Blood 2

 

「里中さん、検温の時間ですよ」

馴染みの看護婦が明るい声とともに病室へ入ってきたのへ、加代は挨拶代わりに微笑んだ。看護婦も部屋のテレビに視線をやってふっと笑顔になった。画面には遠い甲子園の実況中継が映っている。

「智くん、一回戦無事勝ちましたね。もうナースステーションも先生方も大騒ぎですよ」

看護婦の言葉に加代は目を細めた。この病院の人たちは本当に自分たち母子に良くしてくれる。智がこの間まですぐ隣のゴルフ場でキャディのバイトをしていたのは病院長が向こうの支配人に紹介してくれたからだったし、入院費もすぐには払えそうもないのに、こうして個室を融通してくれたうえ「息子さんの試合を見たいだろうから」と言って特別にテレビまで入れてくれた。院長が高校野球ファン、それも明訓びいきだったおかげらしいが、どれだけ感謝してもしきれない。

「ありがとうございます。・・・実はあの子の試合をこんなにちゃんと見たのはこの大会が初めてなんです」

「ずっと働きづめだったんですものね。この機会にしっかり骨休めしてくださいな」

看護婦はいたずらっぽく笑いながら体温計を取り出した。それからテレビにふと目をやって、「あら、智くん?もう試合終わったはずなのに」と呟いた。

何のことかと画面を見た加代も、その少年の姿に少なからず驚いた。確かに智の試合はもう終わっている。ユニフォームのデザインも違う。他人の空似だ。しかし看護婦が見まちがうのも無理ないほど彼は息子とそっくりの顔をしていた。母親の自分でさえうっかりしかねないくらいだ。

『しかしまあ荒木くんはよく明訓の里中くんと似てますねえ・・・・・・カメラさんアップにしてください』

アナウンサーの言葉に続いてカメラが少年の顔を画面いっぱいに捉えた。「彼」は端整な顔立ちに愛嬌のある、同時にどこか不敵な笑顔を浮かべている。

『そう、ハンサムなところまでそっくりですねェ』

「驚いたわー、ほんとそっくり。世の中にはよく似た人間が三人いるっていうけど、そのうち二人が甲子園に揃っちゃうなんてすごい偶然ですね」

看護婦の言葉は加代の耳に届いていなかった。荒木、という姓が彼女の心を捉えていた。

『いや本当に双子のようです。まあ荒木くんは一年生で里中くんは三年生ですから、双子じゃなくって兄弟というべきでしょうか』

――智より二つ下、荒木・・・・・・。

加代の脳裏に16年前の出来事がありありと蘇った。それは当時の彼女が犯さざるを得なかった罪≠フ記憶――。

 


 

あの日、自分は近所まで買い物に出かけようとしていたところだった。妊娠9ヶ月に入ったお腹を抱えて1歳8ヶ月の智を連れてでは大変だろうと重い物は休日に夫が買いに行ってくれていたが、それだけでは日々の食料の全てをまかなうには足らない。よいしょ、と大儀な体を起こして出かける仕度をしかけた矢先に電話が鳴った。

――いきなり電話口で病院の名前と状況を告げられたとき、正直意味がわからなかった。夫が交通事故に遭った、近くの病院に搬送されたが意識不明の重体である、保険証をもってすぐに来てほしい。数秒経って言葉の中身がようやく呑みこめたとき一気に血の気が引いた。

母親の様子に不安をおぼえたのか、智がスカートを引っ張ったのに、はっと我に返った。しっかりしなくちゃ。私がしっかりしなくちゃ。懸命に気持ちを落ち着かせ必要事項を確認すると、戸惑う智を引きずるようにして病院へと向かった。

可能なかぎり急いだはずなのに、病院に到着すると同時に知らされたのは、治療も及ばず数分前に夫が息を引き取ったという残酷な事実だった。茫然としたまま病院の人に付いて歩いて・・・夫の遺体に対面した瞬間に激しい痛みが下腹部を襲った。いけない、この子までは。お腹を抑えたまま膝から床に崩れた私の耳に、周囲のどよめきが他所事のように遠く聞こえた。

 

今にも途切れそうな意識を励ましながら分娩室で無我夢中の数時間を過ごし、気が付いた時には一人ベッドの上に寝て天井を見つめていた。横たわったまま視線を下ろす。予定より早く中身を失ったお腹に、ぽっかりと穴の空いたような、頼りない気分を覚える。全身がひどく疲れ切って重かった。

これからどうすればいいのだろう。あの人はもういない。私を置いて、もう二度と戻れないところへ行ってしまった。互いに天涯孤独で、頼れるような親戚もない。決して丈夫とはいえないこの体で、やはり病弱な智と月足らずで生まれたばかりの赤ん坊を抱えて、どうやって生活していけるのだろう。

夫の死を悲しむよりも――私は茫然とし、そして絶望していた。一人で生きてゆけるほど私は強くない。小さな子供二人を一人で育てられるような、そんな強さは私にはない。目尻から涙の筋がこめかみを伝うのがわかったが、それをとどめようとは思わなかった。もはや何をする気力も尽き果てていた。

その時、「失礼します」とノックとともにドアが開かれた。そこには白衣の男性と、彼に手を引かれた智が立っていた。智はこちらを見るとぱっと目を輝かせて、よたよたする足取りで走ってくると、ベッドの上にボンと上体を乗せる。

「ほら、乱暴にしたらいけないよ。お母さんは疲れてるんだから」

「いえ、いいんです」

お医者様が優しく言ってくれるのを私はやんわりと退けた。智の体の重みが伝わってくる。小さな頭に手を伸ばしそっと髪を撫でてやる。その温もり。確かな存在感。ゆっくりと、しかし確実に、胸の内を強い想いが満たしてゆく。

そうだ、私は強くならなければならない。私しかこの子を守ってやれる者はいないのだから。

「里中さん・・・ご主人はお気の毒でした」

重々しい先生の声に、胸がまたずきりと痛んだ。しかしもうその痛みから目を背けることはしない。事実は事実として受け入れ、今後のことを考えなくてはならない。あの人と私の、二人の子供たちのために。

「赤ちゃんは・・・どうなりました?」

「予定より早い出産だったので今は保育器に入ってますが、元気ですよ。少し体重が少ないくらいで、異常は何も見られません」

早産は赤ん坊に何らかの障害が残る場合が多い。ぎりぎり9ヶ月に入っていたからきっと大丈夫とは思ったが、先生の言葉にほっと胸を撫で下ろした。

「ところで・・・今こんなことを言うのはあれなのですが、これからどうなさるおつもりですか?」

穏やかな顔を少し曇らせた先生の言葉を、鈍った頭で反芻する。自分は本来別の産婦人科にかかっている。転院に関する質問だろうか。しかし先生の口調にはもっと重いものが感じられた。まさにさっきまで私自身が悩み絶望に沈みかけていた問題――夫を失い小さい子供を二人抱えた自分の身の振りようをどうするべきなのか、この人はそれを問うている。

「・・・わかりません」

自分でも驚くほど弱々しい声になった。まずは働き口を見つけることだろうが、1歳を過ぎた智はともかく生まれたばかりの赤ん坊を預かってくれるところなどあるだろうか。――強くあらねばならない、そう決意だけはしてみても、生きるための具体的な目処など何も立ってはいないのだ。再び出口の見えない絶望感が心を浸してゆく。

言葉を失った私を先生は痛ましげに見下ろしていたが、やがて意を決したように口を開いた。

「里中さん。これはあくまで一つの可能性として聞いてください――」

 

そう前置きして先生は今日この病院で起こった悲しい出来事について語り出した。その女性は結婚から10年近く経ってようやく待望の子供を身篭った。しかし元より体の弱かった彼女は9か月に入ったところで突然破水、出血多量による意識不明状態で運び込まれ、緊急帝王切開を行うも子供は死亡・・・さらには今後の妊娠も叶わぬようになってしまった。彼女の精神的肉体的ショックを思ってご主人は死産の事実を告げることをためらっている――。

「あなたも今はとても気持ちの整理の付かない状態でしょう。そんな時にこんな話をするのは非常識だとも思います。しかし子供を切望しながらかなわなかったご夫婦と、せっかくお子さんに恵まれながらもその養育が困難と思われる方が、同じ日にこの病院で出産をされた――これもめぐり合わせのようにも思えるのです」

「・・・つまり、赤ん坊を養子に出せ、と」

「これはあくまでもそういう選択肢もあるというだけのことです。もちろん里中さんが何としてもご自身の手でお子さん二人を育てると仰るなら、そのご決心に口を挟む意志は毛頭ありません。しかしもし、もしも、あなたが赤ちゃんをご自身で育てることが難しいと考えていらっしゃるなら――それも一つの方法ではないかと、そう思うのです」

懸命に表現を選んではいるが、生活苦の末の母子心中といった事態をこの人は懸念しているのだ。そしてこの先そんな事が決して起こらないと断言することは、今の私には、出来なかった。

「――とんだお節介かもしれませんが、縁あって出産を手助けさせて頂いた方たちには・・・取り上げた赤ん坊には、幸せになってほしいと、私はそう願っています」

この人の提案は私と赤ん坊の間を引き裂こうというものだ。けれども先生の言葉には誠意と温かみがあった。赤ん坊と智の幸せのために私は最善を尽くさなければならない。そのための、あくまで選択肢の一つとして考えれば・・・決して悪い話ではなかった。

 

それから30分ほどの後、病室のドアが再びノックされた。深く息を吸い込んでから、「どうぞ」と短く返事をすると静かに扉が開き、壮年の紳士が部屋へと入ってきた。・・・それが荒木さんとの出会いだった。

私は大分意地の悪い目で彼を値踏みしたと思う。もしかすると赤ちゃんの将来を握っているかもしれない人なのだ。しかし30代後半と見える年齢に即した落ち着きも、身なりや挙措も、どこにも取り立てて文句のつけようがなかった。何よりその沈痛な面持ちに失ったばかりの赤ん坊と妻の嘆きを想っての苦悩がありありと刻まれていることが私の胸を打った。

この人も同じなのだ。赤ん坊の、夫の死に衝撃を受けながらも、今現在生きている大事な存在を守るために最善の道を探し求めている。出会ったばかりのこの男性に、私は強い共感を抱いた。そして同時に思った。この人なら信用できる。この人になら託せる。それが子供たちのために私の取り得る最善の道なのだと。

――どうか、お願いします。あの子を貰ってやってください。

そう口に出した時から、彼の奥さんには内緒で一切を運ぶと決めた時から、私たちは共犯者≠ノなった。

 

赤ん坊を荒木さんに引き渡し、ささやかながら夫の葬儀を済ませて、私と智と二人だけの新しい生活が始まった。

焼香に来てくださった荒木さんは、以来月々いくばくかのお金を振り込んでくれるようになった。奥さんに知れれば変に勘ぐられかねない。あの子を育ててもらってるだけで有難いのだからと当初私は固辞したが、「智くんのために使ってください」と言われれば断り切ることもできず――実際、智を中学高校と私立に通わせるのに、そして度重なる怪我の治療代に、このお金がどれだけ役に立ってくれたか知れなかった。この送金は荒木さんがあの事故に遭うまで一度も途切れることなく続いた。

智が高二の春、大型トレーラーがバスに衝突する大事故が起き、その被害者の中に荒木さんの名前があった。意識不明の重体。続報は出なかった。安否を確かめるすべもなかったが、それきり送金が途絶えたことが全てを物語っているに等しかった。

思えば私たちの関係は奇妙なものだった。毎月欠かさず少なくない額のお金を送ってもらい、奥さんも知らぬ秘密を共有していた。人が知ったら不義の仲と疑われてもおかしくなかっただろう。15年前に数回会ったきりにもかかわらず、私たちの間には色恋とは全く異なる、けれども特別な絆が確かにあったのだと思う。

その共犯者≠ェいなくなったことは私の心に大きな喪失感を与え、それ以上に経済状態の急激な悪化をもたらした。夫との思い出が残るアパートを引き払って築30年以上のボロアパートへ移り、これまで以上に懸命に働いても一向に暮らし向きは楽にならなかった。次第にめまいや吐き気を覚える日が増えていった。智には、一年のほとんどを野球部の合宿所で過ごしていたのを幸い、できるかぎりお金の苦労や体調のことは隠してきたが、それでも胃が痛んで眠れない夜には、一人の部屋が無性に不安に思えた。

結局、春の選抜で優勝して意気揚揚とアパートに帰ってきた智の顔を見た途端、安堵感のゆえかそのまま意識を失ってしまい――検査の結果、長期入院しなくてはならなくなってしまった。自分の病気よりも辛かったのは、そのために智に高校中退という選択をさせてしまったことだ。それでも智がずっと側で甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのに、私は同時に喜びを感じてもいたのだ――。

そんな未練を断ち切り智の背を押すようにして明訓へと送り返したのはほんの一ヶ月前、そして智を加えた明訓野球部は無事地区予選決勝を勝ち抜き、五たび甲子園へと旅立っていった。

 

――その甲子園大会でよもや、あの子の消息を知ることになるなんて・・・。

 


 

加代は看護婦に借りた出場校選手名鑑(院長の野球好きに看護婦たちまで感化されているのかナースステーションに置いてあった)をめくった。看護婦は智のページを見るために借りたのだと当然思っているだろう。

目当てのページはすぐに見つかった。荒木新太郎。光高校一年。ポジションはピッチャー。両手投げ。168cm65s。血液型A型。

新太郎、と口の中で呟いてみる。荒木夫婦が息子に何と名付けたのか加代は今まで知らなかった。待望の長男に対する彼らの思いが滲んでくるような名前だと感じた。

あの子も・・・新太郎も野球をやっていた。しかもピッチャー。顔だけじゃない、そんなところまで似ているなんて。

ついで数ページ前を開く。里中智。明訓高校三年。ピッチャー、右投げ右打ち。168cm65s。血液型A型。

加代は両手で顔を覆った。これでは気づかれてしまう。誰かに必ず気づかれてしまう。顔が似ているだけならいい。ポジションが同じなのもただの偶然ですむ。しかし身長体重血液型まで同じではとても他人だとは思ってもらえないだろう。二人とも今日本中の注目を集めている状況にあり、特にすでに3度の優勝投手となっている智の周辺には常にマスコミの人間がうろうろしているはずだ。目ざとい彼らは実況放送のように単なる「他人の空似」と割り切ってはくれまい。ガセネタ覚悟で新太郎の出生を調べたりしたら。

・・・奥さんが新太郎を実の子でないと知ったなら二人の関係はどうなってしまうのか。荒木さんは赤ん坊を失ったと知った時の奥さんの精神状態をひどく心配していた。夫亡き後は唯一の家族と思ってきた息子と血の繋がりがないとわかったら、身も心も人一倍繊細な女性は正気を保てるだろうか。

――そして新太郎は、いったいどう思うだろうか。

 

新太郎は荒木の両親を実の両親と思って育ったはずだ。今もきっと、そう信じている。それが実の親でないと知ったらショックを受けるだろう。そして私を、恨むだろう。

そう、どんな事情があろうと、私が新太郎を手放したことは事実なのだ。他人に託して見返りもしなかった、結局は自分を捨てたのだろう、そう罵られても反論する資格などない。大黒柱のいない家庭で、経済的な困窮を味わわせたくなかったからこそあの子を手放したのに、結局あの子は中学三年でまた父親を亡くすことになってしまった。

あの子が今どこにいるのか、その気になれば調べる手段はあっただろうに自分はあえてそうしなかった。それはきっとあの子の顔を見るのが怖かったのだ。良かれと思って苦衷の末に選んだ、自分の選択が誤りだったとは思いたくなかった。あの子の不幸そうな姿を見たら果てしなく後悔に苛まれそうで――つまるところ私は逃げ出したのかもしれない。まだ中学生だったあの子を置き去りに。自分と智のことで精一杯で、私はあの子に何もしてやれなかった。母親らしいことはほんの一つっきりも、してやらなかったのだ。

あの子に会いたい。会って、手を取って詫びたい。だけどあの子に憎まれるのが恐ろしい。自分が名乗ることであの子とお養母さんとの関係を崩すのが恐ろしい。

 

・・・選手名鑑を見つめたまま思考の堂々巡りを繰り返していた加代は、ノックの音にはっと物思いから覚めた。壁の時計を見上げる。こんな半端な時間にいったい誰だろうと思いながら、「どうぞ」と答えるとゆっくりドアが開いた。そこにはやや小太りの小柄な男性が立っていた。大きな鼻と顔の前に手をかざすような仕草が特徴的な人だった。

「・・・里中智くんのお母さんですね」

「はい・・・」

訝しげに返事をした加代に男は名刺を差し出した。フリージャーナリストの平源造とある。

智のことで記者が取材に来るのはこれが初めてではない。でもタイミングがタイミングだけに嫌な予感が胸の奥からこみあげてきた。

加代は動揺を顔に出すまいと努めながら、男が口を開くのを待った。

 


原作(『大甲子園』)では里中荒木兄弟疑惑を追っていた記者の名前は「源造」としかわかりませんが、『野球狂の詩』に顔も仕草もそっくりな詐欺師の「平源造」氏が出てくるので、名字はそこから取りました。

(2010年7月30日up)

 

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