be proud of

 

「うわっぷ、すごい埃。こんなもの勝手に引っ張り出して。監督にバレたら怒られるの僕なんですからねっ」

「そしたら俺がちゃんと謝ってやるからさ。たまには資料整理も必要だろうが」

 

事の起こりは一週間前にさかのぼる。毎年恒例の野球部OB会の席上、酒も回って盛り上がってきた頃合いに誰かがこの場にいない先輩の名前を出したのが始まりだった。

「しかし小林先輩はすごいっすよね。こないだもビジネス雑誌で『注目の若手実業家』とかって紹介されてたでしょ」

「あの写真決まってたよなあ。顔もスタイルもいいから高級スーツとか様になるんだよな」

「本場仕込みの英語と経営学の知識を生かして、海外にも手を広げてるって。さすがですよね」

自分にとって6期上の先輩にあたる小林真司は、高等部を卒業後再びアメリカに留学し、向こうで経営学の資格を取得した。帰国後は父親の会社を引き継ぎ、若社長として采配を振るい着実に業績を伸ばしているらしい。仕事が忙しいのか小林はOB会に全く顔を出さないから、もっぱら先輩の噂話と雑誌記事の受け売りに頼るしかないのだが。

「間違いなくうちのOBで一番の有名人ですよね!」

すぐ隣に立つ1つ下の後輩が明るい笑顔で言い切った瞬間、急に回りがしんと静まり返った。突然の空気の変化に奴は焦った顔になって「え、僕、何かまずいこと言いましたか?」とこちらを見上げてくる。

東郷学園は一応野球の名門校と呼ばれている。一応、というのはここ十年以上卒業生からプロに進んだ人間が一人もいないからだ。在校中は不動のエースとして一番プロ入りに近い位置にいると思われていたらしい小林にしてさえ、すっかり野球から足を洗って畑違いの分野で成功している。名門とは名ばかり、一人のプロ選手も輩出していない。それどころか長らく甲子園出場すら果たしていない。

激戦区で知られた神奈川は明訓、白新、横浜学院と強豪校が揃っている。近年で一番東郷が強かったのは小林がエースだった時代だと聞くが、それは不運にもちょうど明訓高校の黄金期と重なっていた。この時期の明訓は甲子園五期連続出場四回優勝という前人未到の記録を打ちたて、神奈川、いや高校野球界に王者として君臨していた。その「常勝明訓」の牽引力となった5人、いわゆる「明訓五人衆」は揃ってプロ入りし、白新、横学からも当時のエースピッチャーがプロに進んでいる。東郷学園はすっかり彼らの影に隠れてしまった形だった。そしてその状況は―明訓も他の二校も往時の勢いは失っているにもかかわらず―今も変わっていない。野球部OB一番の有名人が野球人ではない、その事に対する忸怩たる思いを東郷野球部に籍を置いた人間は少なからず共有していた。

 

「・・・いるよ。小林より有名な奴」

ボソリと呟く声が沈黙を破った。声の主を目で探す。カウンターの隅で一人グラスを傾けている男。OB会でよく見かける――小平先輩。確か小林とは同期だったはずだ。

「ほんとですか小平先輩。俺らも知ってる人ですか?」

「ああ。名前を言えばみんなわかる、はずだ」

わかるはずだと言いつつ、小平の口調はどこか歯切れが悪い。表情も何となし強張っているように見える。

「それは・・・」

思わず勢いこんで身を乗り出したとき、携帯電話の鳴る音がした。小平がポケットから携帯を引っ張り出して話しはじめる。丁寧な言葉つきから察するにどうやら仕事がらみの電話らしい。小平が電話のために店の外に出てしまったのでそのままこの話題は立ち消えになり、さっきまでの喧騒が戻ってきた。

――しかし俺は酔えなかった。「小林より有名な先輩」のことが頭の隅にこびりついて離れない。元キャプテンとして野球部OBの動向はおよそ把握している自信があった。その自分が知らない卒業生。酔ったはずみのフカシじゃないかと思ってもみたものの、日を追うごとにますます気になって仕方がない。ついには心のもやもやを解消すべく、次の休日に野球部の現マネージャーを無理に説きつけて練習休みの部室を開けさせたのだ。

 

「古い部員名簿なんて何年も棚で放りっぱなしになってますからね。なんか変な臭いしてますよ〜」

隣接の倉庫部屋から古いノート数冊を持って出てきたマネージャーはぐちぐち言いながら換気用に窓を開け、ゴミ箱の上でパタパタとノートを振るう。

「古本の臭いってやつだろ。埃払った分からこっちによこせ。文句言うな、大した量じゃないんだから」

あのとき小平は「有名な奴=vと言った。つまり小平と同期か年下、そして自分が知らない以上、自分が一年のときにはすでに卒業していたはずだ。つまり四年分の名簿をチェックしさえすればよい。まずは小平が三年だった当時の分からだ。

4月の段階で作られるのが習慣の名簿は、一年生の項だけ長く、その代わり横線で名前が消してある人間が何人もいる。さすがに一年生のうちに辞めた人間は知らない奴ばかりだが、そんな連中が後々プロで大成してるはずもないからこれは無視していい。他の先輩たちは小林のようにOB会にいつも不参加の面子も含め知っている名前ばかりだ。

次の年の名簿に移る。同じように頭から名前を追っていくが、それらしい人物はいない。その次の年も。――あるいは小平より上の学年なのだろうか。「奴」という表現に捕らわれすぎているのかもしれない。もっと古い名簿も持ってこようかと考えていると、

「こっちにもないですね」 頼みもしないのに自主的に最後の一冊を検分してたらしいマネージャーがほっと息を吐く。

「ないってお前、ほとんどの先輩の名前も現状も知っちゃいないだろうが」

「だって『名前を言えばみんなわかる』人なんでしょう?だったら僕が見てもピンとくるはずですよね」

痛いところを突かれて、思わず言葉を飲み込む。

「・・・そもそも先輩、言っちゃなんですけど、どうしてこんなにムキになるんですか?小林先輩より有名な人≠チてだけでプロ野球選手とは限らないんでしょう。だいたい本当にプロになった先輩がいたんなら、僕らが知らないはずないですよ」

こいつの言う通りだ。十年以上プロ選手が出ていない、それを悔しく思う気持ちがあればこそ、もしプロに進んだ先輩がいたならあの場の誰も知らないなんてことはありえない。ノンプロ経由であろうと大卒であろうと、現役部員とOBの間を連絡網がかけめぐり、快挙を成し遂げた先輩を囲んでの祝賀会の一つも企画されたはずだ。

小林のように野球以外の分野で成功したと考えるのが妥当なのかもしれない。しかしあの場の状況からすれば、小平はプロに行った人間、それも相応に活躍している人間を想定して発言したとしか思われなかった。場の空気を盛り上げるためにあえて嘘を口にしたのだろうか?それにしては小平の表情は妙に曇っていた・・・。

最後の名簿を閉じて席を立つ。ガタンと大きな音が立ったのに驚いたのか、再び倉庫にもぐっていたマネージャーが顔をのぞかせる。

「先輩?」

「邪魔したな。お前の言う通り、プロになったOBがいれば当然皆知っているはずだ。野球以外での有名人だとしても、この名簿にそれらしい名前は出てこなかった。酒の席での冗談だったんだろうよ。休みなのに呼び出して済まなかった」

「――待ってくださいよ。ここまできたらとことんやっちゃいましょう。万が一ってこともあるし、可能性が残ってるうちに投げ出したら今度は僕までもやもやしますから。それに資料整理にもなりますしね」

丸眼鏡の奥の目にいたずらっぽい笑いを含ませながら、マネージャーはテーブルにノートの束を置いた。途端にもわっと埃が舞い上がる。

「中等部の分の名簿です。小林先輩たちが在籍してたころの」

「中等部?中等部にいた奴なら高等部でも在籍してるだろ。中等部で野球を辞めたようなやつがプロになれるわけないだろうが」

「野球を辞めてはなくても転校したってことはあるんじゃないですか。親の転勤とかで」

確かに高校生ならまだしも、中学生は親が転勤になれば付いていくのが普通だろう。その可能性はあるか。

「よし、毒食らわば皿までだ。一つやっつけるか」

「本当にこれはちょっとした毒ガス並みですよ。息が苦しくなります」

アハハと笑いながら顔の前で手をパタパタと振るマネージャーに、こちらも釣り込まれてつい微笑む。他人の気持ちを上手く引き上げる――現役野球部はいいマネージャーに恵まれたな。

 

マネージャーの笑顔に励まされて手近なノートを開いた。小林たちが三年次の分だ。予想通り二、三年生のほとんどは高等部の名簿と変わらない。一年生の名前が多く横線で消されているのも一緒だ。

やはりそう上手くいくもんじゃないよな、とノートを閉じたとき、「先輩」と妙に緊張した声が隣から呼んだ。

「――ありました。間違いないです」

まさか、と思いながらえらく確信に満ちた声につられて慌ててマネージャーの手元を覗き込む。指さしているのは二年生の項。小平、小林とアイウエオ順に並んだ次に、信じられないような名前があった。

 

「里中 智」

 

「――里中智、里中智って、ロッテの里中・・・?そんなばかな、あいつは明訓の出身だろ?」

「明訓に中等部はありませんよ。同じ神奈川だから転勤の線じゃないな・・・たぶん高校を外部受験したんですね」

里中智。千葉ロッテマリーンズのエース。かつての「明訓五人衆」の、明訓黄金時代を築きあげた中核メンバーの一人。誰もが里中の出身校を聞かれたら明訓と答えるだろう。それはそうだ。里中が中学時代東郷学園にいたなんて、OBの自分たちでさえ全く知らなかったのだから。

あのとき小平が里中の名前を出さなかったのも無理はない。東郷を出て行った里中が明訓で大活躍していたそのために、小平在籍中の東郷はついに甲子園に行かれなかったのだ。裏切り者、とまでは言いすぎでも面白くないのが人情だろう。自分にしても、東郷からプロに行った先輩がいたと素直に喜ぶ気にはとてもなれなかった。

里中の名前の上には横線が引かれている。そして三年次の名簿に彼の名はない。

「なんで二年で辞めちまったんだろうな?」 マネージャーの推測どおり外部受験しただけなら三年まで籍がありそうなものだ。

「何でですかね。それにこれ、里中さんだけ何故か二重線で消してあるんですよ。どんな意味があるんだろ?」

言われてみれば確かに横線が二本になっている。他の部員とは違う、その念入りな消し方が心に引っ掛かった。里中が東郷を出たのには何か複雑な事情があったのかもしれない。しかしその解答はいくら名簿を睨んだところで得られそうもなかった。

 

「はい、もしもし」

「――小平先輩。夜分にすみません・・・」

いろいろと考えたすえ、結局小平に直接尋ねるのが一番早いだろうと結論したのだった。どうせなら最初からそうすればよかったのだが、本当とも冗談ともつかぬ内容を先輩に問い質すのはさすがに勇気がなかったのだ。名簿を調べた今は、あれが与太話でなかったことはすでに確定している。

「こないだのOB会で先輩が言ってたこと、どうしても気になって今日部室に行って調べてみたんです――」

今日の収穫をかいつまんで説明すると、受話器の向こうで小平が深く息を吐きだした。

「驚いたな。そこまでするかね」 あきれたようなくすくす笑いが聞こえてくる。その態度にちょっとムッとして、

「そこまでしたんです。先輩が言ってたの、明訓の里中、さんのことですね」

あえて「ロッテ」でなく「明訓」の表現を使った。

「ああ、そうだ。『明訓の』里中だな」

苦笑ぎみに答える小平の声には少し寂しいものが混じっていて、俺は自分の大人げなさを反省した。

「先輩に聞きたかったんです。・・・どうして里中さんは二年で退部したんですか。それに名簿を見たら里中さんの名前は二重線で消してあった。あれはどういう・・・」

数秒間、逡巡するかのような沈黙があった。それからおもむろに、

「二重線か――おれは名簿は見たことなかったけどそんな風に書いてあるんだな。あいつは普通に退部したわけじゃなかったから」

「普通じゃない?」

「里中は強制退部になったんだ」

とっさに声が出なかった。不祥事、という言葉が頭を駆けめぐる。その容姿と真面目な性格から球界の王子様扱いされ、スキャンダルの一つも起こしたことのない里中が、不祥事?

「別に何か事件を起こしたとかそういうのじゃないぜ。監督命令に楯突いたんだよ。レギュラーならともかくあいつは補欠だったから、監督もあっさりクビを言い渡したみたいだな」

「補欠!?」

今度こそほんとうに驚いた。元明訓の不動のエースで、現在はロッテの押しも押されもせぬエースとなっている里中が、東郷では補欠だったというのか?

こちらの驚きっぷりがよほど可笑しかったのか、小平は陽気に笑いながら言葉をついだ。

「当時うちのエースは小林だった。リトルリーグ世界大会で優勝経験のある小林は入部当初から即エースで――やはりピッチャー志望だった里中は、体が小さかったせいもあって、まるで取り合ってももらえなかった。運動神経は目立っていい奴だったから監督は内野にコンバートしようとしたんだが、里中はあくまでピッチャーにこだわった。結局ポジションが宙に浮いたまま補欠扱いになってたんだ」

意地を張らなけりゃすぐにレギュラーになれたのにな、と小平は一人言のように呟いた。

「二年のとき、試合中の事故で小林が目に大怪我を負った。手術で無事回復したが一時は失明寸前までいってたんだ。当然野球どころじゃなくて、控えピッチャーだった辻本がエースに昇格した。しかし張り切りすぎたのか間もなく肩を壊して――監督は里中を思い出した。

「里中にしてみれば思いがけず転がりこんできたエースの座だ。当然引き受けると思いきや、あいつはきっぱり断った。『繰り上がりのエースなんてまっぴらごめんだ』って。それで監督がキレちまったわけ」

正直俺は呆れ果てていた。そういえば里中は見た目によらず存外気が強いという話を聞いたことがある気がするが、それにしたって意地っぱりもいいところだ。

「もともと小林にライバル心剥き出しで監督にも平気で逆らう里中は、部内ではかなり浮いてたからかばう奴もいなくてさ。本人も謝るそぶりも見せずに「お世話になりました」の一言でさっさと出てっちまった。補欠のくせにプライドだけは一流だななんてみんな笑ったけど――今思えば一流なのはプライドだけじゃなかったんだよな」

誰に何を言われようと、投手であることに――自分の手でエースの座を勝ち取ることに執着しつづけた里中。誰に信じてもらえなくても里中は自分自身を信じた。その誇りを貫き通して、里中は大きく花開いたのだ。

「でもさ、おれたちも決して根っからあいつを嫌ってたってわけじゃないんだよ。あいつ、小林に対抗するためにアンダースローの変化球投手に転向したんだ。誰にも相手にされなかったから一人きりで練習してさ。その根性は正直すごいと思ったし、甲子園で怪我を押して投げ続けるあいつを、みんないつのまにか応援するようになってたんだ。神奈川県の、おれたちの、代表としてさ。

「アンダースローも変化球も足腰や手首に負担がかかる。まだ体が出来ていない中学生にはリスクが高い。里中は人より体が小さかったからなおさらだ。高校時代あいつが何度も故障に見舞われたのはそのせいもあったんじゃないのかな。再起不能になっててもおかしくなかったのに、そのたびあいつはマウンドに戻ってきた。やっぱりあいつは・・・選ばれた人間だったんだろうな」

ここで小平の声が急に弾むような響きを帯びた。

「なあ、あいつが変化球投手に転向したあと、最初にボールを受けたのはおれだったんだぜ。キレが良すぎて取れなかったんだけどさ。それでも「小さな巨人」の誕生に少しでも関わったかと思うと何だか――誇らしいよな」

あいつの方はもう覚えてもないだろうけどな。小平は明るい声で笑った。

「・・・じゃあ、里中さんを恨んだりはしてないんですか。東郷を出て明訓に行ったこと」

強制退部なのだから高等部で野球部に入り直すというわけには行かなかったかもしれない。しかしそもそも里中が素直にエースを引き受けていれば退部処分にならずにすんでいたのだ。

「そりゃあいつが東郷に残ってれば小林とのダブルエースで里中なしの明訓に勝てたかも、とか想像したりもしたけど、うちにはあいつの変化球を取れるキャッチャーがいなかったからな。里中は明訓に行って山田とバッテリーを組んで、それで正解だったんだと思う。逃がした魚は大きいって気持ちもあるが・・・恨むとしたらあいつを受け入れられなかった当時のおれたちの器の小ささの方だな」

 

電話を切ってから、小平の話を反芻してみる。里中は東郷にはいい思い出を持っていないだろう。監督にもチームメイトにも受け入れられず、自分から喧嘩を売ったに等しいとはいえ強制的に部から追い出された。――だからきっと想像もしていないのだろう。そのチームメイトが彼を自分たちの代表として応援していたと。彼に関わったことを誇りに感じていると。

今度OB会の幹事が回ってきたら、里中先輩に招待状を出してみようか。まあ99%無視されるだろうけど、もし万が一来てくれたらすごい騒ぎになるだろうな。

勝手な想像をめぐらせて一人にやつきながら、俺は風呂のお湯を入れるために立ち上がった。

 


(2010年1月8日up)

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