D線上のアリア(後編)
目が覚めたときにはもう、コックピット内を窓から差し込む夏の日差しが明るく照らし出していた。三島の「もう少し、上からの連絡を待とう」との判断で、結局機内でまた一夜を重ねることになった。時計を見ると12時近い。早川は軽く頭を振ると、交替で三島を寝かしてやるために立ちあがった。
まだ少し頭がぼんやりしていた。何だか昔の夢を見たような気がする。たぶん昨日聴いた、あの男のピアノのせいだ。
いきなりピアノの音が聴こえてきたとき、早川は耳を疑った。音の出所を知ってさらに驚いた。例の出っ歯のチビが膝の上に乗せた小さなピアノをかき鳴らしている。こんなものを手荷物で持ち込んでいたのか。ただの玩具じゃない、本物そっくりのこの音質はどうだ。
そしてそれ以上にこの男は何者なのだ。曲自体は多少ピアノをかじった人間なら弾ける程度の、さして難易度の高いものではないが、音の粒の揃い方、軽やかで艶のある音色、鍵盤の上を踊り回るような巧みな運指、すべてが並々ならぬ技量を感じさせた。
早川は子供の頃、3つ上の姉の影響でピアノを習っていた。中学受験を期にやめてしまったが、姉はその後もピアノを続け音大のピアノ科にまで進んだ。順当に行っていれば今年卒業しているはずだが。大学に入って以来実家との往来が絶えているため、家族の現況を早川はよく知らなかった。組織の運動に関わるようになって、子供二人に幼い頃からピアノを習わせるようなブルジョワ的な我が家の在り様が何とも我慢ならなくなったのだ。
今思いがけず久しぶりに耳にした生ピアノの音が、捨ててきたはずの過去の記憶を甦らせた。絵に描いたような幸せな家族の肖像。昔、自分は姉の弾くピアノの音が好きだった。この男ほど達者ではないが、自分よりずっと巧みで、暖かだった姉のピアノ。
そしてこの男も意外なほど暖かな、優しい音を鳴らしていた。10代の若さでこれだけの技術を有しているにもかかわらず、才走ったところがまるでない。自分の才能を見せつけるためではなく、ただ心底ピアノを愛し、聴く人を楽しませたいと思っているのが、心地良さそうに目を細めたその表情に、それ以上に音そのものに、はっきりと表れていた。
人を食ったような、どことなく不気味な奴と思っていたはずの男に、いつのまにか好意を抱きはじめている自分に早川は気がついた。自分だけじゃない、先ほどまでの緊迫した雰囲気はどこへやら、乗客みなが彼のピアノに耳を傾け穏やかな笑顔さえ浮かべている。危険だ、と頭のどこかが警報を鳴らす。この男のピアノには影響力がありすぎる。
やめろ、と怒鳴りつけた。ピアノの音が消えた機内に再び重い空気がたちこめ、早川は自分がずいぶんひどい事をしたかのような罪悪感を感じた。指示は追って出すと言い捨ててコックピットへ引き上げたが、結局そのまま待機状態に入ることになった。解放の目処もつかず足止めされたままの乗客もそろそろ心身の限界だろう。いい加減何らかの行動を起こさなくてはならない。
一人爪を噛んでいると、ちょうど管制塔からの通信が入った。仮眠に入っていた三島ががばと体を起こす。
『三島くん、早川くん。君たちの上司だという人から電話が入った』
予想外の言葉がスピーカーから流れ、早川は三島と顔を見合わせた。自分たちは偽造パスポートと旅券でこの飛行機に乗り込んでいる。乗客名簿に記された名前は当然偽名だ。なのに管制官は自分たちを本名で呼んだ。
――間違いない。嘘ではなく本当に「上」が連絡を取ってきたんだ。
何らかのトラブルにより計画に支障をきたしながら、こちらと連係を取りようのない上層部も相当頭を悩ませたのだろう。今頃ようやく、それも管制塔を通じてやっと意志を通じる手段を見出したのだ。
『今いったん電話が切れたところだ。またすぐにかけると言っていた。このまま少し待っていてくれ』
逆探知を恐れて長く通話状態を保つのを避けたのだろう、そう推察されたが不安要素がなくはない。罠かもしれない。自分たちの注意を通信に向けておいて、その隙に突入を果たそうという。三島と素早く目を見交わす。ここには機長と副機長がいる。最初はつい彼らと英語で会話をしようとしたが、コックピットで数日共に過ごすうち彼らが自分たちの会話を理解しているらしいのに気がついた。彼らは日本語を聞き取ることができる。ならばこの先の会話を彼らに聞かれるのは嬉しくない。
「早川、おまえ機長たちを連れて外へ出ててくれ」
三島の言いたいことを早川は察した。機長たちだけを外に出せば、自分たちの目がないのをいいことに誰か窓越しにコックピット内に人質がいなくなったことを外に知らせようとする奴が出るかもしれない。そうしたらたとえば機首の部分だけ大砲か何かで吹き飛ばすといった強行手段に訴えてくる可能性がある。だから不届き者が出ないように見張っておけというのだろう。電話の内容は気になるが、このさい仕方がない。早川は大人しく頷いて機長と副機長を連れて外へ出た。
幸いにしてというべきか、長く待たされることはなかった。三分と経たずに扉が開き顔を出した三島が耳元に口を寄せ、「誰か一人人質を連れてくるんだ。出来れば女がいい」と早口に囁いた。
女と言われて首をめぐらし、すぐ側の椅子に座るスチュワーデスの一人と目が合う。最初に通訳に指名し、差し入れの機内食を運んでくれた女だ。彼女ならパニックを起こして暴れ回ることもないだろう。腕を掴んで「来い」と短く告げるとさすがに脅えた表情がよぎったが、気丈に頷くとそのまま黙ってコックピットに付いて入ってきた。
「・・・それで、どうだったんです?」
女の耳をはばかってわざと曖昧な表現で問い掛ける。
「計画は中止だ、乗客をただちに解放しろ、だそうだ。俺たちを無事逃走させることを解放の条件にすればいいと」
早川は愕然とした。手違いが起きたのはわかっていたが、これでは全面降伏のようなものだ。
「何なんですかそれは!それだけじゃ納得がいきません!なぜ計画を中止するんです。どんな手違いがあったんですか!?」 もはや女の目を気にすることも忘れて叫んでいた。
「俺もそう問い詰めたらしぶしぶ口を割った。・・・何でも乗客の中に関東のヤクザの大物がいるのがわかったんだそうだ。声明など出せばどこの組織の犯行か知れて報復を受けることになる。声明は出せない。前線の俺たちに連絡は取れない。さぞ上層部は焦ったことだろうよ。で、最終結論がこれってわけだ。所詮俺たちがどこに所属しているか隠し切れるもんじゃない。一切を俺たちに押し付け、俺たちの勝手な行動として片付ける。およそ説得力はないが、俺たちをスケープゴートにヤクザに詫びを乞うしか組織が生きる道はないからな」
だから自分たちの本名まであっさり公開したのだと、吐き捨てるような口調で三島は言った。もはや女に聞かれることなど気にも留めていないようだった。
「そんな・・・。俺たちは世直しの革命が目的だったはずでしょう。それがヤクザの顔色を窺って仲間を切り捨てるなんて・・・・・・」
「・・・おまえは知らないかもしれないな。偽造パスポートやライフルなんてものをうちの組織がどんなルートで手に入れていると思う?上層部がヤクザと繋がってるって噂を聞いたことないか?そのさらに上部組織の大立者を機内に2日以上にわたって監禁したんだ。指を詰める程度じゃ到底治まるはずがない」
同志とともに。人々の蒙を開き。資本主義を打破する。その「高邁な理想」の裏にあったものがこれか。自分が青春を賭けてきたものが一気にガラガラと崩れてゆく。眩暈がして立っているのも苦しかった。
「――なあ。おまえどう思う。このまま大人しく乗員乗客を解放したいか?」
「え?」
「この女一人人質に逃げても、とても逃げ切れるもんじゃない。ヤクザに捕まるなら警察に捕まったほうがまだマシだ」
「じゃあ、大人しく投降するつもりですか?」
「――いいや。このまま全員を人質に身代金の交渉に入るんだ。その金を持って、また機長に操縦させてどこかへ高飛びするんだ」
三島の目が危険な光を帯びた。無茶だ。後ろ盾を失った今の自分たちが逃げ切れるわけがない。
「・・・同志の釈放要求は?」 一応訊ねてみる。
「バカが!俺たちをあっさり切り捨てた、志など名ばかりの組織に今さら義理立てか?もう組織など関係ない。人質も身代金も俺たちの自由なんだ!」
哄笑する三島の姿に早川は戦慄を覚えた。三島は自棄を起こしている。下手すれば組織への面当てに乗員乗客を巻き込んで心中しかねない。早川の目にピアノに聴き惚れていた人たちの笑顔が浮かんできた。
スチュワーデスが遅めの朝食の膳を下げに回っている。空腹が満たされた後だからか、犯人たちがコックピットに下がったままだからか、客席の空気も和やかだ。
機内での生活もすでに三日目、みな一種開き直りの境地に至ったのか昨日の「演奏会」以降機内の様子はすっかり落ち着いていた。とはいえこれ以上監禁状態が長引けばどうなるかわからない。ずっと椅子に座りっぱなしのせいで、いささか背中や尻が痛む。殿馬は相変わらず足の下でボールをゴロゴロやっているが、これは存外効果的かもしれないなと小林は思った。
手洗いに立ったついでに軽く体操などしてから席に戻る途中、通りすがった席の女性が口元を押さえてうずくまるようにしているのに気づいた。20代半ばくらいか、見事なブロンドの持ち主だがその秀麗な顔は今は青ざめ脂汗を流している。
『大丈夫ですか?』
小林が英語で話しかけると、女性は驚いたように少し顔を上げた。小林を見る目に少し安堵したような、すがるような光がある。隣は空席、近くには日本人客ばかりとあって、体調が悪くてもそれを訴える相手がなかったのだろう。
『必要ならスチュワーデスに言って薬をもらってきます。どうしますか』
重ねて問うと、『できれば吐き気止めを』とか細い声が答えた。
『わかりました。ちょっと待っててください』
軽く請け合ってスチュワーデスたちの席へ行き、あの時のスチュワーデスに声をかけた。妹に似てるという思いがあるため、つい話し掛けるのにあの女性を選んでしまう。
彼女が自分で薬を届けに行こうとするのを、頼まれたのは自分だからと笑顔で制して錠剤を受け取る。後部座席に戻り金髪美人に薬を手渡した時、空気がざわつくのを感じた。
コックピットの扉が開いてライフル男が姿をあらわした。しかも機長と副機長が一緒だ。これまでと様子が違う。解放の前ぶれなのか、それとも。銃を握りしめる男の醸し出す雰囲気からはとても楽観視するつもりにはなれなかった。
長く感じられたがおそらくは1、2分後だったろう、再び扉が開きもう一人の男が姿を見せた。何事か耳打ちされたライフル男は例のスチュワーデスの腕を掴むと、コックピットへと引っ張り入れた。
いったい何をするつもりだ?コックピットへ消えた三人の後ろで扉が横にスライドした時、席を立ってきた殿馬がボールをさっと前方に転がした。ボールはちょうど扉と壁の隙間に入り扉が完全に閉まるのを妨げる。
このファインプレー≠ノ客席からわっと歓声があがりかけるのを殿馬が右手をさっと下に動かして静める。まるでオーケストラを指揮しているみたいだな。小林はふと笑いをこぼしながら、扉の前で屈みこんでいる殿馬の背に近寄った。さすがだな、とささやくと、秘投ボーリングづら、と小さく返事が返ってきた。
それきり二人は無言で隙間から漏れ聞こえる会話に耳を澄ました。幸いにかなり興奮気味の彼らの言葉はさほど苦労なく拾うことができたが、その内容は到底喜べるようなものではなかった。
「――危険づらな」 他には聞こえないよう声を低めて殿馬がささやく。
「窓から空港警察に状況を伝えよう。ノートに書いて外に向ければ読み取ってくれる。犯人の目が向いていない今がチャンスだ」
「突入するにも判断を下すまでに時間がかかるづらぜ。待ってられる余裕はなさそうづら」
「じゃあ、どうする気だ?」 おれたち二人だけでどうにかしようというのか?銃を持った男たちを相手に、女性を人質に取られながら?
「小林、てめえ手荷物にボール入れてるづらか?」
いきなりの奇妙な質問に小林は面食らった。
「あ、ああ。一つ持ってはいるが」 機内でボールを投げられるわけもない。持っていても何の意味もないのだが、なんとなく手元に置いておきたいような気がしたのだ。
「やっぱりづらか。ピッチャーなんて人種は皆同じづらな」
「同じって――里中もか?」
「遠足はまだしも社会科見学のときもカバンに入れて持ち歩いてたづら。岩鬼に『工場見るのにボール持ってきてどないするねん。おしゃぶりを手放せん赤ん坊と一緒や』とからかわれて、『おまえこそいつまでもハッパしゃぶってる赤ん坊じゃないか!』って工場内でケンカおっぱじめそうになったのを山田が慌てて止めてたそうづらぜ」
殿馬は楽しげにくすくすと笑った。そういえば中学時代の里中はずいぶんとケンカっ早い奴だった。今でも変わってないのか。血の気の多い里中がいて岩鬼がいて――山田も苦労するなと思ったら何だか可笑しくなった。小林も小さく笑いながら、バッグから引っ張りだしたボールを殿馬に手渡した。
「――これでボールが3つになったづらな」
「いったい何をするつもりなんだ?」
「飛び道具には飛び道具づら。小林、食後の運動にキャッチボールでもしようづらぜ」
殿馬はどんぐり目に悪戯っぽい笑いを閃かせた。
殿馬は例のピアノを荷物から取り出すと通路の前方中央にじかに置き、その後ろにペタンと座った。
「大分弾きづれえがしょうがねえづら。あの若い方はピアノの音が嫌いらしいづらから、せいぜい派手にいくづらぜ」
自分たちが何をしようとしているのか、乗客の誰も問い質そうとはしなかった。スチュワーデスや機長でさえ何ら注意しようとせずただ息を詰めて状況を見守っている。演奏会の開始を待つ観客のように。
この場を指揮しているのは殿馬なのだ。改めてそう感じた。
殿馬の演奏が始まるとき、自分たちの生命を賭けた大勝負も始まる。ここが生と死を分ける境界線――デッド・ラインだ。
玩具とも思えぬ大音量でピアノの音が鳴り響いた。知らぬ者のない有名なフレーズ、ベートーベンの交響曲第5番「運命」の出だしだ。
オーケストラ用の曲を自分でピアノ向けにアレンジしたのか、殿馬の指は激しく鍵盤をかき鳴らす。一分と待たずコックピットの扉が開いた。若い方の男が銃を手に立っている。
「ピアノを弾くのはやめろと・・・!?」
怒鳴りかけて異様な状況に気づき息を呑んだ男に、殿馬の後ろに立っていた小林は硬球をオーバースローで投げつけた。銃を構える間もなく渾身のストレートが眉間に炸裂してサングラスが砕け、男の体が後ろに仰け反る。瞬間殿馬がピアノを飛び越えて跳躍し男に体当たりした。
小柄な殿馬に、それでもすでにバランスを崩したところに勢いよくぶつかられて男は仰向けに倒れ、体が扉の開閉を塞ぐ形になる。殿馬は男の体を踏みつけてさらに跳躍し、コックピット内に躍り込んだ。同時に男の眉間にぶつかって跳ね返ったボールを左手でバックトスしてよこす。まさに神業だが見惚れている余裕はない。
小林は扉に向かって走り、再びボールをセットポジションに構えた。両手を後ろで縛られたスチュワーデスのすぐそばに犯人のもう一人が立っているのが視界に入る。その男がライフルの銃口を殿馬に向けて動かすのと同時に、小林の右手から鋭い球が放たれ、狙いあやまたず男の銃を叩き落とした。しかし銃弾の発射が一瞬早かった。銃声が響き、殿馬の小さな体が床に倒れる。
「殿馬っ!!」
叫びとともにコックピットに走り込んだ小林に、男が痛みと怒りに引き攣った顔を向け、ライフルを拾い上げるために素早く屈み込もうとする。その時、横から飛び出した人質のスチュワーデスが長い脚を伸ばして銃を蹴り飛ばした。
「このアマっ!」
激昂した男が左手で女の襟首を掴み上げ右手を振り上げた。瞬間小林の投げた予備のボールが男のこめかみを直撃した。
男は白目を剥いてくたくたとその場に崩れ落ちた。小林は彼女の勇気に礼を述べ縄をほどいてやるのもそこそこに、殿馬に駆け寄りその体を揺する。
「殿馬!殿馬!!」
――銃を持つ男の右手を狙ったとき、小林はサイドスローからボールを投げた。顔面よりも手の方が面積が狭いし位置的にも当てにくい。だからアメリカへ渡ってから習得した、オーバースローよりもコントロールの正確なサイドスローを当然選んだ。
しかしいざ投げようとした時、ほんの一瞬だけだがわずかな躊躇いが頭をかすめた。殿馬はライバル校の野球部員だ。今ここでサイドスローで投げればいずれ来る対決を前にこちらの手の内を見せることになる――。
あくまで一瞬頭をかすめたに過ぎない、それが投球のタイミングを遅らせることはなかったと自信をもって断言できる。それでも自分の迷いが殿馬に傷を負わせた、そんな罪悪感がこみあげてくるのを止められなかった。
「・・・いてえ〜づら。あんまり揺するなづらぜ」
「殿馬!大丈夫か!」
「大丈夫じゃねえづら。右肩をかすった程度でも、痛えもんは痛えづらよ」
右肩を見ると確かに制服の肩口が破れて血が滲んでいる。この位置ならおそらく骨には届いていないはずだ。後遺症の残るような怪我ではない。小林はほっと安堵の息をついた。しかし、
――それでもこの夏の大会、少なくとも地区予選にはとても間に合わない、か。
改めて殿馬に、彼を待っている明訓ナインに申し訳ない気持ちになっていた時、扉の境に倒れていたはずの男がうめき声とともに目を開いた。眉間に硬球を食らったのに存外しぶとい男だ。もう一度気絶させるかと小林が足早に近付くと、男は蚊のなくような声を出した。
「・・・あいつ、撃たれたのか・・・?」
最初は仲間のことを言ってるのかと思ったが、その視線は床に転がったままの殿馬に向いている。
「・・・ああ。右肩だ」
「肩――。・・・大分ひどいのか?」
殿馬の身を本気で案じているような声音に小林はおやと思った。今までサングラスで隠されていた目には不安そうな、訴えかけるような揺らぎがあった。今まで考えていた以上に若い。自分と幾つも違わないだろう。
「かすった程度だ。本人は大丈夫じゃないと言っているが、まあ全治1か月というところだろう」
「・・・そうか。じゃあちゃんとまたピアノを弾けるんだな・・・・・・よかった・・・・・・」
男の顔に穏やかな笑みが広がってゆく。ああそうか、と小林は悟った。こいつも本当は殿馬のピアノに魅せられていたのだ。きっと本当は音楽の好きな男なのだろう。彼なりの理想と大望に身を捧げる中で切り捨ててきたはずのものを殿馬のピアノが思い出させた。
――すごい男だな、おまえは。
小林は殿馬の方を窺いながら心の中でそっと呟いた。
機長がハイジャック制圧を管制塔に伝えるかどうかのうちに、武装した警官がドカドカと乗り込んできて犯人二人を引き立てていった。反応の素早さに驚いたが、あとで犯人逮捕に貢献したよしみで教えてもらったところによると、コックピットには盗聴器が仕掛けられていて、空港警察はコックピット内部の様子をおよそ把握していたという。
ホノルルで最初に食事の差し入れを行ったさい、空港職員に化けた警察の人間がこっそりスチュワーデスに盗聴器を手渡し、犯人に食事を持っていく時にそれを密かに部屋の中に仕掛けたのだそうだ。あのスチュワーデスの冷静さと勇気に、改めて頭の下がる思いがした。
ホノルル空港を離陸してからは小型機が密かに、付かず離れず後を追い音声を拾っていた。その役目は羽田到着と同時に羽田の空港警察に受け継がれ、所属組織の人間から連絡が入って以来ハイジャック犯の感情が先鋭化したのを見て強行突入を検討しつつも、人質がいたために踏み切れず対策協議中に自分たちが事を起こしたという流れだったらしい。殿馬の判断は正しかったわけだ。
晴れて自由の身となった乗客が久しぶりの地上へと降り立ってゆく。彼らが通りすがりに自分たちに感謝の言葉を―殿馬に対しては「早く怪我を治してまた華麗な秘打を見せてください」といった励ましも―残していってくれるのが何だかくすぐったかった。
その殿馬は空港警察とともに乗り込んできた(コックピット内の音声から怪我人が出たのはわかっていたので)医師の手当てを受け、とりあえず出血と痛みは止まったようだった。他にもいざ解放となったとたんかえって気が抜けたのか急に気分が悪くなった人が何人かあり、医師団の応急処置を受けている(例の金髪美女は対照的にすっかり元気になって、小林に明るく手を振って意気揚揚とタラップを降りていった)。
殿馬の手当ても終わり、いよいよ自分たちも空港へ降りようかと立ち上がりかけたとき、やけに恰幅のいい壮年の男が近付いてきた。「君たちの勇気に感謝する」と太い声で述べたあと殿馬の方を見て、「ところで君は神奈川では有名な高校球児らしいな」と続ける。神奈川どころか全国的に有名ですよと小林は言いたくなったが、そこは黙っていた。すると殿馬が、
「こっちの男もづらぜ。神奈川でも有数のピッチャーづら」と小林を横目で示した。中学時代なら自画自賛抜きでその通りだが、高校球児としては自分は何の実績もない。しかしわざわざ殿馬の言葉を訂正しようとは思わなかった。これから本当にすればいいだけのことだ。
「ほう・・・うちの息子が世話になることもあるかもしれんな」
男はニヒルな笑顔を浮かべると、大儀そうにタラップに足を踏み出した。彼の息子も高校球児なのだろうか。
「・・・あれづらぜ。ハイジャック計画を狂わせた張本人づら」
「え!?関東の――大物っていう?なぜそんな事がわかる?」
妙に迫力のある人物だったのは確かだが、関東一円のヤクザに睨みをきかせる立場の人間が供も連れてないものだろうか。
「まあ、神奈川に帰ればわかるづらぜ」
殿馬は意味深な台詞を口にした。
事件解決の翌々日、明訓高校と白新高校による地区予選三回戦が行われた。明訓の先発メンバーの中には殿馬の名前も含まれていた。
「殿馬!?」
家のテレビで試合を観戦していた小林は殿馬の姿が映ったとき思わず叫んでいた。いかに重要な戦力とはいえ右肩に傷を負っている男を試合に引っ張り出すとは、明訓の監督はいったい何を考えているんだ!?
しかし2回裏、小林は信じられないものを見た。右腕の使えない殿馬を徹底して狙ってきた白新の打線を、殿馬は左手一本で全てアウトに取ったのだ。続く3回裏もまた。グラブを外して左手で送球し、捕球しても自分で投げられない体勢の時はショートに中継、高い打球はジャンプしてグラブで叩きつけて送球する。その華麗なグラブトスは、ハイジャック事件のとき、犯人の体を踏み台に跳躍しながら後手にボールを投げてきた、あの鮮やかな動きを思い出させた。
――殿馬の天分は音楽にあると思ったが・・・野球においてもこの男は間違いなく天才だ。
そしてその華麗な活躍の裏には血の滲むような努力とそれを支える熱い情熱がある。3日間の共同生活を通じて、小林はいくらか殿馬という男を理解できたような気がしていた。
試合は9回まで0対0の大投手戦の末、僥倖と言いたいような1点をものにした明訓の勝利に終わった。しかし敗れたはしたものの白新高校――エースの不知火は、右手首が本調子でないとはいえあの山田を完全に封じてみせた。7回裏の「幻の1点」が入っていれば、延長戦での「ルールブックの盲点の1点」がなければ白新が勝っていたのだ。それほどに不知火は凄かった。自分に圧勝した川越中学時代よりも格段にパワーアップしている。
さらに横浜学院の土門。二回戦でノーヒットノーラン、奪三振20を記録した剛球投手。捕手の後逸さえなければ完全試合を達成していたはずだ。また不良の巣窟として知られる吉良高校は一回戦、二回戦とも相手チームが暴力事件と食中毒で自滅したために、戦わずして三回戦に進出した変わり種だ。新聞で見た主将の顔は機内で出会った「あの人物」そっくりで、小林は殿馬の言葉の意味をようやく理解した。
そして何といっても明訓高校。右肩の負傷をものともしないプレーを見せつけた殿馬に加え、二回戦の終盤から一度は投手生命を危ぶまれた里中が見事復帰を果たし、白新戦ではノーヒットノーランをやってのけている。山田は打撃では完全に不知火に抑えられたものの、相変わらずのリードの冴えでブランク明けの里中を支え切った。さらに常識外れの走塁で決勝点をあげた岩鬼、ランニングホームラン確実の球をダイレクト捕球した微笑。
まさに群雄割拠だ。神奈川は実に面白い。この夏、東郷学園高校は小林の帰国を待たずすでに敗退していたが、秋の大会には自分も出られる。アメリカ仕込みのサイドスローと「あの球」で明訓の天下を自分が奪ってみせる。
それまでには右肩を万全にしておけよ。小林はテレビ画面の中の殿馬に向かって、不敵に微笑みかけた。
殿馬いわく“小林とキャッチボールしてただけ”というハイジャック犯逮捕に至る顛末を、なるべく原作の描写を活かしつつ考えてみました。ついでに岩鬼に「やつらにゃほとばしる青春時代がなかったのね」と評されたところのハイジャック犯たちの、彼らなりの青春も描こうとしたんですが・・・見てのとおり玉砕してます(苦笑)。連載の時期からして前年(1977年)9月〜10月に起きたダッカ事件(日本赤軍によるハイジャック事件)にヒントを得たのはまず間違いないと思われるので、そのあたりも多少反映させています。
ちなみにコックピットの扉に物が挟まった場合挟まったままで固定されるのか扉が開くのか調べてもわからなかったので、作劇上都合のいい方を取りました。(2011年3月4日)
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