D線上のアリア(前編)

 

「Hold Up!」

コックピットへ続く扉の手前、最前列の席のところに男が一人立って、しゃがれた声を張り上げた。口にしてから乗客のほとんどが日本人なのに気づいたのか、

「手を上げろ。この飛行機は我々が占拠した」と今度は日本語で告げる。

ハイジャックという単語が小林の脳裏に浮かんだが、まるで現実感がない。日本に比べたらニューヨークは決して治安がいいとはいえない。しかし一年ちょっとの滞在の間に、ホールドアップなんて言葉を突きつけられたことはない。何かの冗談と思いたかったが、その手に握られているのは確かにライフルだ。サングラスと顎鬚で顔立ちはほとんどわからないが、まだ若い男のようだった。

客席に不安気なざわめきが広がってゆくが、男がライフルを構え直すとぴたりと静まりかえる。張り詰めた空気がピリピリと震えるようだった。そのとき、

「おっよお、ちっと便所に行きてえんづらが」

あまりにも場の雰囲気にそぐわない暢気な台詞が真ん中あたりの座席から発せられた。その声も独特の訛りも小林の記憶に強く刻みつけられていた。――なんだってあいつがこんなところにいる?

「今はダメだ。もうしばらく我慢しろ」

「生理現象づらよ。仕方ねえづら」

彼≠ヘぱっと立ち上がってライフルの男と向かい合うと不満げに肩をすくめてみせた。客席のそこここにかすかなざわめきが起こる。先ほどとは響きのまるで違うそれは、おそらく彼≠フ正体に気づいた人たちが発生源だろう。

男の眉が寄せられ、引き金にかかった指にわずかに力がこもる。まずい、と小林も立ち上がった。

「よせ殿馬、席に座るんだ」 ここで下手に刺激するのは明らかに得策ではない。殿馬は小林に顔を向けると「よお。久しぶりづらな」と驚いた様子もなく挨拶すると、あっさり席に腰を下ろした。男も拍子抜けしたのか一瞬ぽかんとしていたようだったが、気を取り直したように、

「これから機長の発表がある。黙って聴くように」と低く言った。

 

『17時01分、本機はハイジャックされました。みなさん、大人しく犯人の方々の指示に従ってください――』

機長のものらしいアナウンスが英語で流れたあと、別の声が日本語で同じ内容を繰り返した。どうやら日本語の方は犯人が直接喋っているらしい。とすると、今客席で銃を向けている男のほかにコックピットに最低でもあと一人いるわけだ。

コックピットとの境の扉が開いて男が一人顔を出すとライフルの男を手招いた。この男もやはりサングラスに顎鬚というスタイルだった。年はこちらが少し上のようだ。

ライフル男がコックピットに消えた次の瞬間皆がはーっと溜息を吐き出すのが聞こえた。小林自身もいくぶん気持ちが軽くなるのをおぼえた。今のうちにせめてパスポートと財布を隠しておこうと手荷物に手を伸ばしかけたところへ、再び扉が開きライフル男が姿を見せた。一番近くに座っていたスチュワーデスに近寄るとその腕を掴み「ちょっとこっちへ来い」と低い声で告げた。表情はほとんど読めないが、声に幾分切迫した響きがある。スチュワーデスが一瞬整った顔を引きつらせた。

その時小さな人影がすうっと移動してきた。スチュワーデスとライフル男の隣をゆうゆうとすり抜けてコックピットへと入ってゆく。

――殿馬!?

その大胆さに思わず声をあげそうになった。ライフル男も驚いたのか女の腕を引っ張ってコックピットへ戻ろうとする。殿馬は犯人や機長たちの驚きなどどこ吹く風で機長に英語で話しかけている。犯人と意志の疎通はできるか?いや発音が悪くて要求がさっぱり聞き取れない。だったら自分が通訳をしよう。母国語はあれだけ訛ってるのが嘘のように流暢な英語に、青ざめていた機長は安堵の色を浮かべる。どうやら犯人は自分たちの英語がさっぱり通じないことに大分苛立っていたらしい。いっそ日本語で話した方がよほど通じるんじゃないかと思うが、そうする代わりに日本人スチュワーデスを引っ張りこもうとしたようだ。

「で?何を説明すればいいづらか?」

あまりに平然と見上げてくる殿馬に気圧されたのか、「あ、ああ。予定通り給油のためにホノルル空港に着陸するように言え」と年かさの男の方が素直に要求を口にする。殿馬は機長に向き直ると同じ内容を英語で告げ、機長が「OK」と呟くと犯人たちの顔にも少しほっとしたような表情が浮かんだ。

「ちゅうわけで、必要ならおれとこいつで通訳やるづらぜ」 気軽な口調で殿馬が小林の方へ頭を振り向ける。いきなり指名を受けた小林は面食らったが、ここでビビってもいられない。こいつは何者だと言いたげな男たちに凝視を受けながらもとりあえず頷いてみせると、男たちはしばし小林と殿馬を舐めるように眺めまわしていたが、

「いや、どっちもいらん。必要なときはスチュワーデスに頼む」とはねつけた。殿馬は「そうづらか」とあっさり言うとコックピットから出てきた。それを見届けてライフル男も再びこちら側に戻り、捕まえていた女を解放する。客席から再び大きな溜息が漏れた。

 

ライフル男は銃を下ろすとコックピットとの扉のすぐ手前にどかりと座りこんだ。彼らの目的が何かはわからないが、自分たちは人質なのだからいきなり殺されるようなことにはならないだろう。小林はほっと息を吐き出した。客席の緊張感も次第に薄らいでいくのが感じられる。

それにしてもあいつは。大胆なのは野球だけじゃないんだな。おかげでこの数分でえらく疲労した気がする。そんなことを思っていると、噂をすれば影というのか、また殿馬がやってきて小林の奥の席の女性に話しかける。

「すまねえが、席替わってもらってもいいづらか?こいつ知り合いなんづら」

見れば殿馬はすでに手荷物を持参している。殿馬の席はここより後部だ。ライフル男と少しでも距離が取れるのは歓迎だと思ったのか、女性はあっさり了承して席を立ち上がった。ごそごそ席を取り替えたりしてるとライフル男を刺激するのではと小林は横目で様子を窺ったが、目には入っているはずだが特に気にしてる様子はなかった。

女性が立ったあと小林が奥に詰め殿馬が通路側に座った。

「まったく意外なところで会うづらぜ。さっきてめえの顔を見たときは大分驚いたづら」

「そうか?そんなふうには見えなかったが」

「ハイジャックされる前づら。手洗いに立ったとき横を通ったんづらよ。熟睡してたからわざわざ声もかけなかったづらが。こんな時知り合いがいるとやっぱり心強いづらな」

言葉に反してとくに嬉しそうでもない淡々とした口調で殿馬が言うのに小林はちょっと顔を赤らめた。どうやらさっきうたたねしていたのを見られたらしい。それから気づく。さっきトイレに行かせろと騒いでいたが、あれは単なるデモンストレーションだったのか。おそらくは離れた座席にいた小林に自分がここにいるとアピールするための。

殿馬は学生服のポケットから硬球を二つ取り出した。足元に置くとその上に両足を乗せる。

「こんなところでまで、それ、やるのか」

「じっと座ったままだと足がむくむづら」

そう言って足の下でゴロゴロと転がしはじめた。中学時代に試合した時も殿馬はこうやって足の下でボールを転がしていた。しかも立ったまま。たぐいまれなバランス感覚に驚くよりまず珍妙としか言いようのない姿に苦笑させられたものだ。そんな滑稽な奴にホームランを打たれたことを思い出して小林は少し顔を曇らせた。

「小林は確か東郷中学卒業後アメリカに留学したんだったづらな」

「ああ。・・・おまえも音楽留学するんだったな。高名なピアニストに弟子入りするとか新聞で読んだが」

「弟子入りはしねえづら。留学はやめたづらよ」

あまりにもさらりと言う殿馬に小林の方が驚いた。

「やめた!?向こうから是非にと誘われたんだろう?またとないチャンスじゃないか!」

「夏の地区予選があるづらからな」

ごく単純な言葉だったが、殿馬の心境を察するには充分だった。鷹丘中学時代、野球を始めて間もなかったくせに「秘打 白鳥の湖」なるふざけた打法で自分の球をホームランにしてのけた男。その後も多くクラシック曲にちなんだ「秘打」によって栄光の明訓高校野球部を支えてきた。それだけの才能と野球への愛着が、ぎりぎりで彼に音楽より野球を選ばせたのだ。

こいつも結局野球から離れられない奴なんだな。そう思うと今までにない親近感を殿馬に感じた。

「そうか・・・。おれも同じだ。野球は中学で止めて学問に専念するつもりが、うっかり野球部に入って・・・ついには日本に帰ってきてしまった」

おまえたちと戦うために。その言葉をあえて飲み込んだ小林は苦笑をこぼしたが、すぐに顔を引き締めて、

「しかし一回戦はもう始まってるだろう?明訓はシード校といっても二回戦までそう日がないはずだ」

「日がないっちゅうか、明日づらよ」

大丈夫なのか?とはあえて訊かなかった。どんなに大丈夫じゃなくても、急いで戻りたくても、戻れないのが今の殿馬なのだから。

「――皆の荷物に手を付けないところをみると金が目当ての犯行ではなさそうづら。政治的要求が目的なら・・・交渉が長引くかもしれねえづらな」

このところ政治的思想的な動機によるハイジャック事件が何件か続いている。要求は服役中の同志の釈放であったり国外亡命であったり。そうなると犯人のバックには相応の組織がついている可能性が高い。一筋縄ではいかないかもしれない。

「まあそうそう命までは取られんづらぜ。『人の命は地球よりも重い』づらからな」

殿馬はのどかな調子で言いながら背もたれに頭をつけて目を閉じてしまった。

 


ライフルを手にするのは初めてだった。正確に言うなら、この計画が決まってから何度も解体と組み立ての作業を練習しはしたが、こうして実用に供するのはこれが最初だ。それでも練習を繰り返してきたおかげで案外と手に馴染んでくれているし、分解して絶縁体のシートでくるんで手荷物に入れたのをトイレで短時間に組み立てることもできた。ここまではおおむね計算通りに進んでいる。

予想外だったのは自分の英語が米人の機長にも副機長にもさっぱり通じなかったことだ。聞き取る方はできるが、こちらの言うことを理解してもらえない。最初のアナウンスの指示はどうにかなったが、ちょっと込み入った内容になるともうさっぱりダメだった。一応一流大に今も在籍している自分なら三島よりはマシかと思ったが、所詮留学経験があるわけでもない。見事に玉砕するはめになった。

そこに出てきたあのチビ――出っ歯デカっ鼻の年齢不詳の顔を思い出して早川は少し嫌な気分になった。学生服を着ていたからまだ高校生なんだろうが、銃を持った相手に対してもまるでひるまない、人を食ったような態度はどうだ。自分と友達とで通訳をやると言い出したとき、先輩の三島の意向を確認せず即座に却下したのはひとえにあいつが不気味だったからだ。

もう一人の男は大学生くらいか、出っ歯のチビよりはまともな反応だったが、やはり妙に落ち着いたところのある男だ。それに細身だが鍛えた体つきをしている。戦闘要員になりかねない奴をそばに置きたくはなかった。一方の出っ歯の方も一見して強そうには見えないものの、何をやらかすかわからない恐ろしさがある。

・・・恐ろしい、だと?あんな武器も持たない民間人が?自分たちはしかるべき目的のために、理念のために体を張っているのだ。あんな、気楽なくだらない連中になめられてたまるものか。

早川は出っ歯と隣りのスポーツマン風の男に目をやった。客席に戻ったあとすぐに出っ歯は席を移動してスポーツマンの隣りに座ってしまった。もともと連れだったわけではないらしい。たまたま機内で知り合いに会ったというところか。勝手な真似をするなと脅してやろうかとも思ったが、不穏分子が二人固まって、それも自分の目の届きやすい前方にいてくれるのはむしろ都合がいい。まあ好きにするがいいさ。早川は口の中で小さく吐き捨てた。


予定通りホノルル空港へ着陸しろ。そう犯人が指示したのに反して、予定時間に大分遅れて機体はようやくホノルルへ着陸した。おそらく受け入れる空港の側が対応策を講じるために引き伸ばしに出た結果だろう。今も給油作業は遅々として進んでいない。給油が済まなければ機体は飛べない。犯人たちの逃走を防ぎ空港に釘付けにしたままでしかるべき措置を取ろうというわけだ。犯人との交渉を進め、要求を呑むかあるいは、強行突入か。しかしそれは犯人も当然読んでいるはずだ。あまり長引かせればいたずらに彼らを刺激することになる。

それに乗客の身体的精神的ストレス。乗客が外と窓を通じて連絡を取るのを恐れてか空港に着陸するとすぐにカーテンを閉めるよう命じられた。景色が遮断されたことで機内の閉塞感が急に増した気がする。現在のところ皆比較的落ち着いているようだが、誰か一人泣きわめいたりしようものならたちまちそれが全体に伝染しパニックに陥るに違いない。

小林は隣座席の殿馬を見た。着陸前からずっと目をつむっているが眠ってはいない。さすがの豪胆な殿馬もこの状況で眠るのは無理か。自分にしても数メートル先に銃を持った男がいると思うと、眠る気にも本の続きを読む気にもなれない。

しかしこの調子だとここで夜を明かすことになるかもしれない。長丁場になるなら体力の消耗を防ぐためにもちゃんと食べちゃんと寝ておかないとならないな。そんなことを小林はぼんやりと考えていた。


空港に降りてしばらくした頃、三島がコックピットから出てくると「こちらへ来い」と手招いた。困惑したような声の調子に嫌な予感がした。一応さっきのスチュワーデスを通訳に連れていこうとすると、「いや、いい」と三島が首を振った。他人に聞かれたくない話か。後へついてコックピットに入ると、三島が強張った表情で顔を寄せてきた。

「ついさっき、空港の管制塔から通信が入った。日本語で話してくれたんで会話には困らなかったんだが・・・君たちの要求は何かと訊かれた」

「え?」

「『上』はまだ何の声明も出してないんだ」

早川は唖然とした。自分たちが事を起こしてからすでに6時間ほどが経過している。その間組織の幹部たちは沈黙したままだったというのか?

刑務所に収監されている同志3名の釈放。さらに乗客の身代金として自分たちを含めた5人が逃亡潜伏するための資金を手に入れる。それが彼らの目的だった。ハイジャックの第一報から1、2時間以内には日本政府に要求を突きつける段取りだったのに。何か手違いが起きているのか?

「とりあえず、要求は追って出すとだけ言っておいた。どうせ向こうも給油で時間を稼ぐつもりだろう。こちらも『上』が動くのをとりあえずは待つことだ」

耳元で囁く声は大分早口で、冷静を装っている三島の内心の動揺を映しているように早川には思えた。今こちらから組織に連絡を取る手段はない。三島の言う通り、待つしかないのだ。

長く客席から目を離すわけにもいかず、早川は落ち着かぬ気持ちのままコックピットを出た。

「あの、すみません」

澄んだ女の声に呼び止められて早川は右方へ顔を向けた。あの時のスチュワーデスが意を決したような表情でこちらを見つめている。

「乗客の方々に、お食事とお飲み物を配ってもいいでしょうか。皆さんそろそろお腹を空かしていらっしゃる頃なので」

確かにこの女の言う通りだ。そこまでは気が回らなかった。無駄に乗客の心身に負担をかけるのは自分たちの望むところではない。人民のために世直しを行う、それこそが自分たちの大目標なのだから。

「食料は全員に行き渡るだけあるんだな?」

「一食分は充分に。ですがその後は・・・」

女が言葉を濁す。おそらくここで人質を解放して早期解決とはならない事をこの女は覚悟している。日本時間ではすでに真夜中近い。早くとも日本が朝になるまで状況は動かないだろう。

「わかった。食事を配ってやれ」

短く女に許可を出しながら、明日の分の食事の差し入れを要求した方がいいな、と早川は思考をめぐらせていた。

 


(2011年2月18日up)

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