Blood

 

「あーっ!」という金属質な叫びに、荒木は眠りを破られた。いつのまにかうとうとしていたらしい。

目の前の廊下をストレッチャーがガラガラと音を立てて通りすぎてゆく。

「だいじょうぶですかー!聞こえてますかー!」

台の上に寝かされている女性は看護婦の呼びかけに瞬きだけで応えた。蒼ざめた顔に脂汗が滲んでいる。腹部の盛り上がりから妊婦だと察せられた。あの様子からすると、早産だろうか。

「やーっ!あーーっ!」

小さな子供が泣き叫びながらストレッチャーを追ってよたよたと走ろうとするのを、年かさの看護婦が懸命に押さえつけている。小さいながらに母の身にただならぬ事が起きているのを察しているのだろう、幼児はめちゃくちゃに手を振り回して声を上げつづけていた。

ストレッチャーが分娩室に運び込まれ、扉が閉ざされた。どうか母子ともに無事であってほしい。荒木は祈るように手を組み合わせた。正直彼にとっては他人事ではない。荒木は向かいの手術室のドアを見つめた。この中では彼の妻がさっきの女性と同じように戦っているのだった。

 

ようやく手術室のランプが消えたのを見て、荒木はさっと立ち上がった。疲労を隠せない顔で部屋から出てきた医師に思わず詰め寄る。

「先生、妻は、お腹の子供は・・・・・・。」

「奥さんは無事です。完全に回復するには少し時間がかかりますが、命に別状はありません。しかしお子さんは、残念ながら・・・」

荒木は胃がぎゅっと締め付けられるのを感じた。最悪の状況も覚悟していたのだ。妻が助かっただけでも良しとしなくては。そう思おうとしても初めての子供を失った衝撃は和らぐものではなかった。

ショックを隠せぬ荒木を医師は痛ましげに見つめていたが、思い切ったように口を開いた。

「――もう一つ、残念なお知らせがあります・・・・・・」

 

病室に移された妻の枕元に荒木は腰をかけた。顔色はまだ青白いものの、今は穏やかな表情で眠りについている。意識不明の状態で緊急帝王切開となった彼女はまだ子供の死を知らない。目を覚ましたとき、彼女が直面する悲しみを思うと、荒木は涙をおさえきれなかった。荒木の脳裏にさきほどの医師の言葉が蘇る。

――奥さんの体はもう、子供を産むことはできません。

結婚から十年近くを経てやっと授かった子供。もともと体が丈夫でない彼女が妊娠・出産に耐えられるか危ぶむ気持ちはあったのだが、妻は子供を切望していた。妊娠がわかったとき彼女がどれほど喜んだか、その顔を思い出して荒木は頭を抱えた。こんなことを彼女に告げなければならないのか。あれほど望んだ子供は死んだのだと。もう自分たちは子供を持つことはできないのだと。

彼女は産後は当面子供にかかりきりになるのだからと、出産ぎりぎりまで懸命に働いていた。それがこの事態を招く原因となった。妻は自分を責めるだろう。この辛すぎる事実は手術で弱った彼女の体にとどめを差してしまうのではないか。

妻の寝顔から目を背けて、声を殺して荒木が涙にくれていたとき――病室のドアがノックされた。

 

日頃からこうした斡旋を行っていると誤解しないでほしいのですが。そう前置きしたうえで担当の医師は話しはじめた。

今日この病院で子供を産んだ女性がいる。荒木の妻と同じく九ヶ月での早産でやはり男の子だった。

――あのストレッチャーの女性か。あちらは無事に子供が産まれたんだな。

さっきは彼女の無事を願った荒木だが、いまとなっては自分の妻と逆であってくれたならとつい思わずにはいられない。

「本来はこの病院の患者さんじゃないんです。今日の夕方、あの女性のご主人が交通事故で運び込まれて――上のお子さんを連れて駆けつけたときにはすでに息を引き取ったところでした。そのショックで破水してしまったんです」

幸い子供は何とか無事に産まれ今は保育器の中で安静を保っている。一時意識を失った母親の方もすでに目を覚まし、危険な状態は脱している。

「しかし、彼女もご主人も身寄りがないんだそうです。今は子供を産んだばかりで働けないし、上の子もまだ小さい。とても赤ん坊を育てられる状態ではなくて――本人もすっかり途方に暮れている様子だったので、それで僭越とは思いましたが、荒木さんのことをお話ししたんです」

――今日この病院で子供を死産した女性がいる。子供を切望していたが、もはや子供は望めない体になってしまった。

「そうしたらしばらく考え込んでいらっしゃいましたが・・・あなたに会ってみたいと。場合によっては、自分の子を託すことも考えてよいとそう仰いました。もちろん私が勝手に答えられることではないですから、先方の意向を伺ってみますとだけ返事をしました・・・」

 

医師から教えられた部屋の前に立ち、しばらくためらったすえ、荒木はドアをノックした。

「どうぞ」

ようやく聞き取れる程度の細い声が返事をする。「失礼します」と声をかけて扉を開けた。

中央のベッドに横になっていた女性が懸命に体を起こそうとする。「いや、どうぞそのままで。無理をしないでください」とあわてて言うと、「すみません」と彼女は力なく息を吐き出した。

「里中さん、ですね。はじめまして。荒木と申します」

深く頭を下げると、里中加代は横になったままわずかに頭を俯けて会釈をした。まだ若い。二十歳を少し過ぎたくらいだろう。華やかさはないが整った顔立ちをしている。その顔も今は青ざめ、大分やつれていた。

「お子さんのこと、お気の毒でした」

小さく告げられた言葉に改めて胸が痛んだ。「ご主人も、ご愁傷様です」とやっと声を絞り出す。

沈黙が落ちた。いきなり本題に入るのもためらわれて、荒木は傍らに視線を移した。ベッドの隣に用意された子供用の椅子の上で小さな子供がすやすやと寝息を立てている。

「お子さん、1歳ちょっとくらいですか」

「1歳ともうすぐ8ヶ月です」

先ほど廊下で暴れていた時印象的だった大きな瞳は、今は瞼の下に隠れている。とても愛らしい容姿の子だ。きっと母親以上の美人に成長するだろう。

「智といいます。・・・男の子ですよ」

言い足して、加代はかすかに微笑んだ。しょっちゅう間違われてるのだろう。自分の内心を読まれたようで、荒木は少々決まりが悪くなった。

「私の弱い体質を受けついでしまって・・・。すぐに熱を出すのにやんちゃだから困りものです」

目を細めて息子を見つめる表情には、深い愛情があふれていた。

「・・・だから、私はこの子を守らなければなりません。どんなことをしてでも」

急に加代の声が力を帯びたのに荒木ははっとした。

「夫はもういません。頼れる親戚もいない。この子には私しかいないんです」

「里中さん」

「荒木さん。お話は伺いました。下の息子をお願いできますでしょうか」

思いのほかあっさりと、向こうから話を切り出してくれたことに正直安堵しつつ、同時にきっぱりと言い切った加代の口調にかえって彼女の苦衷を感じて荒木は胸が苦しくなった。血を分けた我が子を失う辛さ。自分が思い知ったばかりのそれを、今度は目の前の女性に味わわせようとしている。

「あなたは社会的地位もある、きちんとした方だとお見受けしました。どうかあの子を育ててやってください。・・・私一人ではきっとあの子まで守ってはやれない。あの子も、智まで、きっと・・・」

加代が声を詰まらせた。その目から涙の筋がこめかみへと流れるのを力なく持ち上げた指でそっと押さえると、

「どうか、お願いします。あの子を貰ってやってください」

頭を下げる代わりに目を伏せて、しっかりした声で告げた加代に、荒木は感動を覚えていた。夫を失ったばかりで、今また誕生を待ち望んでいたろう息子に別れようとしている。憔悴し、やつれた姿で、それでも気丈な態度を崩さない。これが母の強さか。智を、生まれたばかりの子供を守ろうとする強い気持ちが、彼女を支えている。

荒木は十数メートル向こうの部屋で眠る妻の顔を思い浮かべた。彼女を母親にしてやりたい。そう思ったとき、荒木の中から躊躇は消えていた。

「こちらこそお願いします。息子さんは何に代えても、立派に育てあげて見せます」

荒木の言葉に、加代は目で頷き、またうっすらと涙ぐんだ。安堵と悲しみと、子供への限りない愛情に満ちたその眼差しに、思わず荒木も涙を誘われそうになり、懸命に自分を抑えた。

「・・・名前は、もう考えていらっしゃいますか」

すでに決めた名前があるのなら、実の両親の形見代わりにその名をもらおうかと思ったのだが、

「いえ。お任せすると決めた以上、あの子はもう荒木さんの子供です。荒木さんと奥さまの良いと思う名前を付けてください」

その毅然とした態度に荒木は再び胸を打たれた。やはり名前はとうに決めてあったのだろう。しかし彼女はその名前を自分の胸一つに秘めて、きっぱり我が子への未練を断ち切ろうとしている。この人の強さを子供を介して妻にも持ってほしい。切にそう感じた。

それから養子縁組の手続きなどについて最低限の打ち合わせをすると、荒木は病室を辞すことにした。もっと話をしたい気持ちもあったが、出産直後の加代の体の負担を思えばそうもいかない。妻の様子も気がかりだった。

「どうか、お元気で」

「荒木さんも」

それ以上互いに言葉が出てこなかった。荒木は何も知らず眠り続けている幼児を見下ろし、目を覚まさないようにそっと頭を撫でた。

「元気でな、智くん」

お母さんはとても強い人だ。君もその強さを受けついで立派な男になれ。そして今度は君がお母さんを守ってやるんだぞ。

荒木は静かにドアを閉め、軽く深呼吸をしてから廊下を歩きはじめた。これから自分も戦わなくてはいけない。体も心も弱っている妻と、新たに得た赤ん坊を守るために。

 

長い眠りから目覚めた妻は子供が無事生まれたと聞いて一方ならず喜んだ。すでに担当の医師には加代と取り決めた内容を話し、加代の子を妻には実子として説明する旨了承を得ている。病院側も精神的ショックが原因で急変しかねない彼女の容態を考慮して、口裏を合わせることを承知してくれた。

妻は保育器に入っている我が子を一目見たいとせがんだが、「まだ無理だよ。まずは起き上がれるようにならないと。早く子供の顔を見るためにも一日も早く体力をつけるんだ」と穏やかに諭すと「・・・そうね。母親になったんですものね。子供のためにももう無茶をしちゃいけないわね」と存外あっさりと引き下がった。

一日で随分痩せてしまった気のする顔に、朗らかな笑顔を浮かべる妻の顔を見て、これで良かったのだと荒木は思った。この先妻にはずっと秘密を抱えていくことになる。それを考えると胸の奥が重苦しくなるが、それは自分が耐えればいいことだ。妻の、家族の幸せのために。

 

加代の二番目の、荒木家の最初で最後の子供は「新太郎」と命名された。

 

「お父さん、お昼できたよ、お父さーん」

階段の下から父を呼ぶ新太郎の声に、母親が台所から顔を出す。

「いいのよ新太郎。今日は甲子園中継が終わってから食べるっていってたから。お父さんの分だけ取り分けておきましょ」

「お父さんそんなに高校野球に興味あったっけ。何も昼飯遅らせてまで部屋で見なくっても。下で食べながら見ればいいじゃない」

「やーよ、お母さんお昼のドラマ楽しみにしてるんだから。今週の展開はすごいのよー」

いそいそとテレビのスイッチを入れる母親の後ろ姿に、おれも甲子園の方がいいんだけどな、と息子は小さくぼやいた。

 

下の部屋のやりとりをよそに、荒木はテレビを注視していた。よろめきながらマウンドを降りた小柄な少年が太ったキャッチャーにがっちりと抱き止められる。その面差しは息子の新太郎とよく似通っていた。

『負傷にめげず投げぬいた里中くんを山田くんが抱き上げます ついに深紅の大優勝旗は神奈川県代表明訓高校が勝ちとりました』

「・・・立派な男に、なったんだな」

荒木は慈愛に満ちた瞳で、穏やかにつぶやいた。

 


里中と荒木が兄弟ではないかと勘ぐっていた源造さんが、荒木の母にインタビューして一度は兄弟説を諦めたのに、病床の加代に会いに行ったのちの明訓−光戦ではまた二人を兄弟と確信してるような態度を見せている。
新太郎は一人っ子で実子と言い切った荒木母が嘘をついてるようにも思えない。ならば里中・荒木が兄弟だと荒木母が知らず加代は知っているという状況はどうすれば成り立つのか、ということで考えた話です。
『スパスタ編』で出てきた、里中父は里中が三歳の時に死んだとか生まれる前に死んだとかの設定はスルーしといてください(笑)。

(2010年5月21日up)

 

 

 

 

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