映画パンフレット末尾の脚本に沿って、個人的に(良くも悪くも)気になった場面を抜き出してみました。こう書き出してみると、「原作ではこうだった」的苦言が結構多くなってしまった気がしますが、映画は映画として大好きだということを一応ここで強調してみます。あと脚本を読んでみて、地の文の文章がなかなか詩的だなあと思いました。「淡い色の封筒を陽の光に翳すと、中に筆――。」のあたりとか。

 

「猛スピードで走る一台の乗用車が、横転する。 運転席で絶命している若い男。 道脇に停めた車の中からこの様子を見ていた防衛庁情報局内事本部長・渥美大輔(44)。」(2 回想・雨の高速道路)

宮津隆史暗殺の現場に渥美が自ら立ち会った?映画版でははっきりダイスが暗殺したと言わず、隆史の死に何らかの責任があると匂わす程度になっているので(宮津・ヨンファ側はダイスによる暗殺と言っているが、ダイスの小林は「あれは事故です」と主張してる)、むしろ隆史とヨンファのことについて至急話をするため後を追ったところ逃げようとした隆史が運転ミスで事故った、というあたりが真相のように思えます。

「〈この国の未来を背負うべき、無垢なる命たちに、今、我々は何を手渡し、何を託すことが出来るのか。 この日本という国を、彼らの受け継ぐに値する国にするために、我々は何を為すべきであろうか〉」(5 イメージ)

最初に映画を見たときは気づかなかったが、原作の『亡国の楯』とは結構文章が変わっている。それにしても「未来を背負うべき」側を「彼ら」と呼び、「手渡し」「託す」側を「我々」と呼ぶこの文章、とても22歳の若者が書いたとは思えない。年齢的に彼は「未来を背負うべき」側の人間のはずだ。年配の人間が書いたかのような改変はなにかの伏線だろうか。たとえば、日頃から父と国防や日本のあり方について語りあっていたがためにあまりにもストレートに父の考えの影響を受けてしまった、宮津にとっては息子の遺作であると同時に自身が書いたも同然の論文である、とか。

「なお、我々の覚悟を知らしめるため、彼はこの場で〈GUSOH〉により自決する」 男、煙草を取り上げ、深く吸う。フィルターが白煙と共に爆発する。白目を剥いた顔が無残に変化していく。」(10 DAISコマンドルーム)

原作未読の観客に〈GUSOH〉の威力を知らしめると同時に、原作既読者に対して「映画の〈GUSOH〉は本物」というメッセージを発している場面。しかしあの〈GUSOH〉をどうやって煙草に粉飾したんだろう?

「自転車を必死で漕ぎ、走っていく仙石。」(14 由良港(夜))

原作ではタクシーのところを自転車を(やや大儀そうに)漕いでいくあたりに、原作より運動能力の高い、でもやっぱり親父な映画版仙石のキャラクターが示唆されているように思います。

「・・・・・・如月の歓迎会開いてたら、ちょっと絡まれまして・・・・・・申し訳ありません!以後気をつけます!」(15 カラオケスナック前)

原作と違い普通にかっこいい系の田所。無事に《いそかぜ》を離艦してたりほとんど別のキャラクターですが、あの口癖が健在なのが嬉しいです。そして歓迎会を開いてもらえる程度には周りに馴染んでいるらしい行。原作でも前日に田所と喧嘩してなかったら、歓迎会くらい開いてもらえたでしょうか・・・。

「ですから、それだけは・・・嫁が・・・」「何が嫁だ・・・・・・」(16 《いそかぜ》CPO室)

台本見るまで何を言ったのかわからなかった。それほど意外だった。田所に嫁!?24歳なら結婚しててもそう不思議じゃないし、原作だって独身だと明言してないけど・・・。まーこれは〈結婚してないくせに妻帯者めいた言い訳をするというボケ→それに対するツッコミ〉な場面と解釈してますが。

「申し訳ありませんでした、以後気をつけます!」(同上)

みんながいっせいに頭を下げるのに一拍遅れて申し訳程度に頭を下げる行。自衛官としての生活にまだ馴染んでないのがうかがえます。

「・・・・・・いつも土下座してるんでしょうか」(同上)

この台詞や仙石との甲板でのやりとりは、初見のとき「・・・・・・棒読み?」と思わず(役者の演技力が)不安になったんですが、機関室に爆薬を仕掛けるあたりから、彼は俄然生き生きしはじめる。考えてみれば行は戦闘は専門分野である一方、他人と四六時中顔付き合わせる生活には全くの不慣れなので、護衛艦の日常シーンでは己の立ち位置に戸惑い所在なげであってこそ自然なのですよね(原作でもそうだったし)。しかしそれは〈行〉としての自然なのであって、本来アクション俳優ではない勝地さんにとっては日常生活の方が演じやすいはず。それが逆転して見えるのは、役の感情を生きているからなのだろうと感心したものです。

「頼子さんが亡くなったときは、まだ幼稚園だったのにな」(同上)

妻の死が判明。原作での〈妻子に捨てられかけてる〉から〈妻死亡、幼い子供は妻の実家に預けてある〉という設定に変わったことで、原作の仙石が抱えていた鬱屈の一つが消えています。

「航海長、操艦。両舷全身減速赤黒なし。進路二百度」「航海長いただきます。両舷全身減速赤黒なし。進路二百度」(19 艦橋)

本物のイージス艦の映像、本物そっくりのセットとあいまって、日頃見る機会などない海上自衛隊のリアルな演習光景に思わず見入ってしまう。リアルなだけに、軍事用語のとっつきにくさは原作以上ですが(笑)。

「いや、上も何を考えているか・・・・・・この大事な時期に、突然あなたを陸に上げるというんですから」「もう十年若かったら、私も宮津学校とやらに入れてもらいたかった」(21 同・ウイング)

階級が下の副長に対して敬語を使っていることで、艦長が副長より年が若いこと、彼が宮津に抱いている敬意を察することができる。同時に年配かつ人望も高いらしい宮津がなぜ副長どまりなのかという疑問もわいてくるのだが。

「船務長、昨日、由良でうちの連中が喧嘩騒ぎを起こしたそうです」「それで?」「先任伍長が納めてしまって、報告も上がって来ません」「曹士官の事は、先任伍長に任せておけばいい」「しかし・・・・・・」(22 CIC

幹部と曹士の間の溝を観客に対し端的に示したシーン。同時に風間の仙石に対する反感を匂わせることで、終盤での二人の対決場面への伏線にもなっている。

「あれか?・・・・・・トメばあさん、元気か」「あ・・・・・・クメです」「ああ、そうだったか・・・・・あれだぞ、ちゃんと電話しとけよ、たまには。一人なんだろ」(27 赤色灯に染まる廊下)

先任伍長がちゃんと部下の家庭環境を把握し(ちょこっと間違ってるけど)、細かく気遣ってることが伝わってくる。そして意味なくやたらと「あれ」を連発することで親父くささが演出されている。

「スケッチブックと画材道具を手に歩いてくる仙石。前方からくる菊政に気づき、仙石、そっとスケッチブックを隠すが、」(27 赤色灯に染まる廊下)

甲板で行の視線に気づいたときの反応といい、映画版の仙石は絵が趣味なのをオープンにしていないらしい。行に絵について語るときの、大人の含羞、といった表情にそこはかとない色気がある。

「掃除を始める行」(28 《いそかぜ》後部甲板)

モップの動かし方とかちゃんと力入ってない適当な感じです。絵に気をとられて心ここにあらずなのだろう。本来は罰掃除でさえ真剣に(逃げずに)やる人なんでしょうが。

「・・・・・・毎日見てるのになァ、その色が出せねえ・・・・・・」「・・・・・・朱色」「(顔を上げ)ん?」「・・・・・・赤が足りないんじゃないでしょうか?・・・・・・」(同上)

この「朱色」は行を表しているんじゃないでしょうか。「のっぺりしている」海の絵=淡々と虚しく過ぎてゆく仙石の生活が、朱色(原作では朱色と緑色)=行という異分子に出会ったことで輝きはじめる、この場面はその暗喩なのでは。映画が、というより原作のこの場面がなんですが。

「おい、いいから描けよ。命令だ・・・・・・ケンカの後始末は誰がしたんだっけか?」(同上)

軽い口調で圧力をかける先任伍長。のちに行と二人艦内で戦うことになったさいに、対テロ戦闘のプロをさしおいてイニシアチブをとってしまう陽気な強引さが二人の関係の最初期にすでに表れています。

「ためらったのち、近寄り、受け取る行。黙って筆を走らすうち、見事な波が浮かび上がる。」(同上)

このシーン、吹き替えでいいから、絵を描くところを見せてほしかった。回想の少年時代ではちゃんと海の絵を描く場面を見せてたのに。

「護衛艦なんか乗ってる場合じゃないだろう・・・・・・これ」「・・・・・・他に行くところ、ありませんから」(同上)

この甲板のシーンの中で、原作の(もっとあとの方の場面の台詞ですが)「おれはもう、描くのをやめたんです」(強い口調で)を入れてほしかったなあと思います。何かしらの事情で(後の回想シーンで〈父を殺したことが原因なんだろうな〉と察することができる)行が絵を描くのをやめたことがはっきりしていてこそ、ラストシーンで彼が絵を送ってきた―胸に抱えていた鬱屈が解消されてまた絵を描けるようになった―意味がきわだつのではと思うんですが。

「・・・・・同じだ・・・・・・俺も、ここだけだ」(同上)

上の行の台詞に対する仙石の返しですが、仙石の「ここ」がストレートに《いそかぜ》を差してるのに対し、行が「(ここの)他に行くところ、ありませんから」と言うときの「ここ」は、自分を《いそかぜ》に送りこんだダイスを暗に差している。そして仙石が「ここだけ」という言葉を、《いそかぜ》で半生を過ごしてきた男として、もはや艦と自分が不可分であることを一種の誇りを持って口にしているのに対し、行の言葉にこめられているのはむしろ、汚れ仕事を身に引き受け続ける生き方しかできないという諦め・・・。「同じだ」という仙石の言葉とは裏腹の、二人の立ち位置の懸隔が切ない。

「「総員起こし」のアナウンス。目を開けていた行、ベッドを下りる。」(30 同・第三居住区)

シャッとカーテンを引く動きの素早さと、朝一にもかかわらず「死地に赴く兵士の顔」になっている行。

「また作業着のまま寝てたんですかぁ?」 「バカ、朝の一分は貴重なんだよ」(同上)

原作にない場面ですが、短い会話を通して田所と菊政のキャラクターを浮かびあがらせているのはさすが。原作に出てきても違和感ない会話です。

「「先輩、お早うございます」「お早う」 行、無表情に出て行く。」(30 同・第三居住区)

行と菊政の交流部分が皆無に近いほどカットされている中、唯一菊政が行を慕っていることを感じさせる場面。田所に対するより大分態度が丁寧です。行のほうも、台本には「無表情」とあるものの実際は声のトーンも表情も心なし柔らかい感じで、菊政に一応の好意を持っているのがうかがえます。

「そりゃ、それだけ今回の訓練は、厳しく審査するって事だろ・・・・・・だよ」(31 CPO室)

FTGの行動を怪しむ若狭への返答。若狭同様FTGを訝しいと思う部分がありながら何でもないと自分に言い聞かせる。上のやることににふと疑問を覚えてもそれを深く突き詰めようとしないところは原作通りですね。

「「あ、それさっき如月が置いてったぞ」(中略)手に取り電灯にかざすと、中に一本の棒状の物。それはまだ使われていない筆――。」(同上)

脚本では仙石の反応は「・・・・・・」しか書かれてませんが、ちょっと目を細めて「あいつめ(苦笑)」という感じの表情をしてます。機関室乗っ取り以前の行と仙石の交流を示しているのが、先の甲板のシーンとこのシーンくらいしかないので、二人の、特に仙石が行に向ける信頼の根をここでしっかり読み取るべきポイントの場面ですね。

「行、膝をつき、艦長の首筋の動脈に手をあてる」「陰から見張っている一人のFTG。出てくる行。と、遠くに不意に現れ、あわてて隠れる菊政。」(32 艦長室、 33 同・前)

白い制服の足が誰なのか、はっきり顔が見えないので、「?」となりやすい場面。行があまりに淡々としてるだけに、死んでいるということさえつかみにくい。また行も菊政も帽子を目深に被っているので、顔の判別がつき辛いという・・・この映画でもっともわかりにくい場面の一つかも。

「浮かんでいる潜水艦、ゆっくりと沈んでいく。」「突然浮き上がってくる人影。女――か?」(34 海面に、 35 海)

流れからいくと、ジョンヒは「浮かんでいる潜水艦」からやってきたんでしょうが、原作で言われてた〈北朝鮮の潜水艇がこんなところまで(技術的に)来られるはずない〉問題はどうなったのでしょう。そもそも「せとしお」に気づかれずに近寄れるものなのか?あるいは「浮かんでいる潜水艦」は「せとしお」で、ジョンヒは「せとしお」の探知網に引っかからないほど遠くの味方艦から泳いできたのだろうか?(その場合でも〈ジョンヒ自身が探知網に引っかからないのか〉はいう疑問は残る)うーむミステリー。

「あの、ちょっと、如月さんのことで・・・・・・」(36 露天甲板)

なぜこのときは「さん」づけなんだろう。原作での「如月先輩」に慣れてるので(映画でも朝の挨拶では「先輩」と言ってた)なんか違和感。

「・・・・・・入れ。山崎二尉が説明する」(43 士官室前・通路)

原作の宮津なら「入りたまえ」もしくは「入ってくれ」というだろうところ。映画の宮津は原作よりももっと厳しい雰囲気をもっている印象です。幹部たちや行に対する情、ついこの間までの身内を攻撃することへの逡巡を示す場面が少ないのが第一の理由ですが、このシーンに見られる言葉づかいや、寺尾さんの細身の風貌も大きく作用している気がします。ところで説明役が溝口でなく山崎なのは、導入部でヨンファの声を出してしまってるから、溝口にあまり喋らせると同じ声だと観客にわかってしまうからですね。まあ中井さんが出てきた時点で丸わかりといっていいんですが。

「艦内に潜入した特殊工作員を監視して、その計画を未然に防ぐ。」(45 士官室・中)

ところで「その計画」とはどんな計画なんだろう。少し後に「艦を占拠する計画」とあるが、占拠してどうするつもりなのかは説明なし。「GUSOH」をばらまく?日本政府を脅迫?まあどのみち嘘なんですけどね。

「〈自分は、現在国費で勉学を賄われる防衛大学校の学生である。〉(50)

論文「亡国の盾」の朗読場面。この声はやはり隆史役(写真でしか出てこないが)の笠原秀幸さんでしょうか。落ち着いた声音に隆史の人柄が滲みでているように思います。

「少年、「親父!」と飛び掛る。」(60 回想・雨)

母の縊死死体を見つけた行が父に殴りかかるシーン。母の遺体を見上げた時の、無表情に近いような(しかし微かに動揺を滲ませた)姿から一気に動に転じる。どこで読んだのかは忘れましたが(勝地さんのインタビュー記事のいずれかだったはず)、この「親父ー!」という叫びはアドリブ、というか思わず叫んでしまっていたのだそうで。それだけ役に入り込んでたんでしょうねえ。しかしもしこの台詞がなかったら、行が殺したのが誰なんだかわからなくなりそう。ところで行は父親に殴りかかる直前で学用のスポーツバッグとスケッチブックを勢いよく投げ捨てている。母親の死→父親の殺害を契機に、彼が学生生活=一少年としての日常と絵を描くことを振り捨てたのがこの場面に象徴されているように思えます。

「激しく踏みにじられる絵。」(同上)

行の父親がことさらに息子の描いた絵を踏みにじっているのは何故なのか。息子の才能に嫉妬したものか、あるいはこの映画では終始行の絵に対する思い入れと母への思いはリンクしているので、「絵を踏みにじる」→「母を踏みにじる」ことを暗示したものか。おそらく主として後者なんだろうという気がしています。

「人込みの中を掻き分け歩いていく少年に、突然張り付く二人の男。」(61 回想)

作中ほとんど海自の作業服姿ばかりの行の、珍しいTシャツ姿。これが原作での由良のケンカ後に出てくる「意外にがっちりしている肩の線」という描写を地でいっているのに妙に感心してしまいました。 しかしあのリクルート方法は結構周囲の注目を集めてしまいそうな・・・。ちなみに実際の映像では「掻き分け」てはなく、所在なげに歩いてますね。

「「銃を・・・・・・(銃を差し出す)」 受け取らずに行く仙石。」(63 第二機械室・前)

行を説得するため仙石が点検用ハッチから第二機械室に入る直前のシーン。銃を差し出すというより胸に押しつけるような山崎(ドンチョル)の挙措と目つきがとても正義側の人間には見えず、実は某国工作員であることの伏線になっている。この少し前、点検用ハッチの存在を口にした仙石に「(場所を)教えてください」と詰め寄るときも乱暴に腕をつかむ動作、口調、目付きが危ないです。

「無線機のスタンバイをしていた行が気づき、威嚇の銃を撃つ。」(64 第二機械室)

傍らの銃を取り上げ、発砲するまでの動きが実にシャープかつ素早い。真っ直ぐに対象を見据える強い視線といい、まさにプロという感じ。

「うるさい・・・・・・任務だ。」(同上)

この台詞を口にするときの表情と苛立った声のトーンの中に、自分の行動に誇りを見出せないまま頑なに「任務」に従おうとする、それしかできない哀しさが籠っていたように思います。少し後の「・・・・・・それが俺の任務だ。だからここにいる」も同様。

「無線機拾い、叩きつける仙石。 「(同時に)やめろ!」 体当りする行。」(同上)

この状況でも行は仙石に対し銃を撃とうとはしない。威嚇射撃さえ一切していない(最初に撃ったときは侵入者が仙石と気づく前)。そこに行の仙石に対する思い入れが表れていて、のちに杉浦を撃った直後の会話が効いてきます。

「なんで俺が、お前に銃を向けなきゃいけないんだ!」(同上)

人の銃を奪い、あまつさえ狙いまでつけておきながらのこの台詞。逆ギレというのか、開きなおりっぷりがいっそすがすがしくて、映画版仙石のマイペースな性格がうかがえる。

「もうやめろ!おまえがヨンファとかっていう工作員の部下だってことも、全部わかってるんだ」「・・・・・・」(同上)

台本では「・・・・・・」ですが、無表情のようでいてかすかに怪訝そうな顔をしています。ごくわずかな表情の動きでそれを表せるのはさすが。

「まだわからないのか・・・・・・溝口がホ・ヨンファなんだ」「・・・・・・!」(同上)

自分と溝口の正体を語る間、行は仙石の顔にじっと視線を当ててそらさない。自分の言葉を信じてほしい、わかってほしいという強い意志が伝わってくる。この場面に限らず行は全くといっていいほど瞬きをしないので、それがあの目力を生んでいるのかも。

「そうか・・・・・・俺はこの艦と、乗員たちを守る。それが俺の任務だ・・・・・・だからここにいる・・・・・・」(同上)

仙石のこの言葉を聞いて、行はふっと視線をそらすのですが、視線をそらす前の一瞬、ひどく悲しそうな顔をしている。大げさな表情の変化は一切ないのに、彼の目を見るだけで深い悲しみが伝わってくる。原作の名台詞「あんたにだけは・・・・・・信じてもらいたかった」は映画ではカットされていますが、この一瞬の表情は言葉に拠らず「信じてもらいたかった」想いを表現しきっていたように思います。

「・・・・・・じゃあ、あれは?・・・・・・あの筆は・・・・・・なんだったんだ?」「・・・・・・必要なくなった・・・・・・」(67 同・中)

原作では由良のケンカの直後に筆を購入しますが、映画では由良のケンカ→行が仙石の絵画の趣味を知り筆の話題になる、という流れなので、筆の出所は不明(原作の台詞にもあるように艦内の酒保(売店)には筆まで置いてないだろうし)だったんですが、ここの行の台詞で〈行がもともと持っていたもの〉らしいと発覚します。それも和紙?の紙袋と、さっき買ったかのような綺麗さから、〈女性からの贈り物〉〈未開封のまま大事に持ち歩いていた〉ことが想像できる。絵をやめたのだから使う機会はないのにそれでもずっと身に付けている、そのことで絵とその女性(のちの展開からみれば間違いなく母親)に対する断ちがたい想い、それを手放すからにはこの任務で死ぬだろう覚悟をしていること、筆を託せるほどの仙石に対する好感情までが、この短い台詞に匂わされています。

「仙石を見つめ、何かを訴えかけるような行の表情」(同上)

仙石が扉を開けたことで雪崩れ込んできたFTGに行が拘束され、仙石も機械室の外へ引きずりだされる場面。絵面だけならFTGが某国テロリストを拘束した、とも解釈できるんですが、無念と仙石への気遣いに溢れる行の表情と、その顔を凝視する仙石の表情とで、行の話(FTGこそヨンファ一味)の方が真実であること、仙石が瞬時にそれを悟ったことを観客に伝えています。

「仙石が宮津に向おうとした瞬間、何者かが風のように近づき、その指先が仙石の喉に入る。(中略)相手は、女だ――ジョンヒ。」(同上)

この場面、ジョンヒの無言の素早い動きと、床に倒れてのたうつ仙石を見下ろす冷たい目つきに思わず息を呑む。

「死にたくなかったら、離艦しろ・・・・・・」(同上)

すでに直前の行拘束シーンで溝口=ヨンファなのは察せられてるんですが、この台詞でとどめ、という感じ。台詞の響き(歌うようなイントネーションが微妙に日本語ぽくない)と台詞の内容そのものの迫力に圧倒される。

「とまどいながら身支度を始める児玉賢二たち。」(68 第三居住区)

思わず「児玉って誰?」と思ってしまいました。原作に名前出てませんよね?単に《いそかぜ》の(おそらく行たちと同じ砲雷科)一海士だと思うんですが、いきなりフルネームが出てくるのがちょっと可笑しい。

「遠くの救命筏から「おい如月! 如月はどこだぁ!」という声。」(73 《いそかぜ》甲板/内火艇)

原作でもそうですが、行に銃で脅され機関室から追い出された曹士から、〈如月はテロリスト〉という話が伝わってないのだろうか?とちょっと疑問な場面。

「・・・・・・忘れ物だ」 と、帽子を脱ぎ捨てる。次の瞬間、海に飛び込む仙石。(同上)

この帽子脱ぎ捨て→飛び込みの挙措が流れるようで(仙石としては格好よすぎるほどに)格好よい。さすがは海の男ですねえ。

「撤退するつもりも先制攻撃をかけるつもりもない!それが我々海上自衛官としての任務」(82 《うらかぜ》CIC)

この阿久津の台詞は最後まで入れてほしかったなあ・・・。とくに「我々という犠牲が、全国三十万の自衛官に反撃のきっかけを与えるのだということを忘れるな。」のくだりは。そのほうが「自衛官としての任務」に誇りをもって殉じたことが伝わりやすかったのではないかと。

「・・・・・・宮津は本気だ。対空戦闘用意!」(中略)「対空戦闘用意!」(84 《うらかぜ》CIC)

ここから始まる対《うらかぜ》戦は映画ならではの迫力に満ちた名シーン。見るたび手に汗握ってしまう。

「一番発射用意。・・・・・・てー(撃てー)!」(86 《いそかぜ》CIC)

《いそかぜ》サイドも《うらかぜ》サイドもこの「てー!」の声が実に良い。この場面のために声のいい役者さんを選んだんじゃないかと思うくらい。

「・・・・・・ハープーンか!?」(88 第四甲板・浸水区画)

音(+振動も?)だけで発射されたのがハープーンと気づく仙石。さすが《いそかぜ》を知り尽くした男の凄みを感じます。

「阿久津徹男(52) 「衝撃に備え!」」(102 《うらかぜ》CIC)

なぜか《うらかぜ》のラストシーン(正確にはもうワンシーンあるけど)でいきなりフルネームが明かされる阿久津。そして宮津の後輩設定が無くなったためか年齢が原作よりかなり高めになっていることも発覚。

「レーダー。うらかぜのマーカー消えていく。」(107 《いそかぜ》CIC) 「遠く閃光が走る・・・・・・・・・。」(108 漆黒の夜空に)

《うらかぜ》に着弾の衝撃が走ったあと、爆発炎上シーンにならずレーダー映像と遠景で閃光を捉えただけで《うらかぜ》沈没を表したのには、最初見た瞬間は「あっさりしすぎでは」と拍子抜けしたんですが、地獄絵図をはっきり描かなかったことでかえって巨大な護衛艦と多くの人命がミサイル一つで消滅してしまうはかなさとやりきれなさが次第に胸にしみてきました。描かれてないだけで、原作同様生存者もいるんでしょうけど。

「・・・・・・よく見ろ日本人・・・・・・これが戦争だ」(109 《いそかぜ》CIC)

『イージス』を代表する名台詞の一つ。なのだが、《うらかぜ》のマーカーが消滅してからこの台詞までにもうちょっと間がほしかった気がする。この場面に限らず、個人的に「もう一呼吸おいてほしいなあ」と思う箇所がいくつかあった。そこで思ったのだが、『イージス』は浪花節が根底にある、日本的メンタリティーに立脚した物語なのに、なぜハリウッドに編集を依頼しようと思ったのだろう。それが悪いということではなく、単純に不思議です。

「・・・・・・今日中に選挙区帰らなくちゃいけないのに・・・・・・まったく」(110 防衛庁・A棟玄関前)

この梶本総理の、「亡国の危機」に直面してるとも思えぬ(いかに日本政府の危機管理意識が甘いにしても)緊迫感のない台詞からするに、原作と違って総理はGUSOHの強奪に始まるDAISとヨンファ一味の水面下の戦いを何も知らない設定のようです。ちょっと前の場面の「ホ・ヨンファとか」という台詞からしても。ただしあとで宮津からの通信で〈ダイスによる防大生の暗殺〉の話が出たとき、彼と瀬戸は表情を変えていない。・・・やっぱり事情を承知してるのだろうか?

「スクリーンに《いそかぜ》乗員の名前と写真の一覧。」(113 国家安全保障会議)

宮津の履歴の最後に捕捉事項として息子・隆史(22歳)が少し前に事故死したことが記されているのに注目すれば、論文『亡国の盾』を書いた防大生=宮津の息子と察せられる。このへんのつい見逃しがちなミステリー的仕掛けに気づいて楽しめれば、一気に映画版『イージス』の世界にはまれるのでは。

「ひとつ。その防大生による論文、『亡国のイージス』を、主要五大新聞に全文掲載すること」(117 国家安全保障会議/《いそかぜ》CIC)

今ちょっと手元に本がないので確認できないのですが、原作ではたしか四大新聞だったはず。増えた一紙はやはり産経新聞でしょうか(映画版イージスの製作には産経新聞社が名を連ねている)。※原作を確認したところ、やはり四大新聞でした。

「ハンカチ貸してくれ、忘れた」(123 同・トイレ)

この瀬戸のとぼけた味わいが緊迫した物語に一息つく暇を与え、映画に緩急をもたらしています。洗面台まわりに飛んだ水をわざわざぬぐう渥美の神経質なほどの几帳面さ(潔癖さ)と瀬戸の鷹揚さが好対照。しかし瀬戸、ハンカチ返さないつもりなのか・・・。

「・・・・・・あんたの国でも、あの月、見えてるのかね」「(月を見て)・・・・・・今日、何人、子供が死ぬと思う」(125 《いそかぜ》艦橋(朝))

原作では、溝口として仙石に(虚偽の)自分たちの正体を語る場面でヨンファの祖国の現状に対しての憤りも説明されているのですが、映画ではこのワンシーン、この一言で見事にそれを表現しきった。淡々とした口調にかえって抑えた怒りが滲んでいる。また、《いそかぜ》クルーがヨンファ一味に必要以外の〈無駄口〉をきくのはこの場面だけ、しかも互いの価値観の隔たりを示すような答えが返ってくるというのが、幹部たちと某国工作員たちの感情の溝を反乱の初期段階で暗示してるかのようです。

「裏切られたようだな」「・・・・・・裏切り者はあんただ」(129 CIC)

原作では宮津と行、仙石と行の精神的な繋がりが描かれる場面なんですが(とくに宮津−行の絆は自沈直前の邂逅に生きてくるので重要)、DVD特典映像のインタビューで福井さんが述べてらしたように、映画だと観客の体感時間が短い(2時間強)なので、彼らの関係性を深くしようがない(体感時間と照らし合わせて違和感が生じるから)のは仕方ないんだろうなあ。

「破壊された水密戸から水が噴出する。流れに吸い込まれ、押し流されていく仙石。」(135 《いそかぜ》第四甲板)

水密戸から颯爽と飛び出すのでなく、水に流されよたつきながら立ち上がり走り出す。このへんの〈格好悪さ〉が、特別な戦闘訓練を受けたわけでない、でも自衛官なので一般人よりは鍛えているはずの中年オヤジらしさを出している。真田さんの身体能力の高さと表現力あればこそでしょう。

「間合いを計って飛び出す行、ミンチョルの頭上から蹴りを入れる。ミンチョル、ラッタルの下に転落する。」(143 第二甲板)

行のアクションシーンは原作に比べると格段に少なく難易度も低くなっていて、それは一つには仙石を目立たせるため、一つには本物の特殊工作員でもないと実演不可能(若かりし頃の真田さんだったら可能かも)のためと思われます。ゆえにアクションの総数・難易度を減らすかわりに、戦闘場面の初期で行の強さを見せつけ戦闘のプロとしての説得力を持たせる必要があった。それがこの〈後ろ手に縛られながらの過激なアクション〉(原作にもありますが)になったものでしょう。軽やかかつ鋭い動きに思わず見惚れました。※この場面、蹴りを受ける側のミンチョル役の役者さんもすごいと思います。胸にクッションになるものを入れて置いたとしても、飛び降りながらの蹴りですから体重がかかっているわけで、結構な衝撃だったのでは。大変だったろうなあ。

「「押さえてろ」(中略)「なんで戻ってきた!?」「・・・・・・行くぞ!」」(144 第三甲板)

合流そうそうイニシアチブを取りまくっている仙石。行の質問に全然答えてないし・・・。

「なにかあるか?」(146 《いそかぜ》通路)

某国工作員の遺体に杉浦たちが掛けた白布を剥ぎ取り武器を集めるドンチョルが杉浦に言った台詞。微妙にイントネーションがおかしいのが怖さを醸し出す。

「俺は、人であることをやめたんだ」(同上)

ドンチョルに習って、某国工作員の死体から使える武器を剥ぎ取る杉浦砲雷長の台詞。ドンチョルや、やはり自分が殺した工作員から武器を奪った行は、杉浦から見れば〈人をやめてる〉んだろうなあ。実戦の中に生きる行たちには単に〈当たり前のこと〉にすぎない行為にこれだけの悲壮な決意を要する杉浦は、基本的に仙石と同じ価値観に住む人間だとわかるシーン。

「自ら肩の傷の手当を始めるジョンヒ、気配に振り返る。(中略)強張った表情が緩む。ノックもなくヨンファが立っている。」(147 士官室)

この二人の関係は映画の方が好きかもしれません。わかりやすい愛情表現がないぶん本当に言葉でなく通じ合っているのが伝わってくる。これって結構日本人的メンタリティーな気もしますが。某国人のわりに。

「行を引っ張り、ラッタルの下へ身を潜める。」(149 第三甲板・通路)

引っ張るというより腰を抱きかかえて引きずっている。まるっきり子供扱い(笑)。この後のシーンでも飛び出そうとする行を仙石が引き戻したり(「俺の足をひっぱるな」と言われたそばから)、プロの仕事を妨害しまくっている。行も言い争うだけ時間の無駄だと思うのかあまり逆らわず仙石に合わせているが、マイペースにイニシアチブを取る仙石に〈父親〉を感じて、内心微妙に居心地がよかったりするのかもしれません。

「〈せとしお〉に制圧部隊がいる。おれが開けた艦底部の穴から進入させる・・・・・・」「!・・・・・・いつ?」「あの通信機があれば、もうとっくに来てる・・・・・」「(困り)・・・・・・終わったことをごちゃごちゃ言うんじゃない」「・・・・・・」(同上)

仙石の開き直りが笑える。それを行が無言で受けている(呆れてるんだろう)のがさらに笑える。しかし仙石は「せとしお」が潜水艦の名前だと知ってるのだろうか。

「「・・・・・・俺はあんたの護衛じゃない。俺の足をひっぱるな」 仙石に銃を押しつける。」(同上)

左手で仙石に銃を渡す間も、右手に構えた銃口が揺らがないのに感心。戦闘のプロという感じ。

「奴らはすぐに隔壁を爆破してくる。行くぞ」「・・・・・おい、あわてるなよ。」(同上)

実際のフィルムでは「行くぞ!」と飛び出そうとする行を仙石が「あわてるなよおまえ」とまたも引き戻す。「あわてるなよおまえ」の言い方がいい具合におじさん臭い。またこの場面で仙石が息を切らしながら喋っていることで、息の乱れていない行の身体能力の高さがわかるようになっている。

「浦賀水道の航路にもうすぐ入る。一五ノットまで上げれば、回避できるはずだ!・・・・・・なぜだ!」(160 CIC)

杉浦が《せとしお》をおびきよせるための偽信号を打っているのに気づいた竹中がヨンファに詰め寄るさいの台詞。これは杉浦にモールスを打つよう命令したのはヨンファだということなのか。竹中は、のちには風間も、「副長以外の命令には従えない」旨を表明していたが、先にドンチョル方式を見習った杉浦であってみれば、ヨンファから直接に命令されても動くことはありえるかも。

「ハンドルを回し、魚雷発射管を方角に向ける。「気づけ!」と、発射ボタンを押す。」(169 露天甲板)

これ、うっかり《せとしお》に当てちゃったらどうしたんだろう?下手すれば原作のフラットフィッシュ作戦以上の悲惨な事態に・・・。

「「副長の指示以外では動きません」「・・・・・・君たちには、恥も誇りもないのか」「黙れ!CICから出て行ってもらいたい」 ヨンファに詰め寄る竹中。素早く、竹中に銃口を当てるドンチョル。」(175 CIC)

やや上ずった口調で、懸命に副長への忠誠心に従おうとする風間。感情を押し殺した口調で痛烈な非難を浴びせるヨンファ。凛々しく激昂する竹中と、いつのまにか至近距離から竹中に殺気に満ちた視線を向けているドンチョル(この場面、ドンチョル役の安藤さんは監督に「本気で殺しに行っていいですか?」と尋ねたそうで、実に迫力がありました)。名優ぞろいならではの演技合戦。

「身を潜め、黙々と缶メシを食べる仙石と行。」(178 レーダー塔の陰)

行のスプーンの持ち方が・・・。最初は役者の躾の問題かと思い、でもそれなら監督が注意するだろうから、行がちゃんとした躾を受けてない(不遇な家庭に育った)ことを匂わせてるのかと思い、しかし不遇なりにお母さんは行を愛してたんだからスプーンの持ち方くらい直しそうなものだし、あるいはあれが工作員流の食事作法なのかと思い・・・結局よくわからないのだった。※2006年1月に、行役の勝地さんがTBSの情報番組「はなまるマーケット」にトークゲストで出演してたんですが、「おめざ」を食べるさいのスプーンの持ち方は・・・正しかったです(笑)。なので「役者の躾」の線はナシですね。むしろ言動の一つ一つに「躾の良さ」を感じさせる方でした。今さら気づきましたが、この時行は片膝を立てたやや不自然な姿勢で食事をしている。いつでも飛び出せるようにという臨戦態勢。そこから推すと「工作員流の食事作法」が正しそうです。

「黙々と缶メシを食べている宮津。」(179 《いそかぜ》・副長室)

こちらは仙石たちと違い、ちゃんと暖めた缶メシ(沢庵つき)。食事の内容はこちらのほうがリッチなのだが、無口なりに会話もあり缶メシを交換したりのコミュニケーションもある仙石らと対比して宮津の孤独が伝わってくる。

「君の仕事はここまでだ・・・・・・」(181 国家安全保障会議)

瀬戸に「・・・・・・代わりはいないんだよ」と言われて会議室に戻ってくるなり、総理からのこの発言。原作もそうですが、渥美っていろいろと可哀想なポジションですね。あるいはあったはずのシーンがカットされたのかも?

「・・・・・・私は防衛庁情報局の渥美と申します。防大生、宮津隆史・・・・・・宮津二佐、あなたのご子息の、最期に立ち合った者です」(183 《いそかぜ》CIC/国家安全保障会議)

『亡国の盾』の作者が宮津の息子である、つまりは宮津が反乱した第一の動機は私怨であることが初めて明かされる瞬間(宮津のプロフィールが写し出されるシーンでも匂わせてはいるのだが)。原作では最初から明かされている設定がここまで引っ張られたのは、キャラクターそれぞれが〈私情〉に基づいて動いていた原作に対し、映画は〈公憤〉を描くことを重視した(そのアンチテーゼとして大義より個人レベルでの情を大事にする仙石を際立たせる)からではないかと思います。

「二手に分かれて、先に突破した方がコンソールごとぶっ壊す。いいな」(188 レーダー塔の陰)

この仙石の自信はなんだろう(笑)。プロの行が一緒ならともかく単身で武装した工作員連中の中を突破できるつもりとは(原作ではやむを得ざる状況で別行動になった)。このあと行に「いいか。死ぬな」と言っているが、どう考えても仙石の方が死ぬ確率高いよなあ。

「いいか。死ぬな」 「・・・・・・」(同上)

「死ぬな」と言うときの仙石の訴えかけるような表情に、行を案じる気持ちが溢れている。対する行は仙石からふと目をそらし、わずかに身を縮める。居心地の悪そうな、どことなく子供っぽい仕草から、優しくされることに慣れてないがゆえにどう反応してよいのかわからない彼の戸惑いが伝わってくる。文章と映像というメディアの違いと映画の尺の関係上、行の人間性は原作ほど深くは描かれていないのですが、戦闘のプロとしての冷静さ、鋭さの中に垣間見えるこうしたナイーブな幼さが原作の行の性格描写に一致していて、まだ18歳(オーディション当時は17歳)だった勝地さんをキャスティングしたのが効いています。

「仕方がない?国ってなんだ・・・・・・」(189 防衛庁最上階ロビー)

この一連の会話は、およその着地点だけ定めて渥美役の佐藤さんと瀬戸役の岸部さんに自由に喋ってもらったのだそうです。言われなければ絶対わからない違和感のなさに、お二人の作品に対する理解の深さを感じます。

「・・・・・・あ・・・・・・煙草買うの忘れた。もう行くぞ。」(同上)

先のハンカチといい、この人の忘れ物癖が作品をなごませる。しかしこんなうっかりさんで内閣調査官がちゃんと勤まるのかな?とちょっと思ったり。まあ仕事の面ではきちんとしてるってことで。

「渥美、自分の煙草を渡して去る。」(同上)

「やるよ」とも「後で返せよ」とも言わず、ごく自然な動作で箱ごと瀬戸にあげてしまうあたりが、トイレの洗面台にはねた水を丁寧にぬぐう神経質さの反面の、こせこせしない鷹揚さ―原作にも通じるお坊ちゃん気質を感じさせます。

「海に飛び込もうと手すりに上がった行、ジョンヒの方を振り返る。・・・・・・誘った? 陰から飛び出したジョンヒ、行と目が合う。」(192 仙石と行、二手に分かれてVLS室へ向かう)

脚本の段階では実際の映画より行とジョンヒの関係が描かれていたのがわかります。逆にトレーラーでも使われていたドンチョルが手榴弾のピンを抜く場面が脚本になかったのが意外でした。

「続いて浮上したジョンヒ、自分の唇を行の唇に押し当て、息を塞ぐ。」(201 海面)

さんざん意味不明といわれたキスシーン。たしかに脚本を見ないと「息を塞ぐ」ためとはわからないですね。DVD特典映像のメイキングでは何度も(海中と海上とで)キスシーンを撮っていて大変そうでした。

「ジョンヒ、スクリューの渦に飲み込まれていく。」(206 海中)

原作でもテルミット・プラスの投下を防ぐために《いそかぜ》発進を促したのはヨンファですが、映画だと発進の指示からジョンヒがスクリューに巻き込まれるまでさほど観客の体感時間がないために、ヨンファの決定が結果的に妹の命を奪った皮肉が強められています。

「画板の上の海の絵・・・・・・穏やかな表情で描いている行。自転車を押してやってくる、母・・・・・・。(中略)淡い色の封筒を陽の光に翳すと、中に筆・・・・・・。」(211 浜辺)

母の縊死死体を見つける場面から察するに、行は少年時代から基本的にあまり表情が動かない。だからこの絵を描いているシーンでもほぼ無表情なのですが、《いそかぜ》での張り詰めた無表情とは違ってどこか雰囲気に柔らかさがあり、好きな絵と母に囲まれて彼の心が静かに凪いでいるのがわかります。また脚本段階ではこの場面で筆の出自が明かされるはずだったのですね。あえてそこを切ったことで筆の出所をあれこれ想像する楽しみが出来たともいえますが。あと原作ファンとしては「自転車を押してやってくる」場面は切らないで欲しかったなあ。

「呼吸器を行に押し当てる仙石。」(214 《いそかぜ》第四甲板・浸水区画)

後に勝地さんが、日本アカデミー賞受賞式のインタビュー他で、〈息が切れているシーンを撮影するとき、真田さんに「走ってこい」と言われて、実際に走って息が上がるようにした〉エピソードを語っていますが、たぶんこの場面のことじゃないかと思います。

「おまえはここにいろ」(217 《いそかぜ》第四甲板・浸水区画)

ただ声を掛けるだけじゃなく、壁にもたれて座り込んでいる行の足を軽く握る。こういう〈親父〉らしいスキンシップも、人との繋がりに不慣れな(飢えている)行には、戸惑いの種であると同時にどこか嬉しくもあったのでは。仙石の後ろ姿を見送る彼の目には、付いて行きたいのに体が言うことを聞かない無念さが滲み出ていました。

「ウェットスーツのチャンクォンから何かを大事に受け取るジュンテ。悲しみを隠してヨンファの前へいく。差し出されるジョンヒの服とナイフ。受け取るヨンファ。静かに見定める。」(220 《いそかぜ》CIC)

服もナイフも黒い塊としか見えずジョンヒの持ち物というのがわかりにくいが、ジョンヒがスクリューに吸い込まれていくシーン、エンジンが止まるシーンにあわせてチャンクォンのウェットスーツ(海に潜っていた)に注目すればそこから推理できるようになっている。初見では気づきにくい部分が多いかわり、鑑賞するほどに新たな発見があって味を増してゆく。原作者や監督が「この映画は三回、五回と見てほしい」というだけあります。

「CICを出て来るヨンファ。 「・・・・・・」 野球場。アルプススタンドに出てくるヨンファ、一瞬、スタンド席に視線を送る。」(220 《いそかぜ》CIC〜221 ヨンファの回想)

この場面、CICを出て行ったかと思ったらスタンドに出ている、という流れに思わず、「CICの扉を出ると、そこは野球場だった」とか『雪国』チックなフレーズが頭をよぎりました。また野球場に出るなりサラリーマン風七三分け+メガネ+シャツ姿に瞬時に変わる(ように見える)のには、ヨンファを演じる中井さん主演の映画『梟の城』での、町を歩きながらの衣装早変わり(早変わりするのは中井さんではなく中井さんのライバルを演じた上川隆也さんですが)を思い出しました。

「厳しい表情で入ってくるヨンファ。ブリーフケースから手帳を取り出す。そこに挟んであった古い一葉の写真。(中略)ヨンファ、その写真に火をつける。」(222 士官室)

写真の中の少年と赤ん坊に現在のヨンファとジョンヒの面影はないが、ジョンヒの死を知った直後に燃やすんなら彼女の写真なんだろう、それが家族写真ということはヨンファと彼女は家族、それも兄妹なんだろうと見当をつけることができる。そして写真を燃やすという行為、写真を取り出すときの性急な動作でヨンファの動揺―妹への愛情―を表す。〈はっきり語らず匂わせるにとどめることで余韻と奥行きを出す〉映画のスタンスがもっとも生きた名シーンの一つ(ドンチョル自害シーンと双璧)だと思います。

「・・・・・・先任伍長、俺はもう疲れた・・・・・・」(223 《いそかぜ》第三甲板・通路/第二VLS管制室)

先に死んだ工作員から武器を剥ぎ取るさいの「人であることをやめたんだ」といい、竹中の制止を無視して《せとしお》の突入部隊を誘き寄せるモールスを打ったことといい、反乱組の中でももっとも悲壮感を胸に溜め込んでいた杉浦。彼の過剰なまでの張り詰め方(それだけ事の重大さを認識していたということでもあるが)が描かれてきたからこそこの台詞が説得力をもっている。

「銃声。崩れ落ちる杉浦。(中略)振り向くと、銃を構えた行が、とどめを撃つために突っ込んでくる。」(同上)

幹部と曹士の間にある溝ゆえに目立ちませんが、一応砲雷科に所属する行にとって、杉浦砲雷長は直属の上司ですよね。行が撃ったのが他の幹部でなく杉浦だというのは、かりそめにも上司である男に対してさえ、人を殺すことに躊躇がなさすぎる、条件反射だけで人間を撃てる行の非人間性を浮き彫りにするための設定(原作からですが)ではないでしょうか。この場面、銃を構えた姿勢も表情も一切動かさずにずんずん進んでくる行の姿に、非情の〈戦闘マシーン〉としての彼の一面が見えて、思わず戦慄を覚えました。

「・・・・・・あんたは実戦を理解していない」(中略)「お前は、人間を理解していない」「・・・・・・」「撃つ前に迷ったりするのが人間だろ、一瞬でも何か考えるものだろう!」「・・・・・・(視線をそらす)」「なぜ機械室で俺を撃たなかった?」「・・・・・・」「任務のためなら、鉄則通り撃ち殺せたはずだ!」「・・・・・・(仙石を見る)」「おまえは撃たなかった・・・・・・」(同上)

映画ではどうしても薄くならざるを得なかった仙石と行の関係をもっとも濃く描いた場面。二人の絆を示すエピソードの数的不足を、彼らの関係(単なる上司−部下から兼戦友へ)のターニングポイントとなった機関室の場面を踏まえた会話によって一気に補う。切々たる情をこめて語る仙石と、無言のままに微妙な表情の変化だけで反応する行。〈目の表現力〉を買われてこの役に抜擢された勝地さんの本領が発揮されている場面です。

「と、エンジンが始動する音がうなり始める。行、気づき、逃げるように走り出ていく。」(同上)

これは本当に〈仙石から〉「逃げた」んでしょう。自分が仙石を撃てなかったことの意味を思い、とまどう彼は、今までにない子供の顔になっています。

「・・・・・・これで、何人が死んだ?・・・・・・」「・・・・・・」「終わりだ・・・・・・」「・・・・・・」「理屈はもういい。・・・・・・間違ってる!」「・・・・・・」「・・・・・・目を覚ませ!」(225 第二VLS管制室/CIC)

「・・・」の異常に多い仙石キメの場面。ごく単純な、少ない言葉だからこそ「理屈はもういい」というシンプルな気持ちがまっすぐに伝わってくる。ちなみに仙石の台詞に「・・・・・・」だけで反応しているのは宮津副長です。

「ヨンファより自力で〈GUSOH〉を開放する旨の一報に決意の表情。」(226 通路)

これも脚本を読むまでわからなかった。仙石がドリルで鍵穴を潰したときの音がイヤホンを通して聞こえたのに耳を塞ごうとしているのかと思ってしまった・・・。あとで彼らが次々自決してゆくのを見たあとに見返したさいに(つまり二度目の鑑賞で)このときの彼らの毅然とした表情に気づきました。

「〈GUSOH〉を渡してもらおう」「・・・・・・」「・・・・・・もう終わったのだ」(231 同・中/第一VLS弾薬庫)

宮津に〈降伏〉(と表現していいのだろうか)を決意させたものは何か。原作では、息子の面影がだぶる行による断罪、フラットフィッシュ作戦などで予想以上の惨状を目にしたこと、人の死をゴミ屑のように扱うヨンファへの怒り、憎悪を乗り越えた後輩阿久津の清清しい姿、といった複数のファクターが積み重ねられた結果だったわけですが、映画ではこれらは全て存在しない。《うらかぜ》の沈没と杉浦の死はあるものの、反乱するまでの覚悟を覆すにはさすがに弱いだろう(ただ仲間の死を間近に見ることになったのは想定外だったかも。仙石が戻ってこなければ艦内での戦闘はなかったはずで、〈GUSOH〉を押さえている限り外からの攻撃はない、あるとすればテルミット・プラスだが、これが来たときは全員一瞬で焼き尽くされるわけだから)。〈宮津はあくまで政府に国の恥部を公表させ、それによる国家再構築を願っただけ、要求を呑むという言質を得たことだし、それが実行されるかは不確定だが、脅しに使うだけのつもりだった〈GUSOH〉を開放して東京都民を大量殺害する事態を見逃すわけにはいかないので、この時点をもって計画中止を決めた〉というあたりでしょうか。

「怯えたように銃を向ける風間。その様子に、一瞬、躊躇する行。」(232 第一VLS管制室前)

この「躊躇」の場面で数瞬、杉浦が仙石に銃を手渡したところへ行が飛び込んだ時の映像が挟み込まれます。この映画にしては〈わかりやすい〉演出だなあと思ったら、DVD特典の監督インタビューによると、この数コマは編集の段階で入った(もともと監督が意図したものではない)ものだそうです。納得。

「仙石、素早く銃を持った腕をつかみねじ上げ、壁の手すりに打ちつける。」(233 士官室近くの廊下)

ここの格闘シーン、一人うめいたり叫んだりしてる仙石に対してドンチョルが終始無言なのが不気味で恐ろしいです。このあと仙石に足を刺される場面さえうめき声一つたてない。そういえば行もヨンファに撃たれた時(その前にジョンヒに撃たれた時も)一切声を出さなかった。日本某国問わずいかなる時も声を立てないのが鍛え抜かれた工作員の性なんでしょうね。それにしても仙石の身体能力の高さには驚く。

「ドンチョル、回し蹴りを放つ。仙石、その足にナイフを突き刺す。」(同上)

映画館では三回見ても動きが早すぎて、どんなアクションが展開されているのか把握できなかった(DVDで見てやっと飲み込めた)。元JAC(ジャパンアクションクラブ)の真田さんはまだしも、アクション専門でない安藤さんのスピードに驚かされた。役柄上は仙石の方に感心すべきなんでしょうけど。

「考えた。撃つ前に・・・・・・」「・・・・・・バカヤロ・・・・・・考える前に考えるんだよ」(234 第一VLS管制室前)

相変わらず無茶なことを言い出す仙石。原作では自分が理想論をぶったばかりに行が撃たれたことにショックを受け「撃つ前に考える」信条を捨てかけた仙石が、映画ではショックはうけつつも持論はなんら揺らいでいないというのがわかります。しかし「考える前に考える」っての具体的にどうやればいいんだろう・・・。ただの戦闘マシーンになるなという仙石の意図はわかるんですけども。

「ヨンファ、ドンチョルを抱えて歩く。」(235 士官室近くの廊下)

すでに〈GUSOH〉開放を決意している―開放すれば自分や部下も含めた《いそかぜ》の全員が死ぬとわかっている―にもかかわらず、ヨンファはドンチョルをどこへ何のために運ぼうとするのか。たぶんこれは理屈ではないような気がするのです。部下が怪我をして苦しんでいるから、少しでも体が楽になれる場所(救護室とかベッドやソファのある部屋とか)に連れていってやりたい。それだけだったんでは。このときドンチョルが自ら死を選ぶまで〈死をもって楽にしてやる〉選択肢をヨンファがとらなかったことは、意外であると同時に部下への深い情愛を感じさせます。このあとのドンチョル自決シーンは「キャスティングについて」でも書きましたが、つくづく名場面だと思います。

「「・・・・・・自分で死ね」 その銃を竹中に渡すヨンファ。竹中、去っていくヨンファの背中を必死で撃つ。」(237 士官室近くの廊下)

原作とは少し違うものの、ヨンファに抗って印象的な死に様を示す竹中。映画版『イージス』はこうした信念を持った男たちの思いの交錯の描き方が原作とは別のニュアンスで、実に秀逸だなあと思います。

「仙石、一瞬の間ののち、直立不動の姿勢で敬礼する。「先任伍長・・・・・いただきました」(238 第一VLS管制室)

台詞を言い切って仙石は敬礼する。本来、無帽のときは敬礼はしないものらしいのですが(仙石は《いそかぜ》に戻るさいに帽子を脱ぎ捨てている。泳ぐのに邪魔になる&なくすという以外に、自衛官としてでなく一人の人間として艦に戻るという寓意なのだろう)、ここはやはりルールはどうあれ、人として敬礼するのが正しい行動だと思います。

「廊下の隅でしゃくりあげている風間。飛び出して来た仙石、風間に気づき寄っていく。」(240 《いそかぜ》第一VLS管制室・前)

風間の弱弱ぶりが見事。風間役の谷原章介さんは、役によって全然違う顔に見える気がします。顔立ちに癖がないせいもあるでしょうが、それだけ役に同化してるのだと思います(如月役の勝地さんにも同じことを感じます)。

「・・・・・・母さんが・・・・・・ほめてくれました」「・・・・・・」「・・・・・・ただの落書き・・・・・・俺が書いた・・・・・・」(同上)

注意されてもいっこう口のきき方を改めなかった行が、別れ際に至って敬語に戻る。原作では最後までタメ口だったことを思うと、二人の関係性の原作との差異がはっきり表れたシーンなのかもと思います。死を覚悟すればこそ最後は部下らしくあろうとした(原作と違い仙石は常に上司然とイニシアチブを握っていたのだし)ということでしょうか。

「いいか、死ぬな。これは命令だ・・・・・・」(242 元の第一VLS管制室前)

先にレーダー塔の陰で言ったのと同じ台詞だが、さらにしみじみと優しい口調になっている。行の頬を二回軽く叩く仕草にも父親のような愛情が滲んでいる。

「行、筆を握りしめたまま意識を失う。」(同上)

と、脚本にはあるが、映画では行は意識を保ったまま仙石が握らせた筆をぎゅっと握りなおしている。彼の〈生きたい。もう一度絵を描きたい〉という思いがこのわずかな動作で表現されている。

「十数メートル下の甲板に叩きつけられる風間。その胸にしっかりとネストが抱かれている。」(248 レーダー塔)

原作では仙石の言葉どおり「どんなにみっともなくても」生き延びることを堂々と選択した風間が、ここでは東京を守るために雄雄しく死んでゆく。彼の勇気がなかったらジエンドだった(『ネスト』の強度次第ではあるが)とはいえ、結果的に彼の行動は仙石の言葉に対するアンチテーゼとして機能している。

「宮津、ゆっくりと行の手をふりほどく。 「父さん・・・・・オレ許せなかった・・・・・・あんたのこと・・・・・・」(249 艦内・ラッタル)

「触るな」といいながら、自分の方から宮津の腕をつかんでるのがわかる。わずかに涙声の台詞(脚本では「父さん」だが、実際は「お父さん」と言っている)とあわせ、原作では繰り返し強調されている行の幼い部分がこの場面で一気に溢れ出しています。

「よろけながらラッタルを降りてくる血まみれの仙石。甲板に転げ落ちる。」(250 《いそかぜ》露天甲板)

本当に足を踏み外して落ちたように見えるのはさすが。DVD収録のメイキングでもよく怪我しないものだと感心しました。この場面に始まるヨンファとの戦闘シーンはお二人の表現力に支えられて緊迫感あふれるものになっています。

「仙石、横たわる風間に目をやる。剥がれそうな肩章・・・・・・そっと直してやる。」(同上)

仙石の男気と、日本人らしいウェットさが表れていて、何気ないシーンなのに心に残る。ひそかな名場面だと思います。

「・・・・・・なんか動いてる(指差す)」「拡大!」 さらに拡大される《いそかぜ》。ヘリ甲板で、手旗を動かしている仙石。」(254 国家安全保障会議)

・・・すみません。映画館で見たとき手旗の場面で噴き出してしまいました(三回見て三回とも)。瀬戸の「なんか動いてる」の言い方もなんか笑えてしまった。原作読んだときは仙石の命をふりしぼったメッセージに素直に胸打たれたものですが。せめて原作同様素手だったら「手旗どこから出したんだ?」とは思わなかったろうに(ビジュアル的にわかりにくいからか)。この場面については、きっとあえて格好よく撮らないことで、仙石に「どんなにみっともなくてもいい、とにかく生きろ」という自身の言葉を体現させたんだと解釈してます。

「・・・・・グ・ソー、カク・ホ ・・・・・・グソー!確保!」(258 国家安全保障会議)

あの手旗信号を見ながら渥美が真面目な顔で解読しているのが妙に可笑しいです。よく笑わずに演技できるものだと妙なところに感心。いやもちろん東京の命運がかかってるのだから渥美ほか会議のメンバー的には笑ってる場合じゃないんですが。

「沈没していく《いそかぜ》」(274 《いそかぜ》)

特撮技術はさておいても、沈没場面をもう少しゆっくり見せてほしかった気がします。実際の時間を長くするのでなく、保障会議の場や風景などを挟み込むことで(多少はあったけれど)、時間の経過を感じさせてほしかったというか。あれだけ大きな艦が早く沈みすぎ、という印象が拭えなかったので。

「眼下に沈んだ《いそかぜ》から黒煙が上がっている。」(282 救助ヘリ・中)

《いそかぜ》を俯瞰する構図の中で高速道路を普通に車が走ってゆく姿が捉えられている。《いそかぜ》一時停止(ジョンヒが死んだため)直前に、お台場の通行人が《いそかぜ》を目撃して「よー、そろー」と呑気な口調でつぶやくシーンと合わせ、海上では国家を揺るがす大事態が起きていても、一般社会は何も知らず通常どおり動いているという対比を描くことで、国家のあり方を問う宮津たちの行動、それを阻止しようとした仙石らの行動を相対化して一種無常観をかもしだしています。

「ラッタルから首を出した若狭、あたりを見渡し、「おーい、来てるぞ、仙石!」(255 《はるかぜ》ヘリ甲板)

原作と違い、仙石が海自をやめてないのが嬉しい。今も若狭と同じ艦に載っているというのも。仙石が相変わらず先任伍長をつとめてる+若狭も同じ艦にいるということは、《はるかぜ》(つい今まで原作同様《はるゆき》だと思ってました)は艦を失った《いそかぜ》メンバーを中心とした新造艦てとこでしょうか?ところでこのとき若狭に近寄る仙石はわずかに右足を引きずっている。《いそかぜ》事件の後遺症が少し残ったようです。

「自分宛の封筒を見る仙石。宛先人の名前はない。」(同上)

上手とはいえないが几帳面な宛名書きの文字が、行の不器用さと真面目さを表している気がします。原作の行の少年時代から推すと、こうやって他人に手紙を出すのはほとんど初めてなのかもしれません。しかし「宛先人」ではなく「差出人」では?

「出てきたのは、一枚の紙に描かれた絵だ。それは――あの日、甲板でスケッチブックを開く仙石の後ろ姿――。 「・・・・・・」 やがて、その顔に笑みが広がっていく。」(同上)

原作のラストシーンが大好きなんですが、映画のラストはこれでベストだと思います。〈行しか知りえないシチュエーションでの絵が送られてきた〉ことで、彼の生存と、彼がまた絵を描けるようになった(仙石から返ってきたあの筆で)こと、仙石がそれに気づいて行の無事を喜んでいることを端的に示している。仙石の所在を知りうるあたり、仙石が海自をやめてないのと同様、映画の行は傷の快癒後ダイスの工作員に復帰したのだと思われますが、以前のような戦闘マシーン然とした彼ではなく、撃つ前に考えることのできる、余暇には絵を描いたりもする、人間らしさを少しだけ身につけた青年に変わっているのでしょう。仙石の後ろ姿を描く穏やかな顔が想像できるようです。

「そして仙石、登舷整列をする若き海上自衛官たちの横顔を見つめている――。」(286 出航)

仙石の目に部下たちへの情愛が溢れていてじんと来る。この「若き海上自衛官」は本当に現職の方たちが演じられたそうです。海上自衛隊の全面協力があればこそ、この映画があるのだなあと改めて思った場面です。

「どこまでも続く黒い海――。」(同上)

海の映像に始まり海の映像に終わる。一つの物語が幕を閉じたのだ、という充実感があります。

 

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