D線上のアリア(中編)

 

「小林、朝飯が来たづら」

肩をつつかれて小林は目を開けた。カーテン越しにも窓の外が明るくなっているのがわかる。いつのまにかすっかり眠ってしまっていたらしい。目をこすりながら左手に顔を向けると、通路に立ったスチュワーデスが二人分の機内食を殿馬に手渡している。昨日通訳を命じられていた女性だ。例のライフル男の姿は見えない。だからなのか彼女は少しリラックスして見えた。

「先ほど空港スタッフを通じて食事の差し入れがあったんですよ」

スチュワーデスが穏やかに微笑む。凛とした清潔感のある面差しが少し稔子に似ている、と思った。

周囲の客席の様子を眺めると、少なからぬ人数がまだ寝息を立てている。人間なんて案外図太いもんだな、と小林は苦笑したくなった。

「――さっきコックピットにも食事を運んだんですが・・・どうやらもうすぐ離陸するみたいです」

スチュワーデスは声をひそめて早口に告げると食事を載せたカートを押しながら歩き去った。こんな事を自分たちにだけ教えてくれるのは、昨日の行きがかりから信頼感を持ってくれているからだろう。小林は少し嬉しくなった。

黙々と食事を取るのも退屈だ。隣に座る殿馬に話しかけようとして、言葉を呑み込んだ。殿馬の横顔には一見静かなようで彼らしからぬ焦燥の色がはっきり浮かんでいた。

小林は思い出した。地区予選の二回戦、明訓の試合は今日だと言っていた。日本とは時差が5時間あるから、とっくに試合が始まっている頃合だ。

現在明訓は春の大会で負傷した里中を欠いている。エース不在の明訓を支えるために殿馬は音楽留学を棒に振っても予選に間にあうよう帰途についたというのに。今すぐ球場に駆けつけられない自分を、殿馬はどれほどかもどかしく思っているに違いない。

そんな小林の想像を見透かしたように、殿馬はいつもの飄々とした顔に返ると「試合のことは心配してねえづら。明訓には岩鬼がいるづらからな」とのんびり言った。

「岩鬼?山田じゃなくてか?」

「山田は春の大会で手首を痛めたのがまだ完全じゃねえづら。となるとうちで一番点を取れるのは岩鬼づらぜ」

確かにピッチャーが悪球を投げてさえくれれば岩鬼は怪力にまかせてボールをスタンドに叩き込むだろう。そしてどんなピッチャーも100%ストライクを投げ続けることはほぼ不可能だ。

「確かにな。・・・三回戦までには、きっと戻れるさ」

「そうづらな。サンキューづらぜ」

殿馬が目を細めてにこりと笑った。


飛行機が無事羽田の滑走路にランディングし、早川は深く息を吐き出した。ここまでは怖いほどに順調にいった。ホノルルで食事の差し入れを要求した時に空港職員に変装させて警官ないし軍人を送り込んでくるのではと危惧したが、取り押さえられることも催涙ガスなどを撒かれることもなく、結局自分たちが羽田に向かうのを実力行使で止めようとは一切してこなかった。・・・おそらくは今もって人質解放のための交換条件をなにも出さない――ハイジャックの動機について訊かれても全く返答しようとしない自分たちをなまじに刺激しない方が得策と考えたのだろう。

――精神異常者による理由なき犯罪とでも思われたか。

早川は自分の想像に苦笑した。理由がないどころではない。自分たちには大いなる目的がある。高い志を持った仲間を解放し、ともに人々の蒙を開くための運動を展開するという大義が。自分も三島も覚悟と誇りを持ってこの任務に身を投じたのだ。

だからこそ上層部の態度が早川には解せなかった。同志の釈放を人質解放の条件として組織の名のもとに堂々と歌いあげるのが当初の計画だったのに、なぜいまだに沈黙を続けている?何がしかの異常事態が起こっているとしか思えなかった。

しかしこちらからは連絡の取りようがない。電話をかけに外に出たりすればたちまち拘束されるだろう。移動電話を用意させたとしても、着信先を調べられたら本部の所在地が知れてしまう。このまま飛行機で籠城を続ければ人質も、それ以上に二人だけで乗員乗客全員を見張り続けている自分たちも消耗するばかりだ。もういっそのこと我々だけで犯行声明を出し政府に要求を突きつけるべきだろうか。さんざん一人で頭を悩ませたあげく、まずは三島と話し合おうと立ち上がりかけた時、場に似つかわしくないピアノの音が響くのが聞こえた。


羽田空港に着陸してから再び窓のカーテンを引くように言われた。7月の太陽はまだ沈む気配なく周囲を照らしていただけに、カーテンを閉めたとたんに機内が急激に暗くなったように感じられた。

カーテンを閉めろとの指示を最後にアナウンスは沈黙を続けている。相変わらず銃を手にコックピット前の床に座りこんでいる男も眠ってでもいるのか何の動きも見せない。時間が経過するほどに刻々と客席の緊張感が高まっていくのを小林は肌身に感じた。

同じように外界と遮断されているといってもホノルルの時とはわけが違う。多くの人がようやく日本に帰ってきたとつい安心感を抱いてしまっただけに、懐かしい我が家に手が届くところまで来ながらお預けを食わされている今の状況がたまらなく苦しいのだ。加えてすでに丸一日以上機内に閉じ込められている。心身にかかるストレスもそろそろ限界だ。

そっと周囲を見回すと通路を挟んで斜め後ろの席の子供が今にも泣き出しそうな顔をしている。まずい。一人が泣き喚きでもすればたちまち機内が大パニックになる。小林が身を固くしたとき、ポロンとピアノの音が響いた。はっと隣を見ると、殿馬が膝に乗せた玩具のピアノを奏でていた。さっきから手荷物をがさがさやっていると思ったら、これを引っ張り出していたのか。

殿馬の指が驚くべきなめらかさで鍵盤の上を滑ってゆく。噂に聞く音楽家殿馬の演奏に触れるのは初めてだったが、とても玩具とは思えない美しい音色がその指先から紡がれるさまはまるで魔法を見るようだった。その軽やかな、愛らしいメロディはよく知っていた。ショパンの「子犬のワルツ」だ。

ピアノの音が機内を満たしてゆくにしたがい、張り詰めていた空気が緩やかにほどけてゆく。さっき泣きそうになっていた子供も楽しげな笑顔を殿馬の手元に向けている。おそらく殿馬もこの少年の様子に気づいたからこそピアノを弾こうと思ったのだ。だから子供にもわかりやすい単純で可愛らしい曲を選んだのだろう。

しかしこんな緊急時だというのに、誰もがいきなりピアノを弾き始めた殿馬を咎めるどころか素直に曲に聴き入っている。殿馬の技量が優れているのはもちろんだが、こんな時でも――こんな時だからこそ心の慰めを、芸術を求めて止まない人の心に、小林は一種の感動を覚えていた。

豪華客船タイタニック号が沈没した時、救命ボートが足りず船内に残された人々を勇気づけるために楽団員は最期まで演奏を続けたという。本で読んだそんなエピソードが脳裏をよぎり、小林は軽く頭を振った。何を不吉な想像をしている。自分たちは必ず助かるはずだ。

最後の一音が鳴り響き、殿馬が鍵盤から指を離したとたん、わっと言う歓声が機内を包んだ。「アンコール」の声がかかり、たちまち大合唱になる。殿馬も満更でもなさそうに「じゃあ、もう一曲いくづらか」と再び鍵盤に指を落とそうとした。

「やめろ!」

急に響いた怒声に皆がはっと押し黙った。銃を手に立ち上がった男がサングラス越しに殿馬を睨みつけている。この男の存在をすっかり忘れていた。

「――静かに座っていろ。遠からず指示を出す」

押し殺した声でそれだけ言うと男は背を向けてコックピットの扉をノックした。ロックが解除されるのを待ってコックピットへと入ってゆく。

扉が閉まると、皆が大きく息を吐き出した。溜息のユニゾンがおかしかったのか、くすくす笑いが何か所かで起こり、ついで静かな拍手がさざ波のように機内中に広がっていった。一触即発の事態が無事回避されてほっと気が緩んだとはいえ、こんな風に声を立てて笑い手を叩くなど、ついさっきまでの空気からは考えられないことだ。

これも殿馬の、音楽の力か。小林は相変わらず恐れ気も見えない殿馬に目を向けた。

「さすがだな。世界一のピアニストに見込まれるだけはある。しかしそのピアノの音、とても玩具とは思えないな」

「特別仕様づら。鍵盤の間隔と押さえたときの沈み具合、音の響き方、可能なかぎり本物に近づけてあるづらよ」

いつもの淡々とした調子で殿馬は答えたが、わずかに得意そうな響きがその声の内にある。自分からホームランを打ったときでさえごく平然としていた、あの殿馬が。

――やっぱりこいつの天性は音楽家の方なのかもな。

小林は心の中でそっと呟いた。

 


(2011年2月25日up)

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