Blood 3.5
夕暮れ時、人でごった返す新大阪駅の構内を里中は一人急ぎ足に歩いていた。
夏休みも終盤とあって、大きなカバンと旅行みやげを抱えて難儀している人たちの姿が目につく。それを横目に見ながら、旅行バッグは後から自分たちが持って帰るから最低限の手荷物だけ持っていけと言ってくれた山田の判断に里中は感謝した。荷物がないおかげですいすいと人の間をすり抜けてゆける。これなら走らなくても次の東京行きに十分間に合うだろう。ようやく人ごみを抜けたと思ったころ、
「ね、あれって明訓の里中くんじゃない?」
「え〜っ!どこどこっ!?」
すぐ後ろの方でかん高い声がして、里中はぎくりとした。一年の夏に地区大会で優勝して以来、行く先々で見知らぬ人々―とりわけ少女たちに声をかけられたり囲まれたりすることが増えた。集団になった時の女子の手に負えなさをこの二年で思い知らされた里中は、知らない振りで足早に通りすぎようとしたが、
「あー!ほんとだっ!里中く〜ん!」
「優勝おめでとうございます〜!テレビで応援してましたあ!」
それより早く制服姿の女子四人に前面に回りこまれてしまった。しかも彼女たちの黄色い声に回りの通行客もこちらに目を向け始めている。去年の夏に甲子園入りしたとき、新大阪駅のホームが明訓ファンで溢れたため急遽京都で下車するはめになったことを里中は思い出した。まして今の場合、甲子園大会優勝の当日だけにファンもかなりの興奮状態にあることは想像に固くない。
「すみません、急ぎますんで」
早口に断って隙間を通り抜けようとするが、その向こうからさらに女子の集団がわーっと駆けてくる。本当に勘弁してくれ、今はそれどころじゃないんだと叫び出したい気分になった時、突然脇から誰かに右腕をぐっと掴まれた。そのまま狭まりつつあった人垣から力づくで引っ張り出される。
こんな乱暴な真似をするのはどこの誰だ。里中は相手の顔を振り仰いだが、目深に被った帽子に隠れて顔が良くわからない。どうも自分とそう年の変わらない若い男のようだ。
「走るぞ」
とりあえず文句を言ってやろうと口を開く前に、男が短く告げると里中を引きずるように勢いよく走り出した。ちょっと誰あれー、里中くん待ってー、と叫ぶ少女たちの声がたちまち遠ざかってゆく。里中は引っ張られて走りながら男の背中を眺めた。自分より頭半分は大きいだろう長身にがっしりと逞しい体つき。腕を掴む握力は強く、容易には振りほどけそうもない。もっとも今の里中はこの男に抵抗するつもりはなかった。自分が困っているのを見て助けに入ってくれたのは明白だったし、どことなく知っている男のような気がしたからだった。
100メートルほど走って適当な物陰に里中を押し込んだ男は、自分の体を壁にするように立って後ろを見回すと、
「どうやら追って来ないようだな。・・・全くおまえ有名人が優勝当日に素顔さらして一人で人ごみ歩いてんだから、無防備すぎるんだよ」
つけつけと言う乱暴な口調に里中はむっとして思わず相手を睨みつけた。
「なに睨んでんだよ、せっかく助けてやったのに。あーひょっとして、おれが誰かわかってねえのか?」
男はにやりと笑うと野球帽のつばを上げて見せた。よく日に焼けた精悍な、しかしまだまだ幼さを残したやんちゃそうな顔が顕わになる。
「――青田の中西!おまえこんなところで何してるんだ!?」
青田高校の中西球道。それはつい先日壮絶な戦いを繰り広げたばかりの男だった。
「何してるとは愚問だな。新幹線に乗りに来たに決まってんじゃねえか」 球道は頭半分小さい里中を見下ろしてひょいと肩をすくめてみせた。
「そういうことじゃなくて――チームメイトはどうしたんだ?」
「他の奴らは昨日準決勝の後すぐ千葉へ帰ったぜ。うちの学校は極貧なんでな、遠征費を極限までケチってんだ。おれは自費で一日残ったんだよ」
「何で」
「何でって・・・そりゃあ決勝戦を見たかったからだよ。紫義塾に友人がいるもんでな。ところでおまえこそ優勝校のエースが一人で何やってるんだよ」
「愚問だな、新幹線に乗りに来たに決まってるだろ。ちょっと急用があって、おれだけ先に帰ることになったんだ」
球道の言葉を真似て里中が言い返してくる。
「急用?急用って何だよ」
出すぎた質問かとも思ったが、里中だって自分が一人残った理由を聞いてきたのだから尋ねる権利はあるだろう。里中はちょっと眉をしかめたが、しぶしぶと口を開いた。
「別に大したことじゃない。・・・お袋が入院してるからなるべく早めに帰りたかっただけだよ」
入院と聞いて球道の頭に昨日の試合の状況が蘇った。5回裏、先発の岩鬼に代わってマウンドに立った里中は、まだ一球も投げないうちに大会役員に呼び出しを受けた。長く不可解なタイムの末戻ってきた里中は、前日以上の鬼気迫るようなピッチングを見せたのだ――。
「おいひょっとして、昨日の試合中に呼び出されてた、あれは・・・」
「・・・一時容態が急変して、危篤状態に陥ったんだ。すぐに意識が戻って、もう危険は脱したんだけど」
「おまえ何が『大したことじゃない』だよ!とっとと神奈川に帰れ!今すぐに!」
「だから帰るためにここにいるんだろ!危険は脱したって言ったろうが!」
球道に釣られたのか大声で言い返してから、
「・・・心配してくれて、ありがとな」 里中は少し微笑んだ。そんな表情をすると双眸の勝気そうな光がやわらぎ、とたんに甘い雰囲気を帯びる。こいつが女に騒がれるわけだよなあと球道は妙なところに感心した。
「ほら、いいからとっとと行け。東京行きに乗り遅れるぞ」
「『とっとと行け』って、中西だって東京方面だろ?」
「――いや、おれは逆方向だ。ちょっとヤボ用があってな」 さりげなく言ったつもりだったが頬に熱が集まってしまう。
「ふうん」 軽く小首を傾げた里中の様子に、何を赤くなってるんだとツッコまれるかと思わず身構えるが、列車の時間の方が気になったのだろう、
「じゃあおれ行くから。助かったよ」
軽く手を挙げて駆けていこうとするのを「ちょっと待て」と球道は引き止めた。
「何だよ、行けって言ったり待てって言ったり」
「これ」
球道は野球帽を脱ぐと里中の頭に被せた。身長相応に頭も球道より小さいらしく、そうすると顔がほとんど隠れてしまう。
「被っていけよ。またファンに囲まれるぞ。有名人なんだから」
「中西だって有名人じゃないか」 帽子のつばを持ち上げながら里中が言う。
「有名の程度が違うだろ。後から青田高校宛てで送り返してくれりゃあいいからよ。・・・お袋さんを大事にしろよ」 ポンと帽子の上から里中の頭を軽く叩いた。
「わかった。ありがたく借りとくよ。じゃあな!」
今度こそ里中は軽快な足どりで東京行きの新幹線ホームへ向かって駆け出していった。
たちまち遠くなる小さな背中を見送りながら、球道は口元に笑いをのぼせた。
紫義塾高校に友人がいるから決勝戦を見たかったというのは嘘じゃないが、完全に本当でもない。自分はあいつと里中の対決を見たかったのだ。自分と同じ速球派の壬生狂四郎と軟投派の里中のどちらに軍配が上がるのか。
己の技量を恃む投手たちがこぞって山田との対決を望んだように、球道もまた「明訓は山田太郎のチーム」だと思っていた口だった。里中に対しては、一定の技量はあれどあくまで山田の豪打と殿馬に代表される鉄壁の守備に支えられたピッチャー、という認識でしかなかった。実際に彼と戦ってみるまでは。
あの小さな体で、頭と足に傷を負いながら、このおれを相手に一歩も退かず投げ合った精神力。怪我を恐れず体でボールを止めに行く無鉄砲さ。何度も倒れそうになりながら挫けず立ち上がってくる負けん気の強さ――里中はその外見とはおよそかけ離れたど根性の塊のような男だった。そして予選決勝で傷ついた左腕を吊ってまでマウンドに立った自分と同じ・・・生粋の野球バカだ。なぜ里中が「小さな巨人」と呼ばれているのか、その異名の意味を球道は敗北とともに思い知らされたのだ。
だから見届けなくてはと思った。狂四郎の友人として、「里中ファン」として、あの決勝戦だけは。そのためにあえて大事な用事を一日遅らせたほどに。
結花、と小さく球道は呟いた。福岡で暮らした数年間に強烈な印象を刻みつけた美少女。そして原因不明の病で両目の光を失ってしまった少女。自分が駆けつけたところで何ができるものでもないかもしれない。それでも側にいてやりたかった。側にいたいと思った。
――待たせたな結花。優勝の報告はできないけど、今すぐおまえのところへ行くからな。
球道は博多へ向かう新幹線に乗るべく、階段を足早に上っていった。
見てのとおりシリーズの前後から完全に独立した話なのですが、『Blood 4』と背景の設定がかぶるので番外編扱いにしました。初めて球道を書けたのが嬉しかったです。
(2010年9月25日up)
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