飛んできたボールが茂みに飛び込んだのが見えた。岩鬼のやつ後輩の指導と言いながらあいかわらず好き勝手に打ちまくってるな。1年夏の甲子園で優勝したのちグラウンド回りの金網は以前より高くしたのだが、岩鬼のケタ外れの怪力には全く意味を成さないらしい。

それにしても何でこんな方向へ飛ぶかね。呆れながらもゴルフ場でキャディをしていた頃の習性でボールを探しに茂みに分け入った里中は意外な先客を見つけた。

「あ、里中さん。どうもお久しぶりです」

にこっと愛嬌いっぱいに笑ったその顔は自分に瓜二つだった。

「――荒木!?」

それはつい一ヶ月ほど前、甲子園で激闘を繰り広げた光高校のエースだった。

「おまえ、いったいこんなところで何やってるんだ?」

「見ての通り球拾いですよ。癖になってるもんで打球音が聞こえるとつい。さすがに岩鬼さんは飛ばしますねえ」

光高校ではエースだろうと一年生は球拾いをさせられるのか。そういやあそこも選手の層は薄そうだったなとつい納得しかけて、

「いやそうじゃなくて、なんで・・・」

秋季大会も近いこの時期に神奈川まで何をしにきたんだ。春のセンバツに向けて下調べのつもりか。そう訊きかけたとき、再び豪快な打球音が響き、葉の密生した高木にボールが引っかかった。

「これだもんね」

荒木はひょいと肩をすくめると、木の幹に素早く取り付いてたちまちするすると登っていく。そして数秒生い茂る葉の中に姿が消えたと思ったら、すき間から顔を覗かせて、

「これ、持っといてください」

唖然と見守る里中に早くも見つけ出したボールを放ってみせたのだった。

 

傾きかけた夕日を背に里中は荒木と肩を並べて歩いていた。アパートに帰りがてら荒木を駅まで送っていくことになったのだ。

「いやーでも今日は楽しかったなあ。天下の明訓高校の練習に参加させてもらえるなんてそうそうないですからね。帰ったらみんなに自慢してやらないと」 興奮冷めやらぬといった口調で荒木が言う。

あれから連れ立ってグラウンドに向かった二人は部員たちの驚きと歓迎の目に迎えられた。荒木は持ち前の明るさと社交性であっと言う間に皆に馴染んでしまい、そのまましばらく里中ともども練習に交じったのだった。

「あいつらにもいい勉強になったと思うよ。とくに秋から合宿入りした奴らはおまえの球を間近に見たことなかったからな。春の大会に向けて励みになったはずだ」

「まあお互いまずは秋季大会に勝つことですね。うちはもともと一、二年生主体のチームだから戦力ダウンはあまりないけど、明訓は里中さんたち三年生が一気に抜けちゃったから大変だろうなあ」

言いにくいことをはっきり言う奴だ。里中は苦笑したが不思議と腹は立たなかった。それは荒木独特のカラっとした陽気さとおどけたような軽みに拠るところも大きいのだろうが、それを抜きにしても――荒木には無条件に甘くなってしまう自分を里中は自覚していた。

「・・・ところで、おまえ本当のところは何をしにきたんだ。今から明訓の偵察でもないだろうに」

荒木にはつい甘くなってしまう、それが気恥ずかしさに、あえて強引に話題を変えて最初からずっと気になっていたことを突っこんでみた。

「――弟が兄貴に会いにくるのに理由はいらないでしょう?」

ごく気軽な口調だったが、里中はしばし言葉を失った。甲子園で試合後に言葉を交わした時も兄だ弟だと冗談口を叩きあったものだが、今の里中には同じように振る舞うことはできそうもなかった。それが冗談では済まないことを今の彼は知ってしまっていたから――。

 

甲子園大会決勝の後、宿舎へ戻るとすぐに里中は母の病院へ電話をかけた。優勝の報告がしたかったのと、何より母の具合が気になったからだ。そこで電話に出た担当医から、母は決勝戦の放送に興奮したのか試合後ずっと眠り続けているのだと聞かされた。ただ眠ってるだけで特に別状はないんだがね。安心させるように医者は言ってくれたが、昨日の今日だけに不安を覚えずにはいられなかった。

「大会は終わっただや。一刻も早く帰ってやりなさい。お母さんも安心だろうし、きみも残ってたって落ち着かんだろ」

「そうやでサト、おのれがおらんでも今さら何も困らんわい。早くお袋さんに顔見せたれや!」

電話の様子を聞いていたらしい監督と岩鬼が口々に言ってくれる―とくに岩鬼は去年の夏にやはり母親が一時危篤状態に陥った経験があるだけに、口は悪いが本気で案じてくれてるのがわかった―のに甘えることにして、皆より一日早く一人先に宿舎を後にした。新幹線と在来線を乗りついでようやく聖北病院に到着した頃にはすでに夜の8時を過ぎていたが、事情を知る看護婦たちはすぐに母の病室へ通してくれた。

加代はぐっすりと眠り続けていた。里中は起こさないように枕もとの椅子にそっと腰を下ろした。穏やかな母の寝顔を見守りながら電話で医者が言っていたことを思い出す。

――きみの試合を見ている間、お母さんずっとひどい汗をかいていたそうだ。看護婦が心配しても、「あの子の分の汗を代わりに流してるんだから拭かないでください」と言ってなあ・・・。

そんなバカな、とは思う。そんな非現実的な現象が起こるはずがない。しかしあの試合中、嘘のように体が軽かったのは確かだ。炎天下のマウンドに立ちながら汗も意外なほどかかなかった。もしかしたら本当に母の一念が通じたのかもしれない――。

里中はそっと目頭を押さえた。もうおれのための犠牲になろうなんて考えなくていいんだよ。母さんが倒れたとき、これからはおれが母さんを守る番だと胸に誓ったのに、今もおれは母さんに守られている。でもそれもこれが最後だ。

「ん・・・」 加代がうっすらと目を開き、まだ焦点の定まらない瞳で里中を見つめた。里中は慌てて拳で両目をこすった。

「目が覚めたかい?決勝戦のあと母さんずっと眠りっぱなしだったんだよ」

「智――おかえりなさい。優勝おめでとう」

「うん・・・。全部母さんのおかげだよ」

そう、母さんのおかげでおれは高校野球を完遂することができた。もう何の悔いもない。これからは母さんのことを最優先に生きていこう。母さんはただ一人のおれのお袋で・・・たった一人の家族なのだから。里中は改めて心の中でそっと誓いを立てた。

「――智。大切な話があるの。落ち着いて聞いてちょうだい」

にわかに強さを帯びた気のする母の口調に里中はたじろいだ。やはり病状が悪化したのだろうか。汗が止まらなかったというのも症状の一環なのか・・・?

「わかったけど・・・今日は疲れてるだろ?明日ちゃんと聞くよ」

「今話しておきたいの。・・・明日はまた、どうなるかわからないでしょ?」

「母さん!」

思わず声の高くなった里中を目で制すると、小さく息をついて、

「・・・おまえには、二つ違いの弟がいるの」

加代の言葉に里中はしばし絶句した。あまりにも予想外の言葉にとっさに理解力が追いつかなかった。

「――弟って・・・生まれてすぐに亡くなったっていう・・・?」

「おまえにはそう話していたけれど、本当は生まれてすぐに養子に出したのよ。父さんが亡くなったばかりで、母さん一人では幼い子供二人を育てることは到底無理だった。ちょうど同じ日に同じ病院で死産した女性がいて、その人のご主人と話す機会があって――」

「・・・・・・」

「養家とはそのまま生涯不通のつもりだった。奥さんもあの子も・・・去年亡くなったご主人以外は何も知らないはずよ。でも最近思いがけずあの子の消息を知ることになった。・・・おまえは、直接会っているわ」

名前を聞くまでもなかった。弟が生きていたと聞いた瞬間から里中の脳裏には一人の少年の顔があった。自分によく似通った面差しの、不思議なほど考えてることが読めもし、読まれもした相手――。

「――光高校の、荒木新太郎・・・・・・」

「そうよ。甲子園中継であの子を見て・・・本当に驚いたわ。離れて育ったのにあんなに兄そっくりだなんて――血は争えないものね」

加代は深く息をついた。

「こんなに似ていたら遠からずおまえとの関係に気づく人間が出てくる。――すでに一人記者の方が訪ねてみえたわ。事情を話してよくよく頼んだら記事にはしないと約束してくれたけれど・・・今後も同じようなことが起こらないともかぎらない。だから、おまえには私の口からちゃんと話しておこうと決めたのよ」

里中ははっとした。胃ガンの手術は無事成功し転移もなかったのに母がいきなり危篤状態まで悪化したのは・・・その心労のゆえだったのか?

「それに・・・この先私にもしものことがあっても、おまえは一人じゃないんだって知っておいてほしかったの。新太郎の方はきっと何も知らないだろうけど、それでもこの天地にもう一人血を分けた家族がいると思えば・・・いくらか心強いでしょう?ずっとこんな大事なことを隠していて・・・ごめんね、智」

加代の言葉がごく自然に心に染み通ってゆく。里中は物心ついた頃からずっと母と二人で生きてきた。母が病に倒れた時、母の無事を案じるのとはまた別の次元で、不安で不安でたまらなかった。もし母が死んでしまったら、自分はこの世に一人ぼっちになってしまう。

山田をはじめ頼もしい、心許しあえるチームメイトに恵まれてはいる。彼らは自分を支え勇気づけてくれるだろう。自分は決して孤独ではない。それでも。それでも肉親を失うというのは特別なことなのだ。自分と世界を繋ぐ絆が切り離されてしまうような、そんな寄る辺なさが想像するだけでも胸に満ちてきた。母のためより以上に自分自身のために、里中は母の無事を心底切望した。

だから突然知らされた弟の存在は、驚きこそすれ不快なものではなかった。自分にはもう一人家族がいる。そう思うだけで一人分の体温が心を温めてくれるように感じられた。

「――光と南波の試合をテレビ観戦したとき、何故かあいつの考えが手に取るようにわかったんだ。光と試合したときは、逆におれの考えを全部読まれてるみたいに感じた。試合の後ちょっと話したら、顔がすごく似てるからおれには楽に投げられたなんて言ってたけど・・・おれたちは繋がってたんだな。荒木とは他人じゃなかったんだ」

「智・・・」

「話してくれてありがとう。あいつがおれの、弟なんだな」

弟、と口に出すと何だかくすぐったいような、けれどどこか幸せな気分になった。あいつが何も知らない以上兄と名乗ることは――養母との関係を壊すようなことはできないけれど、血を分けた弟が元気で暮らしている、自分と同じように野球を愛していると思うだけで、心が満たされてゆくような気がした。

 

「里中さん?」

軽く首をかしげて顔を覗きこんでくる荒木の声に、里中は現実に引き戻された。

「ああ、いや何でもない。ちょっとぼーっとしてた。久しぶりに真面目に練習したから少し疲れたのかもな」

ごまかすように軽い口調で笑ってみせる。・・・まさか今考えてたことまで読めたりしないだろうな。そっと隣を歩く荒木の横顔をうかがうと、さっきまでとはまるで違う、妙に真剣な表情をしている。どこか思いつめたような――。

どうしたんだ?と里中が緊張に体をこわばらせたとき、「里中さん・・・」と荒木がやや顔を俯けたまま小さく呟いた。ためらうような口調が何だか荒木らしくなかった。

「――青田との再試合のとき、途中大会役員に呼び出されてたでしょう。・・・雑誌で読んだんですけど、あれ、入院中のお母さんが一時危篤状態になったせいだって。もう、大丈夫なんですか?」

意外な質問に一瞬息を呑んだ。「ああ。今は容態も安定してるよ。退院まではもう少しかかりそうだけど」 戸惑いを隠しながら答えると、「そう・・・良かった」と荒木は微笑みをこぼした。その心底安堵したような表情を見た瞬間、ぴんと来るものがあった。

――荒木は知っている。自分の出生のことを。

理屈ではない。ただの直感だったが、ことこいつに関する限り勘が外れることはない。里中には確信があった。

 

甲子園に出場し光高校の名が全国区になって以来、「明訓の里中に似ている」という声をあちこちから聞かされるようになった。以前からチームメイトにはそう言ってからかわれることもあったが、自分としては特に似てるとは感じなかった。常勝明訓のエースとしての実力を認めてはいても、女性ファンの多さやマスコミの取り上げ方のせいで、甘いマスクのアイドル然としたイメージをきっとどこかで抱いていたのだろう。

しかし実際に甲子園で戦った里中は、外見の甘さを裏切るような飽くなき闘志の持ち主だった。なぜか里中はこと自分に関するかぎりは相性が悪いのかまるでいいとこなしだったが、それ以外の打席はほぼ完全に抑えきった。その強い眼差し、勝気な言動の数々に、はじめて自分と似ていると、感じた。

試合後、里中がわざわざ声をかけてきた。なぜ自分の考えが読めるのか、なにかわかりやすい癖でもあるのか。準決勝に向けて弱点があるなら克服しておきたい、そのために訪ねてきたのはわかりきっていたが、「君にはあと二年ある。がんばってまた甲子園へ出てこいよ」と言ってくれた言葉には単なる社交辞令ではない暖かさが篭っていた。

直接に言葉を交わしてみると、自然と心が引き付けられるのを感じた。試合中里中の考えがことごとく読めたように、向かい合っているだけで気持ちが通じ合えるような感覚があった。里中の方も自分に親しみを覚えてくれているのだろう。それが彼の表情や言葉つきに表れていた。

別れ際冗談で「お兄さん」と呼びかけてみた時、頭の中でパズルのピースがカチリと嵌りこんだような気がした。里中に似ている=Aそう言われるたびに無意識に意識に上せまいとしてきた父の言葉がはっきりと蘇った。

――おまえにはもう一人母親と、二つ違いの兄さんがいる。

この人だ。この人が兄さんなのだと。理屈を超えてそう確信した。

そういえば思い当たることがある。14歳になったばかりのおまえには早すぎるかもしれない、そう言いながらおやじがあのタイミングで自分の出生について明かしたのは、何か虫の知らせがあったのかとだけ思っていたが。

あの夏、おやじはいつになく熱心に甲子園中継を見ていた。おれが14になった年の夏、二つ上の里中は高校一年、初めて甲子園の優勝投手になったのだ。おやじは明訓のエース・里中智がおれの兄だと気づいたにちがいない。里中の名が全国に知れ渡れば、マスコミが彼の家庭環境を詮索し自分の存在に辿り着く可能性もある。歪んだ形で出生の秘密がおれに伝わるくらいなら・・・早めにきちんと真実を話しておこうとそう思ったのだろう。

実際その後の明訓の人気はすさまじく、ピッチャーという目立つポジションに加え女人気の高い里中は何かとスポーツ記者に追い回されていたようだ。よくこれまで気づかれずにきたとさえ思う。いやむしろ問題はこれからだろう。この甲子園大会では自分と里中が双子のように似ていると繰り返し取り沙汰されたのだから。仕事と看病の合い間を縫って甲子園まで応援に来てくれた母親が、肝心の明訓との試合を見ずに帰らねばならなかったのは今思えば僥倖だった。生で自分と里中を並べて見たならば、さすがに何か感じるところがあったかもしれない。

とにかく母の耳に余計な話が入ることは避けたかった。母は何も知らないのだ。そして里中もきっと。野球のセンスは兄ゆずりだなと冗談を言った里中の様子は何ら含むところがあるようには思えなかった。だから兄弟の名乗りなどするつもりはなかった。卒業後も大学かプロに進んで野球を続けるに違いない里中の活躍を、遠くから見守っていられればそれで満足だと思っていた。

しかし準決勝再試合のタイムの真相を知ったとき、荒木は自分でも意外なほどの動揺を覚えた。兄の存在は違和感なく受け入れられた。しかし自分の母親は荒木の母一人だけだ。自分を手放したことについて生みの母を恨む気持ちはない。しかし同時に会いたいとも恋しいとも思いはしなかった・・・はずだった。にもかかわらず一度も会ったことのない「母」の危篤に、「母」を死の淵から引き戻した息子との強い絆に――その母子の絆から自分が省かれていることに、誤魔化しようのないショックを受けた。

今まで出生の秘密を知った時も父の事故の時も、何をなすべきか迷うことなく心を決めてきたはずの自分が、珍しくさんざん逡巡したあげく――こうして里中を訪ねてきた。実母に会うつもりはない。ただ彼女の病状についてだけはどうしても知っておきたかったのだ。

 

「・・・そういや荒木のところも母一人子一人なんだよな。うちと一緒だな。」

何気ない口調で里中が呟くように言った。

「え?いえ、おやじは生きてますよ。去年交通事故に遭って以来意識不明でずっと入院してますけど。」

「――え!?そうなのか?・・・すまん、勘違いしてたみたいだ。・・・大変だな。」

驚いた顔であわてて取り繕おうとする里中の表情を荒木はじっと見つめた。なぜ里中はそんな誤解をしたのか。誰が里中にうちの家庭環境を――間違いも含めて教えたのか。・・・この人は知っているんだ。静かな確信が訪れた。

「――一緒に来るか・・・?」

「・・・え?」

「いったん家に寄って荷物を置いたらお袋の病院に行くつもりなんだ。もし時間に余裕があったら・・・一緒に来ないか?」

思いがけぬ誘いに荒木は硬直した。会うつもりなどなかった。自分の母親は一人だけだ。心の中ではそう叫んでいたのに、

「・・・行きます」 口は勝手に言葉を紡ぎ出していた。

 

「ちょっとだけここで待っててくれ。――急におまえが入っていったら驚くだろうから」

一人先に病室の中に消えた里中は、1分ほどしてドアから顔を覗かせると「入れよ」と手招きした。躊躇いながら荒木は部屋の中へと足を踏み出した。

正面のベッドに半身を起こしている女性は母よりも大分若い。病にやつれてはいるが整った、大人しそうな顔立ちをしている。自分たちとはあまり似ていないな、と思う。彼女は無言で荒木を見つめていた。万感の想いが浮かんでいるその目を見ていると、何だか胸苦しくてたまらなくなった。

「はじめまして。荒木新太郎です」 一息に言い切って、彼女の視線を避けるように頭を下げた。目頭が熱くなって涙が滲んできた。顔を上げられずにいると、ポンと頭に手が置かれた。髪の毛をくしゃくしゃと撫でてくれる感触がくすぐったかった。

――兄さん。

その手の温もりに勇気を得て顔を上げると、彼女が穏やかに微笑んでいた。慈愛に満ちた、どこか哀しげな笑顔がうっすらと霞んで見える。

母とは呼べない。自分はこの人に呼びかけるべき表現を持たない。それでも、伝えたい想いはいくらも心の内から湧き出してきた。

懸命に言葉を探しながら、荒木は口を開いた。

 


(2010年11月5日up)

 

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