下巻

「日本を変える、海自の体質を変えるなんてことは考えちゃいません。ただ自分には、帰りを待つ者もいなければ、残すべき何物もない。それなら、信じるに足る艦長と一緒に、一生に一度くらい意味がありそうなことをしてみるのも悪くないんじゃないかって、そう思ったんです。他の連中も似たりよったりでしょう。長年の奉公生活の結末に、隆史くんの死と集団左遷を突きつけられたんです。その落とし前は、どんな犠牲を払ってでも付ける必要がある。・・・・・・でなければ、間尺に合わんでしょう。」(60p)

つまりはうさ晴らしということでしょうか。政府につきつけた要求も嘘ではないけれど、失敗したらしたでいい、人生の最後に一つ価値のあることができたという満足感を抱いて死んでゆければ、という諦念にも似た気分があるようです。それで沈められた《うらかぜ》や撃墜された安藤三佐はたまったもんじゃないですが、怨念が鬱積した人間が集団になり力を持つとこうした悲劇も起こりうる。組織とはつまるところ個の集合体であるのに、組織の安定のため個の犠牲をやむなしとする矛盾、圧殺されかけた個がそれに反発しようとすれば別の個を自ら圧殺することになるやりきれなさが、《うらかぜ》他との戦闘を通して描かれます。

「おまえとわたしは同類だ。兵士として優れた資質を持ちながら、腐った国に生まれ育ったために苦しんできた。環境の被害者というやつさ。だったら、苦しまずに済む環境を自分たちで造ればいい。能力が正当に評価される社会。有能が無能に食い潰されることのない世界の創造だ。力の本質を知る我々兵士には、それができる」(75p) 「こうなったのも、海上自衛隊という組織が自分の期待を裏切り続けてきたからだ。その平和と安全を守るために尽力してきたにもかかわらず、日本という国家があまりにも破廉恥な行為を重ねてきたからだ。それを告発し、世界に裁定を委ねる我々の行動は、絶対的に正義だと断言できる。すべての真相が放送されれば、国連は必ず我々を受け入れ、日本も浄化の痛みを経た後、真の主権国家として再生するだろう。」(220p)

前者はヨンファの、後者は杉浦の述懐。北朝鮮偵察局始まって以来の恐怖と評されるヨンファが、仙石言うところの「大人子供」である杉浦と、ほとんど同種の人間であることに驚きます。まあヨンファが幼少期から舐めた辛酸を思えば、過激な理想主義に走るのも無理からぬところではあるのですが。

「そんな幼稚で、バカげた誇大妄想のために、兵長や菊政を殺したのか?大勢の乗客たちを巻き添えに旅客機を爆破したのか?敵を憎めば判断が鈍ると教えられていたが、こみ上げてくる憎悪は任務とは関係なかった。(中略)この男だけは許せない。死んでも膝を折らない。その決意を抱いて、表情のない顔を見据え続けた。」(76p)

ヨンファの最終目的を聞かされた行の激烈な拒否反応。〈国のため、平和のため〉という名目ではあれ躊躇わず人を殺せるよう教育されてきた彼が、にもかかわらず、ごく真っ当な倫理感覚、強い正義感を持ち続けている。だからこそ「変転する運命を従容と受け入れ続けた人生」でありながら、己の意思を持たぬ戦闘マシーンに堕ちてしまわなかった、《いそかぜ》クルー、とりわけ仙石との出会いを通して新たな自分へと変わってゆけたのでしょうね。

「後は起爆に必要な電力の確保だが、これは天井を這う送電ケーブルからいただけばいい。ミサイル装備のエキスパートとして、各種弾頭や火薬の知識に通じていたことが思わぬ役に立った瞬間だったが、」(81p)

仙石は近接戦闘に際しては行の足手まといと言ってもいいのですが、二酸化炭素消火設備を起動させて行に脱出のチャンスを与えたり、モールス信号を使って外に状況を伝えることを思いついたり(モールス信号そのものは、きっと行も知ってるんでしょうが)、戦術面ではかなり貢献している。特に手製の爆弾で隔壁を爆破したあたりは、他の《いそかぜ》クルーでは替え難い、仙石ならではの仕事。《いそかぜ》クルー中から協力者を選ぶうえで(意図的に選んだわけではなく結果的にそうなったのだけども)、まさに最良の人選だったといえるでしょう。

「この期に及んでも《いそかぜ》を対米カードに利用しようとする総理の背中に、瀬戸は嘆息した。 己のエゴを、国のためという大義にすり替えて間違いを加速させる者たち。自分の子供がこの欺瞞の犠牲になったらと考えた時、宮津二佐と同じ行動を取りかねない自分の衝動に気づいてしまったからだった。」(98p)

「大を生かすためには、小の犠牲もやむ」なしとする「保険定理」。三十年近く自衛官として国に奉公してきた宮津は国のため自己を捧げる一応の覚悟はあったのだろうし、息子が防大に入るのを認めた時点で息子が国のため命をかける局面がありうることも許容していたはず。しかしそれは国に守るべき価値がある場合の話。隆史が国に謀殺されたという事実が、日本は自分や息子が命を捧げる価値などない「亡国」、生かすに足る大ではないと宮津に確信を抱かせた。そんな彼に叛乱阻止側の人間さえ時に共感を抱かざるを得ないことも日本の「亡国」ぶりを印象づける。

「遅くに授かった最初の子供を流産で亡くしたときも、感情との対面を避ける態度で妻を傷つけることしかできなかった。そうして家に帰るのが苦痛になり、つまらない女と関係を持った挙句、慣れない浮気を妻に看破されるという無様まで晒してしまったのだ。」(99−100p)

全編通して外からの評価はかなり高い渥美が、プライベート面ではなかなかに情けない。いやむしろ彼の視点になるたびに自己批判ばかりしていることが情けない。行や仙石もそういう部分はあるんですが、彼らの思考が事件の推移にしたがって多少の浮き沈みはあれ次第次第に前向きになってゆくのに対して、彼は(浮き沈みはあれ)最後まで己を責め続け、終章では実質的に自殺をはかってますからねえ・・・。しかし怜悧さ・理想家肌・少年のような情熱と、弱さ・情けなさとのギャップ、それらすべてを冷笑的態度で包んでいるところこそが、渥美という人物に何ともいえない色気を与えている。この人に女性ファンが多いのがよくわかります。

「裏切られたからって、裏切るつもりはない。他人に褒められようが捨てられようが、そんなのはただの結果だ。おれはそんなことのために働いてるんじゃない。あんたたちと一緒にするな」(111p)

『C−blossom』や『コール・ザ・ロール』でも書かれていた通り、行は他人の評価を求めようとしない。「掟」に照らして自分の行動が正当かどうかが全ての基準になっているので、他人の思惑にあわせて自分の行動を曲げるようなことはしない。それは彼の強さであり、子供の頃から何もあてにしないことに慣れてきたゆえの哀しい処世術でもあります。個人的には妙に元気の出るセリフだったりしますが。

「(・・・・・・そうするのが義務だと思ってきた。そこから逃げてしまえば、生きる価値のない人間になってしまうと思っていた。でも今は違う。戦う理由は、他人から与えられたり押しつけられたりするものじゃない。自分で見つけて、自分でつかみとるなにか・・・・・・。自分にしか触れられないなにかのため・・・・・・甲斐を守るために、戦うんだ)(中略)(甲斐・・・・・・?)(生き甲斐だ。生きててよかったって思えるなにかだ。それがあるから、人は生きていけるんだって・・・・・・そう教えてくれた人の言葉を、おれは信じる)」(112p)

「生き甲斐」の定義がほとんど仙石に言われた言葉そのままであること、「自分でつかみとるなにか」「生きててよかったって思えるなにか」という表現は行がまだ自分にとっての「生き甲斐」を見出していないことを感じさせます。体力の回復を待ちながら思いをめぐらせていたシーン(72p)で「でも、生きるってどういうことだ。」「なら、おれにとっての生き甲斐は・・・・・・」と考えていることからいっても、彼の中でまだ「なにか」が何なのかは漠然としたまま。けれどそれが人間にとって大切なものだということはわかっている。だって先任伍長がそう言ったのだから。仙石の言葉だから、今はまだ理解できなくても信じる。言葉つきは静かだけれど行の仙石に対する無条件の強い信頼がはっきりわかる場面です。

「爆発で壁が破壊されれば、仙石の体も木端微塵に吹き飛ばされてしまうかもしれなかったが、行の言葉には、そんな不安を吹き消して余りある力があると仙石には思えた。 信じると言った。自分の力しか信じようとしなかったあいつが、おれみたいな人間の言葉を信じると言ってくれたのだ。その事実だけで、仙石には十分だった。」(113p)

『イージス』は、人が人に与える影響の、玉突きのような連鎖の積み重ねから成る物語(どんな物語もそうかもしれませんが)ですが、とりわけ仙石と行のそれは細やかに描写されています。仙石の言葉が行の心を動かし、今またその行の言葉が仙石に力を与える。その仙石の行動とメッセージは行に脱出の活力を与える、そんな繰り返し。かわるがわる相手をアシストしながら険しい崖を一歩一歩登るように。

「なにかしら湿ったものを感じさせる視線に、行はわけもなく居心地の悪さを感じた。先刻、マイクを挟んで向かい合った時にも、宮津の目には自分でない誰かを見ているような、重い情念のゆらめきがあったことを思い出す。それが誰であるのかはわからなかったし、また興味もないというのが行の本音だった。 息子の仇を討つためにすべてをなげうち、国家を相手に戦争を仕掛けた男。宮津の心理は理解の範疇を超えたものとしか言いようがなく、それが親の心情だと言うのなら、自分にはますますわからない話だと行は思う。行の知っている親は、自分が生きるのに精一杯で、子供のことなどこれっぽっちも考えようとしなかった。自堕落で、身勝手で、脆弱な生き物でしかなかった・・・・・・。」(123p)

「誰であるのかはわからなかった」って、息子のために反乱まで起こした宮津が反乱の渦中にそんな情念をこめて幻視する相手といったら息子しかありえないだろうに。年齢も近いんだし(隆史が一歳上)。ちょっと考えればわかりそうなものを、先にはヨンファの目の奥を懸命に探ろうとしていた行が〈興味なし〉と切り捨ててしまうのは、〈そこまで息子を愛せる父の姿〉を見たくなかったからじゃないだろうか。それは彼には理解しがたい、そして心の底で密かに求めているものだったから。

「その瞬間、仙石は宮津に話しているんじゃない、おれに話しているんだと直観した行は、胸に奇妙な痛みが走るのを感じた。この一週間、時おり感じていた痛みよりももっと鋭く、もっとはっきりした痛みが全身に広がり、血のめぐりを活発にしてゆく。じわりと発した熱が、冷えきった胸を溶かすのを知覚した行は、後ろ手に縛られた拳をぎゅっと握り合わせた。 ここから出なければならない。」(127p)

意識を取り戻してこのかた、自殺にせよ処刑にせよ、ともかくも自分は死ぬものと覚悟を決めていた行が、初めて生きのびるべく全力を尽くす決心をするシーン。宮津に「戦う理由」について熱く語ったときでさえ、彼らには絶対従わないという意志は強固だったものの、『アドミラルティ』作戦の存在が否定された時の「冷え切った胸」が暖まりはしなかった。それが仙石が現れたことで―自分に呼びかけたことで―仙石を守らなければという思いが彼の精神を生の側へ揺り戻した。いくらか体力が戻ったとはいえ怪我も発熱も相変わらずで、到底本調子とはいえずジョンヒに勝てる見込みもない。状況はちっともよくなってはいないのに、これ以降行の脳裏に自殺という選択肢がよぎることはありません。

「ヨンファとジョンヒの間に、上官と部下という以外の繋がりがあるとは思えない。現にヨンファは、『GUSOH』を《いそかぜ》に運び込むために、旅客機を爆破するというとんでもなく危険な任務をジョンヒに負わせたのだ。航海の最中も、ヨンファは部下のひとりとしてジョンヒを扱っていた。少なくとも男女関係の匂いはない・・・・・・。」(140p)

この少し前の場面で、行はヨンファとジョンヒの視線が一瞬絡みあったのを見て「指揮官と部下というだけではない、濃密な結びつき」(77p)を感じ取っている。彼らが一緒にいる場にほとんど接していない行のほうが正確に二人の関係を察しているのは、やはり「同じ種類の人間」だからでしょうか。

「 「射程の短い、時代遅れの役立たずミサイルに、虎の子の『GUSOH』を搭載するとは誰も考えない(中略)ターターのエキスパートなら、壊し方も心得てるだろ?」と言った行が、微かにいたずらっぽい笑みを浮かべるのを見た仙石は、鼻息荒く立ち上がった。 「よし。そうとわかったら、さっさとターターをぶっ壊そう。なんとかここを出て、ターターまでたどり着く方法を考えるんだ」 」(153p)

ターターのエキスパートを前にそこまでターターをけなさないでやってください。と思ったら「ターターのエキスパートなら〜」。仙石のターターへの思い入れをわかっててあの表現、しかも「いたずらっぽい笑み」って人の悪い。かと思えば訓練でターターがないがしろにされるのに苛立っていた仙石が怒るでもなく「さっさとターターをぶっ壊そう」とか言い出します。二十年から世話をしてきたターターをそんな嬉々として破壊しようとしますか。まあ「こんなことなら、フラムの時にターターなんか外しちまえばよかったのに」と言ってたくらいなので、こんな形とはいえターターに再びスポットがあたったこと、ターターのエキスパートとしての活躍の場が与えられたことが嬉しかったのかもしれません(「ショートさせて使い物にならなくするぐらい」と言うから修理可能なレベルなんだろうし。ただ「役立たずミサイル」だけに修理費が出るかどうか)。行の口の悪さや微かな笑顔も、そうした仙石の心情を読んでいればこそだったのかも。

「黄海北道の共同農場に生まれながら、不義の子であったがために、周囲から唾を吐かれる幼年時代を過ごした自分。やがて生来の素質を見込まれ、ピョンヤンに住む養父に引き取られていった自分。(中略)決して穏やかとは言えない時を過ごしてきた自分であっても、心を揺り動かされるなにかが海にはあった。」(158−159p)

当人同士も知らないことですが、ジョンヒの過去は行の過去と共通点が多い。ちなみにヨンファの方も10歳で親(両親)を悲惨な形で亡くし、のちには父親(上司にして養父であるリン・ミンギ)を殺害した点が行と共通しています。〈工作員同士の共鳴〉はこのあたりに由来してるのでしょう。

「祖国がどうなろうと、志を違えた養父の首を兄が切り落とそうと、ジョンヒには遠い話でしかない。ひたすら強い兄であろうとしてくれるヨンファと、全力でそれに応える自分。ただのなれあいではない、その緊張感を二人の間に維持できるなら、ジョンヒは他のなにもいらなかった。それを哀しいと感じることさえなかった。」(163−164p)

ヨンファは繰り返しジョンヒに、〈革命を成功させ、ジョンヒを新しい朝鮮国家の女王にする〉夢を語っていますが、ジョンヒにとって肝心なのはその「夢」の為に兄が懸命に戦う姿であって、兄の夢そのものはどうでもいいと思っているのがわかる。完全に心が通じ合っているようでいて、その実二人の思いはかけ離れている。ヨンファが弱気を見せたのをきっかけにジョンヒが彼を見限る、その〈決裂〉の根は最初から二人の関係に内在していたのですね。

「日頃は冷笑の下に押し隠した情熱が、いったん出口を見つけると見境なく噴出してくる。幾度かその被害にあっている瀬戸は、明らかに腹に一物を隠し持った渥美の顔に、嫌な予感を抱いた。」(181p) 「 「落ちましたよ」と言って、渥美が目の前に差し出したボールペンは、無論、自分のものではない。じろりとその顔を睨みながらも、礼を言って受け取った瀬戸は、折り畳んだメモが一緒に渡される感触を手のひらに感じて、うんざりした。」(181p)

瀬戸が嫌な予感を感じたりうんざりしたりしてるのは、渥美に何か頼まれたら引き受けるのを前提にしていればこそ。何度も迷惑をかけられてるにもかかわらず。そのあたりに瀬戸の男気や渥美に対するべたつかない友情を感じます。

「机の下でそっとメモを開いてみた瀬戸は、お世辞にも上手とは言えない字で、(トイレに来い)の文字が記されているのを見て、メモを引きちぎりたい衝動に駆られた。 結局、巻き込まれるというわけか。トイレに呼び出されるなんぞ中学生の時以来だと思いながら、瀬戸は席を離れるタイミングを窺い始めた。」(182p)

それにしても渥美は8つ年上の瀬戸に対してなぜこうも偉そうなのか(笑)。この調子じゃ呼び捨てにしてても二人称が「おまえ」でも不思議ない感じです(直接呼びかけるシーンがないのでわからないですが。ちなみに瀬戸は渥美に「おまえ」「おまえさん」などと呼びかけている)。警察から内調に転じた瀬戸と大学卒業後防衛庁に入り現在に至る渥美がどんな経緯で歳の差を超越した友情を育んだのか興味深い。思いきり迷惑がりながらも、呼び出しに応じないという選択肢は念頭にないらしい瀬戸がナイス。

「もう一度、宮津二佐らの叛乱行動を心理学的見地から再考する必要があると考えます。これは事件の根幹に関わる重要な事柄ですから、総理にも同席していただいた方がよろしいかと」(186p) 「宮津二佐が息子の仇討ちに固執しているのは、彼自身、国家という父に報われなかった自衛隊の一員であることとも無関係ではなく、この点を熟考すれば、説得の道も見つかるのではないかと・・・・・・」(191p)

時間を稼ぐために瀬戸が捻り出したとっさのハッタリなんですが、有事の時本気でこういう事を言い出す人いそうですね。実際、凶悪犯罪が起こるたびに心理学者やプロファイラーが忙しそうですし。さりげなく皮肉をきかせた場面かと思うんですが。

「現在までに死亡が確認されているクルーは、田所祐作海士長と、菊政克美二等海士の二名。それに仙石恒史海曹長が行方不明ということだが」(189p)

〈如月一士の行方不明〉は《いそかぜ》の曹士連にどのように解釈されてるのだろう。行に銃で脅され第一機械室を乗っ取られた一曹たちから、行はテロリストで総員離艦を要求していたという話が流れただろうし、それから間もなく艦長の命令による総員離艦がなされてるのだから、行も宮津たちの仲間だと誤認されてるんじゃあるまいか。ただ若狭は、仙石が飛び込む直前に明らかに行の持ち物とわかる(《いそかぜ》クルーで絵心があるのはおそらく仙石と行だけ、行が艦内をスケッチしてまわってたのは曹士らの間では有名だった)大学ノートを見ていたのを知っているし、「もらった筆を忘れてきちまった」(仙石と仲の良い若狭なら仙石が行から筆をもらった話を知ってる可能性が高い)という言葉を聞いているので、仙石が行を少なくとも敵とは見なしていなかったことに気づいてるんじゃないかと思うんですが。

「若狭は救命筏を飛び出し、《いそかぜ》に向かって泳いでいった時の仙石の様子を説明した。時おり疑義を挟みつつ聞き終えた渥美は、(なるほど。よくわかった)と言った後、考えをまとめるようにしばらく沈黙した。」(189p)

この時の会話の流れを想像すると――仙石が飛び込む直前に大学ノートを見ながら泣いていたこと、突然決意を固めたように大学ノートを若狭に預けて「もらった筆を忘れてきちまった」なる言葉を残して海に飛び込んだことを話す→その大学ノートに一体何が書いてあったのか渥美が質問する→艦内の丹念なスケッチ及び甲板で絵を描く男の後ろ姿の絵が描かれていたこと、画力からいってノートの持ち主は如月一士であること、絵を描く男は仙石であること、行が仙石に筆をプレゼントしたことを説明する、という感じか。行がダイスにリクルートされた理由の一つに「絵の描写力に見られる緻密な観察眼」があるので、渥美は行が絵を描くこと―おそらくはダイス入局以来絵を描くのを止めてしまったことも―知っている。そんな行が絵を趣味とする先任伍長に関心を持ち、再び絵(それも先任伍長の)を描くようになったというなら、二人の間には単に〈ダイスの工作員とそれに協力するクルー〉に留まらない信頼関係が形成されていること、とすれば《いそかぜ》と対策会議の通信のときに行が言っていた〈人間は生き甲斐のために生きるものだと教えてくれた人〉は仙石であろうことまで、渥美は若狭との通信から悟ったんじゃないだろうか。もともと、傑出した技能を持ちながら条件反射で迷わず他人を撃てる「パブロフの犬」になりきれない行の人間性を高く買っていた渥美(『コール・ザ・ロール』参照)にしてみれば、行が本来持つ優しさが表面化してゆく過程は良くも悪くも期待を上回ってたというべきでしょう。

「自分にわかることは、先任伍長は後先のことを考えて、今やらなければならない行動をためらう男ではない、ということです。」(190p)

これは組織や自分の今後の立場を心配して事なかれ主義と対抗勢力の足元を掬おうとする泥仕合に陥りがちな対策会議に身を置く渥美には痛い台詞かも。「・・・・・・そうか。」という数瞬の間に彼の苦衷が滲んでいるようにも思えます。

「 「お静かに!無礼であるかどうかは、総理がお決めになることです」 剣道で鍛えた体躯を立ち上がらせた瀬戸が、鋭い声で明石を諌める。ぐっと踏み留まった警察長官と、防波堤のような瀬戸の背中を見た渥美は、もう迷うことなく梶本を正面に見つめた。」(198p)

「防波堤のような」という表現に、渥美が瀬戸の存在をいかに頼もしく思っているか、感謝しているかが伝わってきます。

「立場や職責に縛られていては、間違いを深める結果しか生まない。一個の人間として相対すべきだと決めた渥美は、「・・・・・・総理」と静かに口を開いた。」(198p)

仙石が先任伍長の立場に縛られることをやめ、一個の人間として《いそかぜ》と行を取り戻すために戦場に赴いた場面に続き、生の人間性に宿る良心、信念、真心からこそ生まれるものがあることが渥美によって体現される。一方、自身の「掟」に従い、ダイスへの忠誠心など微塵もない行は、仙石や渥美とは対照的に最初から徹底して〈個人〉であり、それゆえに彼の資質を見抜いていた渥美にとっては一種憧れの存在だったのではないか。

「我々は、その力を維持するために、本来の目的を忘れるという過ちを犯してきました。きれいごとでは済まされないという理屈に慣れすぎて、本質を見失ってしまったんです。仕方がない、どうにもならないという言葉で、痛みに耐えるのを当たり前にしてきた。そうして不感症になってしまえば、後は死んでゆくだけだとわかっていたはずなのに、過ちを正すことができなかった。嘘でもいい、勘違いでもかまわないから、正義を実践してみせるという気構えがなくて、なんのための人、なんのための力なのか・・・・・・。」(199p)

宮津隆史の論文中の「国民一人一人が自分で考え、行動し、その結果については責任を持つこと」と並ぶ(というよりリンクしている)『イージス』の根幹的メッセージ。もはや付け加えるべきコメントもないです。

「でも、そんな我々に、如月二曹は恨みごとのひとつも言わなかった。殺されるとわかっていながら、最後の一瞬まで我々に反撃のチャンスを与えてくれようとした。」(199p)

ダイス工作員である行は渥美にとっては〈身内〉であって、彼の行動を称えるような発言は本当なら手前味噌と取られるところですが、渥美は自分を対策会議の側に置いて「我々」と表現する。この時彼の脳裏には、「我々」=組織のしがらみに縛られた者たち、「如月二曹」=個人の良心と意志に従う者、という図式があるようです。

「結局、自分は野田が言う通りのヤワな人間でしかなかったということか。そんな諦念を結んだ時、その野田の手がのびて、机の上に置いた渥美の手に重ねられた。 それでいいよ、というふうにぎゅっと渥美の手を握り、すぐに重ねた手を引っ込めた野田は、正面に向けた顔を動かそうとはしなかった。無表情な横顔に、わずかな感情の揺らめきを感じ取った渥美は、独り相撲の虚しさがいくらかでも取り払われるのを感じて、顔を前に戻した。」(200−201p)

対策会議側のストーリーは、組織人として責任回避、利権の確保に汲々としていた人々が、不意に覗かせる個人としての良心とその連鎖が見どころです。

「 「す、すんません」と言ってすぐに体勢を立て直した真壁三曹は、今年ようやく二十二歳になったばかりで、若手が多い920SOFの隊員の中でも、下から二番目の年少者に当たる。普段なら、ぼやぼやするなと気合いを入れるところだったが、初の大役を与えられて緊張しきっている真壁の様子を察した宮下は、なにも言わずに前方に目を戻した。」(203p)

対テロのエキスパートである920SOFに在籍しながら、菊政的キャラクターを想像させる真壁三曹。とても子犬を食べたとは思えません。年からいって彼も十代半ばで入局してるんだろうから、なにか犯罪に手を染めた過去があったりするんでしょうが(SOFに後暗い過去のない人間ているんだろうか?)。しかし『フラットフィッシュ』作戦が初の(そして最後の・・・)大役というのは年齢の若さからすれば不思議はないんですが、一つ年下なのに〈アンカー〉として《いそかぜ》単独潜入の任務に選ばれ、階級も二曹の行の突出した優秀さを改めて感じさせられます。

「ふと、ここからそう遠くない場所にいる920SOF最年少隊員の横顔を思い出し、」(204p)

ふと思ったんですが、まわりはみな年上ばかり、しかも単独任務専門班所属だから彼らと顔を合わせる機会も少なく、小中学校もクラブ活動をしていたとは思えない行にとって、菊政は初めての後輩だったのかもしれません。

「舞い上がる泥砂に遮られてぼんやりした光しか見えなかったが、真壁は海中から水面を見上げるのが好きだった。汚れた海であっても、スズキらしい魚が泳いでゆくのを見られたことに満足して、真壁は泥を掻く手に力を込めた。」(228p)

命がけの重要任務のまっただ中、かなりの疲労を感じながらも、周囲の情景を美しいと感じ、満足感さえ覚える余裕があることに驚きます。宮下が評したように、緊張や恐怖を感じ「素直に感情を吐き出」すことが出来る彼は、かなりキャパシティの大きい人間なのでしょう。ただジョンヒにまで一瞬見とれてしまったことが結局彼の寿命を縮めてしまいましたが・・・。

「・・・・・・おまえに筆なんかもらったばっかりに、とんだ貧乏籤だ」 「ただより高いものはないって言うだろ?」(253−254p)

状況からすればとんでもない皮肉にも聞こえかねない台詞を(冗談として)さらっと口にする仙石と、それに軽口で返し微笑みさえする行。この時点での二人の気持ちがぴったり合っていることがうかがえます。

「敏捷な小動物を思わせる細身と、その後をドタドタ追いかける大柄が硝煙の立ちこめる通路を走り、第二甲板に通じるラッタルを一気に駆け昇ってゆく。」(268p)

行には何というか植物的な印象があります。少女マンガ的というのか、透明感があって生臭さ・世俗の匂いがほとんど感じられない。「敏捷な」に対して「獣」でなく「小動物」(某短編の描写からすると具体的には猫)と続くあたりにそれが象徴されている気がします。そういう彼だからこそジョンヒとのラブシーンや風間に傷の手当てを受ける場面での生々しい描写が生きてくる。

「戦闘不能になった者も含めれば、十一人。半数近くの兵が如月一人のために無力化された。我々の無能を嗤うのも結構だが、半端な敵ではないのだということを認識していただきたい」(269p)

ヨンファは自分と同じく工作員としての特殊教育を受けている行の戦闘力を高く評価する一方で、仙石については不屈の闘志と《いそかぜ》に関する知識は買うものの、直接的脅威になるとは全く考えず念頭の外にしている。だからこそその仙石の手にかかって死ぬに至るとき彼は驚愕と恐怖を隠せなかったのでしょう。

「それを狂気と呼ぶなら、ヨンファは最初から狂っていたと宮津は思う。ただ、それが根の深い狂気であったために、知性だけは変わらず保ち続けるという、人としてもっとも苛酷な狂い方をしているのに過ぎなかった。(中略)彼を真実の狂気に追い込んだのは、養父をその手で惨殺した時からだろう。だからこそ、息子を失ったことによって狂った自分の人生の歯車と、彼の歯車が合致して回り始めた・・・・・・。」(287−288p)

この宮津の述懐は、やはり「(実)父をその手で惨殺した」行を自然と想起させる。しかし行がヨンファのような「狂気」に陥らなかったのは、彼の行為が父に殺された祖父への愛情から出ていたこと、その後繰り返し良心の呵責に苦しめられても自己欺瞞によってその呵責から逃げようとしなかったことによるのでしょう。そして父親を殺した彼だからこそ、後に息子を失った宮津と「人生の歯車」を一瞬合致させることになる・・・。

「傷つき、仲間を失って海上を漂う者の恐怖と苦しみは、十数時間前に自分も味わったもの。彼らを見捨ててまで復讐に走る艦長の行為を、衣笠司令や死んでいったクルーたちは喜ぶまい。そう思えた瞬間、胸のつかえがすっとおりて、自然に阿久津は口を動かしていた。」(292−293p)

大事な人を奪われたことに発する復讐心を、他人に自分と同じ苦しみを味わせるに耐えないという思いによって乗り越えた阿久津。防大時代からずっと宮津を慕いその背中を目標に歩いてきた阿久津が、宮津がつまづいたところで同じ轍を踏まなかったことにより、一種の〈師匠越え〉をしたのだと言えるかもしれません。

「おれは自衛官の道は踏み外したが、シーマンシップだけは捨てない。救援を求める者がいれば、なにを捨ててでも助けるのが海で生きる者の掟だ。そう教えてくれたのは、部屋長、あんただ」(293p)

阿久津もまた自衛官としての立場ではなく、彼個人の復讐心、海の男としての誇りをもって事態に立ち向かった。もともと鼻っ柱の強さ、若々しい情熱家ぶりに言及されている彼は、所属組織の意向に流されることなく自分の感性に従うタイプだと思われ、仙石や渥美のように組織人としての、それも大きな責任のある立場と個人的感情の間で葛藤してる感じはしない。それが決断の早さ・ブレのなさとして現われているのだろう。仙石や宗像は復讐に我を忘れかけた時にそれぞれ行と安藤が止めてくれたが、阿久津は彼らのようにリアルに自分を止める声を聞いたわけではない。他人を媒介にせずに自分の意志のみで踏みとどまれたのも、彼の個人主義の表れなのではないか。そして「部屋長」という呼びかけが示すように、この期に及んでも阿久津は宮津を慕う心を残している。阿久津にとって海上自衛官として、海の男としての土台に宮津の存在があり、宮津を完全否定することは現在の自分をも否定することになってしまうのでしょう。

「隆史が止めてくれたのか?自分を叱るようなタイミングで起こった出来事に、宮津はそう感じてしまう自分を抑えられなくなっていた。」(298−299p)

すでに〈隆史のための戦い〉という大義が宮津の中で完全に崩れてゆこうとしてるのがわかる一文。彼の行動のターニングポイントともなった出来事です。彼がもっと早く、宗像のようにリアルに隆史が自分を止める声を聞くことができていたら、敵方である行に―敵と判明してからより強く―息子の面影を見てしまったのは自分が本当にはこんなことを望んでいない証だと思えていたら。

「自分に課せられた任務は、あの反逆者の艦を沈めることにある。それは日本政府や第七航空団司令から与えられたものではなく、安藤という犠牲の上に生き残ったと自覚する宗像が、自らに課した任務だった。政府がなにを考えていようと、関係ない。こちらは与えられたチャンスを最大限に利用させてもらうまでだ。」(317p)

阿久津に続き、《いそかぜ》の復讐によって生まれた復讐者がまた一人。この復讐の誓いこそが、彼らが組織に流されない自身の意志による行動をとるきっかけになっているというのは思えば悲しい。

「《うらかぜ》のクルーやイーグルのパイロット、爆破された旅客機の乗客たちだってそうだ。殺された人間にはなにも言うことができない。今さら砲雷長ひとりが泣いたところで、それがなんになるっていうんだ。じいさんだって、別れの言葉ひとつ残せずに・・・・・・」 ひと息に喋った行は、そこではっと息を呑み、口を噤んだ。」(329p)

思わず祖父のことまで口ばしってしまったあたりに行の動揺がうかがえる。砲雷長を殺したことにではなく、仙石の自分に向ける目が変わったことに対する動揺。「・・・・・・怒ってるのか?」という問いかけといい、日ごろ他人の評価など気にもとめない行が仙石には嫌われたくないと思っている、嫌われるのを恐れているのがよくわかります。

「脱出しなければ、おれがあんたを殺す」(333p) 「・・・・・・筆は、あきらめろ」(333p)

艦に戻り行と合流した直後に仙石は、筆、つまりは行との絆を取り戻すために戻ってきたことを告げている。それを受けてのこの言葉は、その絆を断ち切る最後通牒の響きがあって、撃たれる前に撃つべきか否かの言い争いを通して自分と仙石の住む世界の懸隔を痛感した行が、仙石を戦場から遠ざける―自分からも遠ざける―ために強く突き放さざるを得なかった苦しさに満ちています。

「下腹部のあたりに血が集まり、熱くなるのを感じたジョンヒは、」(348−349p)

このあとの行との水中格闘→ラブシーンの間、ジョンヒの体の動きは一つ一つが濃厚なエロティシズムに彩られている。その前ふり的な一文。

「なにかを話したい、伝えたいと思っているらしいのに、いざ口を開けば、出てくるのはいちど説明した脱出手順の話ばかりだった。作業に没頭して紛らわせていた胸の痛みがぶり返すのを感じ、水の中で拳をぎゅっと握りしめた行は、「・・・・・・行」と静かに呼びかける仙石の声を聞いた。 名字でも数字でも階級でもなく、自分の名前を呼んでくれる声を聞いたのは、祖父と死に別れて以来、初めてだった。懸命に押し固めたものか、その拍子に崩れて自分を押し潰しそうになるのを感じた行は、背中に刺さる視線を振り払うように叫んでいた。 「戻った時、もしあんたがまだいたら、その時は殺す・・・・・・!」(351p)

相手を大切に思うほどに強く振り払わざるを得ない、行の心情が痛々しい。以前から胸の中では行を名前で呼んでいた仙石が、この時はじめてはっきりそれを口に出したのは、これが行と向かい合う最後になるかもしれないと思ったからだろうか。ちなみに彼が直接行に名前で呼びかけるのはこれを含めて3回だけです。また、「なにかを話したい、伝えたいと思っている〈らしい〉」という他人事のような表現が、これまで痛切に誰かに何かを伝えたいと思う機会がなかった行が自分自身の感情を掴みきれずにいるのを感じさせて、そのぎこちなさが痛々しい。同時に、彼が仙石への思い入れを媒介に少しずつながら〈戦闘マシーン〉から〈人間〉に近付きつつあるように思えて、その変化の過程を思わず息を詰めて見守ってしまう。

「まだやれる、おれは戦えると口の中に呟いた行は、それを最後にわずかに残った思考領域を閉じた。」(352p)

上の台詞の直後、プロペラを破壊するため海に潜った時の心中の独白。のちにヨンファに撃たれたさいに「こんなはずじゃない、まだ動ける」と思ったのとは違って、この時の行は新たに怪我をしたでも体力を消耗したでもない。あえて自分は大丈夫だと胸に言い聞かせなくてはならなかったのは、かつてシロの温もりが狂気に陥りそうな精神を支えてくれたように、近接戦闘のさいには実際「足手まとい」に違いない仙石の存在が、心の支えになっていたのを自覚していたからでしょう。圧倒的不利な状況の中で戦っているにもかかわらず、結構軽口を叩いたり時には微笑さえ浮かべたりする余裕があったのも、共に戦ってくれる相手がいたから、その相手が仙石だったから。「体を包んでいた温もりが冷め、再び独りになった心」という表現にも、仙石に離れた彼の不安と孤独感が表れています。

「そう、昔、母に買ってもらった本の中で見た光景だ。頭のおかしい男が、風車を怪物と勘違いして槍一本で戦いを挑む話。」(354p)

生活苦の中、本まで買ってあげましたか・・・。絵本なのか児童世界文学全集のたぐいなのかはわかりませんが(そもそも『ドン・キホーテ』に絵本版があるのか)。挿絵を克明に覚えているあたりは実に行らしい。お母さんにはせめてあと2年耐え抜いてほしかった。そうすれば中学生になった行は、新聞配達でもして家計を助けてくれたはず。そして今度は彼がお母さんを後ろに乗せて休日ごとに海へ出かける。そんな未来もありえたでしょうに。

「ゴーグルとeOBAのマウスピースに覆われたジョンヒの顔が視界いっぱいに迫り、行は薄れかけた意識の中で離れようともがいたが、ぴったり体に密着したジョンヒの手足は、軟体生物のそれのように行をくわえ込み、放そうとはしなかった。ゴーグルの下にある切れ長の目が歪み、愛撫を思わせて脇腹を這う指が、ひびが入っているらしい肋骨をぐいと押す。激痛に身をよじり、思わず口を開けた行は、その瞬間なにかが口腔に押し込まれるのを感じた。」(356p) 「頬に触れていたジョンヒの手が動き、行の口からマウスピースを抜き取る。ジョンヒの瞳が視界を塞ぐと、柔らかな感触が唇に触れ、ぬるりとした異物が口腔に侵入してきた。 頭の芯が痺れ、手足の力が萎えた。絡みつく舌が奥底に沈む火種に息を吹き込み、行は無意識にジョンヒの腰に手を回していた。 体が内側から熱くなり、心の襞に塗り固めた痛みの記憶が溶けてゆく。行の体と心は、それを楽だと感じているようだった。」(358p)

戦闘からラブシーンヘ。この場面の直前、ジョンヒが行の股間を蹴りつけるという〈これから誘惑しようという相手にそれはないだろ〉なシーンがあり、しばしば〈少年のよう〉と形容され性的・世俗的な匂いの希薄な行が瞬時生身の男の気配を放つ効果を与えていることで、この場面を非常に官能的なものにしています。福井作品中最も官能的な描写じゃないでしょうか。

「――とても楽しいところ。そこではなにをしてもいいの。我慢したり、苦しんだりしないで、好きなことができるの。あなたなら来れるわ。だって、私の声が聞こえるんだもの。」(357p)

『イージス』で唯一もろにSFチックなテレパシー会話。思春期に父の女遊びを間近に見せつけられ、性に対して嫌悪感を抱いているふしがある(由良のスナックの場面に顕著)行は、どんなセクシーな美女がどんな過激な誘惑を仕掛けてきても、落ちるどころか嫌悪を覚えるだけじゃないかと思います。その彼がぐらつくとしたら、メンタル面からの誘惑、それこそ精神感応くらいのことがないと無理でしょう。実際〈魂の共鳴〉によって行は陥落直前まで行っており、だからこそそのぎりぎり加減(〈「楽」だと感じている〉という表現が実にぎりぎり)がこの場面のエロティシズムを生んでいます。もしこのジョンヒの誘惑が仙石と〈ケンカ別れ〉する前、仙石との別離による心の隙間が生じる前だったなら、行の反応はどの程度のものだったのでしょうね。

「蛭のようにへばりつくジョンヒを引き剥がした行は、汚物を飲み込みかけた口腔を海水ですすぎ、敵を見る目をジョンヒに向けた。」(359p)

先の戦闘シーンでもラブシーンでも「軟体生物のそれのように」「ぬるりとした異物」「絡みつく舌」など、ぬめる系の描写が多いジョンヒ。のちにヨンファの目が「ぬらりと光った双眸」(377p)と表現されるように、「腐っている」存在のイメージなのかもしれません。しかし「口腔を海水ですすぎ」という嫌いっぷりはちょっとジョンヒが可哀想(笑)。

「弛緩しかけた神経を一斉に張り詰めさせた行は、命綱を手繰り寄せ、逆手に持ったナイフを振り上げたジョンヒの姿に、自分と同種の「傷」を見ていた。(中略)そこに自分自身の末路を見た痛みがひとつと、救済のない孤独な魂への同情がひとつ。唇から漏らした気泡に二つの思いを結んだ行は、仙石が肩にかけるクルツのストラップを目に入れて、反射的に手を動かしていた。」(362p)

先には「汚物を飲み込みかけた」と形容するほどの嫌悪感を見せた行が、ジョンヒに同情を示す余裕を得たのは、救いに来てくれた仙石を見て「伝えきれない思いがあるから、人は人とつきあってゆける。」「おれにもできるのかもしれない」と感じたからじゃないかと思います。人と戦闘マシーンの間を行きつ戻りつしていた行の心が、他人との関わり合いの中で生きていく〈人間〉の側に振れたことで、戦闘マシーンとしての自分の半面、その半面と同類であるジョンヒを冷静な目で見つめられるようになった結果ではないかと。「いわゆる普通の世界に半身を置いて」いる行をジョンヒやヨンファは「跳べずにいる」と表現したけれど、それはこれまでに受けた苦しみ・痛みにもかかわらず人であることを放棄しなかった行の強さの表れではないでしょうか。

「決して逃げないと意志しながら、実は流され続けていた自分。本当の困難、生きるという行為そのものを忌避していた自分。そして今も流されている。この世は幻に過ぎない、と自分を慰めながら。そうではないと教えてくれる熱さが、すぐ傍らにあるというのに。」(364p)

ジョンヒとの戦いの中で〈人間〉の側に振れた行の精神が、完全に〈人間〉として固定された瞬間。困難に耐えるばかりで立ち向かおうとはしなかった行が、初めて間近に迫る死に全力で抗う。「任務などという理由づけは必要なく、ただ生きるために」。『イージス』の中で一番好きな場面です。

「ヨンファは気づく様子もなく、直立不動の姿勢を取ったイルジュンに母国語でまくし立て始めた。」(371p)

宮津たちと共同戦線を張るにあたって「無線はすべて日本語を使」うよう部下に指示していた(当然無線に限らず宮津たちの前では母国語を使わなかったろう)ヨンファが、自らその戒めを破る。竹中の訝しむような視線に気づかぬ事といい、ジョンヒを失ったヨンファが宮津が感じた通り「最後の楔が外れてしまった」のを示して、来るべきカタストロフの予感を漂わせています。

「触れられない不可知の塊が、急にふんわり穏やかな空気を漂わせ始めたように感じて、意味もなくどきりとした後、仙石は胸まで浸かった海水の温度が一、二度上がったような、体の奥底がじんと熱くなるような感覚を味わった」(374p)

とても「一秒先の生死もわからない絶望的な状況」とは思えないのどかさ。こんな時でも人間らしい感情を失わない仙石だからこそ、行を〈人間として生きる〉側に引き戻せたのだと思います。同時に、以前から少しずつ身近な空気を漂わせつつあったものの全体としては未だ不可知であった行の雰囲気が、今までと一変したことも見て取れます。

「今なら・・・・・・やり直せるのかもしれない」(374p)

「やり直す」と言ってもまた絵を描くとかダイスをやめてカタギになる(一応公務員だしダイスだってカタギといえばカタギなのだが)というような具体的な生き方が定まっているわけではなく、他人と関わって生きてゆくこと、撃たれる前に撃つことを躊躇うような世界に身を置くことを是とした、というところでしょう。だから浸水区画に戻った行はもう仙石に脱出するようにとは言わない。共に戦うパートナーとしての彼を、彼の存在を必要だと感じている自分を、穏やかに肯定しているのがわかります。

「彼らは『GUSOH』がVLSの七セルに装填されてるってことも知らないんだからな。」(377p)

こりゃいくらなんでも喋りすぎ。怪しすぎです。おそらく竹中はバグを利用して行と仙石に情報を流してるのがヨンファにバレて、そのために殺されることは覚悟の上だったのでしょう。自分は殺されようと、提供可能なかぎりのデータを彼らに伝えて、ヨンファたちを出し抜いてくれることに賭けよう、と。竹中最後の戦いは、死を覚悟した者ならではの清々しさがあります。

「あなたはそれでいいのです。ご自分の心に従ってください。透き通った瞳が再びそう語りかけ、宮津はまたしても失ってしまったのだと知った。奪われた恨みを晴らそうとした行為が、再び大事なものを奪っていったのだと知った。終わることのない憎悪の連鎖に取り込まれ、本当に大切なものがなにかさえ見失ってしまった身には、すべてを失くす結果しか用意されていなかったのだと知った。」(382−383p)

仙石は行に「一瞬でもいい、自分たちは撃つ前にためらうんだって覚悟で、みんなが自分の身を引き締めていければ」(331p)と語った。宮津はたしかに躊躇はしたものの結局は《うらかぜ》を沈めイーグルを墜とし、突入部隊を魚雷で全滅させた。そうしてたどり着いたのがこの結末。行は祖父の仇を討つのに父親一人殴り殺せば事足りたが、国を仇と目さねばならなかった宮津の復讐はあまりにも多くの血を流し、彼と同じ怨念を抱く者を複数生み出すことになった。隆史が論文『亡国の楯』で言いたかったのが仙石と同じことなのだとしたら、余りにも皮肉な結果である。

「微かに息をしている竹中の目が、こちらを見る。わかった、わたしは自分の心に従う。目で伝えた宮津は、頷くようにゆっくり瞼を閉じ、再び開けた竹中の反応を待ってから、引き金を絞った。」(384p)

そんな宮津だけに、目だけで分かり合えるほどに信頼しあえる部下がいたことは読者にとっても救いである。生死の際で言葉なしで通じ合う彼らの絆が胸に響く。

「風間を殺せば、仙石は悲しむ。いっさいの理屈を超越した思考が頭を痺れさせ、行は引き金にかけた指が硬直するのを感じた。」(405p)

戦時にあっても人を物ではなく人として認識する生き方を肯定しつつある行ですが、ここで風間を撃たなかった理由が風間自身の命を慮ったからではなく仙石を悲しませたくなかったから、とっさに引き金を引く指を止めるには仙石がらみでないといけないというあたりはまだまだです。しかしゆっくりとでも確実に行が〈人間らしく〉なりつつあること、その媒介となりうる仙石の存在の重さがなにやら嬉しいです。

「激痛に押し潰されそうな聴覚に、ヨンファの声が辛うじて捉えられる。風間に支持を出しているようだが、今の行には顔を上げて確かめることさえできないのだった。指先を動かそうとしただけで激痛がひどくなり、吐き気がこみ上げてくる。撃たれるということは、こんなにも体の自由を奪うものなのか?その驚きと悔しさに歯噛みしながらも、体は痙攣するばかりでなんの役にも立ってくれない。」(405−406p)

ヨンファに撃たれたあとの場面は数十行にわたって行の苦痛、体が動かないことへの苛立ちと驚きが克明に表現されていて、読んでるこちらも痛くなるほど。だからこそその苦痛の中で見せる仙石への気遣いや、これほどの重傷にもかかわらず簡単に死にきらない人間の生命力といった後々の描写が生きてきます。

「先任伍長が駆け寄ってくる気配が伝わる。そこに風間がいる、気をつけろ。行は叫びたかったが、声を出すことも、首を動かして仙石の顔を見ることもできなかった。そう、もうなにもできない。死ぬとなにもできなくなってしまうんだと気づいて、行は悔しさに目のあたりが熱くなるのを感じた。 遅いんだよ、と文句を言うこともできない。あんたの言うことを聞いたお蔭で撃たれた、と憎まれ口を叩くこともできない。助けられるばかりで助けることはできなかった、その悔しさに涙が出てきたのであって、痛くて泣いてるわけじゃないんだと言い訳することもできない。他にもたくさん、あんたには言いたいことがあるはずなのに、もうなにも・・・・・・。 死にたくない。生まれて初めての思いを、行は薄れてゆく意識の中に紡いだ。」(407p)

行が心情を吐露するときの台詞はしばしば幼さがのぞくような言い回しが目立つが、これはその最たるもの。「痛くて泣いてるわけじゃないんだと言い訳」のあたりなど発想からもう子供のようで、極限の苦痛の中で彼の一番柔らかい部分が表に出かけているのを感じさせます。そして〈人は生き甲斐のために生きるもの〉だと頭で理解しつつもまだ自分にとっての生き甲斐の具体像は結べずにいた行が、初めて「死にたくない」と感じたことで、生きたいと思う理由――生き甲斐を見出しかけているのもわかる。この時点では仙石に「言いたいこと」を伝える、のが生き甲斐でしょうか。画家への第一歩となった作品「救出」が仙石をモデルにした絵だったのも、このとき彼に伝え切れなかった思いをそこに篭めようとしたからかもしれません。

「極限の苦しみの中で紡がれた微笑は、ただおろおろするしかない仙石の顔を見返し、そこに張りついた悔恨をすべて洗い流して、別にいいんだと言っていた。気にするな、あんたのせいじゃない。」(411p)

この状況で仙石の気持ちを思いやれる彼の強さと優しさに驚きます。そして仙石の言うとおりにして撃たれたことについて、仙石を恨むどころか後悔さえしていないらしいことにさらに驚きます。行はこの事件を最後にダイスを退職するわけですが、920SOFがほぼ壊滅して人手不足の折から、際立って優秀な工作員だった彼が慰留されなかったのは、怪我のせい(ほとんど死にかけたのだから、日常生活に支障はなくとも完全に元通りになったものかは微妙かも)ばかりでなく、「挨拶は撃ってから」というSOFの信条を完全に逸脱してしまったうえそれに対する反省の色もないことが、工作員として不適格と見なされた(ということに渥美がしてくれた)からじゃないかと思います。

「 「・・・・・・あんたに会えて、嬉しかった」 血の色を失いながらも、微笑みに形どられた唇からもれたその言葉は、憎悪に呑み込まれかけていた自分を叱るものと仙石には聞こえた。冷たくなった手を握り返して、仙石は全身でその言葉を受け止めた。 「消えない、確かなものが、この世界にはあるって・・・・・・わかったから・・・・・・。でも・・・・・・そうしたら、今度はおれの方が・・・・・・消えてしまう。助けられただけで、助けられずに・・・・・・。それが、今は・・・・・・悔し、い・・・・・・」(412−413p)

「助けられるばかりで助けることはできなかった」と行は言うが、この時の彼の言葉が憎しみにとらわれて鬼になろうとさえ決心しかけた仙石を正気に引き戻した。それ以前に、「不可知の塊」として仙石の前に現れた行が次第に本質を表していったことが、《いそかぜ》出航当時自衛官としても家庭人としても自信を失いつつあった仙石を生き返らせた。行が仙石に心を開いたこと、その好意を示してみせたことは、立派に仙石を助けている。

「・・・・・・見てろよ。今から本当の人の力ってやつを見せてやる」(414p)「・・・・・・でも憎いからって、今ここで叩き殺しちまったら、てめえと同じになっちまう。それじゃあ行に申しわけが立たねえ。てめえはふん縛って、警察かダイスに突き出してやるさ」(457p)

相手を撃つことをためらうのが人間として正しい道だという仙石の言葉を聞いたために行は撃たれた。しかもそれを後悔していない。ならば行のために、自分の言葉を「甘えた理想論」に終わらせてはいけない。ゆえに銃を持たず意志の力のみを武器とすることで、体を張って理想論を現実にしようとする仙石の姿は、まぎれもないヒーローのものだと思います。

「先任伍長、操艦!」(419p)

致命傷を追いほとんど身動きもならない宮津が、このときは艦長の目と声に戻って指令を出す。彼が骨の髄まで艦長だったのがよくわかります。最後にブリッジで指揮を取らせてあげたかった・・・。

「角を曲がって主通路に出、いったん足を止めた仙石は、意識を失ったままの行に声をかけようとして、やめた。 生き残った後で、話はいくらでもできる。」(420−421p)

このとき声をかけずに行ったことを、仙石は行と無事再会するまでの9ヶ月間、さぞ後悔しつづけたことだろうと思うと気の毒でならない。

「風間は生まれて初めて死に瀕した人の姿を見、その惨さを実感した。そして簡単に生命をあきらめはしない人間の肉体の強さ、肉体そのものがもつ命への執着も知ったのだった。 大量の血を流しながら、行も宮津もいまだ呼吸をしている。本人の意識に関わりなく、その肉体はこの世に在り続けることを望み、最後の一秒まで苦しみもがこうとしている。死ぬより辛い責め苦に精神を苛まれても、命を持つ肉体は生きる欲求を捨てはしない。そこより先はなにもない死と、その手前で踏み留まる命の重さが全身にのしかかり、精神が二つに引き裂かれる苦痛に苛まれた後、自分は徹底的に無知だったのだという理解が、羞恥とともに風間に訪れた。」(434−435p)

《うらかぜ》とイーグルを撃沈・撃墜して間もない頃に、むしろ叛乱以前より生き生きしている姿を「どこかゲーム感覚」「《うらかぜ》やイーグルに、生身の人間が乗っていたとは想像していない」と竹中に評されていた風間が生の命の重さを思い知らされた瞬間。形は違うものの、〈どこかで死に場所を求め続けてきた〉行もまた、たびたび生死の境に身を置きながらも、過酷な生い立ちと条件反射で他人を撃ち殺せる訓練を受けてきたことから、生命(とりわけ自分の)の重みを認識しがたい人間だった。その行が親しいクルーの死や、仙石の言葉を通して命の重みを考えはじめ、その結果殺せなかった相手が風間であるというのもまた意味深な。

「両手をだらりと下げ、天を仰いでいつ果てるともなく笑い続ける背中は、なにもかも失い、血みどろになりながら引いた最後の籤に、ただひと言「ハズレ」と書いてあった男のものだった。」(455p) 「もう笑うしかないといった背中を見つめた仙石は、《いそかぜ》に充満していた狂気――肌にまとわりつき、神経をささくれさせる粘着質の空気が勢いを弱め、徐々に沈静化してゆくのを感じた。それは消滅したと言うより、あまりのバカらしさにしらけきった狂気が、居心地の悪さを感じて自主的に退散していったという感じだった。」(455p)

登場前(溝口=ヨンファがわかる前)はカリスマ性に彩られ、本格登場後は禍々しい狂気を放ち続けたヨンファが、完全に「サタデーナイト・ライブのコメディアンさながら」「究極の道化」(449p)と揶揄されるようなピエロ役に堕ちてしまったシーン。しかし情けなさよりむしろ悲哀を感じさせるそれは、アンテナに体を貫かれるという、情けないからこそ残酷な彼の死にざまへとつながってゆく。

「フヤけた国の男が、おれを殺そうというのか・・・・・・!?」 充血したヨンファの目は、真実の恐怖に見開かれていた。仙石は、それをもう同じ人間の目とは感じなかった。 「日本人を、なめるなっ・・・・・!」(460p)

現代日本人の心性のあり方を問うてきた戦いを締めくくる一言。ヨンファを倒すのが特殊工作員である行じゃなく、一般日本人の代表ともいえる仙石でなければいけなかった理由がこの言葉に集約されています。

「刹那、渥美は、頭の中で弾けたのが自分の理性だったことを理解した。主席幕僚が前に出るのを見定めて、渥美はその胸を蹴り上げていた。」(466−467p)

主要登場人物の中で最もうじうじ悩む場面の多かった渥美が組織人としての立場を完全に吹っ飛ばした瞬間。前線で命を張っている行・仙石コンビや阿久津らを見るにつけ何もできない自分の無力に拳を握り締めていただけに、そしてつい1ページ前で「更迭だけでは済まなくなる」と脅されて思わず怯む場面があるだけに、一気に実力行使に出たコントラストがカタルシスを生む。

「作戦指揮所の信じられない醜態を、いつまでも聞いているつもりはなかった」(467p)

渥美の「乱心」に始まる国のトップたちのいっそすがすがしい争いも、宗像一尉の視点を借りて一言でさっと相対化される。このシーンに限りませんが、一つの事象をカメラを切り替えるように多角的に捉え提示していることが、視点となったキャラクターの立場や人格を立ち上げ、作品にリアルな息吹を吹き込んでいるように思います。

「ターゲット、ロックオン。フォックス1、発射、発射、発射・・・・・・! 『てめえひとりの力でやれたと思うな!』 その瞬間、聞き慣れた声が脳裏に閃いて、宗像はボタンを押しかけた指を硬直させた。幻聴と呼ぶには、あまりにも明瞭に響いた安藤三佐の声。」(469p)

多くの人の命がかかった大詰めの局面で、宗像と安藤の絆を示すものとして上巻ですでに紹介されていた台詞が再び登場する。これもまたカタルシス。そしてこの時宗像が「撃つのをためらった」ことで仙石たちが無駄死にをせずにすんだ。仙石の「理想論」が本人の知らぬところで一つ報われた場面でもあります。

「救ってくれたのは間違いなく安藤三佐であるはずなのに、その顔を見ることも、礼を言うこともできない。そんな切なさが結露して、数滴の雫になったようだった。仄かに黄色がかった西の空を見つめた宗像は、真実、安藤がいなくなってしまった現実を受け止めて、つかの間スロットルから左手を離した。流しきった涙を素早く拭い、再びサンバイザーを下ろした時には、ファイターパイロットの目で海上の状況を探り始めていた。」(471p)

宗像一尉の人となり、プロフィール的な部分は、主要登場人物について詳しく言及する『イージス』にあっては意外なほどに説明されていないのですが、この場面からはいまだ青年といってよい年齢の彼のナイーブさが匂い立ってくるようです。

「最後に別れる時、揶揄とも自嘲とも取れない笑みを浮かべてそう言う者もいたが、風間は気にしなかった。戦争は、最後まで生きていた者の勝ち。先任伍長の言葉が、早々に楽になろうとする彼らの言葉よりはるかに強く、風間の中に響いているからだった。」(480−481p)

先任海曹たちが大嫌いだったはずの風間が今は先任伍長の言葉を噛み締めて生きようとしている。他人に何を言われようと迷わず自分が決めたことを貫こうとする風間の成長ぶりが眩しい。

「そう言う吉井の口調は、自分も信じたいのだという思いを隠しもしなかった。結果的に制圧部隊の生き残りを救出したとはいえ、自衛隊機をハイジャックした阿久津を拘束しようともせず、CICにも出入りさせてくれている。東京湾のど真ん中にいて、どこに逃げ場があるわけでもあるまい、というのが吉井の論法だったが、並大抵の度量でできることではないと阿久津は思う。」(483p)

この《いそかぜ》事件で幸運だったのは、現場の人間に傑物が多かったこと。《ひえい》の吉井、《せとしお》の武石、《うらかぜ》の阿久津、阿久津を乗せたペーブ・ロウのパイロットたち、そしてなにより仙石。自分の仕事を愛しながらも職責が良心に反する結果を呼び込む時には、良心の方を選ぶことができる彼らの志は、各々の立場に拘泥して右往左往しがちな対策会議との比較の中で鮮やかに描き出されている。

「 「・・・・・・母さん・・・・・・」 その唇がそんな囁き声を紡いで、宮津は思わず肩を揺する手を止めた。およそ親の顔など想像できない若者が漏らした意外な言葉に、自分がとんでもない一人相撲を取っていたのではないかと気づかされて、しばし呆然となった。 子供が最後に呼びかけるのは、やはり母親か。隆史もそうだったのだろう・・・・・・と思いつき、父親という立場のあやふやさ、所在なさに、あらためて思い至ったのだった。最後に父親らしいことをすると気張っていた自分が可笑しくなり、宮津は喉の奥で小さく笑った。」(491−492p)

これは切ない。というかほろ苦い。しかしその直後に彼は行を相手に〈父親の底力〉を見せることになります。また何とか言いながらも行が母を慕っていることがわかる場面でもある。

「なのに、そうやっていつまでも恨みがましくつきまとってきて・・・・・・!だからおれは、絵を描くことも、母さんと話をすることもできないんだ」(493p) 「母さんは、怒って・・・・・・いるもの。おれが、あんたを・・・・・・父さんを、殺してしまったから・・・・・・」(493p)

護衛艦に手を振り警笛の音を聞いた14歳の時に母を許したはずの行が、21歳の今、母(の弱さ)を否定するような表現(「考えることを放棄し、困難から逃げ、場当たりの快楽にたかる蝿に成り下がった人が発する臭い」(359p)とか)をときどき心中に描くのは、父を殺したことで母に咎められていると感じたため、母を否定することで己を保とうとした結果なのかも、とちょっと思いました。しかし母と自分を捨てたような父を殺したからといってなぜ母がそうも怒るのか。母がまだ父を愛していると幼な心に感じるところがあったのか、父を殺せば母が怒るような〈まともな〉家庭像を無意識に求める気持ちがそうさせたのか。

「わかった。よく頑張ったな。父さんが代わりにやってやる。おまえは離れていなさい」 「・・・・・・無理だ。あんたなんかにできっこない・・・・・・」 「できるさ。親が、子供のためにできないことなどあるものか」(494p)

この人が言うとこのうえない説得力があります。そういう宮津だから、宮津が初対面から行に息子の影を重ねたように行も〈理想の父〉を宮津に見ていた。それを認めたくなくてつっぱった態度を取ったり彼の視線の意味に気づかぬ顔をしたりしてたのではないか。きっと本当は行が一番聞きたかった言葉でしょう。「おまえ」という呼びかけも暖かい。

「・・・・・・そうなの?そうなら・・・・・・。おれは、父さんを許すよ。だから・・・・・・」(495p)

上の宮津の台詞に対する応え。「そうなの?」というまるきり子供のような話し方に、彼が14歳の少年に返って父との関係にまつわる暗い感情を修正しつつあることが暗示されているよう。序章からずっと、最後この二人が相手をあの時の護衛艦艦長、海岸で手を振っていた少年と知る場面がくるだろうと確信してたんですが、想像をはるかに上回る美しい邂逅が用意されてました。

「この後、事件がどのような帰結を迎えるのかはわからない。隆史の死の真相は、その遺した『亡国の楯』とともに、誰の目にも触れずに抹消されてゆくのかもしれない。それでも、今はこれでいいと思えるのは、この小さな戦争の中で、どこかで律儀にならずにはいられない日本人の心のありようを見たからであるし、いざとなったら戦いを厭わず、団結して困難に立ち向かおうとする人々の生きざまを見たからでもあった。 それは、ひとつ対処を誤れば過剰に反応して、半世紀前の悲劇をくり返す結果になる両刃の力なのだろう。が、人には憎悪を乗り越えられるだけの力があるらしい、と知ることができた心は、その勇気と覚悟を示してゆけば、戦争という巨大な災厄であっても冷静に対処し、それを根絶してゆこうとする国の形――真の平和国家という、守り、残してゆくべき国の形が、いつかは獲得できると信じているのだった。」(496p)

戦後日本と日本人のあり方を問うた『亡国の楯』に、《いそかぜ》事件を通しての人々―仙石や阿久津ら現場での抵抗組や叛乱に加わった幹部たち、揺れ動きながらも抗戦の姿勢をつらぬいた日本政府――の行動は一つの応えを返した。その意味では宮津の叛乱の目的はかなえられたと言える。この戦いで死んだ人たち―覚悟のうえ死地に身をおいた叛乱組や920SOFはまだしも《うらかぜ》クルーや安藤三佐を思えば、これでよしとは言いがたい部分がありますが、多くの人の命を危険にさらしても隆史や行の命を優先させた宮津の情愛を責める気にはなれない。

「幼い息子の横顔が笑い返すと、それはすぐに凛々しい青年のものに変わって、いつしか防大の詰襟制服に身を包んだ隆史が、宮津と肩を並べて石階段の途中に立っていた。」(500p)

行との擬似親子会話は感動的だが、やはり最後は本当の息子への思いで締める。宮津が最後に見た幻は「序章 二」で紹介された光景を反復していて、物語があるべきところに収斂されてゆく心地よさがある。

「『ありがとう、お父さん。あなたは、子が誇れる父でした』」(500p)

《いそかぜ》叛乱の根本原因でありながら、最初から死亡しているうえ回想シーンにも出てこない宮津隆史。宮津以下彼を知る人たちは自分が彼に向ける感情をのみ語り、唯一彼の言動をまともに語った溝口=ヨンファの話はどこまで信じていいのかわからない、という実質エピソード皆無状態。したがって論文『亡国の楯』がただ一つ彼の人となりを伝えるものと言ってよく、そのことが作中での論文の象徴性を高めていた。その隆史の最初にして唯一の台詞。宮津の幻想の中の台詞ではあるけれども、カッコつきで語られたこの言葉はやはり隆史の〈肉声〉なのではないだろうか。

「白い光がその笑顔を包み、他のすべての風景も溶かしてゆく。ああそうか、自分はこのひと言が聞きたかったのか。そう納得した宮津の意識も溶けて流れて、溢れ返る光の中に霧散していった。」(500−501p)

爆発で体が粉微塵に吹き飛んださまを、悲惨な情景としてでなく光の中へ還ってゆくかのように綴る。甚大な被害を出した叛乱のリーダーの最期としては穏やかすぎるのかもしれませんが、宮津に向けられた作者の暖かな思いが伝わってくる美しい場面だと思います。

「それは、この戦闘で死に行かなければならなかった人々にとっては、容認し難い光景であったろう。生き残った者たちにしても、今この瞬間が過ぎ去れば、後に続く長い現実の生活を穏やかに、恨まずに暮らしてゆけるという保証はどこにもなかった。阿久津には憤怒と喪失感に身を焦がす夜が、風間にはあそこで死んでおけばよかったと後悔する時が、遠からず訪れるのかもしれない。 が、そう予感しながらも、それだけではないという証明がこの瞬間に刻み込まれたことを信じて、人々は《いそかぜ》を見送っているようだった。」(504−505p)

単純にハッピーエンドというには重すぎる、しかしその重さを前向きに背負って生きてゆこうとする人々の強さ。苦しい道と知っているからこそ、その日々を生き抜く力を蓄積するためにこの瞬間を目に焼きつけようとする。そうした人々の思いを反映すればこそ沈み行く《いそかぜ》の姿は美しいのだろう。

「事件が終息した安堵というのとは違う、もっと深く大きな波動が《いそかぜ》から発して、最期の息吹きのように胸を圧迫し、去っていった。穏やかな波動はとても大事なことを教えてくれたらしいのに、つかむ間もなく幻のように消え去ってしまい、自分にはおそらくそれを追い求めることができない。そんな理解と予感が一時に押し寄せ、切なさだけが残った心が、とりあえず涙を流させたのかもしれなかった。」(506p)

皆が神々しいような思いで《いそかぜ》を見送り、困難に立ち向かうエネルギーを補充している中で、ひとり早くも後ろ向きな感情に浸されている渥美。その潔癖さのために周囲の政治的言動に染まれず、現場に直接出てゆきたくても立場によってそれをはばまれている彼の鬱屈と孤独感がひしひしと伺えます。

「野田だけでなく、会議室にいた全員が押しかけて来て、状況終了を迎えたコマンドルームを物珍しそうに見回しているのだった。(中略)ひそやかな喧騒の中、肩をすくめてみせた瀬戸内調室長に笑いかえした渥美は、」(507−508p)

先の乱闘騒ぎのとき、瀬戸はどうしてたのかと思ったら会議室の方に残っていたらしい。もし彼がコマンドルームにいたら、乱闘のさいに渥美に加勢したんだろうか?

「だから死ぬなよ、行。そうしたら、おまえがおれを裏切ったってことになる。失望や絶望は、もうたくさんだ。おれはあきらめが悪いんだって知ってるだろう?まだ筆も取り返しちゃいない。なにもかも、これから始まるのだから・・・・・・。」(513p)

《いそかぜ》自沈の場面でCPO室の仙石の画材道具が焼失するさまがわざわざ描写されています(502p)。前半から一貫して行と仙石の絆の象徴だった筆の消滅は二人の絆の消滅=行の死を暗示(実際にはミスディレクション)しているように思えます。宮津が最後の力を振りしぼってどこか(おそらく艦首)へ運んだ行が結局助からなかったんじゃ宮津が浮かばれない、まさか死んだはずは、でも・・・と読者に不安感を与える演出でしょう。

「ヘリは穏やかな海面を滑るように飛び、残照の中に佇む《いそかぜ》の艦首が、黙然とそれを見下ろしていた。」(515p)

なぜ彼らは艦首を捜索しなかったんだろうか。まさかあの怪我で艦首まで自力でたどりつけるはずはないと踏んだのか。しかし実際行は第一機械室前まで自力でたどり着く根性を見せているし、仙石もそんな行の生命力を信じればこそ「《いそかぜ》が自沈しようがどうしようが、あいつならきっと生きている」と考えてここまで来たはずだ。あるいは艦首を捜索はしたが発見できなかったのか。宮津にそんな奥まったところまで行を運ぶ気力も必要もなかったはずだし、むしろすぐに発見できる場所をこそ選んでくくりつけたに違いないからその可能性は低いだろう。となると海上の残骸を探索している間に燃料が尽きてしまったというのが一番ありそうな線である。で、彼らの帰投後まもなく(まもなくでないと行の命が続かない)ダイスの捜索隊が彼を発見したというところか。そしてペーブ・ロウの再発進を認めた時点では行の生存を隠すつもりなどなかった(ヘリの再発進は首相も承認しているのだから、仙石に対してだけでなく対外的にも隠す意図はなかった)渥美が、戦友の無事を確認しようとする仙石の熱い思いを知りつつ、行が生きていることを教えなかったのはなぜか。おそらく偶然に行の回収にかかわったダイスの人間しか彼の生存を知らない状況が生まれたとき、この状況を利用して対外的には死んだことにして自由にしてやろうという考えがうかんじゃったんだろうなあ。

「渥美は、今頃は帰国の途についたはずのボンソンたちの顔を思い浮かべた。力に満ち溢れていながら、それを上手に、正しく使っていこうとする意思が、理知的な目の輝きになって表れていた顔。」(518p)

先に行を〈口説く〉ために海に潜ったジョンヒは、ヨンファの部下たちのことを「盲従を美徳と考える彼らには、自分が独断で動くと想像する頭はない。」と内心に切り捨てている。ヨンファの狂気の影響下を脱したことによって、彼らが本来の姿を取り戻したのがこの一文に生き生きと描き出されています。

「アメリカが主導する従来の封じ込め政策に追従するばかりでなく、北朝鮮国内の反体制陣営との間に独自のルートを築いて、政変後の国交樹立を視野に入れた積極的支援を行う――。それは、自らの政治生命の終焉を予見した梶本が、情報活動の厚いカーテンの下にひっそりと刻み込んだ遺言だった。捨て身の覚悟でその指針を押し通した梶本総理は、それから一ヵ月後、金融ビッグバン凍結の公約を守れなかった責任を取って、退陣していった。」(519p)

阿久津が陸上勤務にされかかったのを押しとどめ、《はるゆき》艦長に就任できるよう計らったのも梶本だった。保身のためダイスを切り捨てようとする一幕もあったが、行が政府との交信中に宮津に語った「戦う理由」に周囲の喧騒を制して真剣に聞き入ったり、切々と心情を語った渥美に動かされ『フラットフィッシュ』作戦の決行を認めたりした情の深さと決断力はたいしたものです。彼が首相だったからこそ《いそかぜ》事件をあの終結にもってゆけたのだと思います。「どこか及び腰」の新政権の時の事件だったら、あの程度ですんだかどうか・・・。そして失脚を覚悟してからの働きぶりと引き際の見事さ。梶本総理が「捨て身の覚悟」で成すべきを成し遂げた原動力は、《いそかぜ》自沈を皆で見送ったときの深い感動であったに違いありません。

「根がスケベなのだろう。人生の最後に、そう自覚せざるを得ない自分はつくづく救われないなと思いながらも、渥美は宮津芳恵のうなじから視線を逸らしはしなかった。」(528p)

「終章 一」で良心の呵責にたえず辞職の決意を固めていること、それどころか死ぬ気でさえいることを匂わせておきながら、「根がスケベなのだろう」とくるのだから脱力する。死の覚悟をきわめながらも胸の内で「情欲の火」が燻ってるあたりのだらしなさに、潔癖でありつつも悟りきれない渥美の人間味が今まで以上の濃厚さで滲み出ている。そこがこの人の魅力なんですが。

「水筒を手にした芳恵の顔が、少女のように華やいだものに見えた。「あんまりいいお天気だから。ちょっとピクニック気分で、いろいろ用意してきちゃいました」と続けた芳恵の膝には、手製のサンドイッチを詰めたランチボックスも載っている。」(532p)

水筒の中身があれだと思うと・・・。「人の嘘を見抜くのを商売にしている聴取官」を完全に騙しきったことといい、ある意味『イージス』で最も怖い人物かもしれません。

「あの男はわかっていないんです。子供を奪われた母親の怒りと憎しみが、どれほど強いものかを。夫がその仇を討ってくれるのなら、私はなにを犠牲にしてでも協力する。」(534−535p)

いかにも良妻賢母なこの女性が、良妻賢母であるゆえに持つ夜叉の一面。さすがに「親が、子供のためにできないことなどあるものか」と言い切った宮津艦長の奥さんです。

「あなたを殺さなかったのは、もう二度とこんなことが起きないようにしてもらうため。それだけです(中略)あなたは、そういう立場にいる人とお見受けします。」(535p)

芳恵の言葉に応えるために渥美はこののちもダイスに残り、遠からず野田の後をついで局長職についたものと思われる。にもかかわらず『イージス』から五年後のダイスが重要な役割を果たす『Op.ローズダスト』には―少なくとも『週刊文春』に連載された部分を見る限りは―渥美の影が全く感じられない。『Op.LP』の顛末などとくに。単行本が発売になれば、2005年当時の渥美の現況も明らかになるでしょうか。

「 「似合わねえ格好してんなあ」と言った声に、塗料が染みついたオーバーオール姿の自分を顧みた仙石は、「仕事着だよ、仕事着」と赤くなった顔で言い返した。 「腹の傷に障るから、ベルトとか締めない方がいいって医者に言われてて・・・・・・」(539p)

行の傷も腹部である。案外「救出」はオーバーオール姿で描いたんだったりして。

「あの時、結局、行を見つけられなかった悔しさ。心の大事な部分が燃え尽きてしまい、もう護衛艦にさえ己の居場所を見つけられなくなった空疎感。」(541p)

もし行が生きていることを連絡していたら、仙石は退官していなかったかもしれない。脱出しろと言ったのを無視してジョンヒに向かっていったり、命綱を外して行ともどもスクリューに巻き込まれそうになった仙石が、自分の死にどれだけショックを受けるか行はわかってたろうに、連絡しなかった理由はたぶん・・・。絵の世界でそれなりに成功してはいるものの、彼の天職はやはり護衛艦乗りじゃないかという気がするし、仙石が若狭の持つ護衛艦乗りの空気にふと寂しさを覚えるのも、護衛艦に未練があるからでは。個人的には海自に残ってほしかった。《いそかぜ》がなくなった以上先任伍長てわけにもいかないだろうけど。

「そういったものをすべて叩きつけ、焼却して、失ってしまったなにかを取り戻そうとするかのように、寝食を忘れて壁と向き合い続けた。」(541p)

行が死んだと思っていても、《いそかぜ》自沈時に行に語りかけたように〈本当の〉絵を描き上げた。そこに「先任伍長」ではなく、仙石恒史という人間そのものが詰まっていたからこそ、仙石はそれを真っ先に妻子に見せたし、彼女たちも仙石との関係を再び取り戻そうとしはじめた。

「改築工事の終わった本店は再び営業を開始し、仙石の壁画は予想以上の反響を呼んだ。」(542p)

その後の仙石の動向を気にしていたろう行は、仙石の活躍を当然知っていたものと思います。こっそり壁画を見にきたりしたんじゃないかなあ。

「《うらかぜ》って、あの撃沈された・・・・・・?」と聞き返した仙石に、若狭は意味深な微笑で応える。 「そう。事故で沈んだ《うらかぜ》の艦長だ。」(543−544p)

仙石の失言をはっきりたしなめるのでなくさりげなく訂正する若狭。《いそかぜ》時代もこんな感じに仙石をフォローしてたんだろう彼の控えめな優しさと聡明さがうかがえる場面です。

「暗い、嵐の海辺。大破、座礁した艦艇を背景に、傷ついた無数の兵士が浅瀬に浮かぶ凄惨な地獄図。その中央に、膝まで水に浸かった男が陸を目指して歩く姿が描かれている。自身も全身に傷を追いながら、負傷した仲間に肩を貸し、脇にも気絶した兵士を抱えて一心に陸地を目指す男は、静かな怒りをきつく結んだ口もとに湛えているものの、その表情に憎悪の陰惨さはなかった。 生を希求し、それを阻む者に対しては断固、立ち向かうと決めた硬質な意志。その熱い滾りだけがあった。」(545p)

行が仙石の人間性をどう捉えていたかがよくわかります。しかしひょっとして行が人物中心の絵を描くのはまだほんの二度目なのでは?(一度目は仙石の後ろ姿)つくづく才能というものの不公平さを感じます。

「そのまん中の男、ちょっとあんたに似てないか?」と言った若狭の声を遠くに聞いた。 「おれは絵の良し悪しなんてわかんないけど、なんか引っかかってな。克美って名前の新人画家らしいんだが、これが顔も本名も公表しない謎の人物なんだと。」(545p)

結局若狭は行が国側の工作員だったこと、仙石と共に艦内で戦い抜き死んだとされていることをどこまで知っているのか。ただ勘の鋭い彼なら克美=如月行なのをおよそ察しているように思います。仙石と若狭の間の連絡がしばらく途絶えていたということは、仙石だけがダイスへの遠慮から若狭に距離を置いたのではなく、若狭からも同様にしていたということでしょう。それが監視がゆるやかになってきたとはいえ直接訪ねてきたのは、それだけのものを「救出」から感じ取ったからではないかと。「事故で沈んだ《うらかぜ》」発言にも見えるように、思ったところをストレートに語らないだけの慎重さを持つ若狭であれば、「あんたに似てないか?」「なんか引っかかってな」という表現は〈克美は如月じゃないか〉と言ってるにひとしいんじゃないでしょうか。

「浜辺に人の姿はなく、右正面から差し込むオレンジ色の光線が、無人の海岸をひどくもの悲しいものに見せたそこにキャンバス台がぽつんと置かれ、砂浜に長い影をのばしていることに気づいた仙石は、履き古した革靴に砂が入るのもかまわず、そちらに近づいていった。 左手に見える岬と灯台を構図に取り入れ、目の前に広がる夕暮れの海をキャンバスの上に封じ込めた油彩画が、そこにあった。」(552−553p)

描きかけの絵を置いて行はどこに行ってたのか。以下は想像なんですが、仙石が早ければ今日にも来るかもしれないと考えて、彼にプレゼントするための絵筆のセットを買いに行ってたんじゃないでしょうか。この田舎町にそんな立派な画材店があるとも思えないので館山あたりで。彼は館山周辺に住んでるので先に買い物してから海にくればいいようなものですが、ひょっとして仙石が先について行がいないからと帰ってしまうといけないので、目印に描きかけの絵を置いてから、改めて出かけたんじゃないか。そしてそんな面倒くさいことをしたのは、後日はない、会えるのは一度だけだと思ってたからなのかもしれません。

「仙石は黙って待つことにした。島影のひとつもない、どこまでも広がる海を見つめ続けた。怒りや恨み、哀しみさえもすべて呑み込み、その懐の中で溶かしてしまう。世界の始まりの時から、同じ顔を人間たちに向けている海を・・・・・・。」(553p)

「序章 一」での行が海に向ける思い(「海には物静かな、茫漠とした海面の下に秘めた底深い生命のたぎりがある。」「なにを取り繕う必要もなく、あるがままの自分を無条件で受け入れてくれる海。」)を彷彿とさせる。場所も同じであるだけに、あるべきところに物語が還ってきた静かなカタルシスがあります。

「いつの間に近づいたのか、三メートルと離れていない場所に立っている如月行は、夕陽に染まった顔に穏やかな笑顔を浮かべていた。Tシャツの上に羽織ったネルシャツが海風に踊り、肩までのばした髪をふわりとそよがせる。安堵と喜び、驚きがごた混ぜになり、頭の中が真っ白になった仙石は、「な、なんだよ、おまえ。その髪」と、どうでもいいことを口走ってしまった。」(554p)

初対面から行の長めの髪を気にしていた仙石が、やっと髪の長さを注意できた瞬間。こんな細かい描写まで伏線だったというのに驚かされます。しかし護衛艦に潜入しようというのに浮くのを承知で長めの髪で通し、今や普通に長髪の行。服装に無頓着(「着たきりスズメのブルゾン」とか)、いやそもそも生きることに無頓着だったわりに、髪にはこだわりがあるようです。彼の「兵士」に徹しきれない部分の象徴だったと考えれば納得ですが。

「市ヶ谷ではずいぶんもめたらしい。あんたにおれの居場所を教えるかどうかで。おれは、対外的には死んだってことになってるらしいから」(555p)

《いそかぜ》自沈直後には、仙石が行を捜すためにヘリを出すことも許したダイスが、如月行は死んだことにすると決めた時点から仙石をも完全に蚊帳の外に置こうとしている。それを察すればこそ行も仙石にあえて連絡しようとはしなかった。いつか画家として人前に絵を出せるようになったら、きっと仙石は気づいてくれる。そう思うことにしたのでしょう。思いのほか早くその日が来てしまったわけですが。

「 「おれはあそこで育った。今になんとか買い戻して、おれの描いた絵や、じいさんの集めた絵を展示する美術館にする。それが今のおれの・・・・・・生き甲斐みたいなもんだ」 遠い水平線を見渡す横顔は、無限の可能性と希望が溢れていた。」(556p)

《いそかぜ》艦内で戦っていたときにはまだ漠然としていた「生き甲斐」を行が言葉で語れるようになった。そしてその夢に向かって着実に歩いている。無限の可能性と希望を抱いて。仙石と一緒に読者の胸も熱くなる名場面。また行が仙石に直接祖父の話をしたのは杉浦砲雷長を殺した直後につい口走った一言だけなので、仙石が如月の家で近所の人から事情を聞いてきたのを前提に話してるのがわかる。そういう良くも悪くも干渉好きのおしゃべりな住人がちょろちょろしてる土地柄だから、廃屋の住所しか教えなくてもそのまま帰ることにはならない、元護衛艦乗りであり海を愛している仙石なら近くの海岸に必ず寄るに違いないこともきっと確信してたのだろうことがこの台詞から感じられます。

「一枚の絵に、あの戦いのすべてが表現されていたと仙石は思う。事件そのものは抹消されても、ああした形で記憶が継承されてゆくのなら、それは死者たちへの最大の供養であり、宮津隆史が著した『亡国の楯』が、行の筆を通して再生したということなのかもしれなかった。」(556−557p)

これは行と宮津の関係にもあてはまると思うのです。行は《いそかぜ》自沈間際の宮津との会話を覚えていないし、宮津はすでにこの世にいない。あのときの二人の邂逅を知るものは誰も存在しない。けれど出会いの記憶は失われてしまっても、宮津とのやり取りで得られた〈許し〉は行の心の重荷を取り除き、新しい人生を歩みだす力を与えた。それは宮津の息子への思いの「再生」を表しているのではないでしょうか。「極限の中で紡がれる生き死にの光景に、人本来の力と可能性を見出しながらも、その輝きを塗り潰さざるを得なかった自分」(530p)への嫌悪感に苛まれた渥美に対する回答でもあります。

「 「腕試しのつもりで応募したんだけどな」と言った行が、決まり悪そうに頭を掻くのを見つめた。 「いきなりあんな大騒ぎになるなんて思わなかった。お陰で市ヶ谷にはずいぶん迷惑をかけちまった」 」(557p)

《いそかぜ》事件を単に回収した機雷の暴発によるものと思っている一般市民はともかく、事件の真相を知る人間(対策会議の面々など)が見れば、〈大破した艦艇〉〈海面に浮かぶ傷ついた兵士たち〉〈仙石曹長に似た男〉というモチーフは到底心穏やかではいられまい。行の絵の技量を知る(たぶん)若狭のように即座に如月行を連想はしないにせよ、「あの絵の作者は事件の関係者か!?」と克美の正体を探ろうとする動きがあったんじゃないか。瀬戸が渥美に行の死亡について探りを入れたのも、こうした動きを踏まえてのことだったのではなかろうか。画壇だけでなく政府の関係者も「大騒ぎ」だったわけだ。そんな危険な題材の絵を賞に送った行も迂闊だが、普通なら出品も出来ないような賞だと言うし、「腕試しのつもり」だったのだから、まさかそれが新聞にまで載って不特定多数の目に触れるとは想像もつかなかったのだろう。ダイスに忠誠心などなかった行もこの件に関しては借りを作ったという思いがあって、仙石に連絡を取らなかったのにはそのへんの遠慮も働いてるんじゃないだろうか。

「 「あの時の筆は、艦と一緒に沈んじまったんだろう?」 押し黙った仙石を気にしたのか、顔を覗き込んだ行が言う。やっと取り戻すことができた筆を握りしめた仙石は、」(557p)

〈仙石の画材道具が焼失するシーンをわざわざ描く→二人の絆が切れることを暗示〉を受けて、「かなり高級な絵筆のセット」が再び行から仙石にプレゼントされることで、二人の絆がより強いものに生まれ変わったことが示されています。

「 「お、おれは、着のみ着のままで飛び出してきちまったから・・・・・・」と慌てて口を開いた。 「だから、今はなんにも渡すもんがねえんだ。こんど会った時にでもさ・・・・・・」 「いいよ」 しどろもどろの仙石を笑って遮ると、行は海に視線を飛ばした。 「もうあんたからは十分にもらった。他では手に入らない、大事なものを・・・・・・」 」(557−558p)

『オール・アバウト如月行』(※8)の福井氏インタビューに〈二人はこれきりもう会わないだろう。与えられるものはすべて与えあった関係だから〉というようなことが書いてあってちょっとショックでした。このあとも数ヶ月に一度くらいは顔をあわせて、一緒に酒をくみかわしたり絵を描いたりしてるものと思っていたので。しかし「こんど会った時」という仙石の言葉を行が遮ったこと、あえて現住所を教えなかったこと、何より仙石が必死に捜し始めるまで連絡しなかったことを考えると、行はもう仙石に会わないつもりなのかもしれない、とだんだん思えてきました。それは行の生存を知られることに神経質になっているダイスへの遠慮と、なにより自分と接触することで仙石がダイスに睨まれ自由を侵害されることを恐れたからじゃないでしょうか。工作員は廃業したといっても、画家として活動するにあたっての折衝役になっている画廊はダイスの息がかかっており、如月行としては死んだことになっている彼の偽の身元を用意したのもダイスなのだろうから、行はこの先もダイスと完全に縁が切れることはない。だから仙石に会ってはいけない、巻き込んじゃいけないと思っている。そして実は仙石のほうも、行に会うのはこれが最後になるだろうと覚悟してるんじゃないか。若狭への電話も控え、「生きているとわかれば、それでいい。一度でいい、一度でいいから会わせろ!」と叫んだ彼は、これがダイスとして精一杯の譲歩であることを理解しているはずだから。彼らがもう会えないのかと思うと一読者として寂しいかぎりですが、絵筆に象徴されるように彼らの絆がそれで切れてしまうわけじゃない。直接顔を合わせることはなくとも、絵の世界での活躍を通して互いの消息を確認しあい、いつか千葉の田舎町に美術館がオープンしたときに、それなりの年齢になった二人がそこで再会する。そんなのも一つのロマンかもしれません。

「細長い船体に、高いマストと上構を備えた影は、間違いなく護衛艦のものだった。(中略)若狭の《はるゆき》かもしれないと思った途端、高まった感情の波が一気に噴出して、仙石は「おーい!」と大声を張り上げていた。」(558p)

宮津との会話シーンで警笛のエピソードが出てこなかったのでこのままになるかと思いきや、最後の最後でこんな形で再登場したのにはやられました。これが本当に《はるゆき》だったとしたら、警笛を鳴らすよう指示したのは阿久津ということになる。だとすればかつての「部屋長」と同じことを彼もやったわけですね。

「岬と背後の山々に反響した警笛の音が、ゆっくり全身に染み渡ってゆく。呆然とした後、「ほら、な?」と振り返った仙石は、口を半開きにした行が棒立ちになっているのを見た。 その目に、涙の膜がかかっていたように見えたのは気のせいだろうか?次の瞬間、「おーい!」と全身を声にして叫んだ行は、仙石の前に出て勢いよく手を振り始めた。」(558−559p)

かつて母と二人で手を振っていたときは応えはなかった。中学時代、警笛が返ってきたときは行一人だった。再び警笛が応えてくれた今、そばには一緒に手を振る人がいる。この先仙石には会えないのだとしても行はもう孤独じゃないのだと確信させてくれる場面です。

「二人の声に押し出されて、護衛艦の形は徐々に小さくなり、東の水平線を目指して遠ざかっていった。その行く手には夜があり、夜明けがあり、まだ誰も見たことのない明日があるはずだった。」(559p)

あまりにも晴れ晴れとした美しいエンディングシーン。《いそかぜ》事件前と比べて日本は、少なくとも目に見える形では何も変わってはいないし、行は一応自由の身にはなったものの「如月行」としては死んでいるため覆面画家を通さなければならず、故郷周辺を堂々と歩くこともできない立場である。けれどこの「終章 三」の中で行の様子には窮屈な環境に少しも負けていない希望が溢れている。警笛のエピソードが反復されていることからいっても、視点は仙石だけれどこれは行のためのエンディングですね。精神的父親の目を通して青年の揚々たる前途を思わせる、最高のラストシーンだと思います。

 

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